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旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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北口本宮冨士浅間神社

浅間(せんげん)と名の付く神社がいくつもあることを知ったのは、先月末、「さあ、明日が富士山への出発だ」という夜だった。

元来私はどこへ行くにも下調べをしない。
行き当たりばったりでこれまでも旅を続けてきたものだから、それが海外ではなく国内でも、一人ではなく母を連れていても変わらない。

ただ今回は、富士山がご神体であり、御祭神がコノハナサクヤヒメ命である浅間神社をお参りしようと何故か心に強く思った。
当初、静岡県富士宮市にある富士山本宮浅間大社参拝を決めていた。

本宮とあるのだから容易に気付いても良さそうだが、全国に浅間神社は1300もあるようだ。
それらは主に関東甲信、東海地方に祀られており、四国に住む私にとって聞きなれていなかっだけだ。


しかし、行く直前に行先が変わるのも私のクセ。
偶然、富士山の北口にあたる山梨県富士吉田市にも1900年の歴史をもつ神社があることを目にする。

参道には古木が繁り、高さ18mの日本最大木造鳥居が聳えるという。

人の多い場所を好まない私は、そのひっそりとした独特な雰囲気に気持ちが固まった。


北口本宮冨士浅間神社


実際に訪れてみると、空気が冷たく澄んだ深い木々の向こうに、厳かで霊験あらたかな古社が控えていた。


北口本宮冨士浅間神社


ここも世界文化遺産「富士山」構成資産として登録されている。
そして、富士吉田口登山道の起点でもある。


北口本宮冨士浅間神社

北口本宮冨士浅間神社



北口本宮冨士浅間神社

ー御祭神ー

       木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)
       天孫彦火瓊々杵尊尊(テンソンヒコホノニニギノミコト・木花開耶姫の夫) 
       大山祇神(オオヤマヅミノカミ・木花開耶姫の父)


ー由緒ー

人皇12代景行天皇40年(110年)日本武尊(ヤマトタケルノミコト)御東征の砌、箱根足柄より甲斐國酒折宮に向かう途次、当地御通過、大塚丘にお立ちになられ、親しく富士山の神霊を御遥拝され、大鳥居を建てしめ、「富士の神山は北方より登拝せよと」勅され、祠を建てて祀ったのが始まりとされている。




北口本宮冨士浅間神社

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湖東三山・西明寺(さいみょうじ)

「まあ、ここに座りなさい。」

国宝の本堂の中に足を踏み入れた私に、お寺の男性が声を掛けてくださった。

「どちらから見えられたのですか?」
「四国の香川です。」
「じゃあ、ライバルというわけだ。」
???
「ここはね、天台宗のお寺なんですよ。」
「ああ、お大師さま、、、」


湖東三山・西明寺


彦根城の帰り、いたるところにある桜並木に目を奪われながら、湖東三山のひとつ、西明寺を訪ねた。
一番美しいのは紅葉の季節らしいが、8年ほど前、同じく湖東三山の百済寺(ひゃくさいじ)を訪れた際、京都とはまた違う趣きの深さに感動し、他の二つの寺院もお参りしたいと思っていた。
湖東三山とは、琵琶湖の東側にある三つの天台宗寺院をまとめてそう呼ぶ。


「ここの本尊の薬師如来さまは秘仏でね、実は私も見たことがない。」
この後、40分ほど説明が続くことになろうとは知らない私は、「へえ」と本堂中央に座した。

写真の薬師如来像は左手に薬壺を持ち、右手の薬指は少し前に曲げられていた。
薄暗くてよく見えなかったが、薬壺を持つ左手も僅かに薬指のみ曲げられているようだった。
「薬指は薬師如来さまからいただいた指でしてね、薬などはこの指で塗ると治りが早いですよ。」

「生きている間は誰しも病気をしますから薬師如来さま、生まれる前は釈迦如来さま、亡くなった後は阿弥陀如来さまが守ってくださります。
釈迦如来さまは手のひらを見せる形、薬師如来さまは先ほども言ったように薬指を曲げてらっしゃる。そして、指で輪を作ってらっしゃるのが阿弥陀如来様。」

こういう話をじっくり聞く機会がなかった私は、少し前のめりになって真剣に頷いていた。

秘仏の薬師如来像を祀った箱の両側に並ぶ十二の像にライトを移して説明を続ける。

「あんたの干支はなにかな?」
「ネズミです。」
「じゃあ、子年の像を拝むんだよ。それ以外に拝んでも聞いてもらえないから。」

薬師如来を守護する十二神将は、生まれ年の干支の守り本尊とされている。
「ここの十二神将立像は、文字の読めない人にもわかるように頭上に干支を乗せてるのでよく見てごらん。」
「この像が造られた当時、日本にはトラと羊が入ってきていなかったから、この二つは本物と全然似てないのが面白いだろ。」
西明寺の十二神将像は、運慶の弟子の作と伝わっている。

「ここはね、宝くじとギャンブル以外はなんでも言うことを聞いてくださるからね。それも一つだけじゃない、いくつお願いしても聞いて下さる。」
別に頼み事をしようと思ってお参りにきたわけじゃない私は、何をお願いすればよいか思いつかずきょとんとした。

「もしも他の方のお願いを代わりにする場合は、その人の干支に向かってするように。」
「実は、私も息子もここでお願いして癌が治ってね。・・・・・・・・・・・」


おじさんは非常に話が好きらしい。
住職さんではないとのことだった。

湖東三山・西明寺


「あ、国宝なのはこの建物の本堂と三重塔。どちらも鎌倉時代の作で、まず本堂が滋賀県第一号の国宝に指定されて、その数年後に三重塔。二天門は室町時代作で重要文化財。」


湖東三山・西明寺


「実はこのお寺も戦国時代に織田信長に焼き打ちされたんだけど、本堂と三重塔、そして二天門のみ焼かれずに済みましてねえ。」
昔習った教科書では、信長といえば延暦寺の焼き打ちとしかなかっただけに驚いた。

