I love Salzburg

旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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マチュピチュ列車は今日も往く。。

*マチュピチュ麓の町、アグアス・カリエンテスにあるジェシーお薦めのレストランにて
ピザがとっても美味しいお店でした。【'02.03.15】


『インカ・マヤ・アステカ展』にはマチュピチュのジオラマが置かれてあります。
ここで、私のすぐ後ろにいた女性二人の話し声が聞こえてきました。

「私がマチュピチュへ行った時、天候が悪くて遺跡に入れなかったんだよね。」
「え~、そんなことってあるの?」
「また行くにしても、簡単には行けないよねぇ~。」

ご存知、マチュピチュは「空中都市」の異名を持ちます。
遺跡に入れないからといって、「じゃあ、遠くから眺めましょうね」、、って訳にはいかないのです。

マチュピチュは、チケットを買って、ゲートをくぐって、そして"くねくね"した山道を登りつめてはじめて、"あの"姿を現します。

地球の裏側まで行ったのに遺跡に入れないという不運なことは非常に稀だと思いますが、
今後行かれる方には余裕のある日程の組み方をお薦めしますね。

クスコからの日帰りはちょっと勿体ないように思います。

* * *

クスコからマチュピチュへ向かう時、
大抵の方は『アウトバゴン』という特急列車を利用することになるでしょう。

『アウトバゴン』には車内販売のサービスもありますし、時にはアンデスの音楽を流してくれます。
列車の中で購入したそのCDは、今でも私のお気に入りです。


ジェシー率いる私達7名はマチュピチュからクスコへの帰り、オリャンタイタンボというインカ帝国時代の要塞跡のある町までその列車に乗りました。

そこで、私とオーストラリア人・パトリシアと向き合う形でアルゼンチン人のご夫婦が座りました。
真ん中にはテーブルがあります。

マチュピチュを出発して数分、お喋りなパトリシアが黙っているはずがありません。

気が付けば私達4人は、パトリシア中心に会話が弾んでいました。
パトリシアはオーストラリアから持ってきた小さなコアラの人形やオーストラリアの名所の写真などを拡げ、私達に説明します。

オーストラリアの"90マイル・ビーチ"の写真を前に私は、
「NZにも90マイルビーチがあるよ!」と"つい"口を挟みました。

するとパトリシア、
「NZはなんでもオーストラリアの真似をするんだからっ!!」
珍しく少し"ムッ"とした表情です。
*オーストラリアとNZの仲があまりよろしくないのは、まんざら嘘ではないようです。。


少しして、アルゼンチン男性がコーヒーを飲みはじめました。

その時、私は"ふっ"と思いついたように、彼に言いました。
「今、アルゼンチンの硬貨を持ってるの?」
持っているなら見せてほしいなぁ、というのが本心。

「荷物の中にあると思うよ。」
人の良さそうなその彼は、親切にも頭上の棚に乗せてあった荷物から硬貨を取り出そうとしました。

その時です。
列車は大きなカーブに差し掛かり、大きく"ぐらっ"と揺れました。

彼の体も大きく傾きます。

あっ!

パシャ~!! w(☆o◎)w
彼が手にしていたコーヒーが、彼の前に座っていたパトリシアのズボンにかかってしまったのです。

その日のパトリシアが履いていたのは"真っ白"なズボン!!

Oh!!! No!!!!! \(◎o◎)/

白色に茶色の大きなシミが広がります!!!

誰もが驚きました。
誰もがパトリシアの反応を見ていました。

「きゃはははははは!」
パトリシアは車両いっぱいに響き渡る甲高い声で笑いだしました。

私は一瞬、彼女の気が触れたのではと思ったほど。

その後の彼女がとった行動は、、。

そこら中の乗客に、
「見て、見て!! 私のズボン、こんなになっちゃった!!」と見せびらかし始めたのです。

「ごめんなさい。」、、私とアルゼンチン男性のお詫びの言葉にも、
「気にしなさんな。こんな愉快なことはないわ!!」

まるで、みんなの注目を一身に浴びたことを喜ぶかのように、、。
この日から、私の中にあるオーストラリア人のイメージは、世界一おおらかな国民性。


今日もあの列車は様々な思い出を乗せて、マチュピチュへと向かっていることでしょう。

パトリシアは今もあの列車での出来事を忘れずにいるでしょうか、、、。

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ラテンの男☆ジェシー

*マチュピチュ遺跡へと向かう道。
左からパトリシア、カトリーナ、ジェシー。【'02.03.15】


インカの旅をより愉快にしてくれたのは、やはり現地ガイドのジェシーでしょう!!
彼は私より一つ年下で、当時28歳でした。
まずまず堪能な英語を喋り、気遣いもなかなかのものです。

ツアーが始まる前日、ジェシーを囲んで、ツアー客7人で初顔合わせをしました。
私が高山病にかかったことをパトリシアが大げさに話していたらしく、部屋までジェシーが迎えにきてくれました。
第一印象から優しくて陽気な雰囲気。

