I love Salzburg

旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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富士は裾野。

もうひと月になる。
愛犬2匹を連れて母と2泊3日の旅に出掛けた。

私の運転ではこれまでで最も遠出となる『飛騨・信州・甲州の旅』。
終わってみると、3日間で1585kmも走っていた。


飛騨の目的は『奥飛騨温泉』。
2年半前に利用した宿がとても気に入って、今回で四度目の訪問となる。
これまで松茸の美味しい秋口に行くことが多かったのだが、宿の奥さんが「次はぜひ4月においでください。この辺りで採れた野草の天ぷらがとても美味しいから、せめてGWまでに来ていただけるとご馳走できますよ」と教えてくれていたこともあって旅程に入れた。

そして、本命の行き先というのが『富士山』だった。
それは決して登るのではなく見上げるだけの為だ。
これまで高速道路のSAだったり新幹線や飛行機からだったりと、一応富士の御山を見たことはあるが、そうじゃなく一つの場所で心ゆくまでのんびり眺めていたいと思ったのだった。
その思いが去年の暮れ頃から段々と大きくなって、もう行くしかない!と立ち上がった。

それは山梨側からの富士山。
そうなると、奥飛騨から山梨までの道筋には信州の松本があり、母の好きな松本城も外せない。
お城の近くの中町通りにあるお気に入りの佃煮屋『やまへい』さんにも立ち寄ろう。
そうやってどんどん行程ができあがった。


ところが、天気予報では三日間のうち二日があいにくの雨。
しかも、富士山麓に滞在する日に限って天気が悪いという予報だった。

私はその口惜しさを奥飛騨温泉で泊まった宿の奥さんに零してみた。
宿を経営するご夫婦は横浜にも家があり、富士山周辺についても非常に詳しい。

奥さんは、「じゃあ、裾野を見てきたらいいわ。遠くの方は富士山の裾野を知らないでしょ」と言った。

裾野?
その時はなんで裾野?と正直思ったのだが、それは訪れて一番納得したことだった。
奥さんに教えてもらわなければ、悪天候で富士山の全貌を見れないくやしさだけが残ったと思う。
とてもいいアドバイスをもらったことに感謝。

本家本元の富士の裾野を見てしまうと、日本各地の富士山にはもう『富士』の名を使えないなと、地元・讃岐富士を思い浮かべながらそう思った。

それくらい富士の裾野の広さに心打たれたこの旅は、実は開花の遅れた満開の桜も彩を添えてくれた。


そして、今後富士山を見に行くという方には、「それなら裾野を見て来るといいわ」とアドバイスすることに決めている。


9富士山・四季彩にて
ペンションより

9富士山・本栖湖より
本栖湖

13富士山・精進湖より
精進湖

13富士山・西湖より
西湖

5富士山・中央道より
中央道より

2松本城
松本城

1松本にて

15ウルス・奥飛騨温泉郷

21クリス・奥飛騨温泉郷

5臥龍桜
樹齢1100年の臥龍桜(岐阜県高山市)

4せせらぎ街道にて
せせらぎ街道(岐阜県郡上市)



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一人いにしえの旅。(4)

璉珹寺を出たのが16時少し前。
その日午前3時起床の私は、そのまま帰路に就くつもりだった。
それでも帰宅は午後8時を回るだろう。

阪奈道路を目指して奈良市内を走っていると、IC手前で看板に唐招提寺と薬師寺の文字が現れた。


ふとキトラ古墳で出会った女性との会話を思い出す。
「今日はこの後どちらへ?私一人暮らしだから、良かったら泊まっていってもいいのよ。」
「いえ、今日は日帰りの予定なんです。でも、キトラ以外の予定は全く立ててないです。」
「なら、石舞台からすぐのところにある談山神社はどう?中大兄皇子と鎌足が大化の改新の談合をしたところ。」
「そうですねぇ。」
これまでに二度そこを訪れている私はあまり乗り気じゃなかった。

「じゃあ、唐招提寺と薬師寺がいいんじゃない。」
どちらもすでに行ったことがある。
けれど、それは20年以上も前のことだ。
薬師寺は現在、『凍れる音楽』と謳われる東塔が修理中で観れないのが残念だけど、唐招提寺の落ち着いた雰囲気はいいかもしれない、そうちらっとその時思ったのだった。


時計は午後4時を過ぎたところ。
えいっと車を左折した。
そこから唐招提寺まではすぐだった。
大きな駐車場に車を停めて南大門をくぐると、大勢の観光客が引き上げた後のひっそりとした金堂が目に入って来た。

