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旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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模型に恋した「世界一孤独な鳥」ナイジェル死す。(AFP)

ニュージーランドの島で何年もの間たった1羽で暮らし、「世界一孤独な鳥」として知られていた雄のシロカツオドリ「ナイジェル(Nigel)」が死に、同国の野生生物愛好者の間に悲しみが広がっている。

「仲間のいないナイジェル」とも呼ばれていたこの鳥は、ウェリントン沖にあるマナ(Mana)島で、野生生物を呼び寄せようと環境保護活動家らが設置したコンクリート製模型のコロニーの中で数年間にわたり暮らしていた。
ナイジェルはこの模型の一つと恋に落ち、羽づくろいや巣作り、さらには交尾をしようとする姿も目撃されていた。

同国自然保護局(DOC)の監視員クリス・ベル(Chris Bell)氏は7日、「ナイジェルはマナ島に住むことを選んだ。
いつでも去ることができたのにそうしなかったので、彼が幸せだったことが分かる」と語った。


ナイジェルは先月末、コンクリート製の「恋人」の隣に横たわり死んでいるところをベル氏に発見された。
死因は今後の解剖で特定されるが、老衰とみられている。

悲しいことに、ナイジェルは偽のコロニーの効果が現れつつある中でこの世を去ってしまった。
ベル氏によると、昨年12月末には3羽のシロカツオドリがマナ島を訪れ始めた。
3羽は現在も定期的に島を訪れており、コロニーの形成につながればナイジェルの遺産となるだろうとベル氏は述べている。


シロカツオドリ

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東風吹かば

七十二候では「東風解凍(はるかぜこおりをとく)」の今日、皮肉にもこの冬初めての氷柱を見た。


東風吹かば


立春を迎えた4日の朝、香川でもあちこちから降雪のニュースが届く。
とりわけ金毘羅さんのある琴平町では5cmほど雪が積もったようで、そこから来る職場の同僚は一人山奥から出てきたような車を走らせていた。
しかし、海沿いのわが町は一時期吹雪いた程度で終わってしまった。
今冬、雪に苦しめられている方々には大変申し訳ないが、私だって白く染まった景色が見たいと本日、明るい陽射しで溶けてしまわないうちに雪景色を見に出掛けることにした。

この氷柱はその出先で見つけたもの。


行先は琴平町を経由し、菅原道真が4年ほど滞在したことのある綾川町。
そこには讃岐では最も有名な滝宮天満宮がある。
また、内陸になるため香川の中では常に気温が低い場所でもある。


昨年も観梅の為、1月と2月に訪れていた。
確か去年、大宰府より株分けされた飛梅は、1月20日頃にはかなりの花を開かせていた。



雪の中に咲く白梅はなんと絵になるものかと、頭の中に思い描きつつ車を走らせる。



途中、車窓に広がる白い田んぼに胸弾ませながら、琴平を過ぎて東へと折れる。
そこから走ること15分ほど、悲しいかな段々と雪は減り、天満宮では道路脇でさえ雪はなくなってしまった。

ああ、残念。
だが、それは梅に雪だけではなかった。
やはり寒さ厳しい今年、梅の開花も大幅に遅れてしまっているらしい。
境内に150本ある梅の木は、どれも蕾のまま立春を迎えていた。


東風吹かば



東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな


東風はまだか。
梅の花はまだか。


東風吹かば

せめて2年続けてのお詣りなら、少しは賢くならぬものか。



立春を前に

早春賦にあるように、この立春には再び寒波到来ということで、まさに「春は名のみ」と暖かさはしばらくお預けになりそうだ。

しかしニュースの騒ぎ用に比べると、瀬戸内沿岸のわが町は今のところ「言うほど寒くない」。
しばらく発熱に悩まされた私だが、今朝は早くから拭き掃除をした。


久々に気分よく迎えた朝、本当は四国霊場第七十五番、弘法大師生誕の地である善通寺をお詣りしたいと思っていた。


ふと昨日のデイサービスでの朝の会話を思い出す。
「みなさん、地元の美味しいものってなんですか?」 相談員がご利用者さん全員にそう尋ねる場面があった。

「熊岡のカタパン!」
ご利用者さんだったか職員だったかはっきり覚えていないのだが、誰かが「あれは名物やなあ」とつぶやいた。

その「熊岡のカタパン」とは、広大な善通寺さんの東院伽藍と西の誕生院を繋ぐ参道と垂直に交わる細道を折れるとすぐにある菓子店のこと。
お遍路さんもよく見かける。
そして大正時代の建物は、旧金毘羅街道だった当時の面影を今も残している。
その姿は、素朴なカタパンの味そのままである。


立春を前に



小麦粉と砂糖を練り上げて焼いた「カタパン」は、口に入れると生姜の味がする。
堅いのでなかなか噛むことはできないが、口に含んでいる時間も楽しませてくれる。

それは明治29年の創業時、兵隊さんの軍事食糧として考案されたものらしい。
善通寺市には陸軍第十一師団があった。



ああ、善通寺さんをお詣りするなら「熊岡のカタパン」へも立ち寄ろう。



母にそう伝えると、「父さんが調停委員をしてた時、善通寺の簡易裁判所に行ったついでによく買ってきてくれてたわなあ」と言う。
なんでも父さんとの思い出に繋がるのかと、思わず微苦笑した。


昔はガリガリ噛んでいた母だったが、「一番堅い石パンは遠慮するわ」とずらり並ぶ陳列ケースを前に弱気を見せる。

確かにテレビでも「日本一堅いカタパン」と紹介されたくらいだから、八十を過ぎた母に無理強いはすまい。
しかし、やはり私は石パンに挑戦せねばなるまい。
もちろん初めて食べるわけではないのだが、あまりにも久しぶりということもあり、石のごとく堅い石パンが懐かしくなった。



「石パンを100g、小丸パンは10枚、、、」

昔から使い続けているその古びた陳列ケースを眺めながら、
「あそこのえびせんも美味しいよなあ。添加物が入ってないけん、子供が小さいうちから食べさせられてええわ」と言っていた昨日の相談員を思い出した。

「あ、あとえびせんも。」


立春を前に



メインが「熊岡のカタパン」になってしまったので、善通寺さんへのお詣りはまた今度。

久々に石パンを口の中に放り込み、歯が折れないように柔らかくなるまで舐めてから噛んでみた。
砂糖の甘さと生姜の味が口いっぱいに広がる。
それでも「熊岡のカタパン」、やっぱり堅い。




明後日が立春ということで、本格的に平成三十年がスタートする。
小さな小さな目標として、毎日15分、大嫌いな漢字と、これまた大大大っ嫌いな英単語を勉強することに決めた。
まずは乏しい語彙力を増やしたい。