話は延々とその後も続いた。


外は青空が広がり、さきほど歩いた庭園では陽の光が眩しく踊っているに違いない。
この寺のお庭は蓬莱庭と呼ばれ、薬師如来や十二神将などをあらわした石組と鶴亀の形をした島が浮かぶ池が美しい。
苔の緑に心鎮まる。


湖東三山・西明寺



ー 龍應山西明寺略縁起 ー

西明寺は平安時代の承和元年(834)に三修上人が、仁明天皇の勅願により開創された寺院である。
平安、鎌倉、室町の各時代を通じては祈願道場、修行道場として栄えていて山内には十七の諸堂、三百の僧房があったといわれている。
源頼朝が来寺して戦勝祈願されたと伝えられている。
戦国時代に織田信長は比叡山を焼き打ちしてその直後に当寺も焼き打ちをしたが、幸いに国宝第一号指定の本堂、三重塔、二天門が火難を免れ現存しているのである。
江戸時代天海大僧正、公海大僧正の尽力により、望月越中守友閑が復興され現在に至っている。


富士山を東から西に向けて

犬を連れて遠出をすると、色々な方によく声を掛けていただける。

彦根城では、お隣の岐阜県より来られた女性に話しかけられた。
ご主人が写真を撮るのが好きで、桜の時期はよく彦根を訪れるらしい。

彦根城の桜

「うちも犬を飼ってたんだけどねえ、孫のアレルギーのせいで犬を飼えなくなって淋しくて。
息子は私の実家のある富士宮市にいるんですけどね、ほら、帰ってくるときはいつも孫を連れてくるから。」
一面、溢れんばかりに咲き誇る桜の木の下でしばらく会話を続けた。

富士山は東から


聞けば、静岡の息子さんから「今日の富士山」の写真が毎日送られてくるという。

「あ、私たちも富士山へ行ったばかりです。」と、今度はうちの母。

「え?どうやって?」
「犬がいるものですから、娘が車を運転して。」
「え?一人で富士山まで運転ですか?」
はい、ここでもちゃんと驚いてもらえた。笑


実は先月下旬、私たちは再び富士山を目指していた。
とはいっても、これで四度目となる富士山行きは、山梨にある馴染みのペンションを基点として伊豆と鎌倉へ足を延ばすためだ。

伊豆は両親の新婚旅行の地であり、鎌倉も母にとって父と旅した想い出の場所。
時間が足りなく駆け足の旅となったが、その間もずっと富士山はわれわれを見守っていてくれた。
11月下旬と比べると、春霞のせいか少し淡く優しい富士山ではあったが、山梨側からは一度も雲に隠れることはなかった。


富士山という共通の話題に話が弾む。

「そうそう、息子が教えてくれたんですけどね、富士山の写真を東から西に向けて飾っておくと災難から守ってくれるんですって。」
「へ~、富士山が」 母は熱心に聞いていた。

私はというと、じゃあ災難は東から来るのか?と心の中でツッコミながらも桜を写真に収めることに懸命だった。
しかし、何事も素直さが大切。


数ある富士山の写真のどれを引き延ばして飾ろうか。
ただ今、検討中である。


富士山を東から
2018-03-28 9:22精進湖(山梨県富士河口湖町)

彦根城の桜

4月3日、ちょうど満開を迎えた桜を観に彦根を訪ねた。

彦根城の桜

彦根へは、どんなに車を飛ばしてもわが家から5時間は優に掛かる。
だが、彦根城の桜が一番好きだと母は言う。

彦根城の桜


濠を囲む咲き誇った無数の桜の競演もさることながら、一本一本の枝ぶりも花弁のまとまりも別格の美しさだと私も思う。


彦根城の桜

彦根城の桜



彦根行きを決めたのは、先月末のことだった。
その日の朝、行きつけの喫茶店で古い雑誌を開いた私は、こんな記事を偶然目にした。


「城にはなぜ桜が咲くのか」


彦根城の桜


その中で、日本城郭史学会代表(当時)の西ケ谷恭弘さんはこう語っていた。(以下、抜粋)


日本の城址を訪ねると、近くに護国神社が建てられていることが多い。
明治4年の廃藩置県により、日本のほとんどの城郭は破却され、その跡地の広々とした城址は、招魂社や学校、軍用地などに利用される。
招魂社は東京では靖国神社、地方では護国神社と呼ばれ、戦死者の霊を祀る社であり、その霊を慰めるため桜が植えられたのがそもそものきっかけである。

明治政府は桜が一斉に散るさまを「潔し」とし、武士道精神に関連付けて桜の植栽を進めた。
護国神社の桜は、やがて城址も埋め尽くしてゆく。
折しも明治34年、土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲の「荒城の月」が発表され、城と桜の結ぶつきを強めた。


彦根城の桜


城と桜は、明治維新以降に結びついたもの。
戦国から江戸期まで、何の関係もなかったと、西ケ谷さんは言っている。

本来、城に植えられた木は松だった。
松並木は防風林となり、夜警の松明や柵を作る用材にも使え、樹皮の下の白く柔らかい部分は水でふやかせば救荒食にもなる。
また、松脂は油や止血剤にもなり、松茸も採れる。
松山城や高松城など、名前に松を冠する城が多いのはその名残である。



読みながら、そうだったのかと納得した。

以前も彦根で花見をした際、昭和9年に桜を植えるまで彦根城に桜は殆どなかったと耳にしていた。
また、彦根城前には滋賀懸護国神社が鎮座している。
私が20代半ば頃、職場のデイサービスで「同期の桜」を泣きながら歌っていた明治生まれのおじいさんの顔も思い出された。


