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旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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北口本宮冨士浅間神社

浅間(せんげん)と名の付く神社がいくつもあることを知ったのは、先月末、「さあ、明日が富士山への出発だ」という夜だった。

元来私はどこへ行くにも下調べをしない。
行き当たりばったりでこれまでも旅を続けてきたものだから、それが海外ではなく国内でも、一人ではなく母を連れていても変わらない。

ただ今回は、富士山がご神体であり、御祭神がコノハナサクヤヒメ命である浅間神社をお参りしようと何故か心に強く思った。
当初、静岡県富士宮市にある富士山本宮浅間大社参拝を決めていた。

本宮とあるのだから容易に気付いても良さそうだが、全国に浅間神社は1300もあるようだ。
それらは主に関東甲信、東海地方に祀られており、四国に住む私にとって聞きなれていなかっだけだ。


しかし、行く直前に行先が変わるのも私のクセ。
偶然、富士山の北口にあたる山梨県富士吉田市にも1900年の歴史をもつ神社があることを目にする。

参道には古木が繁り、高さ18mの日本最大木造鳥居が聳えるという。

人の多い場所を好まない私は、そのひっそりとした独特な雰囲気に気持ちが固まった。


北口本宮冨士浅間神社


実際に訪れてみると、空気が冷たく澄んだ深い木々の向こうに、厳かで霊験あらたかな古社が控えていた。


北口本宮冨士浅間神社


ここも世界文化遺産「富士山」構成資産として登録されている。
そして、富士吉田口登山道の起点でもある。


北口本宮冨士浅間神社

北口本宮冨士浅間神社



北口本宮冨士浅間神社

ー御祭神ー

       木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)
       天孫彦火瓊々杵尊尊(テンソンヒコホノニニギノミコト・木花開耶姫の夫) 
       大山祇神(オオヤマヅミノカミ・木花開耶姫の父)


ー由緒ー

人皇12代景行天皇40年(110年)日本武尊(ヤマトタケルノミコト)御東征の砌、箱根足柄より甲斐國酒折宮に向かう途次、当地御通過、大塚丘にお立ちになられ、親しく富士山の神霊を御遥拝され、大鳥居を建てしめ、「富士の神山は北方より登拝せよと」勅され、祠を建てて祀ったのが始まりとされている。




北口本宮冨士浅間神社

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西明寺の4つの紋。

「でね、一度住職さんに釈迦如来さまと薬師如来さま、阿弥陀如来さまのどれが一番偉いのですか?と尋ねてみたことがあるんです。さて、どれが一番偉いと思う?」

私はなんとなくピンときて、「お姿を変えてるだけで、どれも同じ」と答えてみた。
「お、正解!」

湖東三山・西明寺

はじめは時間を気にしていた私も、西明寺の従業員であるというおじさんの話に段々のめり込んできて、時を忘れ聞き入っていた。

ペンライトを再び秘仏である薬師如来像が入っている箱に戻す。
そこには4つの紋が描かれていた。

「左端は徳川の葵の紋、右端もご存知、菊のご紋。」

「左から二番目は、江戸時代にこの寺を復興させた望月家の紋でして、望月家といえば甲賀忍者、、、」
「え?忍者?」
こんなところで忍者の話が出ようとは、恥ずかしながら忍者といえばハットリくんしか知らない私はびっくりしてしまった。
いや、ここは近江の国なのだから忍者が出ても不思議じゃないかもしれないが、心構えができていなかった。

「あの松尾芭蕉が伊賀の忍者だったのも有名な話だよね。」
「へ?松尾芭蕉が忍者???」
頭の中、どんぐり眼(まなこ)にへの字口の松尾芭蕉が回っている。

「そうだよ、松尾芭蕉は幕府のお庭番で、当時貧しくてお米もあまりとれなかった東北の人々が年貢を誤魔化していないか調べるために、表向きは俳人として奥州と北陸を巡った記録が「おくのほそ道」なんだよ。」
頭の中、くるくるほっぺにふくめん姿の松尾芭蕉がスパイをしながら歌を詠んでいる。
「え?これ有名な話だよ。」


驚く私におじさんは続ける。
「で、甲賀の望月家もそう。幕府より指示を受け、島原の乱で知られる隠れキリシタンを見つける諜報活動をしてたわけだ。」

「任務は果たせたけれど、それによって多くの百姓たちが命を落とした。その罪滅ぼしもあってこの寺に入り復興させたといわけ。」
「なので、ここに望月の紋がある。」

「もうひとつはさっきお話ししたように、生まれる前と現世、そして死後の世界がくるくる回るのを表現したもの。」


湖東三山・西明寺


「色んなお話を伺いましたけど、私的には松尾芭蕉が忍者っていうのがすごく面白かったです。」
頭の中、まだ黒装束で手裏剣を持った松尾芭蕉が古池の前で腰かけている。

「芭蕉もいいけど、自分の干支の十二神将像にお願いするのを忘れずにね。いい、干支を間違えたら聞いてもらえないからね。」

湖東三山・西明寺


それにしても、さすがは近江の国。
花見に彦根を訪れて、まさか忍者にまで話が及ぶとは、まして隠れキリシタンまで登場するとは思いもしなかっただけに非常に興味深かった。
国宝の古い建物ばかりじゃない歴史を感じながら、帰路車を走らせる。


湖東三山・西明寺

湖東三山・西明寺(さいみょうじ)

「まあ、ここに座りなさい。」

国宝の本堂の中に足を踏み入れた私に、お寺の男性が声を掛けてくださった。

「どちらから見えられたのですか?」
「四国の香川です。」
「じゃあ、ライバルというわけだ。」
???
「ここはね、天台宗のお寺なんですよ。」
「ああ、お大師さま、、、」


湖東三山・西明寺


彦根城の帰り、いたるところにある桜並木に目を奪われながら、湖東三山のひとつ、西明寺を訪ねた。
一番美しいのは紅葉の季節らしいが、8年ほど前、同じく湖東三山の百済寺(ひゃくさいじ)を訪れた際、京都とはまた違う趣きの深さに感動し、他の二つの寺院もお参りしたいと思っていた。
湖東三山とは、琵琶湖の東側にある三つの天台宗寺院をまとめてそう呼ぶ。


「ここの本尊の薬師如来さまは秘仏でね、実は私も見たことがない。」
この後、40分ほど説明が続くことになろうとは知らない私は、「へえ」と本堂中央に座した。

写真の薬師如来像は左手に薬壺を持ち、右手の薬指は少し前に曲げられていた。
薄暗くてよく見えなかったが、薬壺を持つ左手も僅かに薬指のみ曲げられているようだった。
「薬指は薬師如来さまからいただいた指でしてね、薬などはこの指で塗ると治りが早いですよ。」

