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旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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ノーベル賞授賞式に参加して④・・・香川高専詫間専攻科2年春日貴章(四国新聞)

④ 大隅先生と対面 <「仲間大切に」と助言>

2016年ノーベル生理学・医学賞受賞者である東京工業大学の大隅良典栄誉教授とは、日本大使館主催のレセプションで直接お話しさせていただくことができた。
私は非常に緊張していたが、実際に話してみると気さくでおおらかな方であるように感じた。
「それぞれ一つずつアドバイスを頂けますか」というお願いにも快く応じてもらった。

前日の記念講演や報道の内容から、大隅先生が共同研究者の方々を大切になさっているように感じていたため、「特にチームで研究を行う上で気を付ける点はありますか」と質問したところ、「若いうちから仲間を見つけて、大切にすること」というアドバイスを受けた。
自分なりの解釈ではあるが、損得抜きに助け合える仲間は貴重であり、年齢を重ねると見つけにくいという意味も込められているように感じた。

もう一人の日本人参加者で京都大学大学院の松本明宏さんの「良い研究テーマとはどのようなものでしょうか」という質問に対しては、「目先の結果だけでなく、5年、10年先を見据えたテーマを考えることが大切」と助言されていた。

ストックホルム国際青年科学セミナー(SIYSS)ではノーベルレセプション、授賞式、晩さん会などに参加した。
どれも華々しく、きらびやかなシーンが印象に残っている。
私は現在、工業を志していることもあり、今後ノーベル賞を強く意識することはあまりないかもしれない。
それでも地道に研究に取り組んだ結果がいつか報われるという瞬間をこの目で見られたことは、研究に対する大きなモチベーションになった。
日頃から視野を広く持つよう意識していたが、より広い範囲にアンテナを張り、仲間を大切にして協力しながら研究にまい進したいと、強く思わされた8日間だった。

今春からは大学院に進学し、新しい分野で研究活動を続けていく。
研究分野を変えることもあり、これから多くの困難や挫折が待っていると考えられるが、今回のセミナーやこれまでの活動を通して得てきた経験を糧に、一歩ずつ地道に取り組みたい。
そして、これまで支援していただいた地元香川、ひいては日本に少しでも貢献できるような成果を上げることが将来的な目標である。
=おわり=

ノーベル賞授賞式4





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ノーベル賞授賞式に参加して③・・・香川高専詫間専攻科2年春日貴章(四国新聞)

③ 華やかな舞台 <羽織はかま姿で参加>

ノーベル賞授賞式と晩さん会は、普段の生活からかけ離れた華やかな舞台だった。
目の前にある光景なのに、どこか現実感が湧いてこなかった。
ただ、テレビや新聞でしか見ることがなかった場面に立ち会っているのだという思いで、胸がいっぱいになった。

当日のドレスコードはタキシードもしくは伝統衣装となっており、せっかくの機会だと思い、私は紋付き羽織はかまで参加した。

授賞式では、ステージを正面から見下ろせる2階席という素晴らしい場所に座ることができ、生演奏をする楽団やスウェーデン王室の方々、そしてノーベル賞授賞者の皆さんの様子がよく見えた。
生理学・医学賞を受賞した東京工業大学栄誉教授の大隅良典先生へのメダル授与の瞬間も間近で見ることができ、同じ日本人として誇らしく、純粋にうれしかった。

晩さん会では1千人規模の招待客やテーブルの上に並べられた光り輝くカトラリー(ナイフやフォークなど)、天井に映し出された幻想的な映像など、会場の雰囲気をよく眺めることができた。
晩さん会は約4時間続き、前菜、主菜、デザート、各種アルコールといったメニューに加えて、楽器を用いたオペラ風のショーも楽しめた。
料理はどれもおいしく、これまで食べたことのないような凝ったものばかりだった。

当日の2日前に初めて習った拙いテーブルマナーだったが、会場の雰囲気が素晴らしく、そんなことが気にならないほど楽しい時間を味わえた。

この後は会場の2階に上がり舞踏会が始まった。
はかま姿だったため不安もあったのだが、一度だけ踊った。
これも2日前に基本だけ習った。
そんな状態だったので、とてもうまく踊れたとは言えないが、ダンスの輪の中に入って、パートナーと体を左右に揺らしているだけでも舞踏会の空気感を楽しめた。

また、羽織はかま姿は他の招待客やストックホルム国際青年科学セミナー(SIYSS)参加者から見ても珍しかったらしく、「一緒に写真を撮ってほしい」とお願いされたり、服装について褒められたりすることも何度かあった。
現地まで持っていき、一人で着付けするのは大変だったが、そのかいは十分にあった。

ノーベル賞授賞式3




ノーベル賞授賞式に参加して②・・・香川高専詫間専攻科2年春日貴章(四国新聞)