彦根城の桜


今では桜のない城など想像すらできないが、名城には桜が本当によく似合う。
そう改めて感じた花見となった。


彦根城の桜

彦根城の桜

彦根城の桜


花ぞ昔の香ににほひける

日ごと天気が移り変わる春、休みと好天が重なった今月2日に弾丸観梅ツアーを敢行した。

思い付きは前夜だったが、そうと決まれば早起きなんかは苦でもない。
早朝5時に家を出て、龍野西SAで厚切りトーストに姫路アーモンドバターのモーニングを堪能、10時過ぎ大阪城公園に辿り着く。
予定では9時半には到着するはずだったが、田舎では縁のない駐車場事情と融通のきかない道路事情に戸惑ってしまった。


大阪城公園の梅林が素晴らしいことは以前母から教わっていた。
20年以上前になるが、大阪城を訪れた際に天守閣から見下ろした先に広がる梅林に驚いたという。


いつになく寒さ厳しい冬が長引き、梅の開花が大幅に遅れた今年、まだ満足に梅を見ていないことから大阪行きを決めた。
雪に縁のない生活で車は夏タイヤのまま、近場でウロウロするしかなかった鬱憤をここで晴らそうとも思ったわけだ。

急な遠出に少し面倒くさがっていた母も、大阪城と聞いて腰を上げた。


大阪城公園


結果、大満足の一日だった。
天下の名城は梅の花もよく映える。

屋台のたこ焼き屋のお兄さん曰く、「今年は寒かったからやっと咲き出したところ。2~3日前から多くの人が集まるようになってきたよ。」


大阪城公園

大阪城公園

大阪城公園

大阪城公園

大阪城公園

大阪城公園

大阪城公園


一気に暖かくなったからか、咲きはじめにしては開いた花が多かったように思う。
小梅が愛らしい。

公園内では梅に囲まれ囲碁を打つおじいさんやお弁当を広げる人々、中国や韓国はもちろん、フィンランドやフランスなどの外国人観光客とも大勢すれ違った。
みんな自国の言葉で話しかけてくるので、何処から来たのかよくわかる。
それはもちろん、私にではなく私が連れている愛犬たちに。
犬を連れて入場できることも嬉しかった。

大阪城公園


20年前と比べると人出が多く、人混みになれていない私たちには大変だったが、母は父との思い出の場所を懐かしむことができたようだ。
それならばと、父を追憶する旅を母にプレゼントしようと今あらためて計画中である。


大阪城公園


今年最後の紅葉狩り。

2017年、今年最後の紅葉狩り

先月は本栖湖より千円札裏面の富士山を拝んできたので、今日は10円玉表面へ。

宇治の平等院鳳凰堂。

10円玉、10円玉と思っていたら、一万円札の裏面に描かれているのだって平等院の鳳凰像であるし、二千円札裏面はここ宇治も舞台になっている源氏物語絵巻と紫式部の絵柄である。

と、別に貨幣柄を追っているわけではなく、今年最後の紅葉狩りに奈良を訪れ、その帰りに京都へも立ち寄った次第。
奈良から四国への帰り、交通量が多く走りにくい阪奈道路を避けるのに京滋バイパスが頭に浮かんだのだ。
京滋バイパスは名神高速より南を走るため、京都市内ではなく宇治の平等院へ行こうということになった。

2017年、今年最後の紅葉狩り

2017年、今年最後の紅葉狩り


平等院にはこれまで一度だけ訪れたことがあった。
大学入試の二次試験の帰りだったと記憶しているので、もう20年以上昔のことになる。
もちろん世界遺産に登録される前の話であるから入園者もそう多くなく、まして外国人の観光客には全く会わなかったように思う。
鳳凰堂内部に入るのだって当時は入園料だけで良かったような気がするが、今は別料金の上、解説付きの団体行動にまごついてしまった。

過去の記憶が美化されているのかもしれないが、昔の鳳凰堂の方がしっとりしていたなあと残念に思った。

2017年、今年最後の紅葉狩り


それでも、本尊の阿弥陀如来坐像と雲中供養菩薩像を目の前にすると「ほお~」とため息が出てしまう。

阿弥陀像は平安時代の仏師・定朝の作であることはうろ覚えながら頭に残っていたのだが、彼の作と確実に言い切れるものはこの本尊のみということを初めて知った。
定朝が完成させた寄木造りのまさに頂点のような作品。
その柔らかさは、実に極楽浄土をイメージするのに相応しい阿弥陀様のように感じた。


2017年、今年最後の紅葉狩り

こうして今年最後の紅葉狩りは、平等院の阿弥陀様のお顔のような柔らかい色合いで締めくくることとなった。

今年は。

「富士山を間近で見るぞ!」と心に誓い、4月四国から山梨まで車を走らせた。
そこには確かに日本一の富士山が鎮座ましましてはいたが、首の周りに白いストールを巻いていたり、イングリッド・バーグマン張りにお洒落に帽子を被ったりと、すっきり全貌を拝むことはできなかった。

そこで8月、再び東へ車を走らせる。
私としては、これまでは縁もゆかりもない山梨が一気に身近になっていく。
葡萄も買った、葡萄ジュースも買った、信玄餅も買った。
そして夕暮れ時には雲も晴れ、ほんのり赤く染まった美しい富士の御山を拝むことができたのだった。

大満足してのその帰り、立ち寄った奥飛騨での定宿のおかみさんに、「次は雲のない雪を被った富士山を見たくなるから」と告げられる。
その暗示にかかったかのごとく、3ヶ月後に今年三度目の山梨行きを決行することになろうとは自分でも振り返り可笑しくなる。

片道600kmは優にあるだろうか。
軽自動車でそう簡単にブンブン行ける距離ではない。
だが私は5日前、すでに富士山を見るための定宿になりつつある鳴沢村のペンションに泊まっていたのだった。


今年は
2017-11-24 8:45 田貫湖畔(静岡県富士宮市)