讃岐づくし

大寒のこの時期、人がまばらなこの場所をゆるり歩くのが好きだ。

今年は例年に比べても寒さ厳しく、ニュースから流れる遠方の大雪に震えている。
こちらは有難くも雪はなく、他県ほど冷えこみもキツくはないが、それでもひときわ寒さが応える。

その中にあって、ほんの少し寒さの緩んだ昨日の午後、私は一人栗林公園を訪れた。

讃岐づくし

讃岐づくし

梅もちらほら咲き始めている。
これほどまでに冷たいと、春はまだまだ遠いところに感じてしまうが、膨らんだ蕾は私たちより一足早く春の気配に気づいているのかもしれない。


讃岐づくし

讃岐づくし

讃岐づくし


ぴんと張り詰めた空気の中で見る松の緑は、年が明けてひと月足らず、すでに弛んできた私の心を正してくれるかのよう。

心が浄化される気がする。

2時間ばかりのんびりと身を置いた。


そして、冷えた体は讃岐のあん餅雑煮で温めよう。

といいつつ、昨日は先にお腹の中を温め済。
おかげで寒さを感じることなく一歩一景を楽しめた。


讃岐づくし


讃岐のあん餅雑煮。

それは、出雲地方の小豆雑煮と京都の白味噌雑煮が一緒になったような実に不思議な存在である。
出雲地方から伝わった小豆の食文化は、餅の餡として変化し、汁は京文化が伝わり白味噌仕立てになった。

味噌汁の中に餡餅が入っていると考えると、それだけで違和感を覚える人もいるだろうが、白味噌との相性は思いのほかよい。
白味噌といっても京都の西京味噌のように甘くはなく、どちらかといえば辛め。
餅をかじって中から餡が出てきて、それが煮干しの旨味がでた出汁と渾然一体となる。
これが、なんとも旨いのだ。


讃岐づくし


古い雑誌にはそんな風に紹介されていた。



砥部焼

どちらかというと、私はずっとそれを母の好みだと思っていた。

母方の祖父は生前、俳句に書に絵画にと多趣味な人で、俳句などは自身が会員の俳句雑誌「ホトトギス」でよく賞をもらうほどだった。
座敷には、祖父の一句と石ころを磨いて拵えた蛙の置き物が飾ってある。
また、酒好きだったという祖父のお気に入りは、七福神が描かれた九谷焼のぐい吞みだったと母から聞いていた。

そんな祖父の血を受け継いだ母は、高校卒業後に芦屋の知人宅に下宿をし、なんばにある高島屋でバイトをしながら田中千代服飾学園で洋裁とデザインを学んだ。
娘である私から見ても人とは違う独特の個性とセンスに、子供の頃より母には敵わないと思ってきた。


ただ、私の中では母のイメージと砥部焼はどこか結びつかず不思議にも思っていた。



砥部焼
(砥部焼伝統産業会館)


「家にある砥部焼は、全部父さんが買ってきたのよ。」


父が亡くなって3年、時折母が語る父は私の知る父とは異なっていた。
仕事一筋の父だったが、やきものが好きで単身赴任先の松山から車ですぐの場所にある砥部焼の窯元をよく訪ねていたという。
高知に居た時は、大きな皿鉢料理の器を何枚も買って母を呆れさせたそうだ。

それは、器など全く興味がない父だと思っていただけに意外だった。
いや、思い込んでいただけなのかもしれない。


床の間の真ん中にでんと置かれた大きな壺も、父が窯元で選んだ砥部焼だった。


砥部焼
(同会館)



「今の天皇陛下が皇太子時代に来られた梅山窯を、知り合いの調停委員さんに紹介してもらったそうよ。」


砥部焼
(同会館)


砥部焼伝統産業会館で地図をもらい、梅山窯を訪ねてみる。

売店に所狭しと積み上げられた器はどれもこれも見慣れたものばかり。



砥部焼
(同会館)


帰宅して、家にある砥部焼の皿を裏返すと全てにある「梅」の文字。

知らぬ間に梅山窯の砥部焼に囲まれて育っていたことを、本日窯元で知る。

内戦から20年、断絶つづく故郷ボスニアへ。(ナショナル ジオグラフィック)

スレイマン・ビエディッチさんは5歳でボスニアを離れた。
それでも、祖父母の家で遊んだことや、泳ぎを教えようとする父にネレトバ川に投げ込まれたことが今も記憶にある。
銃声も街頭の混乱も、父が捕虜収容所に連れて行かれるところも覚えている。
クロアチアの港に車で連れて行かれ、夜になってイタリア行きの船に乗ったことも忘れていない。
飛行機の音やサイレンが聞こえると、こうした記憶がよみがえることがある。

2016年、ビエディッチさんはカメラを携えてイタリアを発ち、母の故郷の村ポチテリに向かった。
小さいころに両親と一緒に訪れたことはあるが、今度は一人だった。
村に留まったムスリムたちの社会と、内戦後に戻ってきた人たちを記録したかったのだ。
このプロジェクトを、彼は「Odavle Samo U Harem」と呼んだ。
村の老人が言った「ここからは墓へ行くだけ」という意味の言葉だった。

ビエディッチさんの母が幼いころの思い出として語ったポチテリは、パブとレストランが立ち並び、自然に囲まれた牧歌的な村だった。
だが、ビエディッチさんが目の当たりにしたのは、内戦で破壊された村だ。
1990年代のユーゴスラビア分裂後、正教徒のボスニア系セルビア人、カトリックのクロアチア人、イスラム教徒のボスニア人による内戦が起こった。
地元の産業は崩壊し、残ったのは高い失業率と社会の緊張状態だった。
ネレトバ川にはごみが浮かんだ。

しかし毎年夏になると、先祖の地とのつながりを確かめようと、ビエディッチさんの世代がヨーロッパ各地から戻ってくる。
「彼らの親は、子どもたちに自らのルーツ、言語、一族との関わりを失ってほしくないと願っています」とビエディッチさんは言う。

外国に逃れた難民たちにとって、故郷に帰るのは厄介なプロセスだ。
内戦終結から20年あまり経つにもかかわらず、町のサッカークラブも商店も、民族ごとに分断されている。
ボスニア・ヘルツェゴビナはどこもそのような状態だ。