そんなジェシーを、彼に勝るとも劣らず親切なオーストラリア人の皆さんは満面の笑顔で迎えました。

一週間常に行動を共にしますので、もちろん仲良しになりますよね。
温かいオーストラリア人の皆さんは、何かと独り者の私に目をかけてくれました。
ジェシーも唯一私と同年代ということで、「picchuko、picchuko、」と声をかけてくれます。

その中でもパトリシアは、私にとってペルー旅行の"お母さん"!!
(彼女がそう言っていました。)

可愛い?娘?に悪い?虫(ジェシー)が付かないように目を見張らせてくれます。


「あなたっ!! ちょっと、ジェシーに近づき過ぎよ!」
決してそんなことはなかったのですが、パトリシア母さんの目は光ります☆
オープンなオーストラリア人にしては???と思いませんか?!

しかし、彼女の男性を見る目は確かでした。
(ジェシーが悪い人という意味ではなく、、。)

* * * * * * *

ジェシーは至るところにガールフレンドがいます。

クスコ周辺では、常に若い女性から「は~い、ジェシー!」と甘い視線を投げかけられます。


それはマチュピチュへ向かう列車の中で、、、二人の魅力的な女性が彼の近くに座りました。
彼女達も彼と同じラテン系です。
列車が走る3時間ほど、彼らは仲良くお喋りをして、かなり親しくなったようです。

ジェシーは日本人の女性から好かれるタイプではないかもしれません。
でも、ラテンではかなりの色男☆☆☆


先ほど列車で知り合った二人の女性とマチュピチュ遺跡で再び出会い、ウィンクを投げる彼。。
一日目のマチュピチュ観光は、ジェシーにとっても実に愉快だったと思います。

* * *

麓のホテルで宿泊した私達は 次の日の午前中、二班に分かれて行動しました。

一班は私とパトリシアとカトリーナの「ワイナピチュ行き」。
そしてもう一班は「温泉」へ。
そのメンバーはパトリシアの友達と、カトリーナのご両親とおばあさんです。

マチュピチュ近郊には、「アグアス・カリエンテス」という村があり、そこは有名な温泉保養地なのです。
水着必着ですので、プール感覚で入れます。露天風呂だそうですよ。

おばあさんは足が若干不自由で、歩くのに杖が必要です。
ワイナピチュ登山が不可能な彼女を気遣って、他の3人も温泉を選ばれたようです。


ワイナピチュ行きは早朝5時半にホテル発の予定でした。
ホテルからマチュピチュ入り口まではジェシーが付き添うことになっています。

5:20には3人集合完了です。しかしジェシーはまだのよう。。。

約束の5時半になってもジェシーは現れません。

5:40。まだ彼は現れません。

パトリシア母さんはジェシーの部屋のドアを"バンバン"叩きました。
出てきません。

パトリシア母さんは叫びます。 「ジェシー!! 起きなさぁ~い!!(*`θ´*)」

何度もドアを叩かれて、眠たそうにジェシーは頭をかきながら現れました。
目は開いていません。
「急いで仕度しなさいっ!」とパトリシア母さん。

一本バスを遅らせて、私達はマチュピチュへと向かいました。

パトリシア母さんは私に耳打ちします。
「だから私は言ったでしょ! ジェシーに近づくのは危険だって!」
決して近づいてはいませんけど、、、?^-^?

「彼ねぇ、昨晩 私のところにお金を借りに来たのよ。昼間に出会った女の子達と遊ぶためにねっ。o(`へ')o」
「だから言わんこっちゃないっ!(`ε´)」

なるほどねぇ~、ジェシー君♪ やるねぇ~、君も♪ ( ̄ー+ ̄)ニヤリ

* * *

少人数で一週間もずっと一緒にいれば、初対面では分からなかったことも"しっかり"と見えてきます。

なるほどぉ~、パトリシア母さんは人生経験が豊富で、様々な国の人達を見ていますから、ジェシーの本性をいち早く見破ったのでしょう。

段々とばれてきた「遊び人ジェシー」ですが、人間としては優しくて人懐っこくて私は大好きです!!


ただ後になって怪しく思ったことが一つだけ。。(^人^;)

それはツアー初日のこと。

私達は朝一番、『サクサイワマン』へ行きました。
そこは毎年6/24に「太陽の祭り」が行われ、世界中から人々が集まる有名なインカの遺跡です。

まだ馴染みの薄い私達。
ジェシーはとても悲しそうな表情で話し始めました。

「昨晩、僕の友達が自殺したんだ。首を吊って、、、。」今にも泣き出しそうです。

私達もかなりのショックを受けて、何よりジェシーのことが心配でたまりませんでした。

優しいオーストラリア人達。
「ジェシー、今日は午後から休みなさい。私達は勝手にクスコ市内を見て回るから、、。
本当に私達のことは心配しなくていいから、今日はゆっくりしなさいね。」

? ? ? ? ?