② 世界の若き科学者 <積極性を見習うべき>

ストックホルム国際青年科学セミナー(SIYSS)のスケジュールは濃密の一言。
朝7時から夜11時までみっちり予定が詰まっている日もあった。
アメリカ、中国、イスラエル、南アフリカといった18カ国24人の参加者、コーディネーターを兼ねた現地大学生と8日間を共に過ごした。

選考過程や人数は国によって異なっており、例えばアメリカでは全国規模の科学コンテストの入賞者4人程度が参加の機会を得ることができ、日本では国際科学技術財団(東京)による選考を経て派遣される。
共通としているのは、18歳から24歳までという点と、全員それぞれ独自の研究テーマを持っている点であり、医学、薬学、流体力学、電子工学、さらに植物学まで、幅広い分野の研究を行っていた。

参加者同士の話題は多岐にわたった。
文化の紹介や、米大統領選、イギリスEU離脱などの世界情勢、そしてもちろん、それぞれの研究に関する説明や議論もあった。
自身の放射線の遮蔽(しゃへい)方法学習教材に関しても多くの指摘があり、そして現在の福島の状況を問われるなど、興味を持ってもらうことができた。

自分よりも数歳若い他の参加者と交流していく中で最も気になったのは、18歳や19歳という年齢でどうやって研究活動に取り組めたのか、という点だった。
数学や物理といった理論の世界では、特別な設備なしに研究を行うことが可能かもしれないが、化学や薬学といった世界ではどうじても専門設備が欠かせない。
聞いてみると、高校1、2年のころから自分で大学の研究室にお願いして設備を貸してもらっていた、という人が複数いた。
自分も低学年の時から、ものづくりコンテストなどに積極的に取り組んでいるつもりだったが、当時の自分に大学の教授に直談判するという発想も度胸もなく、そういった積極性や主体的に物事に取り組む姿勢には、見習うべき点が多いように感じた。

交流は非常に刺激的だった。
自分の専門外の事柄であっても貪欲に知識や経験を吸収しようとする姿勢からは、多くのことを考えさせられた。
自身の研究をキラキラした目で語る彼らは学生という枠を超えて、立派な一人の若手研究者であるように感じた。

ノーベル賞授賞式2



ノーベル賞授賞式に参加して①・・・香川高専詫間専攻科2年春日貴章(四国新聞)

① 派遣決定 <福島原発事故が契機>

昨年12月4日から12日にかけて開催されたスウェーデンのストックホルム国際青年科学セミナー(SIYSS)へ思いがけず参加することがかなった。
世界各国から厳しい選考をくぐり抜けた若手研究者が一堂に集い、倫理セミナーと呼ばれる議論や1千人規模の現地高校生に向けた研究発表、そして授賞式や晩さん会をはじめとしたノーベル賞関連行事にも参加できる貴重な機会である。
これまでの人生で最も濃厚だった8日間を終えて、得たものは非常に大きい。

SIYSSは現地での研究発表がセミナー全体の大きな部分を占めており、参加者は自身の研究テーマを持ち、現地で研究の成果を分かりやすく発表することが求められる。
私は研究テーマである、放射線をどうすれば止めることができるのかを学ぶための教材「放射線の遮蔽(しゃへい)方法学習教材」を応募用紙に記した。

放射線や原子力の世界との出合いは、2011年3月までさかのぼる。
当時香川高専の本科2年生だった私は、現在の指導教官でもある天造秀樹准教授からの誘いを受け、3月6日から12日までの日程で、新潟県の柏崎刈羽原子力発電所近郊のBWR運転訓練センターでの研修に参加した。
いわゆる「安全神話」がまだ信じられていた。
私は人一倍好奇心が強く、「もしも想定している安全装置や緊急冷却システムが全て機能しなかったときはどうなるのか」といった質問を行ったが、講師の方からは「そのような事態が発生することは考えられないし、予算の関係で全ての状況に備えるのには限界がある」という説明しか受けることはできなかった。

3月11日、東日本大震災の影響で福島第1原発事故が発生した。
1週間という短期間に起きた劇的な展開は、自身の考え方に強烈なインパクトを与えた。
特に、科学を志す以上「絶対」という言葉は慎重に使わなければならないこと、そして、「安全神話」の崩壊と震災後に出回った放射線に関する数々のデマを目の当たりにして、良いイメージにせよ悪いイメージにせよ、正しい知識を持って事実を受け入れ、世論やイメージに流されず、自分の頭で考えて備えることが大切だと感じるようになった。
そこで私は、拡張現実(AR)と放射線シミュレーションを組み合わせ、放射線を「目で見て」直感的に学ぶことができる教材の開発を始めたのだった。