「生きている間は誰しも病気をしますから薬師如来さま、生まれる前は釈迦如来さま、亡くなった後は阿弥陀如来さまが守ってくださります。
釈迦如来さまは手のひらを見せる形、薬師如来さまは先ほども言ったように薬指を曲げてらっしゃる。そして、指で輪を作ってらっしゃるのが阿弥陀如来様。」

こういう話をじっくり聞く機会がなかった私は、少し前のめりになって真剣に頷いていた。

秘仏の薬師如来像を祀った箱の両側に並ぶ十二の像にライトを移して説明を続ける。

「あんたの干支はなにかな?」
「ネズミです。」
「じゃあ、子年の像を拝むんだよ。それ以外に拝んでも聞いてもらえないから。」

薬師如来を守護する十二神将は、生まれ年の干支の守り本尊とされている。
「ここの十二神将立像は、文字の読めない人にもわかるように頭上に干支を乗せてるのでよく見てごらん。」
「この像が造られた当時、日本にはトラと羊が入ってきていなかったから、この二つは本物と全然似てないのが面白いだろ。」
西明寺の十二神将像は、運慶の弟子の作と伝わっている。

「ここはね、宝くじとギャンブル以外はなんでも言うことを聞いてくださるからね。それも一つだけじゃない、いくつお願いしても聞いて下さる。」
別に頼み事をしようと思ってお参りにきたわけじゃない私は、何をお願いすればよいか思いつかずきょとんとした。

「もしも他の方のお願いを代わりにする場合は、その人の干支に向かってするように。」
「実は、私も息子もここでお願いして癌が治ってね。・・・・・・・・・・・」


おじさんは非常に話が好きらしい。
住職さんではないとのことだった。

湖東三山・西明寺


「あ、国宝なのはこの建物の本堂と三重塔。どちらも鎌倉時代の作で、まず本堂が滋賀県第一号の国宝に指定されて、その数年後に三重塔。二天門は室町時代作で重要文化財。」


湖東三山・西明寺


「実はこのお寺も戦国時代に織田信長に焼き打ちされたんだけど、本堂と三重塔、そして二天門のみ焼かれずに済みましてねえ。」
昔習った教科書では、信長といえば延暦寺の焼き打ちとしかなかっただけに驚いた。

話は延々とその後も続いた。


外は青空が広がり、さきほど歩いた庭園では陽の光が眩しく踊っているに違いない。
この寺のお庭は蓬莱庭と呼ばれ、薬師如来や十二神将などをあらわした石組と鶴亀の形をした島が浮かぶ池が美しい。
苔の緑に心鎮まる。


湖東三山・西明寺



ー 龍應山西明寺略縁起 ー

西明寺は平安時代の承和元年(834)に三修上人が、仁明天皇の勅願により開創された寺院である。
平安、鎌倉、室町の各時代を通じては祈願道場、修行道場として栄えていて山内には十七の諸堂、三百の僧房があったといわれている。
源頼朝が来寺して戦勝祈願されたと伝えられている。
戦国時代に織田信長は比叡山を焼き打ちしてその直後に当寺も焼き打ちをしたが、幸いに国宝第一号指定の本堂、三重塔、二天門が火難を免れ現存しているのである。
江戸時代天海大僧正、公海大僧正の尽力により、望月越中守友閑が復興され現在に至っている。


富士山を東から西に向けて

犬を連れて遠出をすると、色々な方によく声を掛けていただける。

彦根城では、お隣の岐阜県より来られた女性に話しかけられた。
ご主人が写真を撮るのが好きで、桜の時期はよく彦根を訪れるらしい。

彦根城の桜

「うちも犬を飼ってたんだけどねえ、孫のアレルギーのせいで犬を飼えなくなって淋しくて。
息子は私の実家のある富士宮市にいるんですけどね、ほら、帰ってくるときはいつも孫を連れてくるから。」
一面、溢れんばかりに咲き誇る桜の木の下でしばらく会話を続けた。

富士山は東から


聞けば、静岡の息子さんから「今日の富士山」の写真が毎日送られてくるという。

「あ、私たちも富士山へ行ったばかりです。」と、今度はうちの母。

「え?どうやって?」
「犬がいるものですから、娘が車を運転して。」
「え?一人で富士山まで運転ですか?」
はい、ここでもちゃんと驚いてもらえた。笑


実は先月下旬、私たちは再び富士山を目指していた。
とはいっても、これで四度目となる富士山行きは、山梨にある馴染みのペンションを基点として伊豆と鎌倉へ足を延ばすためだ。

伊豆は両親の新婚旅行の地であり、鎌倉も母にとって父と旅した想い出の場所。
時間が足りなく駆け足の旅となったが、その間もずっと富士山はわれわれを見守っていてくれた。
11月下旬と比べると、春霞のせいか少し淡く優しい富士山ではあったが、山梨側からは一度も雲に隠れることはなかった。


富士山という共通の話題に話が弾む。

「そうそう、息子が教えてくれたんですけどね、富士山の写真を東から西に向けて飾っておくと災難から守ってくれるんですって。」
「へ~、富士山が」 母は熱心に聞いていた。

私はというと、じゃあ災難は東から来るのか?と心の中でツッコミながらも桜を写真に収めることに懸命だった。
しかし、何事も素直さが大切。


数ある富士山の写真のどれを引き延ばして飾ろうか。
ただ今、検討中である。


富士山を東から
2018-03-28 9:22精進湖(山梨県富士河口湖町)

彦根城の桜

4月3日、ちょうど満開を迎えた桜を観に彦根を訪ねた。

彦根城の桜

彦根へは、どんなに車を飛ばしてもわが家から5時間は優に掛かる。
だが、彦根城の桜が一番好きだと母は言う。

彦根城の桜


濠を囲む咲き誇った無数の桜の競演もさることながら、一本一本の枝ぶりも花弁のまとまりも別格の美しさだと私も思う。


彦根城の桜

彦根城の桜



彦根行きを決めたのは、先月末のことだった。
その日の朝、行きつけの喫茶店で古い雑誌を開いた私は、こんな記事を偶然目にした。


「城にはなぜ桜が咲くのか」


彦根城の桜


その中で、日本城郭史学会代表(当時)の西ケ谷恭弘さんはこう語っていた。(以下、抜粋)


日本の城址を訪ねると、近くに護国神社が建てられていることが多い。
明治4年の廃藩置県により、日本のほとんどの城郭は破却され、その跡地の広々とした城址は、招魂社や学校、軍用地などに利用される。
招魂社は東京では靖国神社、地方では護国神社と呼ばれ、戦死者の霊を祀る社であり、その霊を慰めるため桜が植えられたのがそもそものきっかけである。

明治政府は桜が一斉に散るさまを「潔し」とし、武士道精神に関連付けて桜の植栽を進めた。
護国神社の桜は、やがて城址も埋め尽くしてゆく。
折しも明治34年、土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲の「荒城の月」が発表され、城と桜の結ぶつきを強めた。