果たして、この友達の話は真実だったのでしょうか、、?
その3日後に夜通し女の子と楽しんだジェシーを思うと、、???

そんなもの? 実に怪しい、、。。。。。( ̄ー+ ̄)/
今となっては迷宮入りですね、、、。( ̄ー+ ̄)/

さすがだねぇ~、ジェシー君♪ 君は私の知る典型的なラテン男です☆

「ワイナピチュ登山」のススメ

*霧に包まれて幻想的なワイナピチュ 【'02.03.16】
この急勾配を登っていくのです。。。

('08.01.31日記)('08.02.01日記)の写真をもう一度見て頂けるでしょうか。。
インカの遺跡の謎を解くヒントの一つは遺跡の形。

ガイドのジェシー曰く、ワイナピチュから見るマチュピチュは「コンドル」を描いているのだとか。。
私の写真では見えにくいですけどね。

余談ですが、
コンドルはご存知の通り、南米大陸アンデス山脈に生息する鳥。
クチバシから尾の先までは約1.2m、両翼の端から端までの長さは3mもあります。
コンドルの胸骨は、その大きな羽の筋肉を支えるには不十分な大きさ故に、
彼らは羽ばたいて飛行するのではなく、高空から滑空飛行で空を舞っているそうです。

そして、ワイナピチュを横から眺めてみて下さい。
人の横顔に見えませんか?
そうです、ワイナピチュ山頂が鼻の先です。左側が顎ですね。

あれ以来ワイナピチュを見る度に、「顔」に見えてしまうようになりました。

* * *

実は私、知りませんでした。

何をかと言うと、
「ワイナピチュ登山は一日当たり入山者400名」と限られており、200名で一度締め切るということを!!

7時きっかりに開門するそうですが、すでにゲートの前には長蛇の列が出きているそうで、できるだけ早く並ばないといけないらしいです。

その為に朝一番で向かう観光客の列は、麓のバス乗り場から始まっているもよう。
早朝6時ではすでに気の遠くなるほどの人の数です。
ちなみに始発のバスは5:30です。
(以上、2007年現在)

* * *

私が訪れた2002年3月は、こんなことは全くありませんでした。

ジェシーのせいで(これについては又後日)、予定よりかなり遅くに出発した私達。

7時過ぎにマチュピチュへ入り、その足でワイナピチュ入口へ。

入山者はここにある管理小屋のノートに、氏名とパスポート番号、入山時間を記入します。

私達はその日の4番目でした。その他に人は見当たりません。

一面を霧に包まれていますので、時代を遡ってインカ時代に舞い戻ったようでした。


ワイナピチュ登山は大抵の人なら、誰にでもできるものですが、
この登山中に滑落して亡くなる方が何人かいるのも事実です。

かなりの急勾配で、雨も多い地域なので足元は滑りやすくなっています。
(実際、下山途中にパトリシアも足を滑らしましたから。)

ですから、履きなれたハイキング用の靴、雨具などが必要でしょうね。
もちろん、リュックを背負い両手が使えるようにしていなければ、とても危険ですよ。

頂上に近づくほど その急傾斜は増し、鎖を持つ手にも力が入ります。


でも、山の頂にある当時の建造物や段々畑に目を見張り、
そこを登り詰めると眼下に広がる あのマチュピチュ全景に、乗り越えて良かったと心底思えます。
この登山だけでなく、遠く何万kmも離れた国からここまで訪れた苦労も一瞬にして消えてしまいました。

まさに「コンドル」になった気分です♪


〈追記〉

ワイナピチュ山の反対側にはマチュピチュ山が聳えています。

登山口はマチュピチュ遺跡から「太陽の門」に向かう道の右手、遺跡の外れにあるそうです。

この登山道はさほど危険ではなく、道も分かりやすいとのこと。

やはり頂上に近づくにつれて勾配はキツくなりますが、
こちらの方が人も少なく、落ち着いて景色を楽しむことができるかもしれませんね。

この展望地からは真下にマチュピチュを望み、ワイナピチュの全景もウルバンバ川もよく見える穴場のようですよ。

私がもう一度マチュピチュを訪れる時(行く気満々!!)、
次回は「マチュピチュ山登山」に挑戦しようと思っています。

クスコのタクシー事情?!