「富士五湖というけれど、実はもうひとつ湖が静岡側にあるんだよ。」
「田貫湖っていうんだけど、そこからの富士山も綺麗だから一度行ってごらん。」

一気に山梨まで走った春夏とは違い、今回は朝一番田貫湖到着を目指して四国を出た。


今年は
2017-11-24 9:15 田貫湖


初冬の空気は冷たく澄んで、富士山をくっきり浮かび上がらせる。

こんなに迫力ある存在感のある山だったんだ。
淡くほわんと目の前にあった夏の富士山からは別人のような力強さを感じた。

圧倒された。


今年は
2017-11-24 9:25 田貫湖畔

今年は
2017-11-24 13:25 河口湖畔(山梨県富士河口湖町)

今年は
2017-11-24 15:00 本栖湖(山梨県身延町)

今年は
2017-11-24 16:55 ペンションより(山梨県鳴沢村)


今年の富士の初冠雪は例年より遅く、しかも10月下旬には台風のせいで一度雪が溶けてしまうことがあった。
まさか11月下旬まで雪のない富士山はないだろうと思っていたが、いかにも前髪をぱっつんと切ったかのような雪の被り方も好みではない。

どうだろう、私の思い描く姿を富士山は見せてくれるのだろうか。


天候はたぶん大丈夫だろう。
だが、直前の急な冷え込みにもスタットレスタイヤを持たない私は微かな不安を抱いていた。

今年は
2017-11-25 6:15 ペンションより

今年は
2017-11-25 6:45 ペンションより


そして予報通り、天気は快晴。
しかも道中思うほど冷え込みもなく、富士山4合目まで難なく愛車で走ることができたのだった。


「最近まで富士山の雪は少なかったんですが3日前の夜に雪が降りまして、そうですねえ、今の富士山はひとつき先の景色ですね。」
ペンションのご主人は、例年なら12月上旬まではお椀をかぶせたような雪の被り方だと教えてくれた。
本来なら、私の好まない前髪ぱっつんの富士山だったのだ。


今年は
2017-11-25 9:05 ペンションより


運がいい。


今年は
2017-11-25 9:55 本栖湖

今年は
2017-11-25 10:05 本栖湖

今年は
2017-11-25 10:05 本栖湖

今年は
2017-11-25 10:10 本栖湖

今年は
2017-11-25 10:35 朝霧高原(静岡県富士宮市)

今年は
2017-11-25 11:05 白糸の滝(静岡県富士宮市)


どんな姿であろうとも富士山は別格だと私は思う。
いつまでもどこまでも見飽きることなく見続けられる。
次はどんな表情を見せてくれるのだろうか、目が離せない。

けれど今回、これほどまでに神々しい姿を見せてくれるとは。
富士山に感謝することしきりである。

2017年、いい一年の締めくくりになった。


奈良の大仏さん。

「ついで」というのは神仏事では褒められたものではないが、せっかく奈良まで来たのだからと東大寺に立ち寄ることにした。

いや、東大寺というよりは「奈良の大仏さん」に会いに行こうと思ったのだった。
「奈良といえば大仏さん、大仏さんといえば奈良」だろう。


奈良の大仏さん


奈良の大仏さん


奈良県内には何度も足を運んでいる私だが、ここ10年近く大仏さんを訪ねていない。
そういえば、奈良公園の鹿さんたちにも挨拶しよう。
それになんといってもこの旅の本命、運慶を中心とした慶派一派による「南大門の金剛力士像」を忘れちゃいけない。


奈良の大仏さん


奈良の大仏さん


そして東大寺の中で最も天平時代に思いをはせることのできる「八角燈籠」も楽しみだった。
飛鳥からは100年ほど歴史は浅いが、それでも700年代。

日本はどんな未来を目指していたのだろうか。




なんか久しぶりに「奈良に来たー!!!」という感じだった。



奈良の大仏さん


奈良の大仏さん


今年は10月7日~9日に「鹿の角切り」があったらしい。
そして、秋は鹿さんの恋の季節、発情期のため注意するよう教えてもらった。

今年三度目、飛鳥の旅。

「わしは六甲を見ながら育っとったんか、と思ったわけよ。」

ふらり立ち寄った「ぶどう」と掲げた産直市のおじさんは、二上山と畝傍山、甘樫丘の遥か向こうに連なる山々を指してそう言った。
なんと、明日香村から神戸の六甲山が見えるんだそうだ。
そろそろ西日本では終わりに近い頃だろうか、色も味も濃い巨峰を味見する私に、おじさんは教えてくれた。


今年三度目、飛鳥の旅


石舞台古墳の傍にある食堂で昼食をとった私たちは、桜井市にある二つの寺院を巡るため車を走らせていた。

どこもかしこも日本の古代史に登場する場所、おじさんの話は尽きない。
「ここは小原(おおはら)地区といって、藤原鎌足誕生の地でね。」
懐かしい日本の原風景が広がっている。


奈良県は飛鳥地方。
今年5月、キトラ古墳と高松塚古墳壁画を見学して以来の訪問だった。

車窓からは、黄金色に実った稲穂にすでに色あせた赤い彼岸花の景色が続く。
青空の下、ススキの穂は気持ちよく風になびいている。
ところどころ古代へといざなう史跡案内の道しるべが道行く人の目を引いていた。
ここはいつ来てものどかでいい。

今年三度目、飛鳥の旅


そして今回のお目当てが、ここ飛鳥でしか出会えない仏像を巡ることだった。


一つは聖林寺(しょうりんじ)の国宝・十一面観音菩薩。

あのアーネスト・フェノロサが激賞したという天平時代のミロのヴィーナスだ。
お姿全体から溢れる堂々たる優美さと指先まで行き届いた繊細さに、よくぞ廃仏毀釈の波を乗り越えてくれたと心底思う。
そして、ここは郊外のひっそりとしたお寺であるため、国宝の観音菩薩と一対一で好きなだけ対面できる贅沢さえも味わえた。