彦根城の桜


城と桜は、明治維新以降に結びついたもの。
戦国から江戸期まで、何の関係もなかったと、西ケ谷さんは言っている。

本来、城に植えられた木は松だった。
松並木は防風林となり、夜警の松明や柵を作る用材にも使え、樹皮の下の白く柔らかい部分は水でふやかせば救荒食にもなる。
また、松脂は油や止血剤にもなり、松茸も採れる。
松山城や高松城など、名前に松を冠する城が多いのはその名残である。



読みながら、そうだったのかと納得した。

以前も彦根で花見をした際、昭和9年に桜を植えるまで彦根城に桜は殆どなかったと耳にしていた。
また、彦根城前には滋賀懸護国神社が鎮座している。
私が20代半ば頃、職場のデイサービスで「同期の桜」を泣きながら歌っていた明治生まれのおじいさんの顔も思い出された。


彦根城の桜


今では桜のない城など想像すらできないが、名城には桜が本当によく似合う。
そう改めて感じた花見となった。


彦根城の桜

彦根城の桜

彦根城の桜


裁判員経験者との意見交換会

てっきり私は、裁判員裁判時に評議を行ったような小部屋で、裁判官、検察官、弁護士に裁判員経験者の代表者が顔を合わせ、ざっくばらんに意見交換をするのだと思っていた。
だから、裁判終了後のアンケートでも、自宅に郵送されてきた意見交換会開催の案内にも気軽に参加希望の意を表した。


先日、その意見交換会が高松地方裁判所において行われた。
私も選ばれた経験者のひとり。

裁判中は3名の裁判官としか直接話す機会がなかったから、今回は検察官や弁護士らも同席ということに多少の興味を持って高松まで足を運んだ。
何より、馴染みの裁判官との再会が楽しみだった。


ところが、会場に案内されてびっくり。
通されたのは、結構広い会議室だった。

確かに裁判員経験者8名と裁判官、検察官、弁護士がそれぞれ一名出席しての座談会形式には違いないが、向かい側には各報道関係者、その他の検察官や裁判官等、20名以上の関係者が傍聴席に座っている。
中央には高松地方裁判所所長と進行役の裁判官。

一気に緊張が高まる。

実際の裁判でさえ平常心で臨めた私だが、この日心臓のドキドキがとまらなかった。


裁判員経験者による意見交換会


自分が参加した裁判は一例にしかすぎず、それぞれ異なった事例があることはよくわかっているつもりだった。
しかし、この意見交換において改めて痛感したことがそれだった。


私が経験した起訴内容は強盗致傷。

裁判当時を思い出す。

私が臨んだ裁判では被告は有罪を認めており、争点となるのはそれが計画的か偶発的かということだった。
被害者を殴った棒をめぐって議論が繰り返された。

初日に被害者による答弁が行われた際は私の気持ちも被害者側に大きく動いた。
また、裁判が進むにつれ曖昧な返答を繰り返す被告に対しても、それを弁護する国選弁護人に対しても不信感が募り、被告に向ける自分の眼が日増しに厳しくなるのを感じた。

だが、実際に刑を決める段階になると、若い被告の将来について考えざるを得なかった。
たぶん、いっときの出来心からの犯行に違いなかった。
被害者の受けた心の傷の深さまでは計り知れないが、被害者が負った外的な傷は比較的浅く、盗まれた金品の額もそう大きいものではなかった。

しかし、犯した罪は罪。
罪を償うことも被告の将来においても非常に大切なことだ。


* * *


今回の意見交換会の中で、ある経験者がこんなことを言った。
「被告が語った中で、自分の将来についての言葉がありました。私はそれがとてもショックでした。」

私以外7名の経験者が、殺人か殺人未遂という重大な事件を受け持っていた。
殺した側、人の命も未来も奪った人間が自分の将来を思う。

別の経験者はこう言った。
「(殺された)被害者の父親の意見陳述を聞きながら涙が止まらなかった。自分も娘がおり、どうしても感情移入をしてしまい家に帰ってからも泣きました。50何年生きてきて、これほど辛い時間はなかったです。」


私は周りの人たちと自分の意見との温度差を感じた。
裁判員裁判で受けた心理的苦痛も、殺人事件に携わった彼らと私とでは比較にならないほど違っていた。


私は裁判後、周りの人に裁判員に選ばれたならぜひ参加すべきと伝えてきたが、果たしてどうなのだろうか。
色んな思いが頭の中を駆け巡った。

だが、やはり裁判員裁判を経験したことは自分の人生上貴重な経験になったと思うし、裁判で終わらず、今回のような意見交換の場に選ばれたことを有難く感じた。


日々、新聞をあらゆる事件が賑わす。
文字としてそれらを見るのと、実際に被告や被害者、その家族と向き合うと、その重さは全くもって違ってくる。
感情的にもなるし、感情移入した状態で判決に関わるのはどうかと疑問に思うこともある。
けれど、裁判に参加する機会を与えられるということは、やはり意味あるものだろう。


意見交換会での私の意見が今後の裁判員制度の運用に役立つとは思えないが、自分の中で見直すいい時間になったと思っている。

花ぞ昔の香ににほひける

日ごと天気が移り変わる春、休みと好天が重なった今月2日に弾丸観梅ツアーを敢行した。

思い付きは前夜だったが、そうと決まれば早起きなんかは苦でもない。
早朝5時に家を出て、龍野西SAで厚切りトーストに姫路アーモンドバターのモーニングを堪能、10時過ぎ大阪城公園に辿り着く。
予定では9時半には到着するはずだったが、田舎では縁のない駐車場事情と融通のきかない道路事情に戸惑ってしまった。


大阪城公園の梅林が素晴らしいことは以前母から教わっていた。
20年以上前になるが、大阪城を訪れた際に天守閣から見下ろした先に広がる梅林に驚いたという。


いつになく寒さ厳しい冬が長引き、梅の開花が大幅に遅れた今年、まだ満足に梅を見ていないことから大阪行きを決めた。
雪に縁のない生活で車は夏タイヤのまま、近場でウロウロするしかなかった鬱憤をここで晴らそうとも思ったわけだ。

急な遠出に少し面倒くさがっていた母も、大阪城と聞いて腰を上げた。


大阪城公園


結果、大満足の一日だった。
天下の名城は梅の花もよく映える。

屋台のたこ焼き屋のお兄さん曰く、「今年は寒かったからやっと咲き出したところ。2~3日前から多くの人が集まるようになってきたよ。」


大阪城公園

大阪城公園

大阪城公園

大阪城公園

大阪城公園

大阪城公園

大阪城公園


一気に暖かくなったからか、咲きはじめにしては開いた花が多かったように思う。
小梅が愛らしい。

公園内では梅に囲まれ囲碁を打つおじいさんやお弁当を広げる人々、中国や韓国はもちろん、フィンランドやフランスなどの外国人観光客とも大勢すれ違った。
みんな自国の言葉で話しかけてくるので、何処から来たのかよくわかる。
それはもちろん、私にではなく私が連れている愛犬たちに。
犬を連れて入場できることも嬉しかった。