国内からSIYSSへの派遣が許されるのは、毎年2人の狭き難関と知っていた。
過去の参加者を見ても東大や京大の方が多く、高専生の派遣は前例がない。
正直、自分が参加できるとは夢にも思っていなかった。
ただ、応募しても失うものはなく、将来的に後輩が応募する時に今回の経験が少しでも助けになればという思いだった。

面接審査後、紙1枚しか入っていないような薄い封筒が自宅に届いた。
私が不在のため代わりに受け取った母は落選したと思ったらしく、気を使ってしばらく封筒が届いたことを伝えてくれなかった。
数日後、机の上に置いてあった封筒を見つけた私が封を開けてみると、「派遣決定」の文字が目に飛び込んできた。

ノーベル賞授賞式





ヨーロッパの「静かな崩壊」が始まった!(現代ビジネス)

受け入れ側の疲労は限界に達している。

現在、ドイツに続々と到着している難民は、オーストリアからドイツのバイエルン州に入る。
オーストリアが、スロベニアから自国に到着した難民を、せっせとバスで運んでくるのだ。

国境には公式の通過地点が5ヵ所定められており、9月と10月だけで、到着した難民は31万8000人。
つまり人口1260万人のバイエルン州には、2ヵ月間、毎日平均5000人がやって来た勘定になる。

受け入れ側の警察、役人、ボランティアは、文字通り休みなしだ。
難民の身分証明書をスキャンし、指紋を登録し、健康チェックをし、食事を与え、仮眠所で休息させているうちに、次のバスが到着する。

ベッドが足りなくなると、数時間仮眠した人たちを起こして、チャーターしたバスに乗せ、他州に振り分ける。世
話をする人たちは、難民が到着すれば、どんなにくたびれていても放っておくわけにはいかない。

オーストリアからのバスは、しばしば深夜に、それも予告なしに、何百人もの難民を国境に置いていった。
そして、このやり方がドイツとオーストリアの間に緊張をもたらし、10月末、デ・メジエール内相が「了解できない」と強く非難した。

それに対してオーストリアのミクルライトナー内相は「ドイツは、難民を他のEU国に戻さないと宣言した唯一のEU国だ。それによって、難民の数が爆発的に増えた」と反論。
問題がここまで混乱したのは、ドイツのせいだと言わんばかりだった。

ただ、口には出さなくても、そう感じている国は、実は他にも多い。

しかし、国境で難民の怒涛の中に身を置いている警官や役人やボランティアにしてみれば、このような責任の擦りつけあいは机上の空論でしかない。

深夜の寒さの中、戸外で何時間も待たせれば、赤ん坊や年寄りは弱る。
下手をすると死んでしまうかもしれない。
だから、クタクタになってようやく帰宅した職員のところに、「また500人到着した。すぐに出動して欲しい」というようなSOSが入ることも珍しくないらしい。
彼らの疲労は限界に達している。


ダブリン協定を壊したメルケル首相の「人道主義」。

EUの難民政策を定めているダブリン協定によれば、本来、難民はEU圏に入ったら、その最初の国で難民申請をしなければならない。
そして、その最初の国が登録やら衣食住の世話など、初期対応を引き受けることになっている。

もちろん、不公平な協定だ。
しかし、この協定ができた頃は、まさかアフリカ人が地中海をボロ船で渡って来るとか、アラブ人がギリシャからバルカン半島を北上して来るなどとは、誰も想像もしていなかったのだ。

しかし事情は変わり、現実として、イタリア、ギリシャ、ハンガリーといったEUの外壁になっている国に、想像を絶するほどたくさんの難民が溜まってしまった。
そこで、その惨状を見かねたドイツのメルケル首相が、「ハンガリーから出られなくなっている難民を引き受ける」といったのが9月の初めだ。

また、今までの規則では、難民が他のEU国を通過して来た場合、その国に差し戻してよいという決まりだったが、ドイツはこのとき、難民を追い返すこともしないと宣言した。

これにより、メルケル首相は「人道的」であると賞賛され、ドイツ人自身も束の間ではあったが、自分たちの寛大さに酔った。
そして、これは同時に、ダブリン協定の終焉をも意味した。

ダブリン協定はどのみち無理がある。
だから、それを壊したドイツが、より良い難民対応策を生み出せれば問題はなかった。
しかし現実には、そうはならなかった。

難民で窒息しそうになっていた国々は、「ドイツが受け入れてくれるなら、これ幸い」とばかりに自分たちの国に入ってくる難民をどんどんドイツに移送し始めた。
もとより難民もドイツに行きたいのだから願ったり叶ったりで、難民の数は爆発的に増えた。