唐招提寺・金堂

唐招提寺


懐かしかった。
大学時代、一週間ほど滞在した奈良はレンタサイクルであちこち巡った。ここもそうだ。
この南大門の先に見える金堂の外観は有名すぎて、それでも昔から好きなお寺だったなと、しばらく立ち止まってその景色と向き合った。

唐招提寺・金堂2

そこに立つ盧舎那仏と薬師如来像、そして千手観音像の迫力は言葉にならないほどだった。
作は奈良時代。
改めてすごいなと感心した。

たぶん、22歳の私はそれらに圧倒されすぎて、それ以外は見ずに帰ってしまったか、それともそれ以外の記憶は全く飛んでしまったか。


私は受付でもらったリーフレットを見て、ぐるり境内を一巡することにした。
拝観時間は残り40分しかない。

唐招提寺・鼓楼

講堂と鼓楼を見て、礼堂・東宝の横を通って開山堂へ。

開山堂には鑑真和上の御身代わり像が祀られている。
有名な国宝の像は毎年6月5、6、7日の3日間のみ開扉され、それ以外は御身代わり像を参拝してもらおうとつくられたらしい。
それは本物を模造して、当初のお姿を再現しようとしたものだ。
しかし私は、その像に心を打たれることはなかった。

御身代わり像に手を合わす人たちをするりと抜け、私は鑑真和上御廟に向かうことにした。

唐招提寺・鑑真和上御廟

唐招提寺・鑑真和上御廟2

5人の団体にガイドさんが一人、先客がいた。
何食わぬ顔でガイドさんの話に耳を傾ける。

「当時、お坊さんの墓を建てることはなかったんです。像を作ることもなかった。なので、絶対とは言い切れませんが、これは日本で初めてのお坊さんのお墓ということになります。」

「そして、この細い木をご覧ください。これは瓊花(けいか)という木なんです。瓊花は鑑真和上の故郷、唐の揚州にあった花なんですが、ながらく門外不出の花でした。」

唐招提寺・鑑真和上御廟・瓊花2

「昔の皇帝がその花をたいそう気に入って門外不出としたのです。ですが鑑真和上遷化1200年の昭和38年、特別に揚州からいただいたものがこちらに植えられています。」
「花が咲く時期は4月下旬から5月上旬、残念ながらもう終わってしまいました。」

その時、「あそこに見えるのは花ではないですか?」と誰かが言った。
「あれ?ホントですね!普通ならもう終わっているのですが、日当たりが悪くてまだ残っていたのですね。」

唐招提寺・鑑真和上御廟・瓊花

それは紫陽花によく似た花だった。
わずかしか咲いてはいなかったが、それでもその珍しい瓊花を見れたことはツイテるなと思った。


唐招提寺・宝蔵と経蔵(日本最古の校倉造)

そして鑑真和上に手を合わせた後、正倉院よりも古い日本最古の校倉造である経蔵と宝蔵を見て、再び金堂でお参りをし、南大門を目指す。


ここで今回のいにしえの旅は終わった。

やはり、やはり奈良はいい。
時空を超えて再び奈良を訪れよう。


一人いにしえの旅。(3)

先月のこと、行きつけの珈琲屋さんで、特別企画として「仏をたずね、京都・奈良へ」と題した雑誌を目にした。
ちょうど石舞台古墳で花見をした数日後のことで、帰りに拝した飛鳥大仏と中宮寺の菩薩半跏像の余韻からまだ冷めきれていない私は自然とその雑誌に手が伸びた。

そこでふと目に留まったページに、白い女性の美しい阿弥陀如来像が袴を履いて立ってらした。

その像は鎌倉時代作、モデルは光明皇后とある。
女人の裸形という珍しさもあってか、頭の片隅にそれは深く刻み込まれた。


璉珹寺パンフレット


キトラ古墳、高松塚古墳、天武・持統天皇陵と巡った帰り道、せっかく奈良まできているのだから一つくらいお寺参りでもしようかなという気になった。

その時思い出したのが、その女人像だった。

場所は奈良市内、奈良公園の近くにある璉珹寺(れんじょうじ)という小さな寺で、もともとは紀氏の氏寺である紀寺だったところだ。

璉珹寺

雑誌で見かけなければ、きっと足を踏み入れることのなかった場所。
フシギな縁を感じながら門をくぐった。

2人の女性が立ち去ろうとしているところに私が入り、薄暗い本堂の中はお寺の方と私だけという静かな時間になった。
御住職の語られるテープを流していただき、御本尊を見上げる。