大阪城公園


20年前と比べると人出が多く、人混みになれていない私たちには大変だったが、母は父との思い出の場所を懐かしむことができたようだ。
それならばと、父を追憶する旅を母にプレゼントしようと今あらためて計画中である。


大阪城公園


模型に恋した「世界一孤独な鳥」ナイジェル死す。(AFP)

ニュージーランドの島で何年もの間たった1羽で暮らし、「世界一孤独な鳥」として知られていた雄のシロカツオドリ「ナイジェル(Nigel)」が死に、同国の野生生物愛好者の間に悲しみが広がっている。

「仲間のいないナイジェル」とも呼ばれていたこの鳥は、ウェリントン沖にあるマナ(Mana)島で、野生生物を呼び寄せようと環境保護活動家らが設置したコンクリート製模型のコロニーの中で数年間にわたり暮らしていた。
ナイジェルはこの模型の一つと恋に落ち、羽づくろいや巣作り、さらには交尾をしようとする姿も目撃されていた。

同国自然保護局(DOC)の監視員クリス・ベル(Chris Bell)氏は7日、「ナイジェルはマナ島に住むことを選んだ。
いつでも去ることができたのにそうしなかったので、彼が幸せだったことが分かる」と語った。


ナイジェルは先月末、コンクリート製の「恋人」の隣に横たわり死んでいるところをベル氏に発見された。
死因は今後の解剖で特定されるが、老衰とみられている。

悲しいことに、ナイジェルは偽のコロニーの効果が現れつつある中でこの世を去ってしまった。
ベル氏によると、昨年12月末には3羽のシロカツオドリがマナ島を訪れ始めた。
3羽は現在も定期的に島を訪れており、コロニーの形成につながればナイジェルの遺産となるだろうとベル氏は述べている。


シロカツオドリ

東風吹かば

七十二候では「東風解凍(はるかぜこおりをとく)」の今日、皮肉にもこの冬初めての氷柱を見た。


東風吹かば


立春を迎えた4日の朝、香川でもあちこちから降雪のニュースが届く。
とりわけ金毘羅さんのある琴平町では5cmほど雪が積もったようで、そこから来る職場の同僚は一人山奥から出てきたような車を走らせていた。
しかし、海沿いのわが町は一時期吹雪いた程度で終わってしまった。
今冬、雪に苦しめられている方々には大変申し訳ないが、私だって白く染まった景色が見たいと本日、明るい陽射しで溶けてしまわないうちに雪景色を見に出掛けることにした。

この氷柱はその出先で見つけたもの。


行先は琴平町を経由し、菅原道真が4年ほど滞在したことのある綾川町。
そこには讃岐では最も有名な滝宮天満宮がある。
また、内陸になるため香川の中では常に気温が低い場所でもある。


昨年も観梅の為、1月と2月に訪れていた。
確か去年、大宰府より株分けされた飛梅は、1月20日頃にはかなりの花を開かせていた。



雪の中に咲く白梅はなんと絵になるものかと、頭の中に思い描きつつ車を走らせる。



途中、車窓に広がる白い田んぼに胸弾ませながら、琴平を過ぎて東へと折れる。
そこから走ること15分ほど、悲しいかな段々と雪は減り、天満宮では道路脇でさえ雪はなくなってしまった。

ああ、残念。
だが、それは梅に雪だけではなかった。
やはり寒さ厳しい今年、梅の開花も大幅に遅れてしまっているらしい。
境内に150本ある梅の木は、どれも蕾のまま立春を迎えていた。


東風吹かば



東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな


東風はまだか。
梅の花はまだか。


東風吹かば

せめて2年続けてのお詣りなら、少しは賢くならぬものか。



立春を前に

早春賦にあるように、この立春には再び寒波到来ということで、まさに「春は名のみ」と暖かさはしばらくお預けになりそうだ。

しかしニュースの騒ぎ用に比べると、瀬戸内沿岸のわが町は今のところ「言うほど寒くない」。
しばらく発熱に悩まされた私だが、今朝は早くから拭き掃除をした。


久々に気分よく迎えた朝、本当は四国霊場第七十五番、弘法大師生誕の地である善通寺をお詣りしたいと思っていた。


ふと昨日のデイサービスでの朝の会話を思い出す。
「みなさん、地元の美味しいものってなんですか?」 相談員がご利用者さん全員にそう尋ねる場面があった。

「熊岡のカタパン!」
ご利用者さんだったか職員だったかはっきり覚えていないのだが、誰かが「あれは名物やなあ」とつぶやいた。

その「熊岡のカタパン」とは、広大な善通寺さんの東院伽藍と西の誕生院を繋ぐ参道と垂直に交わる細道を折れるとすぐにある菓子店のこと。
お遍路さんもよく見かける。
そして大正時代の建物は、旧金毘羅街道だった当時の面影を今も残している。
その姿は、素朴なカタパンの味そのままである。


立春を前に



小麦粉と砂糖を練り上げて焼いた「カタパン」は、口に入れると生姜の味がする。
堅いのでなかなか噛むことはできないが、口に含んでいる時間も楽しませてくれる。

それは明治29年の創業時、兵隊さんの軍事食糧として考案されたものらしい。
善通寺市には陸軍第十一師団があった。



ああ、善通寺さんをお詣りするなら「熊岡のカタパン」へも立ち寄ろう。



母にそう伝えると、「父さんが調停委員をしてた時、善通寺の簡易裁判所に行ったついでによく買ってきてくれてたわなあ」と言う。
なんでも父さんとの思い出に繋がるのかと、思わず微苦笑した。


昔はガリガリ噛んでいた母だったが、「一番堅い石パンは遠慮するわ」とずらり並ぶ陳列ケースを前に弱気を見せる。

確かにテレビでも「日本一堅いカタパン」と紹介されたくらいだから、八十を過ぎた母に無理強いはすまい。
しかし、やはり私は石パンに挑戦せねばなるまい。
もちろん初めて食べるわけではないのだが、あまりにも久しぶりということもあり、石のごとく堅い石パンが懐かしくなった。



「石パンを100g、小丸パンは10枚、、、」

昔から使い続けているその古びた陳列ケースを眺めながら、
「あそこのえびせんも美味しいよなあ。添加物が入ってないけん、子供が小さいうちから食べさせられてええわ」と言っていた昨日の相談員を思い出した。