* * *


現在、興福寺中金堂再建記念特別展として『運慶』展が東京国立博物館で開催されている。

それに触発されたわけではないが、「ちょっと快慶を観に行こう」と思い立ったのが、この飛鳥旅のはじまりだった。
ちなみに、『快慶』展は、奈良国立博物館にて今年の春に大盛況で幕を閉じている。

国宝級の仏像が並ぶ特別展も悪くはないが、なにせ人の多さが気になる私は年々そういう展示ものから足が遠退き、またどれもこれもがメインの仏像ではすべての印象がぼやけてしまうこともあり、面倒ではあるが一つ一つ足を運べたらという想いが飛鳥まで私の背中を押してくれた。


それは、日本三文殊のひとつである安倍文殊院のご本尊、国宝・渡海文殊菩薩群像。


今年三度目、飛鳥の旅
(安倍文殊院HPより)


今から800年以上も昔に大仏師・快慶によって造立された、説法の旅路の文殊様が4人の脇侍を伴って雲海を渡っている姿を現したものだ。
獅子に乗った文殊菩薩像は高さ7mにもなり、日本最大の文殊様でもある。

もうなんと言えばよいのか、
素晴らしい、美しい、神々しい、圧倒されるなどという月並みな表現では到底表しきれないものがそこにあった。

いつまでもいつまでも見ていられる、見ていたいお姿。

飛鳥の地でまた新たに出会えた尊い仏像に、はるばる車を走らせた疲れも一気に吹き飛ぶ。


今年三度目、飛鳥の旅

境内には可憐なコスモスが風に揺れ、のどかで優しい飛鳥の秋がそこにあった。


富士への思い。

「私にとって、富士山はいつもそこにある景色なの。」

もう25年以上前のことだが、東海地方の某大学の2次試験を受けた際、静岡県は三島出身だという女の子と出会い、受験日の1日を共に過ごした。

「逆に、富士山のない景色の方がフシギなぐらい。」
その時、彼女の台詞で一番印象に残ったのがそれだった。

そして、当然ながらよく目にする富士山の写真は常に堂々と鎮座ましまし、だからといってはなんだが、私は静岡県や山梨県に行けばその景色を当たり前のごとく見れるものだと思い込んでいた。
もちろん天気の悪い日は地元の低い山々でさえ姿を消すが、どこか富士山は特別のような、そう信じたいところがあったのだと思う。

ところが初めて山梨県を訪れた今年4月は深く雲をまとっており、すっきりと姿を現すことは決してなかった。
山頂周辺は風が速く、頭を隠す雲たちはあっという間に遠く流れていきそうなのに、次から次へと新たな雲が生まれては富士の御山から離れない。
裾野の広さに感動したものの、やはり富士山も他の名峰と同じくそう簡単には全貌を見せてくれないのだ。
期待が大きかっただけに、がっかりという気持ちがなかったといえばウソになる。

いつもそこにある富士山、富士山のない景色の方がフシギと言った三島の彼女の言葉が逆に私を寂しくさせた。
確かに、いつも富士の全貌が見れるとは彼女は言ってない、しかし。


この8月25日も、新東名高速の新富士ICを降りた時には重い雲があちこちにただよい、今回も無理だなと諦めのような思いが胸に広がった。
どっと疲れが私を襲う。

そして、悲しかった。


どうしてそこまで富士の全貌にこだわるのかというと、それは綺麗なみ姿を母に見せてあげたいという気持ちの他にもうひとつ。
以前ブログにも書いた昨年9月に亡くなった私の尊敬するある女性が山梨出身であったから。
その方の面影と重なる富士の優美さを見ることで、私はどこか慰められたかったのだろう。

富士への思い


だからその姿が全て現れた時、心の底から嬉しかった。
尊いなと思った。
美しいと感じた。


今度は雪を被った気高い姿を見せてくださいね。
そっと富士の御山に手を合わせる。


川中島白桃を食べてみる。

長野県松本市の中町通りにある「やまへい」という漬物屋さんがお気に入りの母。
お店の奥様とお喋りするのも楽しいからだ。

松本を訪れるとその「やまへい」さんと松本城には必ず立ち寄ることに決めてある。

川中島白桃を食べてみる

川中島白桃を食べてみる


その日、お昼を少し回っていたにも関わらず、松本城では蓮の花が美しく咲いていた。
しばしお城と蓮に見入っていた我々は、お決まりの「やまへい」さんへと向う。

愛犬を連れての旅なので、店に入るのは母だけにして、私は犬と一緒に店先に置かれた長椅子に腰を下ろした。

「遠くから来たの?」
一人のおじいさんに声を掛けられた。

おじいさんは手持ちの袋から一つ桃を取り出し、「この時期なら、信州の土産にこれ以上のものはないよ」と教えてくれた。

「川中島白桃と生で食べられる白いトウモロコシは、ここをまっすぐ行った処にあるマルシェで売ってるから、ぜひ寄ってみな。」


四国に住む私はこれまで川中島白桃という桃に出会うことがなかった。
周りの友人たちに聞いても、まず知らない。
近頃になってようやく地元の産直でも色の悪い小さな桃が、一応「川中島白桃」と名乗って置かれてあるのを目にするようになったが、手に取ることはもちろんなかった。