1995年に和平合意が成ると、90年代後半には、国際社会が難民にボスニアへの帰還を求め始めた。
「これによって、切望されていた経済支援がもたらされ、新たに見出された融和政策がうまくいっていると証明できるはずでした」と話すのは、人道活動家のハンネス・アインシュポーン氏だ。
同氏は2016年、英オックスフォード大学で修士号を取るため、ボスニア帰還難民の調査を行っていた。
内戦後に帰還する人々は、「国に帰ることで新しい体制に賛同を示し、国家が再び機能することに信頼を託そうとしています」とアインシュポーン氏は話す。

しかし、帰国はまだ第一歩に過ぎない。
帰国に続いて、土地の所有権を確認したり、家々を再建したり、関係を修復したりする道のりが始まった。
帰還難民を満載した国連のバスに護衛部隊が続き、帰還者たちには法的支援が与えられた。
一方、土地には地雷が埋まり、建物には偽装爆弾が仕掛けられていた。

敵意はまだ薄れてはいなかった。
帰還者は迫害に遭ったり、撃たれることすらあった。
特に、内戦の間に民族構成が変わった地域でその傾向が強かった。
2015年になってさえ、ボスニア北部に戻ってきた人たちが暴力を受けたりしている。
国内各地にある仮設住宅に住む人は、今も7000人以上に上る。

2004年、100万人目の難民がボスニア・ヘルツェゴビナに戻った。
だが平均的な帰還者は高齢か、引退した世代だとアインシュポーン氏は言う。
たいてい、彼らはヨーロッパのどこかに家を持ち続けていて、ボスニアの村と行ったり来たりするのだ。
雇用の機会が乏しいため、若者は親の母国に戻って永住したいとは思っていない。

アインシュポーン氏が調査を行ったボスニア・ヘルツェゴビナ北西部の都市プリイェドルも、分断されたままだ。
中心街の商店はセルビア人が所有し、元々の居住区に住むムスリムはほとんどいなかった。
帰還者が新しい家を何軒か建て、決まった季節にだけ住んでいた。
アインシュポーン氏は、隣人同士が互いを幽霊同様にみなしているという感じを受けた。
「住民が街に戻っても、別々の2つの街に分かれてしまっています。両者の間に、実質的な交流はありません」

時間が経てば経つほど、帰還は難しくなる。
アインシュポーン氏は、国際社会で「本国への帰還」という意味で使われている用語に疑問を呈する。
「『リパトリエーション(repatriation)』は、ラテン語の故国(パトリア)に戻るという概念です」とアインシュポーン氏は言う。
「故郷の国そのものが変化することは考慮されていません。実際には、母国は変わるのです」

アインシュポーン氏は自身の研究で、帰還者が母国での生活にスムーズに移行するには、政治的・経済的な力を得ることが欠かせないと結んでいる。
しかし、多様性のある国を建設する計画は、ボスニアの地域レベルでは具体化していない。
「内戦は凍りついた状態で、克服されたとはまだ言えません」とアインシュポーン氏。
内戦後の統合の必要性は、イラクやシリアといった地域でも取り組むべき課題だろうと彼は言う。
氏は現在、国際協力NGO「CARE」の一員としてイラクで活動している。

しかし、故郷へ戻って暮らせない人々にとっても、訪問で古い傷が癒えることがある。
母親の村を再訪したスレイマン・ビエディッチさんは、アブドゥラ・ボシュチェロさんというという老人に出会った。
ボシュチェロさんは、この若い写真家の求めるものを直感的に理解してくれた。
彼が危篤になった時、家族は病院に連れて行こうとした。
その度にボシュチェロさんは拒み、こう言うのだった。「ここからは墓へ行くだけ」

土地へのこうした愛着が、ビエディッチさんの心に響き渡った。
「生まれた場所と直に接触を持てなくなり、外国で育つのは、誰にとっても容易ではありません」と彼は言う。
「自分の足元にしっかりした土台がないようなものです」。
その土台を取り戻し、母国への誇りを認識する手助けをしてくれたのが、老いた友のボシュチェロさんだった。
ビエディッチさんは彼の言葉「Odavle Samo U Harem」を、撮影プロジェクトのタイトルにした。

「戦争は兵士が銃撃をやめた日に終わるのではありません」とビエディッチさんは言う。
「多くの人にとって、それは始まりに過ぎません。彼らは戦争が残したものを一生、あるいは数世代にわたって背負って行かなければならないからです」


 

(Nina Strochlic、訳・高野夏美)

これは、もう罪。

この美味しさは、もう罪だと思う。

しまなみ海道への道中、石鎚山SAで買った愛媛ブランド『紅(べに)まどんな』。
このSAのマルシェでは、季節ごとのみかん生しぼりジュースを楽しめるので、よく立ち寄る。
そして少し割高にはなるだろうが、ここで買うみかんはいつも満足できる美味しさでおススメだ。


この時期、近ごろは当然のこと紅まどんながずらりと並ぶ。
「樹になるゼリー」と評される紅まどんなはオレンジ色の見た目も美しい。


マルシェを一巡しながらも目はを追う私に気づいたのか、店員さんが声を掛けて来る。

「私も柑橘類で一番紅まどんなが好きです。」


「贈答用なら紅まどんながよろしいかと思いますが、ご自宅用でしたら媛まどんなで十分ですよ。」

「でも、は外れもあるんですよね。」


紅まどんな』には同品種に『媛まどんな』がある。

以前私はこの店で、はJA全農えひめが扱っている商品で 一定の品質基準をクリアした外れのないもの、の方は当たり外れがたまにあると教わっていた。

「確かに、紅まどんなは厳しいチェックに合格したものばかりなので間違いはないですが、の方も美味しいのを見分けるコツがあるんですよ。」

「触ってみて、なるべく柔らかいのを選んでください。」

お店の方が持ってきてくれた、少しぷよぷよ感のある媛まどんなを手に取った。

「これは熟して柔らかいわけではないんです。」
「このは決してに負けない味だと思います。」

一個1000円近くはする紅まどんなと比べると低価格で迷いなく手を出しやすい。
私は手にその感触を覚えようとした。


「じゃあ、媛まどんなを・・・」
と私がレジに向かおうとしたとき、「どちらもください」と背後に母。

「そんなにいっぱい買ってどうするの?」
「美味しいんだから、両方買ったらいいじゃない。」

「この時期なら、常温で2週間くらいはもちますから」と、店員さんも母を後押し。




これは、もう罪



しかし、美味しい。
ほんと、この美味しさは、もう罪じゃないかと思ってしまう。

好き好きだろうが、私は『まどんな』を食べてしまうと、昔大好きだった『せとか』をはじめ、どのみかんも残念に感じてしまう。


そして、愛媛県人のみかんに対するプライドに、毎度感服する瞬間。

日本総鎮守参詣

三年連続、古代より日本総鎮守と尊称される大山祇神社を参詣。


日本総鎮守参詣


御祭神は大山積大神。
風光明媚なしまなみ海道の真ん中、ここ愛媛県は大三島に鎮座したのは推古天皇二年、594年と伝えられている。

大山積大神は山の神であり、海の神、産土の神。
全国にある大山積神(大山祇神)を祀る神社の総本宮でもある。


朝廷より日本総鎮守を下賜され、天皇や多くの武将がこぞって宝物を奉納するような由緒ある神社が何故このような瀬戸内の小島にあるのかは学者さん達に任せることとして、日本の古い歴史に想いを馳せここに立つとき、なるほどなと思はざるを得ないのも確か。