*マチュピチュ『主神殿』("本神殿"とも呼ばれています)。
これは多角の石で造られた神殿。
幅8mで、三方の壁に囲まれています。
"地球・先史文明研究家"、浅川嘉富氏によると、
マチュピチュは先史時代の高い技術力で建造した石積みと、それから遥か後のインカ人による石積み、遺跡崩壊直後に僅かに生き残った生存者達が再建した石積みの三種類あるそうです。
この神殿は、使われている石の切り口や積み方から、先史文明の遺構であるとのこと。

写真はその主神殿を前に、一週間このツアーを共にしたガイドの「ジェシー(右端)」と、彼の説明に熱心に耳を傾けるツアー仲間のオーストラリア人達。
左端が「パトリシア」。【'02.03.15】


('08.01.31日記)で、リマ空港で7人の荷物が出てこなかったことを書きました。

空港の係員さんに名前を言って、ペルーでの滞在先を伝えます。

奇遇にも、その中のオーストラリアのメルボルンから来た二人の女性が、私と同じツアーに参加することが分かりました。
それが「パトリシア」↑とそのお友達。
あんなに大勢の乗客がいた中でのほんの一握りの偶然。

そこからは一緒に行動することになりました。
リマ空港での乗り継ぎ、そしてクスコ空港から一人でホテルまで行くことに少々不安があった私にとって、このロストバゲージはラッキーな出来事だったようです!


リマ空港での長い待ち時間。
旅慣れている彼女らは、空港にあるシャワーを浴びてくると席を立ちました。

私はその間、職場の上司だったK.Kさんと、NZにいるChiekoに電話をしましたっけ。。

クライストチャーチ空港まで見送ってくれたChiekoは、誰よりも私のペルー行きを心配してくれていました。
彼女は私がペルー行きを断念してクライストチャーチへ戻って来たのだと思ったようです。
この時、ペルーでは早朝4時前。
日本は夕方6時、NZでは夜の10時前だったと記憶しています。


そうやって過ごした待ち時間も終わり、
いざ行かん! 憧れの街クスコへ!!

クスコに降り立った時の あの肌にまとわりつく哀愁漂う冷えた空気は、どの街の空気よりも感覚として残っています。


クライストチャーチの旅行会社で頂いた詳しい説明文には、
クスコ空港から私達が宿泊するホテル「San lsidro Labrador」まで、タクシーで約$10~$15と書いてありました。(注 : 米ドル)

そのホテルはクスコの中心「アルマス広場」から徒歩数分に位置しています。

タクシーのおじさんとパトリシア達が交渉を始めました。

おじさんは最初、「$15 でどうかな。」と言いました。

彼女達は首を横に振ります。私も一緒に横に振っていました。
当然です。

続いておじさん、「じゃぁ、$12は?」

やはり横に振る私達。

"しぶしぶ"おじさん、「じゃぁ、$10にしてやるよ。」

私は妥当なのかなぁ、と思わず首を縦に振りそうになりました。

その時パトリシアの友達は、
「そんな"あほ"な話がありますかいな!!」
ちょっと意訳し過ぎていますが、そんな勢いで彼の言い値をはねのけたのです!!o(^-^)o

結果、ホテルまで$3で構わないということに。。
一人たったの$1です!(^o^)/

私だけでしたら、間違いなく$10は支払っていたことでしょう。

こんなのあり??

あれ以来、私は彼女達ほど強気にはなれませんが、
海外での値段交渉が楽しくなったことは言うまでもありませんね。

『picchuko』の由来

*マチュピチュの背後に聳えるワイナピチュ頂上より。
マチュピチュ 標高2280m、ワイナピチュ 2720m。【'02.03.16】

一面を霧で覆われたマチュピチュ、私とカトリーナは雲が晴れるのを山頂でしばらく待っていました。。


マチュピチュはクスコからウルバンバ川に沿って114km下った地点より、400m一気に登った山頂にあります。

あたりは同じように尖った山々で、周囲は断崖。
はるか下を流れるウルバンバ川流域は熱帯雨林の繁るジャングル。

海抜1180mのウルバンバ川から見上げてもマチュピチュは全く見えません。
そんな山上にあることから『空中都市』という異名を持つのです。

* * * * * * *

ピサロに率いられたスペイン軍に皇帝アタワルパを殺されたインカ帝国残党は、
クスコ北方の山奥に立て籠り抵抗を続けました。

その最後の都「ビルカバンバ・ビエホ(幻の都)」、
1911年にアメリカ人ハイラム・ビンガムがこの地を発見した当時、マチュピチュがそれであるかと思われました。

しかし、インカ帝国の人々が持ち出して隠したとされる黄金が発見されないことから、
ビルカバンバはさらに奥地であったことが分かっています。

未だにマチュピチュについての謎は深いままですが、
16世紀のある時期 この地に高度な文明を持つ人々が住んでいたことだけは確かです。

~"世界遺産の旅"&"地球の歩き方"より抜粋~

* * * * * * *

マチュピチュの綴りは《Machu Picchu》。
先住民の言葉で「老いた峰」の意味です。

対するワイナピチュ=Huaina Picchuは「若い峰」。

『picchuko』は、このマチュピチュ&ワイナピチュの「picchu」から頂きました。
これを訳したのが本名です。(*^_^*)