それに、海を挟んで向かい側の岡山は桃の国。
今年も岡山へ出掛けた際に購入した清水白桃に大満足した私はそれ以上を望んでいない。

けれど、時々耳にする「川中島白桃」が気にならないわけではなかった。


「やまへい」さんから出て来た母に犬を預け、私は小走りでマルシェを目指した。

「これが川中島白桃ですか?」
ピンク色をした綺麗で大きな桃だ。
はあはあと少し息切れしながら、籠の中に4個だけ転がるその桃を指し、店員さんに尋ねた。

「もう残りはそれだけになってしまいました。
今が食べごろです。一個でも十分食べごたえがありますよ。」

私は川中島白桃を2個買った。


今朝、常温に置いてあったその桃の1個を氷水で15分ほど冷やし、食べてみた。

想像していたよりは清水白桃にも近い味を感じたが、その果肉の締り具合には驚いた。
食べごたえがあるというより、母と私の2人では1個食べるのも多いくらいだ。
すごく重い。

「桃」はドイツ語では男性名詞、フランス語では女性名詞なんだそうだが、清水白桃がフランスで川中島白桃がドイツといった感じ。

これはどちらが美味しいというより好みの問題なんだろうが、私には重すぎだ。

しかし正直なところ、そう感じたことにホッとしている。
もしも川中島白桃の方が清水白桃よりも私の好みであったなら、これから毎夏、四国では手に入らない美味しい川中島白桃を求めて彷徨わなければならなくなるから。


それにしても、「桃」を絵に描いたなら、一番おいしく映るのは川中島白桃だろうなあ。
本当にいい色をしたとても綺麗な桃だった。

川中島白桃を食べてみる

(信州の川中島白桃と甲州のブドウがこの旅の戦利品)


富士再訪。

4ヶ月ぶりの再訪。
今、山梨県は鳴沢村に来ている。


定点観察のペンションより本日の富士山。

富士再訪
15:11


富士再訪

富士再訪
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picchukoに老眼疑惑。

京都国立近代美術館を後にした私は京都最古の禅寺・建仁寺に赴いた。
洛バス100号に乗れば、近代美術館から建仁寺の最寄りとなる清水道まで乗り換えなしで行くことができる。

そのお目当ては俵屋宗達の「風神雷神図屏風」(原本は京都国立博物館へ寄託)ではなく、天井画の「双龍図」と海北友松の襖絵「雲龍図」。

この寺には龍や風神雷神図以外にも、禅宗の四大思想である地水火風を表すとされる「〇△□乃庭」に禅庭の「潮音庭」など見どころは沢山あるのだが、その日の私は龍に集中と決めてあった。

時間に余裕がなかったこともあるが、とにかく大迫力で龍が見たい!そんな気分だった。

であるから、寺に到着するや一直線で法堂(はっとう)へ向かう。
法堂の天井に双龍が描かれている。

picchukoに老眼疑惑
小泉淳作筆「双龍図」・縦 11.4m、横 15.7m(畳108枚分)

これは建仁寺開創800年を記念して、構想から2年の歳月を経て平成13年10月に完成し、平成14年に開眼法要が執り行われたもの。
建仁寺の歴史の中で、この法堂の天井に龍が描かれた記録はなく、創建以来初めての天井画となるらしい。

通常の雲龍図は大宇宙を表す円相の中に龍が一匹だけ描かれることが多いのだが、この双龍図は阿吽の龍が天井一杯に絡み合う躍動的な構図が用いられ、その二匹の龍が共に協力して仏法を守る姿なのだと説明書きにあった。

picchukoに老眼疑惑

頭上一杯の大迫力でしばし動けず。

picchukoに老眼疑惑

picchukoに老眼疑惑
海北友松筆

龍は仏法を守護する存在として、禅宗寺院の天井にしばしば描かれてきた。
また「水を司る神」ともいわれ、僧に仏法の雨を降らせると共に、建物の火災から護るという意味が込められているのだそうだ。

龍の大胆にうねる構図と大きく見開いた眼(まなこ)は描く者によってその表現は千差万別であるが、それぞれに趣きがあって出会うたびに胸に届くものがある。
海北友松の龍は特にしびれるものがあった。

海北友松(かいほう ゆうしょう)は安土桃山から江戸時代にかけての絵師であり、父は浅井家に仕える武将であったらしい。
若冲より100年以上昔に生きた人なのか。
ちょうど今年の4~5月に京都国立博物館で開館120年を記念して彼の特別展があったらしいが、その情報を知らなかった私は惜しくも見逃してしまった。
いや、海北友松という人物自体、恥ずかしながら知らなかった。
改めて、自分は日本画家の絵師に対して全く知識がないことを痛感する。


ここで、せっかく一人で京都のお寺に来ているのだからと写経に挑戦することにした。
般若心経は頭の「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」くらいしか知らないけれど、どうせ紙に書かれた文字を筆でたどるだけだから私にもできるだろう。
筆の代わりに筆ペンもお寺に用意されていることもあり、気軽に申し込みを行った。

picchukoに老眼疑惑

書き始めて2~3行目だったと思う。
とにかく文字が薄い。
画数が多く少し崩された文字、ましてや常用漢字にないものはなかなかわかりづらかった。

顔を近づけたり遠ざけたり、どうにかしてその線を辿ろうと努力するものの薄くて見えない。
用紙を持ち上げて透かしてみるもはっきりとせず、自然と目を細めながら手を伸ばして見ようとする自分に気づきハッとした。

も、もしや、老眼?????
40代にもなるとそろそろと聞いてはいたが、とうとう私もその仲間入りなのか?