日本総鎮守参詣


神社の周りには国の天然記念物に指定されているクスノキ群があり、樹齢2600年の御神木をはじめ、日本最古の楠「能因法師雨乞の楠」は伝承樹齢3000年といわれている。

日本総鎮守参詣

日本総鎮守参詣

残念ながら雨乞の楠は現在枯死しているのだが、まるで彫刻のような美しさで、私は何度出会っても感動する。
日本の総氏神さまにふさわしい老木に、身の引き締まる思いと安らぎとの両方の思いを抱いてしまう。
そして、私にとって大山積大神さまを身近に感じられる場所でもある。

大山積大神は霊峰富士の御山に鎮座するコノハナサクヤヒメの父神にあたる。
昨年、富士山と縁のある一年になったのも初詣にここ大山祇神社を参詣したおかげかもしれない、とふと思った。
ならば、今年もと思ってみたり。
もう一度富士山を訪れる機会があればその時は、コノハナサクヤヒメを祀る富士山本宮浅間大社にも足を運んでみたい、そんなことを思いながらの帰り道となった。


日本総鎮守参詣

日本総鎮守参詣


そして、大三島に来たらやっぱりこれでしょ。
神島(みしま)まんじゅう。
出来立てをホクホクと戴く幸せ。
お店の方は村上水軍の末裔なのか?、店の名に気づいたのも帰り道。
次回、尋ねてみようと思っている。


皆さま、あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い申し上げます。

明日は七草がゆの日ですね。

2017年。

今年は富士山に裁判員にと、思い返せば様々な景色が浮かんでくるが、この大晦日に思うのは気持ちよく12月を過ごせたこと。

年初、私は「年末大掃除をしないぞ!」との目標を立て、毎日こまめに掃除をしてきた。

そのきっかけとなったのは、数年前の9月、友人の奥さんがアップしたFacebookの記事だった。
「年末の寒くて気ぜわしい時に大掃除って馬鹿らしいわと気づいてからというもの、我が家の大掃除は春と秋の二回。扇風機とストーブを片付けるタイミングで」

なるほど、よく考えれば年の瀬はなにかと急用が入ったり、天気も不安定だったり。
冷たさや気ぜわしさで掃除が雑になることもしばしば。


なによりバタバタと駆け込み新年というのも神様に対して失礼なんじゃないかと気づいた次第。



遠方で暮らす友人の言葉にもハッとさせられた。
「今月は来年の準備に勤しむことにします」


そうなんだ、12月は新しい年を迎えるにあたり、すべてを整える月なんだ。

迎えるということ。



今月頭には面倒な場所はほとんど掃除が終っており、おかげで段取りよく年賀状も15日に投函済だ。

師走ってこんなに長かったのかなという感じ。


こんなふうに、2017年はよく掃除をした年だった。
長年気になっていた箇所も整い、準備完了。
来たる年はまた何か新しいスタートを切れるような気がする。


室生寺に呼ばれて


今月5日、奈良県は室生寺を旅した。
女人高野とも呼ばれる室生寺の五重塔の西側に如意山という山がある。
弘法大師が恵果阿闍梨より授かった如意宝珠を、この山の頂上に埋めたという伝承が残っているそうだ。
如意宝珠とは如意輪観音が持っている、あらゆる願い事を叶えてくれるありがたい玉。
昭和21年に実施された如意山頂上の石造納経塔の調査の際、実際に琥珀玉や巻物、当時の貨幣などが見つかっているという。

明日の予定で、

上野動物園のジャイアントパンダ「シンシン」と「シャンシャン」の観覧申込をした。
当たったら困るなあと思いながら。笑

東京までは新幹線かなあ、
夜行バスもありかなあ、
迷子になるから川崎に住む親友に連絡しようか、
でもやっぱり予算オーバーかなあ、

などと一人勝手に考えていた。


だが、結果はもちろんのこと落選。
残念な反面、ホッとしている。
ならばなぜ、私は観覧申込なんぞしてみたのだろうか。
自分でもわからない。



職場のデイサービスのレク用に「シャンシャン袋」。
ふと思いついて試作品を作ってみたが、超簡単なわりに思いのほか完成度の高いものができたと自負している。
袋を振ると、鈴が「シャンシャン」と鳴るのが自慢。

明日の予定で


今年最後の紅葉狩り。

2017年、今年最後の紅葉狩り

先月は本栖湖より千円札裏面の富士山を拝んできたので、今日は10円玉表面へ。

宇治の平等院鳳凰堂。

10円玉、10円玉と思っていたら、一万円札の裏面に描かれているのだって平等院の鳳凰像であるし、二千円札裏面はここ宇治も舞台になっている源氏物語絵巻と紫式部の絵柄である。

と、別に貨幣柄を追っているわけではなく、今年最後の紅葉狩りに奈良を訪れ、その帰りに京都へも立ち寄った次第。
奈良から四国への帰り、交通量が多く走りにくい阪奈道路を避けるのに京滋バイパスが頭に浮かんだのだ。
京滋バイパスは名神高速より南を走るため、京都市内ではなく宇治の平等院へ行こうということになった。

2017年、今年最後の紅葉狩り

2017年、今年最後の紅葉狩り


平等院にはこれまで一度だけ訪れたことがあった。
大学入試の二次試験の帰りだったと記憶しているので、もう20年以上昔のことになる。
もちろん世界遺産に登録される前の話であるから入園者もそう多くなく、まして外国人の観光客には全く会わなかったように思う。
鳳凰堂内部に入るのだって当時は入園料だけで良かったような気がするが、今は別料金の上、解説付きの団体行動にまごついてしまった。

過去の記憶が美化されているのかもしれないが、昔の鳳凰堂の方がしっとりしていたなあと残念に思った。

2017年、今年最後の紅葉狩り


それでも、本尊の阿弥陀如来坐像と雲中供養菩薩像を目の前にすると「ほお~」とため息が出てしまう。

阿弥陀像は平安時代の仏師・定朝の作であることはうろ覚えながら頭に残っていたのだが、彼の作と確実に言い切れるものはこの本尊のみということを初めて知った。
定朝が完成させた寄木造りのまさに頂点のような作品。
その柔らかさは、実に極楽浄土をイメージするのに相応しい阿弥陀様のように感じた。