「pichu」と表記したものもありますが、世界遺産登録名の「picchu」を使っています。

今の私はまだ「ワイナピチュ子=若いピチュ子」でしょうか?
数十年後の私は「マチュピチュ子」ですね!o(^-^)o


<ご紹介>

少年漫画 『ジパング少年』 いわしげ孝著
小学舘より 全15刊

〈日本の管理教育に疑問を抱き、高校を退学させられてしまった主人公・柴田ハル。
彼は理想の学校を創るという夢実現の為に4人の仲間と日本を脱出。
南米大陸伝説の黄金郷「エルドラド」を探しに行くのですが、、。〉

このお話の後半、特に最後のクライマックスは、この古代インカにあります。

私は友達K君から借りて読んだのですが、気が付けばのめり込んでいました。
インカの場面は著者の創造から生まれたものですが、大変興味深いものになっています。

憧れの大陸への道のりは遠く...

*ずっとこの場所に立つことを夢見てたんだなぁ~、私。。
『マチュ・ピチュ』とその後ろに聳えるワイナ・ピチュを背にして【'02.03.15 オーストラリア人カトリーナと共に】


来週末に行く「インカ・マヤ・アステカ展」。

それに向けて思いを高める為に、私がペルーから日本へ送った当時のメールを引き出してみました。

改めて読んでみて、このペルーへの旅行によって知らない国を一人で旅する度胸がついたように思います。

その懐かしいメールから、、、

* * * * * * *

この旅行は"クライストチャーチ"から飛ぶこと1時間半、NZ最大都市"オークランド"で出国し、
南太平洋を横断しアルゼンチンの"ブエノスアイレス"へ。
そこから"ラン・チリ航空"でチリの"サンティアゴ"。
ペルーの首都"リマ"を経由して"クスコ"へという行程でした。


オークランドから12時間、ブエノスアイレス空港を目前にして大嵐のために近づけず、、。

その立派な"カンタス航空"の飛行機は何度も着陸を試みたのですが、3・4度 強風に吹き飛ばされました。
それは乗客でもわかるほど。

空港上空を何度も円を描きつつ、30分後再度挑戦!
しかし、この時もあっけなく吹き飛ばされてしまいました。

急遽、300kmほど先にあるウルグアイの首都"モンテビデオ"に着陸。
ここでブエノスアイレス上空の天候回復待ちと燃料補給。

そして いざその時が来たら、今度はモンテビデオ上空が荒れ狂う始末。。(T_T)

これは困ったと思いました。

当初のブエノスアイレス空港での待ち時間は7時間。
その時間も着実に減っていきます。

~次の便に間に合わなかったら、、~

色々考えても仕方ありません。
どうにか自力でマチュ・ピチュまで向かう覚悟を決めた時、飛行機はモンテビデオを飛び立ちました。

きっと乗り継ぎ便もこの飛行機を待っているはず、、。
・・そういえば、この嵐の為にブエノスアイレス空港発着が一切出来なくなっていたとスチュワートさんが言っていました。

そして、念願(?)のブエノスアイレス到着。
この時は乗客みんなで拍手喝采でした!!
なんたって皆さん、大風に吹き飛ばされた時、必死で胸に十字架をきっていたくらいですから、、。


駆け足ですれすれ次の便に間に合って、続いてサンティアゴにて。

少々乗り換えが不安だった私はそこら中のラテン系顔の人に、
「私はリマまで行くのだけれど、あなたはサンティアゴまで?それともリマまで?」と聞きまくりました。

この地はすでに南米。
何かトラブルがあった時、英語とスペイン語の両方を喋れる人と一緒なら安心だと思ったのです。

オーストラリアからNZ経由で来たペルー人の男性を見つけ、
「ご一緒していい?」とお願いしました。

そして乗り換え!!
彼はすんなりOKだったのに、私はいきなり搭乗券を没収!!\(◎o◎)/

☆なんでやねん☆
さっぱり訳が分からず、香川県人の私だって関西人になってしまいます☆

話を聞くところ、どうもクライストチャーチ空港チェックインカウンターのお姉さんにミスがあったらしい。。
なんとか訂正してもらい、またもすれすれ搭乗口へ。


そして「リマ空港」。
先ほどのお兄さんを発見♪・・今度こそ見逃さないように、しっかり後をつけていきました。

なぜ彼を追いかけたのかというと、
ブエノスアイレスのドタバタで万が一荷物が出てこなかったら、同じルートで来た彼と居ればなんとかなる?!と思ったのです。

心はいつも他力本願♪♪

すると、あっけなくも彼は自分の荷物を発見。
笑顔で私に、「Have a nice trip !」  そう言って立ち去りました。

私の荷物もこれで安心ね。
で、待つこと数分。

・・・出てこない、、、出てこないじゃないっ!!・・・
☆なんでやねん☆

荷物はブエノスアイレス空港に、、
それは私も含めた7人だけでした。  ☆なんでやねん☆
*次の日にクスコまで運んでくれましたが、、。

この後、私に待っていたものは「高山病」!!
クスコ発のツアー、このツアー客7人のうち私だけが高山病。
☆なんでやねん☆

☆なんでやねん☆
これが私の一人旅の醍醐味のようです。


出だしからハプニング続きだったペルー旅行、
無事に帰国できたことを奇跡に思います。

! インカ !