「あ、あとえびせんも。」


立春を前に



メインが「熊岡のカタパン」になってしまったので、善通寺さんへのお詣りはまた今度。

久々に石パンを口の中に放り込み、歯が折れないように柔らかくなるまで舐めてから噛んでみた。
砂糖の甘さと生姜の味が口いっぱいに広がる。
それでも「熊岡のカタパン」、やっぱり堅い。




明後日が立春ということで、本格的に平成三十年がスタートする。
小さな小さな目標として、毎日15分、大嫌いな漢字と、これまた大大大っ嫌いな英単語を勉強することに決めた。
まずは乏しい語彙力を増やしたい。


讃岐づくし

大寒のこの時期、人がまばらなこの場所をゆるり歩くのが好きだ。

今年は例年に比べても寒さ厳しく、ニュースから流れる遠方の大雪に震えている。
こちらは有難くも雪はなく、他県ほど冷えこみもキツくはないが、それでもひときわ寒さが応える。

その中にあって、ほんの少し寒さの緩んだ昨日の午後、私は一人栗林公園を訪れた。

讃岐づくし

讃岐づくし

梅もちらほら咲き始めている。
これほどまでに冷たいと、春はまだまだ遠いところに感じてしまうが、膨らんだ蕾は私たちより一足早く春の気配に気づいているのかもしれない。


讃岐づくし

讃岐づくし

讃岐づくし


ぴんと張り詰めた空気の中で見る松の緑は、年が明けてひと月足らず、すでに弛んできた私の心を正してくれるかのよう。

心が浄化される気がする。

2時間ばかりのんびりと身を置いた。


そして、冷えた体は讃岐のあん餅雑煮で温めよう。

といいつつ、昨日は先にお腹の中を温め済。
おかげで寒さを感じることなく一歩一景を楽しめた。


讃岐づくし


讃岐のあん餅雑煮。

それは、出雲地方の小豆雑煮と京都の白味噌雑煮が一緒になったような実に不思議な存在である。
出雲地方から伝わった小豆の食文化は、餅の餡として変化し、汁は京文化が伝わり白味噌仕立てになった。

味噌汁の中に餡餅が入っていると考えると、それだけで違和感を覚える人もいるだろうが、白味噌との相性は思いのほかよい。
白味噌といっても京都の西京味噌のように甘くはなく、どちらかといえば辛め。
餅をかじって中から餡が出てきて、それが煮干しの旨味がでた出汁と渾然一体となる。
これが、なんとも旨いのだ。


讃岐づくし


古い雑誌にはそんな風に紹介されていた。



砥部焼

どちらかというと、私はずっとそれを母の好みだと思っていた。

母方の祖父は生前、俳句に書に絵画にと多趣味な人で、俳句などは自身が会員の俳句雑誌「ホトトギス」でよく賞をもらうほどだった。
座敷には、祖父の一句と石ころを磨いて拵えた蛙の置き物が飾ってある。
また、酒好きだったという祖父のお気に入りは、七福神が描かれた九谷焼のぐい吞みだったと母から聞いていた。

そんな祖父の血を受け継いだ母は、高校卒業後に芦屋の知人宅に下宿をし、なんばにある高島屋でバイトをしながら田中千代服飾学園で洋裁とデザインを学んだ。
娘である私から見ても人とは違う独特の個性とセンスに、子供の頃より母には敵わないと思ってきた。


ただ、私の中では母のイメージと砥部焼はどこか結びつかず不思議にも思っていた。



砥部焼
(砥部焼伝統産業会館)


「家にある砥部焼は、全部父さんが買ってきたのよ。」


父が亡くなって3年、時折母が語る父は私の知る父とは異なっていた。
仕事一筋の父だったが、やきものが好きで単身赴任先の松山から車ですぐの場所にある砥部焼の窯元をよく訪ねていたという。
高知に居た時は、大きな皿鉢料理の器を何枚も買って母を呆れさせたそうだ。

それは、器など全く興味がない父だと思っていただけに意外だった。
いや、思い込んでいただけなのかもしれない。


床の間の真ん中にでんと置かれた大きな壺も、父が窯元で選んだ砥部焼だった。


砥部焼
(同会館)



「今の天皇陛下が皇太子時代に来られた梅山窯を、知り合いの調停委員さんに紹介してもらったそうよ。」


砥部焼
(同会館)


砥部焼伝統産業会館で地図をもらい、梅山窯を訪ねてみる。

売店に所狭しと積み上げられた器はどれもこれも見慣れたものばかり。



砥部焼
(同会館)


帰宅して、家にある砥部焼の皿を裏返すと全てにある「梅」の文字。

知らぬ間に梅山窯の砥部焼に囲まれて育っていたことを、本日窯元で知る。

内戦から20年、断絶つづく故郷ボスニアへ。(ナショナル ジオグラフィック)

スレイマン・ビエディッチさんは5歳でボスニアを離れた。
それでも、祖父母の家で遊んだことや、泳ぎを教えようとする父にネレトバ川に投げ込まれたことが今も記憶にある。
銃声も街頭の混乱も、父が捕虜収容所に連れて行かれるところも覚えている。
クロアチアの港に車で連れて行かれ、夜になってイタリア行きの船に乗ったことも忘れていない。
飛行機の音やサイレンが聞こえると、こうした記憶がよみがえることがある。

2016年、ビエディッチさんはカメラを携えてイタリアを発ち、母の故郷の村ポチテリに向かった。
小さいころに両親と一緒に訪れたことはあるが、今度は一人だった。
村に留まったムスリムたちの社会と、内戦後に戻ってきた人たちを記録したかったのだ。
このプロジェクトを、彼は「Odavle Samo U Harem」と呼んだ。
村の老人が言った「ここからは墓へ行くだけ」という意味の言葉だった。

ビエディッチさんの母が幼いころの思い出として語ったポチテリは、パブとレストランが立ち並び、自然に囲まれた牧歌的な村だった。
だが、ビエディッチさんが目の当たりにしたのは、内戦で破壊された村だ。
1990年代のユーゴスラビア分裂後、正教徒のボスニア系セルビア人、カトリックのクロアチア人、イスラム教徒のボスニア人による内戦が起こった。
地元の産業は崩壊し、残ったのは高い失業率と社会の緊張状態だった。
ネレトバ川にはごみが浮かんだ。

しかし毎年夏になると、先祖の地とのつながりを確かめようと、ビエディッチさんの世代がヨーロッパ各地から戻ってくる。
「彼らの親は、子どもたちに自らのルーツ、言語、一族との関わりを失ってほしくないと願っています」とビエディッチさんは言う。

外国に逃れた難民たちにとって、故郷に帰るのは厄介なプロセスだ。
内戦終結から20年あまり経つにもかかわらず、町のサッカークラブも商店も、民族ごとに分断されている。
ボスニア・ヘルツェゴビナはどこもそのような状態だ。