2017年、今年最後の紅葉狩り

こうして今年最後の紅葉狩りは、平等院の阿弥陀様のお顔のような柔らかい色合いで締めくくることとなった。

今年は。

「富士山を間近で見るぞ!」と心に誓い、4月四国から山梨まで車を走らせた。
そこには確かに日本一の富士山が鎮座ましましてはいたが、首の周りに白いストールを巻いていたり、イングリッド・バーグマン張りにお洒落に帽子を被ったりと、すっきり全貌を拝むことはできなかった。

そこで8月、再び東へ車を走らせる。
私としては、これまでは縁もゆかりもない山梨が一気に身近になっていく。
葡萄も買った、葡萄ジュースも買った、信玄餅も買った。
そして夕暮れ時には雲も晴れ、ほんのり赤く染まった美しい富士の御山を拝むことができたのだった。

大満足してのその帰り、立ち寄った奥飛騨での定宿のおかみさんに、「次は雲のない雪を被った富士山を見たくなるから」と告げられる。
その暗示にかかったかのごとく、3ヶ月後に今年三度目の山梨行きを決行することになろうとは自分でも振り返り可笑しくなる。

片道600kmは優にあるだろうか。
軽自動車でそう簡単にブンブン行ける距離ではない。
だが私は5日前、すでに富士山を見るための定宿になりつつある鳴沢村のペンションに泊まっていたのだった。


今年は
2017-11-24 8:45 田貫湖畔(静岡県富士宮市)


「富士五湖というけれど、実はもうひとつ湖が静岡側にあるんだよ。」
「田貫湖っていうんだけど、そこからの富士山も綺麗だから一度行ってごらん。」

一気に山梨まで走った春夏とは違い、今回は朝一番田貫湖到着を目指して四国を出た。


今年は
2017-11-24 9:15 田貫湖


初冬の空気は冷たく澄んで、富士山をくっきり浮かび上がらせる。

こんなに迫力ある存在感のある山だったんだ。
淡くほわんと目の前にあった夏の富士山からは別人のような力強さを感じた。

圧倒された。


今年は
2017-11-24 9:25 田貫湖畔

今年は
2017-11-24 13:25 河口湖畔(山梨県富士河口湖町)

今年は
2017-11-24 15:00 本栖湖(山梨県身延町)

今年は
2017-11-24 16:55 ペンションより(山梨県鳴沢村)


今年の富士の初冠雪は例年より遅く、しかも10月下旬には台風のせいで一度雪が溶けてしまうことがあった。
まさか11月下旬まで雪のない富士山はないだろうと思っていたが、いかにも前髪をぱっつんと切ったかのような雪の被り方も好みではない。

どうだろう、私の思い描く姿を富士山は見せてくれるのだろうか。


天候はたぶん大丈夫だろう。
だが、直前の急な冷え込みにもスタットレスタイヤを持たない私は微かな不安を抱いていた。

今年は
2017-11-25 6:15 ペンションより

今年は
2017-11-25 6:45 ペンションより


そして予報通り、天気は快晴。
しかも道中思うほど冷え込みもなく、富士山4合目まで難なく愛車で走ることができたのだった。


「最近まで富士山の雪は少なかったんですが3日前の夜に雪が降りまして、そうですねえ、今の富士山はひとつき先の景色ですね。」
ペンションのご主人は、例年なら12月上旬まではお椀をかぶせたような雪の被り方だと教えてくれた。
本来なら、私の好まない前髪ぱっつんの富士山だったのだ。


今年は
2017-11-25 9:05 ペンションより


運がいい。


今年は
2017-11-25 9:55 本栖湖

今年は
2017-11-25 10:05 本栖湖

今年は
2017-11-25 10:05 本栖湖

今年は
2017-11-25 10:10 本栖湖

今年は
2017-11-25 10:35 朝霧高原(静岡県富士宮市)

今年は
2017-11-25 11:05 白糸の滝(静岡県富士宮市)


どんな姿であろうとも富士山は別格だと私は思う。
いつまでもどこまでも見飽きることなく見続けられる。
次はどんな表情を見せてくれるのだろうか、目が離せない。

けれど今回、これほどまでに神々しい姿を見せてくれるとは。
富士山に感謝することしきりである。

2017年、いい一年の締めくくりになった。


長雨のひとやすみ。

長雨のひとやすみ


今年5月に「開運!なんでも鑑定団」で本物と認められた伊藤若冲の掛け軸を、丸亀城城郭内にある資料館で現在見ることができる。

双幅【鶏図】という。


本日、しとしとと数日前より続く雨の下、私も若冲を訪ねてみた。

若冲といえば、奇抜なほどの色鮮やかな鶏の絵を思い浮かべる人が多いのだろうか。
私も漠然とそんな印象を持っていた。

ただ、昨今の若冲人気のおかげでそれを知り得たくらい、私は彼の絵を全く知らない。
これまで唯一目にした本物が、金刀比羅宮(こんぴらさん)奥書院の障壁画「花丸図」であり、今日出会う作品が私にとって若冲の鶏第一号となる。

なので偉そうに若冲を語ることはできないのだが、ちょっとブログに残そうと思った。



あらかじめ掛け軸の写真を見て水墨画ということはわかっていたが、派手さのない若冲に一瞬戸惑った。
正直、「ふん」というのが第一印象だったのだが、じーっと眺めているうち味が出てくる。

まあ、「これは若冲が描いたものだよ」と聞かされているからかもしれないが、さすが若冲、面白い絵を描くなと思った。
墨の濃淡もいいが、絵に勢いがあった。
鶏の顔もひょうきんでいい。頭に残る。


若冲は鶏を描くにあたり、自身で鶏を飼い、一年ひたすら深く観察し、続く二年は写生を続ける修練を積んだという。

若冲研究者の第一人者である狩野博幸さんによると、「菊のこの描き方は若冲にしかできず、鶏も若冲がよく使う表情をしており、雄鳥と雌鳥の目線を意識的に合わせている」とのこと。
やはり「ふーん」程度にしかわからない私だが、この絵、好きだなと思う。



この鶏は、瀬戸内海に浮かぶ本島(香川県丸亀市)のある町家にあった。
現在所有している方の父親が海運業を営んでいた50年ほど前に、木材の運賃代わりに材木商から渡されたものらしい。

なので保存状態は完璧とは言えないのだが、対で残っていたのは幸運だろう。

もともと本島を中心とする塩飽(しわく)諸島は、昔水軍で栄えた場所。
江戸時代には船大工の技術を生かし家大工や宮大工として活躍していた彼らの裕福さは、島を訪れると今も残る古い町並みからもよくわかる。
この鶏と塩飽水軍に関わりはないだろうが、塩飽大工によって建てられた立派な民家から見つかったことは大いに頷ける。



資料館をでると冷たい雨はやんでおり、長雨はひとまずお休みということか。

仏像の中に歯や髪の毛!? ーCTスキャンでわかった運慶仏の内部 (日刊SPA!)