写真のお顔よりもうんと柔らかい表情をされていた。
説明にそって仏様の頭を見ると、それはよく見られる丸まった螺髪ではなく綱を巻き上げたようになっており、指と指との間は水かきのような曼網と呼ばれる膜があり、それは一切の衆生を救い上げるという意味なんだとか。

「どうぞ間近に。」
テープが終わるとそのお言葉に従って、手を伸ばせば届く場所でゆっくりとじっくりと拝させていただけた。

本当に華奢で女性らしい美しさ。
金色の袴には細かく様々な図柄が織り込まれている。

その袴は50年に一度お取替えされるのだという。
平素は秘仏とされるこの像は、昔は袴のお取替えを行う時だけ御開扉されていた。
しかし、現在は毎年5月の一箇月間のみ御開扉され拝観することが許されている。

本堂を出たのち奥の部屋へと案内される。

そこには平成10年に取り替えられるまで仏様が召されていた、一つ前の袴がガラスケースの中に納められていた。
その真ん前に座り、説明を受ける。

写真には写っていないが、鶴の模様が沢山入ったその袴をじっくり覗くと、そこには先ほど飛鳥で出会ったばかりの「玄武・朱雀・白虎・青龍」も描かれていた。
白虎はひときわ浮き出る白っぽい糸で織られており、それが袴の印象を明るく見せている。
この絵柄はこの仏様だけのもので、それは昔から変わっていないのだそうだ。


ここでも出会えた四神の絵。
飛鳥の帰りにここに立ち寄ったのも、やはり何かの縁だったのだろうか。

璉珹寺2

お庭を眺めながら琵琶茶で一服していると、「これもご覧くださいな」と一冊の雑誌を持ってきてくれた。
それは創刊40周年記念特大号と書かれた『クロワッサン』という雑誌だった。

「あ、これを見てここに来たんです、私。」



私が席を立った時、また別の見物客が現れた。
一気に押し寄せるのではなく、入れ代わり立ち代わり、ちょうどいいペースで参拝者が続くその場所は、境内にニオイバンマツリやオオヤマレンゲが咲き競う小さな小さな寺だった。

一人いにしえの旅。(2)

「もうこの頃になると防衛やら他のことにお金が必要だったのか、古墳も小さくなっちゃったわね。」
声の主はまた彼女だった。

「ホント、私の町にある地方豪族の古墳の方がまだ大きいくらいです。でも、さすが高貴な方のお墓だけあって中はすごいですよね。」
「この向こうに天武・持統天皇陵があって、この一帯はその血筋の者たちの古墳が集まってるのよね。」
天皇に近い存在ならば、この壁画のように当時時代の最先端だったものが描かれているのも頷ける。
たぶん、優秀な渡来人たちの存在が大きいのだろう。

「鎌倉時代に一度盗掘されてるらしいけど、その後古墳に入ろうとする者はいなかったのかな?」
私が一人呟くと、「たぶん、たぶんだけどね、祟りを恐れて入らなかったんじゃないかしら。」
ということは、鎌倉時代の泥棒はその後不幸な最期を迎えていて、それを祟りととらえて後世まで言い伝えられた、、、彼女の真剣な表情に、なぜかそうなのだと納得させられてしまった。
展示物の中には、その泥棒さんが盗掘時に使った瓦器片も発掘品に並んでいる。

以上、キトラ古墳での話。




「きっと高松塚でも会えるわね。」
そして、キトラ古墳横に建てられら壁画体験館・四神の館の駐車場で別れてから5分後、私たちは高松塚壁画仮設修理施設の前で再会した。

高松塚壁画パンフレット(1)

高松塚壁画パンフレット(2)



予約なしでも見学の許可を戴いた私は、彼女と同じグループで修理室に入ることができた。

そこはキトラのそれと違って、実際に壁画を修理している場所、その場所にずらっと並べられた石室の断片を窓越しに見学するというものだった。

それは博物館のように見せる展示をしておらず、非常に見えにくいという印象を誰しもが持ったと思う。
そして、思うより小さい絵というのが一番の感想だった。

なので手前にあった玄武や青龍、飛鳥美人を描いた女性群像などは比較的よく見えたのだが、少し離れた場所に置かれた男性群像や天文図は全く見ることができなかった。


高松塚古墳2

高松塚古墳

けれどみんな夢中だ。
みんな夢中でガラスに張り付いていた。
だって、あの壁画が、あの飛鳥美人が目の前にあるのだから。

気が遠くなる時を越え、こうして壁画と向き合っているなんて、それぞれにみんな胸に浪漫を抱いているみたいだった。

僅か10分の見学だが、こんなすごいものを無料で観させてもらえることもありがたい。
日本人みんなの宝物なんだなって、じーんとなった。


高松塚古墳3


「たぶんここの埋葬者は忍部ね。」
彼女の解説はまたここから始まる。

「近くに古代米のランチが食べられるお店があるんだけど、一緒にお昼食べない?」

それからもう1時間、私は彼女の古代飛鳥物語を延々聞くことになる。


夢市茶屋


一人いにしえの旅。(1)