*ペルー・クスコ、その中心「カテドラル」前 アルマス広場にて【'02.03.12】

16世紀にスペイン人の征服者達によって、山奥へ追いやられたインカ。
かわってスペイン人達が造ったものは、インカの礎石の上に建つ教会や邸宅でした。
この不思議なコントラストが、『クスコ』を特別な町にしています。
~地球の歩き方より~


皆さんのブログを拝見させて頂いていますと、
観たい映画、読みたい本、聴きたい音楽、そして行ってみたい国がどんどん増えていきます。

そして、四国に閉じ籠っていては知りもしない展示会なども紹介して下さるので、関西に出向いた時などに足を運ぶことができますね。
ありがとうございます☆

その中でも特に興味を持った『インカ・マヤ・アステカ展』!

やっと岡山まで来てくれました♪
1/11~3/16と岡山駅西口、岡山市デジタルミュージアムで開催されています!!

香川から岡山まで、JRに乗って瀬戸大橋を渡れば、1時間も掛からずに行くことができます。
2月の3連休にでも観に行こうかと計画中です。


私はこれら3つの古代文明の遺跡の中で、唯一『マチュ・ピチュ』だけ訪れたことがあります。

マチュ・ピチュは小学生の頃より憧れていました。
高山病になりながらも(9/22日記)、嵐に遭いながらも、気の遠くなる道中('07.11.16日記)('08.01.31日記)を乗り越えて、この地を踏めて良かったと心の底から思っています。

インカの首都『クスコ』、
この町に漂う哀愁も、愁いを秘めたその街角も、私にとっては「ザルツブルク」に次ぐ忘れられない場所です。

有名なフォルクローレ「コンドルは飛んでいく」のように、うら悲しげな空気が流れています。
思わず、胸が"きゅんっ"となるのです。。


クスコの中心『アルマス広場』。

ここで、靴磨きをしている「フォワン」という男の子と出会いました。

彼は貧しい家庭で育ちながらも、片言の英語を話します。
私の靴を磨かせて欲しいと言ってきたのです。

でも、その時 私が履いていた靴は、破れかけたスニーカー。
彼はそれを革靴のように磨くというのです。

「それはやめてちょうだい。」、私は何度も断りました。

彼の瞳を見ていると、観光客目当てにお金をせがむ様子でもなく、、。

でも、私のスニーカーを磨かれては困ります。
靴を磨いてもらわないのにお金は払えません。

「磨かせてよ~。」
「だから、この靴では無理なんだって!!」

この押し問答は20分近く続きます。
たったこれだけの会話ですが、彼に段々と親しみを感じてきました。

仲良くなって、撮った写真が↑です。

最後まで、この言い合いは続きましたが、、(^。^;)


他愛のない会話。
でもこんな些細なことが、訪れた町の印象に繋がって、いつまでもその風景とともに心に残るのですね。

クスコは独特な空気と匂いを持つ町です。
一度訪れれば、決して忘れられないでしょう。


*クスコの街中で売っていた『インカコーラ』。
あの時は勇気を出せず、、、でも飲まずに帰ってきたことを"ずっと"後悔していました。
今回の展示会場で売っているらしいですね。
今度こそ挑戦したいと思います!!o(^-^)o

Well done !?

*2002年2月27日
私は3本の予防接種と引き換えにペルー行きを手に入れました。


今年のインフルエンザの流行は例年より早いようですね。
私の職場でも来週28日に予防接種が行われます。(>_<)
毎年注射の痛みが増すように思うのですが、皆さんはきちんと受けていらっしゃいますか?


又もペルー行きの話です。
何度も書きましたが、私のペルー行きはNZが基点でした。

私の愛するマスコット(?)、「ゆかち」さんがご両親とオーストラリア旅行をされるということで、フードコートの近くにあるトラベルセンターまで付いて行きました。
ちょうど目の前に並べられていたパンフレットが『マチュピチュ』でした。
そこは何年も前からどこよりも魅力を感じていた場所です。
(余談:私の『picchu』は本名を古代インカ語で表したもの、このネームはNZに渡る前から使っていました。)

《マチュピチュへ行こう!!》
何かが空から降ってきたような、、思い立ったが吉日です!!