老眼とは老いる眼と書く。 そう、老いると書くのだ。

そうなると、もう心鎮まるはずがない、心穏やかなはずもない。

最初こそ一文字一文字丁寧に文字を追っていたが、見えにくい文字がどんどん現れてくるたびに心は乱れていく。
そして、いくつの文字を誤魔化しただろう。

こうして、自分としては生まれて初めての写経は45分かけて未完成のまま完成した。

あんなに満足した龍もそっちのけで、頭の中は老眼の二文字がぐるぐる巡る。
すぐさまスマホで「老眼」を検索する。
すると、どうも老いた眼の症状に私はまだ当てはまらないようだ。

単なる疲れ目か、眼鏡の度数が合わなくなったか。


しかし建仁寺以来、老眼疑惑が私に付きまとって離れないことをこの場で白状しておこう。

picchukoに老眼疑惑

阿蘇神社、参詣。

昨年の熊本地震でショックを受けたのが熊本城と阿蘇大橋、そして阿蘇神社倒壊の映像だった。
神社の楼門と拝殿の無残な姿には居たたまれない気持ちになった。
神様がいらっしゃる場所なのにどうして、とも思った。


阿蘇神社、参詣

阿蘇神社、参詣



別府港から高速で湯布院へ、そこから下道で2時間ばかり。
至るところで地震の爪痕を目にしながら走った。

阿蘇神社も復旧工事中で大きな囲いがされており、私はどうお詣りすればいいのか戸惑い、無料のボランティア案内を頼むことにした。

案内役の女性は気さくな人柄で、手水の手順から丁寧に説明してくださった。

阿蘇神社、参詣

「ここは神武天皇の孫にあたる『健磐龍命(たけいわたつのみこと)』を中心に、その子孫を含め12の神様を祀ってあります。
なので、それぞれお得意の分野がございますので、どんな願い事でも叶えてくれますよ。」

そんな話から始まったと思う。

私は去年の地震で倒壊するまで、実はこの神社の存在すら知らなかった。

「もともと有名な神社だったんですねー。」
「結婚式で謡われる高砂の歌をご存知ですよね。」
「ああ、『たかさごや~この浦舟に帆を上げて~』ってやつですね。」母も熱心に聞いている。

「そうです。その高砂の歌に阿蘇神社の神主さんが出てくるんですよー。」

どうやらあの歌詞は、播磨の国・高砂の浦を訪れた阿蘇宮の神官が松の下を掃き清める老夫婦にその松の謂れを問うところから始まるらしい。
詳しいことは世阿弥作・能の演目『高砂』にゆだねるが、

「千歳飴の袋にお爺さんとお婆さんの絵が描かれてるんですが覚えてます?」
私と母はお互い顔を見合わせて首を傾げた。

「お爺さんとお婆さんが箒と熊手を持っているのですが、それぞれどちらを持ってると思います?」
「お婆さんの手に箒、お爺さんの手には熊手が描かれています。どの絵もそうなってるはずです。」

「ほらあ、『おまえ百までわしゃ九十九まで、共に白髪の生えるまで』って言うじゃないですか。
『おまえ百(掃く)までわしゃくじゅうくまで(熊手)』、ね、分かります?
高砂の松の下を掃き清めていたお婆さんが箒を、お爺さんが熊手を持っていたそうです。機会があれば、また見ておいてくださいね。」

阿蘇神社、参詣

「で、これが参道になるのですが、珍しい横参道なんですよ。」
「横参道?」
「普通、参道は拝殿に向かうように伸びているのですが、ここは神社に並行して参道があるんです。」
「昔から阿蘇山の中岳火口は神霊池と呼ばれ、その新宮と国造(こくぞう)神社を結んでいるのがこの参道です。」

阿蘇神社、参詣

阿蘇神社、参詣


参道から一つ中に入ると修復中の楼門と拝殿の前に出た。

「楼門は国の重要文化財なので元々の材木を使って復元することになります。
なので実はこれ、まだ解体の途中なんです。」
「番号をふって、取り壊す方が大変ですものねー。」

「でも、ここの修復には伊勢神宮を受け持った宮大工さんが携わってくれてるんですよ。変な言い方ですけど、ここで技が引き継がれることは嬉しいです。」

母も私も一つ一つに「へえ~」と興味深く聞いていた。

「拝殿があった時は見ることが出来なかった神殿を今なら見ることができますので、ぜひお詣りなさってくださいね。」

「神殿は無事だったんですか?」
「損傷はありますが、楼門や拝殿のように倒壊はしなかったんです。」

阿蘇神社、参詣


「大きな揺れだったのにこの辺りは被害が少なく済んで、みんな阿蘇神社が身代わりになってくれたと言ってます。
それまでも参拝される方に身代わりのお守りを勧めてたんですが、あれからここで身代わり御守りを買っていかれる方が多くなりました。」

阿蘇神社、参詣

聞けば楼門は重要文化財なので国から費用が出るらしいが、拝殿などの修復費用の一切は神社負担となるらしい。
復旧には7年ほどを要するとのこと。
私たちは身代わり御守りを買った後、少しばかりの御奉賛をさせてもらうことにした。

偶然それに対応してくださって神官さんが地震当日当直だった方で、当時の話も聞かせてもらえた。


「全然想像もしてなかったけど、阿蘇神社にお詣りできて本当に良かった。」
母は今でもそう言ってくれる。



改めて、この地震でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りし、被災された皆様にお見舞い申し上げます。
そして、一日も早い復興を願っています。



帰ろうとする私たちを先ほどのボランティア女性が見つけて駆け寄ってきた。
「お母さんがくまモンをお好きだと聞いて。ちょうど今貰ったものなんですけど、お母さん、どうぞ。」

阿蘇神社、参詣



そのあと、阿蘇神社の北宮とも称される国造神社も参詣した。

大分で『とり天』を食す。

5月24日から一泊二日で大分と熊本を訪れた。

九州へはこの1年半で三度目の訪問となる。
それまで滅多に行くことはなかったし行く機会もなかったのだが、設備の整った清潔で環境のいいドッグラン付ホテルと出会ってからはお犬様孝行をするために度々足を運んでいる。笑

それは由布岳を真正面に仰ぐ場所にあり、いつもならその美しい姿を存分に眺めることができるのだが、その日は残念なことに深く雲に覆われていた。

けれどおかげで適度に芝生も湿っており、すでに真夏のようにギラギラした太陽を浴びることもなく、二日間好きなだけドッグランで遊べた彼らにとってはいい時間だったのではないかと思っている。