ちょうど一週間前、何気なくテレビを付けるとNHKの歴史秘話ヒストリアで高松塚古墳の壁画について取り上げられていた。

高松塚古墳といえば今から45年前、飛鳥美人で有名な鮮やかな色彩の壁画が見つかり、考古学史上まれにみる大発見と騒がれた史跡。
それは遠い記憶の歴史教科書に数多く並ぶ写真の中でもひときわ印象に残っていた。

その高松塚古墳の壁画修理作業室が公開されることを、番組最後に知らされる。
これで17回目、これまでだって公開されることを知らないわけではなかったが公開時期に間に合ったのは初めてのこと。
私は早速文化庁のホームページを開いてみた。
しかし期間中の応募定員はすべて満員、この番組で応募した人も多いだろうが、その競争に負けてしまった。

けれど未練がましく探していると、「キトラ古墳」の文字が目に入る。
キトラ古墳も一時期話題になった考古学ファン憧れの場所。
その石室内からも壁画が発見されており、今のところ壁画の残る古墳は国内ではキトラと高松塚しか見つかっていない。
そして、そこでも壁画公開が行われているという情報を目にすることができたのだった。



5月16日、私は先月も訪れた奈良は明日香村へと車を飛ばす。
応募したキトラ古墳の壁画見学の参加証が届いたのだ。
急きょ決まったことで、前もっての知識は全くないが気にしない。

それは訪れて知ったこと、キトラも高松塚に勝るとも劣らない壁画が存在したということだ。
高松塚と同じ、四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)が描かれており、その姿もほとんど同時期のものゆえかよく似ている。
残念なことは、どちらの古墳も鎌倉時代に盗掘を受け南壁に盗掘孔があけられており、そのせいで高松塚の朱雀は残っていないのだが奇跡的にキトラのものは助かった。

そして高松塚においては石棺を囲むようにある女性群像などの代わりにキトラには十二支が描かれ、頭上には現存する世界最古の科学的な天文図が広がっている。
ちなみに高松塚の天文図は略式のものだ。


今回はその中の青龍と十二支の寅のみの公開であったが、内心鳥肌が立つほどの興奮であった。
有名な高松塚が見れないのは惜しいけれど、実はキトラの方が凄いんじゃないか、、、そう思いながら目の前の壁画に見入っていた。

壁画は現在、そのままにしておけばやがて崩れてしまう極端なもろさであるために石室内より取り外されている。


キトラ古墳壁画パンフレット(1)

キトラ古墳壁画パンフレット(2)



「私は高市だと思う。」
急に声がして振り向くと、隣りに立つ年配の女性が私に向かってそう呟いた。

この古墳の埋葬者が誰なのか断定はできないが、様々な説の中から天武天皇の第一皇子で太政大臣にまでなった高市皇子だろうと彼女は言う。
私も高市だといいなと思っていたので、素直に彼女の話に耳を傾けていた。

「高松塚とキトラは兄弟。」
古墳自体も類似点が多いが、高松塚の埋葬者も天武天皇の皇子である忍部皇子が最有力候補とされている。

「あなた、高松塚壁画も見に行くんでしょ?」
「いえ、応募するにも満員で無理だったんです。」
「大丈夫よ。当日必ずキャンセルが出るから行ってみなさい。」

彼女に出会わなければキトラの壁画だけで満足していたかもしれない。
私は壁画見学後、キトラ古墳を見てから高松塚壁画にも足を延ばしてみることに決めた。

「キトラは本当に可愛い古墳よ。」

こんもりと小さく盛られたその古墳は、まさか内部にこれほどまでの宝物が埋もれていたのか信じられないほどひっそりと存在していた。

長い長い時間、ここで埋葬者と共にそれらは眠りから覚めるのを静かに待っていたのだろうか。
私はしばし古墳の前に立ちすくんでいた。


キトラ古墳

キトラ古墳2