1995年に和平合意が成ると、90年代後半には、国際社会が難民にボスニアへの帰還を求め始めた。
「これによって、切望されていた経済支援がもたらされ、新たに見出された融和政策がうまくいっていると証明できるはずでした」と話すのは、人道活動家のハンネス・アインシュポーン氏だ。
同氏は2016年、英オックスフォード大学で修士号を取るため、ボスニア帰還難民の調査を行っていた。
内戦後に帰還する人々は、「国に帰ることで新しい体制に賛同を示し、国家が再び機能することに信頼を託そうとしています」とアインシュポーン氏は話す。

しかし、帰国はまだ第一歩に過ぎない。
帰国に続いて、土地の所有権を確認したり、家々を再建したり、関係を修復したりする道のりが始まった。
帰還難民を満載した国連のバスに護衛部隊が続き、帰還者たちには法的支援が与えられた。
一方、土地には地雷が埋まり、建物には偽装爆弾が仕掛けられていた。

敵意はまだ薄れてはいなかった。
帰還者は迫害に遭ったり、撃たれることすらあった。
特に、内戦の間に民族構成が変わった地域でその傾向が強かった。
2015年になってさえ、ボスニア北部に戻ってきた人たちが暴力を受けたりしている。
国内各地にある仮設住宅に住む人は、今も7000人以上に上る。

2004年、100万人目の難民がボスニア・ヘルツェゴビナに戻った。
だが平均的な帰還者は高齢か、引退した世代だとアインシュポーン氏は言う。
たいてい、彼らはヨーロッパのどこかに家を持ち続けていて、ボスニアの村と行ったり来たりするのだ。
雇用の機会が乏しいため、若者は親の母国に戻って永住したいとは思っていない。

アインシュポーン氏が調査を行ったボスニア・ヘルツェゴビナ北西部の都市プリイェドルも、分断されたままだ。
中心街の商店はセルビア人が所有し、元々の居住区に住むムスリムはほとんどいなかった。
帰還者が新しい家を何軒か建て、決まった季節にだけ住んでいた。
アインシュポーン氏は、隣人同士が互いを幽霊同様にみなしているという感じを受けた。
「住民が街に戻っても、別々の2つの街に分かれてしまっています。両者の間に、実質的な交流はありません」

時間が経てば経つほど、帰還は難しくなる。
アインシュポーン氏は、国際社会で「本国への帰還」という意味で使われている用語に疑問を呈する。
「『リパトリエーション(repatriation)』は、ラテン語の故国(パトリア)に戻るという概念です」とアインシュポーン氏は言う。
「故郷の国そのものが変化することは考慮されていません。実際には、母国は変わるのです」

アインシュポーン氏は自身の研究で、帰還者が母国での生活にスムーズに移行するには、政治的・経済的な力を得ることが欠かせないと結んでいる。
しかし、多様性のある国を建設する計画は、ボスニアの地域レベルでは具体化していない。
「内戦は凍りついた状態で、克服されたとはまだ言えません」とアインシュポーン氏。
内戦後の統合の必要性は、イラクやシリアといった地域でも取り組むべき課題だろうと彼は言う。
氏は現在、国際協力NGO「CARE」の一員としてイラクで活動している。

しかし、故郷へ戻って暮らせない人々にとっても、訪問で古い傷が癒えることがある。
母親の村を再訪したスレイマン・ビエディッチさんは、アブドゥラ・ボシュチェロさんというという老人に出会った。
ボシュチェロさんは、この若い写真家の求めるものを直感的に理解してくれた。
彼が危篤になった時、家族は病院に連れて行こうとした。
その度にボシュチェロさんは拒み、こう言うのだった。「ここからは墓へ行くだけ」

土地へのこうした愛着が、ビエディッチさんの心に響き渡った。
「生まれた場所と直に接触を持てなくなり、外国で育つのは、誰にとっても容易ではありません」と彼は言う。
「自分の足元にしっかりした土台がないようなものです」。
その土台を取り戻し、母国への誇りを認識する手助けをしてくれたのが、老いた友のボシュチェロさんだった。
ビエディッチさんは彼の言葉「Odavle Samo U Harem」を、撮影プロジェクトのタイトルにした。

「戦争は兵士が銃撃をやめた日に終わるのではありません」とビエディッチさんは言う。
「多くの人にとって、それは始まりに過ぎません。彼らは戦争が残したものを一生、あるいは数世代にわたって背負って行かなければならないからです」


 

(Nina Strochlic、訳・高野夏美)

これは、もう罪。

この美味しさは、もう罪だと思う。

しまなみ海道への道中、石鎚山SAで買った愛媛ブランド『紅(べに)まどんな』。
このSAのマルシェでは、季節ごとのみかん生しぼりジュースを楽しめるので、よく立ち寄る。
そして少し割高にはなるだろうが、ここで買うみかんはいつも満足できる美味しさでおススメだ。


この時期、近ごろは当然のこと紅まどんながずらりと並ぶ。
「樹になるゼリー」と評される紅まどんなはオレンジ色の見た目も美しい。


マルシェを一巡しながらも目はを追う私に気づいたのか、店員さんが声を掛けて来る。

「私も柑橘類で一番紅まどんなが好きです。」


「贈答用なら紅まどんながよろしいかと思いますが、ご自宅用でしたら媛まどんなで十分ですよ。」

「でも、は外れもあるんですよね。」


紅まどんな』には同品種に『媛まどんな』がある。

以前私はこの店で、はJA全農えひめが扱っている商品で 一定の品質基準をクリアした外れのないもの、の方は当たり外れがたまにあると教わっていた。

「確かに、紅まどんなは厳しいチェックに合格したものばかりなので間違いはないですが、の方も美味しいのを見分けるコツがあるんですよ。」

「触ってみて、なるべく柔らかいのを選んでください。」

お店の方が持ってきてくれた、少しぷよぷよ感のある媛まどんなを手に取った。

「これは熟して柔らかいわけではないんです。」
「このは決してに負けない味だと思います。」

一個1000円近くはする紅まどんなと比べると低価格で迷いなく手を出しやすい。
私は手にその感触を覚えようとした。


「じゃあ、媛まどんなを・・・」
と私がレジに向かおうとしたとき、「どちらもください」と背後に母。

「そんなにいっぱい買ってどうするの?」
「美味しいんだから、両方買ったらいいじゃない。」

「この時期なら、常温で2週間くらいはもちますから」と、店員さんも母を後押し。




これは、もう罪



しかし、美味しい。
ほんと、この美味しさは、もう罪じゃないかと思ってしまう。

好き好きだろうが、私は『まどんな』を食べてしまうと、昔大好きだった『せとか』をはじめ、どのみかんも残念に感じてしまう。


そして、愛媛県人のみかんに対するプライドに、毎度感服する瞬間。

日本総鎮守参詣

三年連続、古代より日本総鎮守と尊称される大山祇神社を参詣。


日本総鎮守参詣


御祭神は大山積大神。
風光明媚なしまなみ海道の真ん中、ここ愛媛県は大三島に鎮座したのは推古天皇二年、594年と伝えられている。

大山積大神は山の神であり、海の神、産土の神。
全国にある大山積神(大山祇神)を祀る神社の総本宮でもある。


朝廷より日本総鎮守を下賜され、天皇や多くの武将がこぞって宝物を奉納するような由緒ある神社が何故このような瀬戸内の小島にあるのかは学者さん達に任せることとして、日本の古い歴史に想いを馳せここに立つとき、なるほどなと思はざるを得ないのも確か。