私を担当してくれた方は、日本人と結婚されているMrs.Hosoi。
彼女は私の勉強の為に普段は英語で受け答えをして下さるのですが、難しい内容で肝心なことになると日本語で対応してくれるという優しい方でした。

ペルー行きの日程も決まり、お金も振り込んで、チケット受け取りの日だったと思います。

『黄熱病の予防接種が必要です。』
彼女はまず英語で話した後、きちんと日本語で説明してくれました。
私、「・・・( ̄○ ̄;)」

『まず、ここに電話をしてアポイントをとって下さい。』
クライストチャーチ病院のすぐ前にある医療機関の資料が手渡されました。
私の気持ち、「えっ?!私が電話するの?!」


フラットへ帰った私はドキドキしながらダイヤルしました。
この旅行の前2ヶ月はNZ、OZ旅行の予定でいっぱいです。
クライストチャーチにいる僅かな日程と、そしてペルー到着10日前には接種完了という条件から、やっとのことで2月27日に決定。


電話した時以上に緊張が高まる中、施設へ足を踏み入れました。
まずはドクターの問診です。

「黄熱病の予防接種に来たのね。ペルーへ行くの? 3月10日出発ね。」
「今日の体調はどう?」
ここまでは順調。

『ところで、あなたはA型肝炎と破傷風の予防接種は終わっているの?』
もともと英語の語彙力がない私です。
ドクターとの間に辞書を置いて会話が続きます。
「受けていません。」
「破傷風の予防接種は子供の時に受けたでしょう?」
どうだったかしら? 記憶にはないのです。
「日本に電話してみなさい、絶対に受けているはずだから!」
わざわざ日本へ電話が必要なの?!
「受けていないと思います。」
『じゃぁ、その2つも接種が必要ね!!』

出発まで10日余り、明後日にはNZの都市ネルソンへの旅に出かけます。
「私、ペルーへ行けるのでしょうか?」
「行けるわよ。」
「あのぉ、いつ残りの2つの注射を受ければいいのでしょう?」
ドクターは平然と、『あら、心配しないで。今日で済むわよ。』

一度に3本??? それも身体に悪そうな菌ばかり。
大丈夫なのかしら??


隣りの部屋へ移りました、連行されたと言った方が正しいでしょう。
ドクターの他に2人の看護師の登場。緊張と不安が高まります。

ドクターが言います。
『それぞれ効果のある期間は、黄熱病が10年、破傷風が5年、A型肝炎が1年です。
肝炎はまた一年後にも受けると効果は伸びますよ。』

もう、その時の私は無言です。

まず右腕に黄熱病。
続いて左腕にA型肝炎。
一番痛かったのは最後にお尻に打たれた破傷風の注射。
全てに耐えた私に3人は、『Well done !!』
その後、その施設からどうやって出ていったのかは覚えていません。
帰りにクライストチャーチ病院へ処方箋を持って行き、黄熱病の飲み薬をもらいに行った記憶だけです。

『私、生きてる(ToT)』
オーバーのようですが、奇跡を感じました。


ペルーでのこと。
同じツアー客のオーストラリア人、カトリーナにこの話をしました。
『大変だったわねぇ。』
「えっ? あなたは受けていないの?」
『だって私達、アマゾンには行かないじゃない。同じペルーでもアマゾンへ行く場合は受けなければならないけど。』

確かに日本からペルーへ行く場合も接種は不要です。
それは超衛生国NZだからなのか、アマゾンへ行くと思われたからなのか、今だに謎の多いものでした。

一年後、日本にいる私のもとへNZから一通のメールが届きました。
『そろそろ一年ですね。A型肝炎の予防接種に来てください。』
NZ、、あなたは余りにも親切すぎます。。

赤鼻の「珍」東洋人

*遠い遠い古代インカの首都、クスコの街角にて【'02.03.12】


どうも風邪をひいたらしく、昨晩から鼻と喉の奥が乾燥し、今は水鼻が出てきました。
どうか軽い鼻風邪で終わりますように...。

私が海外旅行で風邪をひいたのはペルーでのことでした。
2002年3月中旬のクスコは肌寒く、少し厚めの上着が必要でした。
標高が高いこともあり、空気の薄さも影響したのかもしれません。

それはペルー旅行も終盤に入り、出発地であるクスコへ戻ってきた日の夜のこと、ホテルで一人 咳き込みながらの長い夜を覚えています。
その前々日にマチュピチユの背後に聳えるワイナピチュ登山をして、しばらく汗をかいたまま 山頂の風にあたっていたのが悪かったのでしょうか。
それとも前日に冷たい雨の中、ピサックやチンチェーロの市場をぶらついたのがいけなかったのでしょうか。。
ペルーからの長い帰路、ずっとずっと鼻をかんでいました。
ポケットティッシュなどあっという間になくなって、何枚ものハンカチを鼻カミに使いました。
リマ空港ではカフェでナプキンを沢山もらい、トイレペーパーもしっかり拝借。。