ドイツが自分の蒔いた種でパニックに陥るまでに、長い時間はかからなかった。
慌ててオーストリア国境で入国審査を始めたが、しかし、難民の流入はもう止められなかった。

難民の輸送を斡旋する犯罪組織が勢いづき、ゴムボートはひっきりなしにトルコからギリシャへ難民を運び、そこからドイツへと続く道が難民街道となった。
これまで難民で混乱していた国は限定的だったが、以来、多くの国が当事国になってしまった。


EUは静かに崩壊に向かっている。

11月2日、国連のUNHCR(難民高等弁務官事務所)が発表したところによると、地中海経由でEUに入った難民の数は10月だけで21万8000人で、去年一年分よりも多かった。
そしてUNHCRも、この極端な増加を「ドイツの寛大な難民政策のせい」と理由付けた。
ちなみにドイツでの難民申請数は、10月までにすでに80万人を超えた。

難民の波に音を上げたハンガリーは、セルビアとクロアチアとの国境に柵を作り、先月、ついに全国境を閉じた。
オルバン首相曰く、「ハンガリーは傍観者となった」。
ハンガリーを経由できなくなった難民はルートを変更し、セルビアからクロアチア、スロベニア経由でオーストリアへと向かった。

すると、今度はスロベニア、クロアチアがお手上げ状態となった。
流入を防ごうにも、あまりの人数にその手だてがない。入ってきた難民のケアをしつつ、無事通り抜けさせるだけでも大変なことだ。

夜の気温は零下すれすれで、すでに死者も出ている。
まさに惨状である。
クロアチアは今週、難民が仮眠するための暖房付きテント群を突貫工事で作った。

その難民がたどり着くのがオーストリアだ。
オーストリアはすでに多くの難民を受け入れているが、ここに現在、スロベニアから、毎日6500~7000人の難民が到着する。
しかし、これ以上、難民が増え続けると国内の治安が保てなくなるとして、ここへ来て、スロベニアとの国境に柵を作ることを検討し始めた。

もし、オーストリアが入国者を制限すれば、スロベニアもこれ以上難民が自国に入らないよう、軍隊を動員してでもクロアチアとの国境を防衛することになるだろう。

一つ国境が閉じれば、連鎖反応で難民街道はさらに悲惨なことになる。
オーストリアのファイマン首相はすでに、「EUの静かな崩壊」に言及している。


このままではドイツ全体が共倒れになってしまう。

難民問題で意見統一ができないのはEUの国々だけではない。
ドイツ政府は現在3党連立だが、ここでも三つ巴の対立だ。

メルケル首相(CDU)は依然として、政治難民の受け入れ数に上限は作らないと言い張っているが、このままではドイツ全体が共倒れになってしまうと、姉妹党CSUが警鐘を鳴らしている。

CSUはバイエルン州が根城で、難民で一番大きな困難を背負いこんでいるので、その発言には現実味がある。
そのうえ、CSUの意見に賛同する政治家が、メルケル氏のCDUの中にもたくさんいる。

11月1日、両党は8時間の協議の上、
①オーストリアとドイツの国境のところにトランジットゾーンを作り、そこで難民資格のない人間を選り分ける、
②選り分けた人たちを早急に強制送還する、
③ドイツが難民として受け入れる人たちの家族の呼び寄せを2年間凍結する、
という3点で合意を見た。

ところが、このトランジットゾーンのアイデアに、もう一つの連立党であるSPDが猛反対をしているからややこしい。

SPDの主張は、トランジットゾーンは擬似刑務所であり、そんなものを作れば、不法入国に拍車がかかるだけだ、というもの。
ただ、SPDのこの攻撃は、"CDUとCSUの言うことには何が何でも反対"といういつもの悪い癖が出ているだけのようにも見える。

不法入国者は、SPDが心配するまでもなく、確かに多い。
連邦警察の発表では、オーストリアとドイツの国境で、10月26日の1日だけで、1万1154人の密入国者が摘発されたという。


これが21世紀のEUの現実なのか。

ドイツの内憂は他にもある。
国内で台頭する難民排斥の気運だ。

今年になって、難民の宿舎が放火される事件が340件以上あり、最近は、難民が襲撃されて病院に担ぎ込まれるという事件も複数起こっている。
多くの国民は、増え続ける難民に不安を覚えており、メルケル首相の無制限受け入れの方針から、徐々に距離を取り始めている。

難民問題の解決策は、EUレベルでも、各国レベルでも、何も決まっていない。
その目処さえない。
しかし、現実として、今、難民が凍えている。
だから、まずは、彼らが寒さをしのげる場所を作るのが最優先事項だろう。
本格的な冬はこれからだ。

難民救済は、冬将軍の到来との競争となりつつある。
これが21世紀のEUの現実なのである。




(川口マーン惠美)

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