日本総鎮守参詣


神社の周りには国の天然記念物に指定されているクスノキ群があり、樹齢2600年の御神木をはじめ、日本最古の楠「能因法師雨乞の楠」は伝承樹齢3000年といわれている。

日本総鎮守参詣

日本総鎮守参詣

残念ながら雨乞の楠は現在枯死しているのだが、まるで彫刻のような美しさで、私は何度出会っても感動する。
日本の総氏神さまにふさわしい老木に、身の引き締まる思いと安らぎとの両方の思いを抱いてしまう。
そして、私にとって大山積大神さまを身近に感じられる場所でもある。

大山積大神は霊峰富士の御山に鎮座するコノハナサクヤヒメの父神にあたる。
昨年、富士山と縁のある一年になったのも初詣にここ大山祇神社を参詣したおかげかもしれない、とふと思った。
ならば、今年もと思ってみたり。
もう一度富士山を訪れる機会があればその時は、コノハナサクヤヒメを祀る富士山本宮浅間大社にも足を運んでみたい、そんなことを思いながらの帰り道となった。


日本総鎮守参詣

日本総鎮守参詣


そして、大三島に来たらやっぱりこれでしょ。
神島(みしま)まんじゅう。
出来立てをホクホクと戴く幸せ。
お店の方は村上水軍の末裔なのか?、店の名に気づいたのも帰り道。
次回、尋ねてみようと思っている。


皆さま、あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い申し上げます。

明日は七草がゆの日ですね。

2017年。

今年は富士山に裁判員にと、思い返せば様々な景色が浮かんでくるが、この大晦日に思うのは気持ちよく12月を過ごせたこと。

年初、私は「年末大掃除をしないぞ!」との目標を立て、毎日こまめに掃除をしてきた。

そのきっかけとなったのは、数年前の9月、友人の奥さんがアップしたFacebookの記事だった。
「年末の寒くて気ぜわしい時に大掃除って馬鹿らしいわと気づいてからというもの、我が家の大掃除は春と秋の二回。扇風機とストーブを片付けるタイミングで」

なるほど、よく考えれば年の瀬はなにかと急用が入ったり、天気も不安定だったり。
冷たさや気ぜわしさで掃除が雑になることもしばしば。


なによりバタバタと駆け込み新年というのも神様に対して失礼なんじゃないかと気づいた次第。



遠方で暮らす友人の言葉にもハッとさせられた。
「今月は来年の準備に勤しむことにします」


そうなんだ、12月は新しい年を迎えるにあたり、すべてを整える月なんだ。

迎えるということ。



今月頭には面倒な場所はほとんど掃除が終っており、おかげで段取りよく年賀状も15日に投函済だ。

師走ってこんなに長かったのかなという感じ。


こんなふうに、2017年はよく掃除をした年だった。
長年気になっていた箇所も整い、準備完了。
来たる年はまた何か新しいスタートを切れるような気がする。


室生寺に呼ばれて


今月5日、奈良県は室生寺を旅した。
女人高野とも呼ばれる室生寺の五重塔の西側に如意山という山がある。
弘法大師が恵果阿闍梨より授かった如意宝珠を、この山の頂上に埋めたという伝承が残っているそうだ。
如意宝珠とは如意輪観音が持っている、あらゆる願い事を叶えてくれるありがたい玉。
昭和21年に実施された如意山頂上の石造納経塔の調査の際、実際に琥珀玉や巻物、当時の貨幣などが見つかっているという。

明日の予定で、

上野動物園のジャイアントパンダ「シンシン」と「シャンシャン」の観覧申込をした。
当たったら困るなあと思いながら。笑

東京までは新幹線かなあ、
夜行バスもありかなあ、
迷子になるから川崎に住む親友に連絡しようか、
でもやっぱり予算オーバーかなあ、

などと一人勝手に考えていた。


だが、結果はもちろんのこと落選。
残念な反面、ホッとしている。
ならばなぜ、私は観覧申込なんぞしてみたのだろうか。
自分でもわからない。



職場のデイサービスのレク用に「シャンシャン袋」。
ふと思いついて試作品を作ってみたが、超簡単なわりに思いのほか完成度の高いものができたと自負している。
袋を振ると、鈴が「シャンシャン」と鳴るのが自慢。

明日の予定で


今年最後の紅葉狩り。

2017年、今年最後の紅葉狩り

先月は本栖湖より千円札裏面の富士山を拝んできたので、今日は10円玉表面へ。

宇治の平等院鳳凰堂。

10円玉、10円玉と思っていたら、一万円札の裏面に描かれているのだって平等院の鳳凰像であるし、二千円札裏面はここ宇治も舞台になっている源氏物語絵巻と紫式部の絵柄である。

と、別に貨幣柄を追っているわけではなく、今年最後の紅葉狩りに奈良を訪れ、その帰りに京都へも立ち寄った次第。
奈良から四国への帰り、交通量が多く走りにくい阪奈道路を避けるのに京滋バイパスが頭に浮かんだのだ。
京滋バイパスは名神高速より南を走るため、京都市内ではなく宇治の平等院へ行こうということになった。

2017年、今年最後の紅葉狩り

2017年、今年最後の紅葉狩り


平等院にはこれまで一度だけ訪れたことがあった。
大学入試の二次試験の帰りだったと記憶しているので、もう20年以上昔のことになる。
もちろん世界遺産に登録される前の話であるから入園者もそう多くなく、まして外国人の観光客には全く会わなかったように思う。
鳳凰堂内部に入るのだって当時は入園料だけで良かったような気がするが、今は別料金の上、解説付きの団体行動にまごついてしまった。

過去の記憶が美化されているのかもしれないが、昔の鳳凰堂の方がしっとりしていたなあと残念に思った。

2017年、今年最後の紅葉狩り


それでも、本尊の阿弥陀如来坐像と雲中供養菩薩像を目の前にすると「ほお~」とため息が出てしまう。

阿弥陀像は平安時代の仏師・定朝の作であることはうろ覚えながら頭に残っていたのだが、彼の作と確実に言い切れるものはこの本尊のみということを初めて知った。
定朝が完成させた寄木造りのまさに頂点のような作品。
その柔らかさは、実に極楽浄土をイメージするのに相応しい阿弥陀様のように感じた。