ペルーからNZへ向かう道中では、東洋人に会うことはありませんでした。
真っ赤な鼻をズルズルとすする東洋人は誰が見ても滑稽だったに違いありません。


どのくらい帰路の道中が長いものだったのか、ぜひとも聞いて下さい。
まずクスコからペルーの首都リマへ。
ここでの待ち時間は9時間。
リマからチリのサンティアゴへ飛ぶこと4時間くらいでしょうか。そこで待つこと3時間。
サンティアゴを飛び立ちタンゴの国アルゼンチンのブエノスアイレスへ、
この白くて広い空港で14時間!!
そして南太平洋横断の空の旅を12時間、やっとNZのオークランドへ到着。
ここで3時間待った後、2時間ほどのフライトを経て愛しい街クライストチャーチに降り立ちました。
それは合計52時間です!!
往路は39時間でしたから往復で90時間以上なのです。\(◎o◎)/
気絶しそうな時間数ですよね。
同じ南半球だと安易に考えたのが間違いの始まりでした。

この日程しか取れなかったといえども、微熱と鼻水に苦しむ私にとって、この行程がいかに厳しいものだったか容易に想像できるでしょう。

あの頃より旅慣れた今の私であれば、サンティアゴやブエノスアイレスで2、3泊でもして観光を楽しんだことでしょう。
でもお金を使いきった私は街に出ることもできず、
その当時のアルゼンチンの情勢は非常に危険なものでしたから、知識のない私が一人ぶらぶらできるはずもありませんでした。
リマにしたって、私が立ち去ったすぐ後、街の中心部でちょっとしたテロが起きたくらいです。
(それはブッシュ大統領がリマに来るという理由からのものでした。)

旅の思い出は様々ですが、こんな大変なことほど貴重に思えます。
もう一度、決してもう一度できる旅ではありません。

ブエノスアイレスではベンチで横になりながら、新聞紙があれば暖かいだろうなぁ、と丸まっていた私です。
こんな経験もいつか役に立つ(?)でしょう!?


こうしているうちにも、机の上には丸めたティッシュが随分と増えてきました。
今晩は見たいDVDがあったのですが、早めに寝た方が良さそうですね。

高山病には気を付けて。

*ペルー クスコにて【'02.03.12】
古代インカ帝国の首都であり、インカ人にとって世界の"へそ"を意味する宇宙観の中心の街です。


今日の新聞に「チリ最高裁がフジモリ元大統領の身柄をペルーに引き渡す」と載っていました。

私がペルーを訪れた年、彼はすでに失脚後ではありましたが、車窓から見た田舎の家々の壁には まだ赤く大きく「FUJIMORI」と書かれていたのを覚えています。

そのペルーへ今日、私のNZ時代からの親友「きょん」さんの添乗するツアーが出発しました。
海外添乗員になってしばらくの彼女にとっても初めての国。
かなり不安そうでしたが、懐の深いペルーは優しく迎えてくれることでしょう。


私がペルーへ旅立ったのは日本からではなく、同じ南半球のNZから。
アルゼンチンとチリを経由しての、トランジットの待ち時間を含めると片道39時間の長旅。
日本から行く方がかなり便利かもしれませんね。。

クスコに着いた時、何とも言えない哀愁漂う空気にギュッと胸を締め付けられました。
本当に「コンドルが飛んで行く」がよく似合う街でしたねぇ。

私はクスコ発のマチュピチュとインカ&プレインカ遺跡を巡るツアーに参加したのですが、私以外のツアー客(5人)は全てオーストラリア人でした。

クスコは標高が3360mあるので、体調を整える為にツアー出発の2日前に到着。

空港に降り立った時は高山病の用心もしていましたし、空気の薄さもさほど感じなかったと思います。

ホテルに荷物を置いて、同じツアー客のパトリシアとその友人と一緒に市内散策に出掛けました。
クスコに着いて2、3時間経った頃でしょうか。
段々と胸の辺りが苦しく、気分が悪くなってきたのです。
パトリシア達に支えられながら、何とか部屋へ。

彼女達はとても親切で、薬や水を持って何度も何度も様子をみに来てくれました。

丸2日寝込んでいた私は それでも身体がだるく、彼女達の夕食の誘いも断りました。

その時です。初めて外国の方に叱られたのは!!
「あなたは こんな遠くまで寝に来たの? しっかりしなさい!!」

この言葉で私は立ち上がれました。

そのおかげで精神的にも気合いが入った私の体調はどんどん良くなりましたね。


・クスコに着いたら、まずは薬としっかり水分を取ること。
・過密スケジュールではなく、身体がなれるまでゆっくり穏やかに過ごすこと。
・体調が悪いなら入浴(シャワー)は避けること。・・・私は何も考えずシャワーを浴びてしまい、ただでさえ酸素不足の中 血液の循環を良くしたのが原因か、身体中、特に手足と唇が痺れてきました。

そして、最後は気合い!です。
でも一番は優しい心遣いかもしれませんね。
ペルーの話はどこよりも長くなりますので、続きはまたということで...。

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