◆東京国立博物館に過去最多の22体が集結

史上最大の運慶展が上野の東京国立博物館でスタートし、初日から入館を待つ人の長蛇の列ができた。
仏像に疎くても、運慶の名前を聞いたことがある人は多いだろう。
2008年には運慶作とされる仏像がニューヨークのオークションに出品、約14億円で落札されニュースとなった。

運慶とは平安時代から鎌倉時代に活躍した仏師で、「慶派」と呼ばれる仏師集団に属していた。
治承4年(1180年)、平家による南都焼き討ちで、奈良の興福寺や東大寺は伽藍と仏像の大半を焼失。
父・康慶をはじめとする慶派の仏師たちは、その復興に携わった。
父亡き後は慶派一門の長となり、活躍を続ける。
武士の時代になり鎌倉に幕府が開かれると、東国武士からも仏像の注文が入るようになる。

現存する運慶作あるいはその可能性が高い仏像は31体と言われているが、今回の展示では過去最多の22体が集結。
普段お寺では見られない角度から、じっくりと鑑賞することができる。


◆仏像のリアルな表情をつくりだす「玉眼」

運慶は玉眼の使い方が非常にうまく、写実性の高さと相まって、存在感の強い生き生きとした仏像を作っている。
玉眼は、仏像の目をくり抜き、瞳を描いた水晶・白目の役割の白い和紙や綿・当て木で構成され、それを使用することで目に光が入りよりリアルな表情となる。

北条時政の注文に応じて造った願成就院(静岡県)の毘沙門天立像(国宝)の見開いた目にも、玉眼が使用されている。
はち切れそうな体躯で躍動的なポージングをとり、一点を見据える目が武将神としての毘沙門天の強さをよく表わしている。
伝統に縛られない東国の創作が、運慶の独創性を磨いていったと考えられる。

興福寺(奈良県)の無著菩薩立像・世親菩薩立像(国宝)にも玉眼が使用されている。
つぶらな瞳から漏れる小さな光が、逆に深い慈悲を感じさせる。
同じ玉眼でも、まったく表情が異なるのだ。

しかし運慶は後年、如来像や菩薩像には玉眼を使わなくなっていく。
悟りをひらく存在の目に人間的な表情は不必要と考えたのだろう。
今回の展示では、その違いを見比べることができる。


◆CTスキャンで得られた情報から、作者や制作年代を特定

仏像内部に仏舎利(釈迦の遺骨)やお経などを納めることは昔から行われていたが、運慶仏は納入品にも特徴がある。
真如苑真澄寺(東京都)の大日如来坐像(重要文化財)や光得寺(栃木県)の大日如来坐像(重要文化財)内部には、五輪塔の他に心月輪(しんがちりん)呼ばれる仏の心に例えられる球体が、心の位置に納入されている。

なぜそれがわかるかというと、仏像調査にX線によるCTスキャン(コンピューターによる断層撮影法)が用いられているのだ。
そこから得られる情報が、作者や制作年代の特定に繋がることもある。
遺髪や歯が納入されていることもあり、発願者の強い思いがうかがいとれる。
構造だけでなく、CTは過去の人々の思いも見つけ出す。

真如苑真澄寺の大日如来坐像が例のオークションに出された仏像なのだが、重要文化財に指定するにあたりボアスコープ(棒状の内視鏡)でも調査が行われた。
耳孔からボアスコープを挿入し、像内に金箔が押されていることや、鮮やかに色づけされた五輪塔が確認された。

当時の仏師や仏像たちは、まさか何百年後にこうして内部を見られるとは思っていなかっただろう。
今回の「運慶展」の展示では収納物についての解説もあるので、外側だけでなく内部も想像しながら見てほしい。


◆展示期間中に「仮説」をCT調査で解明

今回の展示期間中に、興福寺の無著菩薩立像・世親菩薩立像と四天王立像(国宝)のCT調査が行われる。
現在、興福寺では無著菩薩立像・世親菩薩立像は北円堂に、四天王立像は南円堂にと、別々に安置されている。
しかし今回の展示では「四天王立像はもともと北円堂に置かれていたのではないか」という仮説をもとに、同じ空間に配置している。

東京国立博物館企画課長の浅見龍介氏はこう語る。


仏像の中に歯や髪の毛


「内ぐりや収納物の有無、細かな造りなどを今回CTで調査します。無著・世親像と四天王像の調査結果を比較し、同じ堂に置かれていた可能性についても検討します。また、3D計測を行い、仮想空間の北円堂内部にそれらの仏像を配置してみる予定です。いろいろなことがわかると思います」

今回の展示で彫刻としての造形の美しさに感動したら、ぜひお寺へ訪れて信仰の対象として大切にされている運慶仏を拝観してみてほしい。
博物館とは異なる表情を見ることができるだろう。



(鈴木麦)

奈良の大仏さん。

「ついで」というのは神仏事では褒められたものではないが、せっかく奈良まで来たのだからと東大寺に立ち寄ることにした。

いや、東大寺というよりは「奈良の大仏さん」に会いに行こうと思ったのだった。
「奈良といえば大仏さん、大仏さんといえば奈良」だろう。


奈良の大仏さん


奈良の大仏さん


奈良県内には何度も足を運んでいる私だが、ここ10年近く大仏さんを訪ねていない。
そういえば、奈良公園の鹿さんたちにも挨拶しよう。
それになんといってもこの旅の本命、運慶を中心とした慶派一派による「南大門の金剛力士像」を忘れちゃいけない。