2017年、今年最後の紅葉狩り

こうして今年最後の紅葉狩りは、平等院の阿弥陀様のお顔のような柔らかい色合いで締めくくることとなった。

今年は。

「富士山を間近で見るぞ!」と心に誓い、4月四国から山梨まで車を走らせた。
そこには確かに日本一の富士山が鎮座ましましてはいたが、首の周りに白いストールを巻いていたり、イングリッド・バーグマン張りにお洒落に帽子を被ったりと、すっきり全貌を拝むことはできなかった。

そこで8月、再び東へ車を走らせる。
私としては、これまでは縁もゆかりもない山梨が一気に身近になっていく。
葡萄も買った、葡萄ジュースも買った、信玄餅も買った。
そして夕暮れ時には雲も晴れ、ほんのり赤く染まった美しい富士の御山を拝むことができたのだった。

大満足してのその帰り、立ち寄った奥飛騨での定宿のおかみさんに、「次は雲のない雪を被った富士山を見たくなるから」と告げられる。
その暗示にかかったかのごとく、3ヶ月後に今年三度目の山梨行きを決行することになろうとは自分でも振り返り可笑しくなる。

片道600kmは優にあるだろうか。
軽自動車でそう簡単にブンブン行ける距離ではない。
だが私は5日前、すでに富士山を見るための定宿になりつつある鳴沢村のペンションに泊まっていたのだった。


今年は
2017-11-24 8:45 田貫湖畔(静岡県富士宮市)


「富士五湖というけれど、実はもうひとつ湖が静岡側にあるんだよ。」
「田貫湖っていうんだけど、そこからの富士山も綺麗だから一度行ってごらん。」

一気に山梨まで走った春夏とは違い、今回は朝一番田貫湖到着を目指して四国を出た。


今年は
2017-11-24 9:15 田貫湖


初冬の空気は冷たく澄んで、富士山をくっきり浮かび上がらせる。

こんなに迫力ある存在感のある山だったんだ。
淡くほわんと目の前にあった夏の富士山からは別人のような力強さを感じた。

圧倒された。


今年は
2017-11-24 9:25 田貫湖畔

今年は
2017-11-24 13:25 河口湖畔(山梨県富士河口湖町)

今年は
2017-11-24 15:00 本栖湖(山梨県身延町)

今年は
2017-11-24 16:55 ペンションより(山梨県鳴沢村)


今年の富士の初冠雪は例年より遅く、しかも10月下旬には台風のせいで一度雪が溶けてしまうことがあった。
まさか11月下旬まで雪のない富士山はないだろうと思っていたが、いかにも前髪をぱっつんと切ったかのような雪の被り方も好みではない。

どうだろう、私の思い描く姿を富士山は見せてくれるのだろうか。


天候はたぶん大丈夫だろう。
だが、直前の急な冷え込みにもスタットレスタイヤを持たない私は微かな不安を抱いていた。

今年は
2017-11-25 6:15 ペンションより

今年は
2017-11-25 6:45 ペンションより


そして予報通り、天気は快晴。
しかも道中思うほど冷え込みもなく、富士山4合目まで難なく愛車で走ることができたのだった。


「最近まで富士山の雪は少なかったんですが3日前の夜に雪が降りまして、そうですねえ、今の富士山はひとつき先の景色ですね。」
ペンションのご主人は、例年なら12月上旬まではお椀をかぶせたような雪の被り方だと教えてくれた。
本来なら、私の好まない前髪ぱっつんの富士山だったのだ。


今年は
2017-11-25 9:05 ペンションより


運がいい。


今年は
2017-11-25 9:55 本栖湖

今年は
2017-11-25 10:05 本栖湖

今年は
2017-11-25 10:05 本栖湖

今年は
2017-11-25 10:10 本栖湖

今年は
2017-11-25 10:35 朝霧高原(静岡県富士宮市)

今年は
2017-11-25 11:05 白糸の滝(静岡県富士宮市)


どんな姿であろうとも富士山は別格だと私は思う。
いつまでもどこまでも見飽きることなく見続けられる。
次はどんな表情を見せてくれるのだろうか、目が離せない。

けれど今回、これほどまでに神々しい姿を見せてくれるとは。
富士山に感謝することしきりである。

2017年、いい一年の締めくくりになった。


長雨のひとやすみ。

長雨のひとやすみ


今年5月に「開運!なんでも鑑定団」で本物と認められた伊藤若冲の掛け軸を、丸亀城城郭内にある資料館で現在見ることができる。

双幅【鶏図】という。


本日、しとしとと数日前より続く雨の下、私も若冲を訪ねてみた。

若冲といえば、奇抜なほどの色鮮やかな鶏の絵を思い浮かべる人が多いのだろうか。
私も漠然とそんな印象を持っていた。

ただ、昨今の若冲人気のおかげでそれを知り得たくらい、私は彼の絵を全く知らない。
これまで唯一目にした本物が、金刀比羅宮(こんぴらさん)奥書院の障壁画「花丸図」であり、今日出会う作品が私にとって若冲の鶏第一号となる。

なので偉そうに若冲を語ることはできないのだが、ちょっとブログに残そうと思った。



あらかじめ掛け軸の写真を見て水墨画ということはわかっていたが、派手さのない若冲に一瞬戸惑った。
正直、「ふん」というのが第一印象だったのだが、じーっと眺めているうち味が出てくる。

まあ、「これは若冲が描いたものだよ」と聞かされているからかもしれないが、さすが若冲、面白い絵を描くなと思った。
墨の濃淡もいいが、絵に勢いがあった。
鶏の顔もひょうきんでいい。頭に残る。


若冲は鶏を描くにあたり、自身で鶏を飼い、一年ひたすら深く観察し、続く二年は写生を続ける修練を積んだという。

若冲研究者の第一人者である狩野博幸さんによると、「菊のこの描き方は若冲にしかできず、鶏も若冲がよく使う表情をしており、雄鳥と雌鳥の目線を意識的に合わせている」とのこと。
やはり「ふーん」程度にしかわからない私だが、この絵、好きだなと思う。



この鶏は、瀬戸内海に浮かぶ本島(香川県丸亀市)のある町家にあった。
現在所有している方の父親が海運業を営んでいた50年ほど前に、木材の運賃代わりに材木商から渡されたものらしい。

なので保存状態は完璧とは言えないのだが、対で残っていたのは幸運だろう。

もともと本島を中心とする塩飽(しわく)諸島は、昔水軍で栄えた場所。
江戸時代には船大工の技術を生かし家大工や宮大工として活躍していた彼らの裕福さは、島を訪れると今も残る古い町並みからもよくわかる。
この鶏と塩飽水軍に関わりはないだろうが、塩飽大工によって建てられた立派な民家から見つかったことは大いに頷ける。



資料館をでると冷たい雨はやんでおり、長雨はひとまずお休みということか。

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