奈良の大仏さん


奈良の大仏さん


そして東大寺の中で最も天平時代に思いをはせることのできる「八角燈籠」も楽しみだった。
飛鳥からは100年ほど歴史は浅いが、それでも700年代。

日本はどんな未来を目指していたのだろうか。




なんか久しぶりに「奈良に来たー!!!」という感じだった。



奈良の大仏さん


奈良の大仏さん


今年は10月7日~9日に「鹿の角切り」があったらしい。
そして、秋は鹿さんの恋の季節、発情期のため注意するよう教えてもらった。

今年三度目、飛鳥の旅。

「わしは六甲を見ながら育っとったんか、と思ったわけよ。」

ふらり立ち寄った「ぶどう」と掲げた産直市のおじさんは、二上山と畝傍山、甘樫丘の遥か向こうに連なる山々を指してそう言った。
なんと、明日香村から神戸の六甲山が見えるんだそうだ。
そろそろ西日本では終わりに近い頃だろうか、色も味も濃い巨峰を味見する私に、おじさんは教えてくれた。


今年三度目、飛鳥の旅


石舞台古墳の傍にある食堂で昼食をとった私たちは、桜井市にある二つの寺院を巡るため車を走らせていた。

どこもかしこも日本の古代史に登場する場所、おじさんの話は尽きない。
「ここは小原(おおはら)地区といって、藤原鎌足誕生の地でね。」
懐かしい日本の原風景が広がっている。


奈良県は飛鳥地方。
今年5月、キトラ古墳と高松塚古墳壁画を見学して以来の訪問だった。

車窓からは、黄金色に実った稲穂にすでに色あせた赤い彼岸花の景色が続く。
青空の下、ススキの穂は気持ちよく風になびいている。
ところどころ古代へといざなう史跡案内の道しるべが道行く人の目を引いていた。
ここはいつ来てものどかでいい。

今年三度目、飛鳥の旅


そして今回のお目当てが、ここ飛鳥でしか出会えない仏像を巡ることだった。


一つは聖林寺(しょうりんじ)の国宝・十一面観音菩薩。

あのアーネスト・フェノロサが激賞したという天平時代のミロのヴィーナスだ。
お姿全体から溢れる堂々たる優美さと指先まで行き届いた繊細さに、よくぞ廃仏毀釈の波を乗り越えてくれたと心底思う。
そして、ここは郊外のひっそりとしたお寺であるため、国宝の観音菩薩と一対一で好きなだけ対面できる贅沢さえも味わえた。


* * *


現在、興福寺中金堂再建記念特別展として『運慶』展が東京国立博物館で開催されている。

それに触発されたわけではないが、「ちょっと快慶を観に行こう」と思い立ったのが、この飛鳥旅のはじまりだった。
ちなみに、『快慶』展は、奈良国立博物館にて今年の春に大盛況で幕を閉じている。

国宝級の仏像が並ぶ特別展も悪くはないが、なにせ人の多さが気になる私は年々そういう展示ものから足が遠退き、またどれもこれもがメインの仏像ではすべての印象がぼやけてしまうこともあり、面倒ではあるが一つ一つ足を運べたらという想いが飛鳥まで私の背中を押してくれた。


それは、日本三文殊のひとつである安倍文殊院のご本尊、国宝・渡海文殊菩薩群像。


今年三度目、飛鳥の旅
(安倍文殊院HPより)


今から800年以上も昔に大仏師・快慶によって造立された、説法の旅路の文殊様が4人の脇侍を伴って雲海を渡っている姿を現したものだ。
獅子に乗った文殊菩薩像は高さ7mにもなり、日本最大の文殊様でもある。

もうなんと言えばよいのか、
素晴らしい、美しい、神々しい、圧倒されるなどという月並みな表現では到底表しきれないものがそこにあった。

いつまでもいつまでも見ていられる、見ていたいお姿。

飛鳥の地でまた新たに出会えた尊い仏像に、はるばる車を走らせた疲れも一気に吹き飛ぶ。


今年三度目、飛鳥の旅

境内には可憐なコスモスが風に揺れ、のどかで優しい飛鳥の秋がそこにあった。


富士への思い。

「私にとって、富士山はいつもそこにある景色なの。」

もう25年以上前のことだが、東海地方の某大学の2次試験を受けた際、静岡県は三島出身だという女の子と出会い、受験日の1日を共に過ごした。

「逆に、富士山のない景色の方がフシギなぐらい。」
その時、彼女の台詞で一番印象に残ったのがそれだった。

そして、当然ながらよく目にする富士山の写真は常に堂々と鎮座ましまし、だからといってはなんだが、私は静岡県や山梨県に行けばその景色を当たり前のごとく見れるものだと思い込んでいた。
もちろん天気の悪い日は地元の低い山々でさえ姿を消すが、どこか富士山は特別のような、そう信じたいところがあったのだと思う。

ところが初めて山梨県を訪れた今年4月は深く雲をまとっており、すっきりと姿を現すことは決してなかった。
山頂周辺は風が速く、頭を隠す雲たちはあっという間に遠く流れていきそうなのに、次から次へと新たな雲が生まれては富士の御山から離れない。
裾野の広さに感動したものの、やはり富士山も他の名峰と同じくそう簡単には全貌を見せてくれないのだ。
期待が大きかっただけに、がっかりという気持ちがなかったといえばウソになる。

いつもそこにある富士山、富士山のない景色の方がフシギと言った三島の彼女の言葉が逆に私を寂しくさせた。
確かに、いつも富士の全貌が見れるとは彼女は言ってない、しかし。


この8月25日も、新東名高速の新富士ICを降りた時には重い雲があちこちにただよい、今回も無理だなと諦めのような思いが胸に広がった。
どっと疲れが私を襲う。

そして、悲しかった。


どうしてそこまで富士の全貌にこだわるのかというと、それは綺麗なみ姿を母に見せてあげたいという気持ちの他にもうひとつ。
以前ブログにも書いた昨年9月に亡くなった私の尊敬するある女性が山梨出身であったから。
その方の面影と重なる富士の優美さを見ることで、私はどこか慰められたかったのだろう。

富士への思い


だからその姿が全て現れた時、心の底から嬉しかった。
尊いなと思った。
美しいと感じた。


今度は雪を被った気高い姿を見せてくださいね。
そっと富士の御山に手を合わせる。


川中島白桃を食べてみる。

長野県松本市の中町通りにある「やまへい」という漬物屋さんがお気に入りの母。
お店の奥様とお喋りするのも楽しいからだ。

松本を訪れるとその「やまへい」さんと松本城には必ず立ち寄ることに決めてある。

川中島白桃を食べてみる

川中島白桃を食べてみる


その日、お昼を少し回っていたにも関わらず、松本城では蓮の花が美しく咲いていた。
しばしお城と蓮に見入っていた我々は、お決まりの「やまへい」さんへと向う。

愛犬を連れての旅なので、店に入るのは母だけにして、私は犬と一緒に店先に置かれた長椅子に腰を下ろした。

「遠くから来たの?」
一人のおじいさんに声を掛けられた。

おじいさんは手持ちの袋から一つ桃を取り出し、「この時期なら、信州の土産にこれ以上のものはないよ」と教えてくれた。

「川中島白桃と生で食べられる白いトウモロコシは、ここをまっすぐ行った処にあるマルシェで売ってるから、ぜひ寄ってみな。」


四国に住む私はこれまで川中島白桃という桃に出会うことがなかった。
周りの友人たちに聞いても、まず知らない。
近頃になってようやく地元の産直でも色の悪い小さな桃が、一応「川中島白桃」と名乗って置かれてあるのを目にするようになったが、手に取ることはもちろんなかった。

それに、海を挟んで向かい側の岡山は桃の国。
今年も岡山へ出掛けた際に購入した清水白桃に大満足した私はそれ以上を望んでいない。

けれど、時々耳にする「川中島白桃」が気にならないわけではなかった。


「やまへい」さんから出て来た母に犬を預け、私は小走りでマルシェを目指した。

「これが川中島白桃ですか?」
ピンク色をした綺麗で大きな桃だ。
はあはあと少し息切れしながら、籠の中に4個だけ転がるその桃を指し、店員さんに尋ねた。

「もう残りはそれだけになってしまいました。
今が食べごろです。一個でも十分食べごたえがありますよ。」

私は川中島白桃を2個買った。


今朝、常温に置いてあったその桃の1個を氷水で15分ほど冷やし、食べてみた。

想像していたよりは清水白桃にも近い味を感じたが、その果肉の締り具合には驚いた。
食べごたえがあるというより、母と私の2人では1個食べるのも多いくらいだ。
すごく重い。

「桃」はドイツ語では男性名詞、フランス語では女性名詞なんだそうだが、清水白桃がフランスで川中島白桃がドイツといった感じ。

これはどちらが美味しいというより好みの問題なんだろうが、私には重すぎだ。

しかし正直なところ、そう感じたことにホッとしている。
もしも川中島白桃の方が清水白桃よりも私の好みであったなら、これから毎夏、四国では手に入らない美味しい川中島白桃を求めて彷徨わなければならなくなるから。


それにしても、「桃」を絵に描いたなら、一番おいしく映るのは川中島白桃だろうなあ。
本当にいい色をしたとても綺麗な桃だった。

川中島白桃を食べてみる

(信州の川中島白桃と甲州のブドウがこの旅の戦利品)


富士再訪。

4ヶ月ぶりの再訪。
今、山梨県は鳴沢村に来ている。


定点観察のペンションより本日の富士山。

富士再訪
15:11


富士再訪

富士再訪
16:22


富士再訪
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富士再訪
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富士再訪
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富士再訪
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富士再訪
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富士再訪
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富士再訪
18:23


富士再訪
18:26

父の仕事と裁判員。

時が経ったので、許される範囲のことを少しだけ書いておこうと思う。

去年の11月、最高裁より裁判員候補に選ばれたという通知が分厚い封筒に入って送られてきた。

裁判員かあ。
まさか自分が候補に選ばれることなどあるものかと、この制度が決まった当初はざわめく周囲とは裏腹に全く関心を持っていなかった。

だが裁判員制度が始まって8年、当時は無関心だった私も、3年前に父を亡くしたことでできることなら参加してみたいという気持ちに変わっていた。

父は長年裁判所に勤めてきた。
父のように黒い法服を着ることはないが、同じように法廷に立ち合う機会があれば、父が生涯をかけて貫いた仕事を何らかの形で感じ取ることができるのではないか、今も本棚にずらっと並ぶ法律関係の書籍を眺めながらそんな風に思ったのだった。


そして、私は裁判に参加する機会を得た。
今回の起訴内容は強盗致傷。
最高無期懲役が科せられる罪ゆえに裁判員裁判が執り行われるという。

裁判所側は、裁判官3名、裁判員6名、補充裁判員2名の計11名。
裁判員が一人でも欠ければその裁判は成立しないことから、補充裁判員も裁判員と同じように最初から最後まで裁判に立ち合うことになる。
ただし、裁判員は法廷で質問することができるが補充裁判員は許されず、また審理後の評議(裁判官と裁判員が話し合って有罪か無罪か、有罪の場合はどのような刑に処するのかを決める)の場において多数決を行う際の投票権は補充裁判員にはない。

テレビで裁判の場面を目にしたことはあるが、当然ながら父は一切の仕事を家に持ち込まなかったため、法廷に入るまでは実際の裁判とはどんなイメージでどういう流れになるのかわからなかった。

裁判員は裁判官と一緒に法壇後ろの扉から入場する。
座る場所も裁判官と同じ法壇上。
私の席は裁判官の真横、中央に近い法廷を見渡すのにちょうどいい場所だった。

初めて法廷に入る時は緊張も高まり、心臓のドキドキ音が耳に届くほどであったが、いざ入場すると冷静に周りを見、話を聞く自然体の自分がフシギだった。

また、法廷前に起訴内容を見せてもらい、裁判長が今回の争点はここだよと具体的に言ってくれていたおかげでスムースに話に入っていけたように思う。

冒頭手続きから判決までの6日間、かなり真面目に頭を使い、私なりに真剣に考え、時に悩んだりもした。
同じ法廷に参加をし、同じ資料を読みながらも11名それぞれ考えは異なる。
その異なった考えを十分な話合いから一つの答えへと導いていく。
自分の考えに迷いが生じても、裁判官の皆さんがその悩みを受け入れ、認めてくれる。
裁判員にならなければ関わることのなかった人たちだが、裁判長が仰っていた通り、私たちは11名で一つのチームになっていた。

疑わしきは裁かない姿勢はなにも裁判所側だけでなく、丁寧に話を引き出し物事を見極めようとする検察側の態度にも好感が持てた。
いい経験になったし、司法に対する信頼も深まったように思う。

また、裁判長のイメージも変わった。
これまでは閻魔大王という印象だったが、今はまるでお釈迦様みたいだと思う。
閻魔大王は検察側か?笑


そして、ああ、これが父の生前であればなあと、勉強になった分余計にそう思った。
父ならばどんな捉え方をしただろう。
父ならばどんな言葉を被告にかけたことだろう。

私は幼い頃から厳格な父が苦手で、だから法曹界はまったくもって興味がなかった。
自分から一番遠い仕事だと思っていた。
しかし、今は思う。
もしも学生時代に、せめて20代でこういう経験ができていたなら、私も法曹界の門を叩きたかったなと。
素直になれなかった自分を悔いた。
その後悔さえもいい経験になったと感謝している。


裁判員裁判の一切が終わった後、裁判員バッチをもらった。
今も父の仏前に供えてある。

父の仕事と裁判員