大分で『とり天』を食す

大分で『とり天』を食す


その他の観光はというと、福岡や佐賀などに足を延ばすことも考えたのだが、何故かいつも阿蘇方面へと走ってしまう。

今回は阿蘇と、大分県は杵築市にお邪魔した。


杵築は国東半島の南端にあり、その昔は3万2千石の小さな城下町。
今は和服の似合う町として大きくPRしているらしい。

大分で『とり天』を食す


それは一言で云えば趣きある坂の町。
それもただ坂が続くのではなく、なかなか面白い創りをした町なのである。

市の観光協会の表現をそのまま借りると、日本でただ一つといわれる『サンドイッチ型城下町』。

杵築城を中心に据え、『塩屋の坂』と『酢屋の坂』というそれぞれの坂の上にある南北の高台に屋敷を構えた武士たちは、その谷あいで商いをする商人たちの町を挟むように暮らしていた。
二つの坂は、商人の住む谷町通りを挟み向かいあうように一直線に結ばれている。

大分で『とり天』を食す

大分で『とり天』を食す

大分で『とり天』を食す

高台に続く武家屋敷通りも当時の面影を色濃く残しており、確かに着物を着てそぞろ歩いてみたいと思わせてくれる。

大分で『とり天』を食す


ここで昼食をとることにした。

前日、ホテルで見たテレビで「大分県民のソウルフードは『からあげ』か『とり天』か」みたいなのをやっていて、どちらを食べようかという話になった。
谷町通りで立ち寄った和菓子屋さんのおかみさんは「私は『とり天』の方が好きですかねぇ」と言う。
では、ランチは『とり天』にし、『からあげ』はテイクアウトにしようと決まった。
大分を車で走っていると、いたるところでからあげ屋さんを見かけるのだ。

大分で『とり天』を食す

入ったお店は笑食(わらべ)さん。
なかなかのボリュームだが、とても柔らかくて美味だった。

そして、これだけ食べたのだから満足する。
満足しすぎて、もうしばらく鶏はいいやということになり、からあげは次回までお預けとなった。



デザートは、和菓子屋さんで買ったイチゴの葛アイス。

大分で『とり天』を食す




富士は裾野。

もうひと月になる。
愛犬2匹を連れて母と2泊3日の旅に出掛けた。

私の運転ではこれまでで最も遠出となる『飛騨・信州・甲州の旅』。
終わってみると、3日間で1585kmも走っていた。


飛騨の目的は『奥飛騨温泉』。
2年半前に利用した宿がとても気に入って、今回で四度目の訪問となる。
これまで松茸の美味しい秋口に行くことが多かったのだが、宿の奥さんが「次はぜひ4月においでください。この辺りで採れた野草の天ぷらがとても美味しいから、せめてGWまでに来ていただけるとご馳走できますよ」と教えてくれていたこともあって旅程に入れた。

そして、本命の行き先というのが『富士山』だった。
それは決して登るのではなく見上げるだけの為だ。
これまで高速道路のSAだったり新幹線や飛行機からだったりと、一応富士の御山を見たことはあるが、そうじゃなく一つの場所で心ゆくまでのんびり眺めていたいと思ったのだった。
その思いが去年の暮れ頃から段々と大きくなって、もう行くしかない!と立ち上がった。

それは山梨側からの富士山。
そうなると、奥飛騨から山梨までの道筋には信州の松本があり、母の好きな松本城も外せない。
お城の近くの中町通りにあるお気に入りの佃煮屋『やまへい』さんにも立ち寄ろう。
そうやってどんどん行程ができあがった。


ところが、天気予報では三日間のうち二日があいにくの雨。
しかも、富士山の麓に滞在する日に限って天気が悪いという予報だった。

私はその口惜しさを奥飛騨温泉で泊まった宿の奥さんに零してみた。
宿を経営するご夫婦は横浜にも家があり、富士山周辺についても非常に詳しい。

奥さんは、「じゃあ、裾野を見てきたらいいわ。遠くの方は富士山の裾野を知らないでしょ」と言った。

裾野?
その時はなんで裾野?と正直思ったのだが、それは訪れて一番納得したことだった。
奥さんに教えてもらわなければ、悪天候で富士山の全貌を見れないくやしさだけが残ったと思う。
とてもいいアドバイスをもらったことに感謝。

本家本元の富士の裾野を見てしまうと、日本各地の富士山にはもう『富士』の名を使えないなと、地元・讃岐富士を思い浮かべながらそう思った。

それくらい富士の裾野の広さに心打たれたこの旅は、実は開花の遅れた満開の桜も彩を添えてくれた。
ちなみに、富士山麓ではオウムでなく鶯がよく鳴いていた。


そして、今後富士山を見に行くという方には、「それなら裾野を見て来るといいわ」とアドバイスすることに決めている。


富士は裾野
ペンションより

富士は裾野
本栖湖

富士は裾野
精進湖

富士は裾野
西湖

富士は裾野
中央道より

富士は裾野
松本城

富士は裾野

富士は裾野

富士は裾野


富士は裾野
樹齢1100年の臥龍桜(岐阜県高山市)

富士は裾野
せせらぎ街道(岐阜県郡上市)



一人いにしえの旅。(4)

璉珹寺を出たのが16時少し前。
その日午前3時起床の私は、そのまま帰路に就くつもりだった。
それでも帰宅は午後8時を回るだろう。

阪奈道路を目指して奈良市内を走っていると、IC手前で看板に唐招提寺と薬師寺の文字が現れた。


ふとキトラ古墳で出会った女性との会話を思い出す。
「今日はこの後どちらへ?私一人暮らしだから、良かったら泊まっていってもいいのよ。」
「いえ、今日は日帰りの予定なんです。でも、キトラ以外の予定は全く立ててないです。」
「なら、石舞台からすぐのところにある談山神社はどう?中大兄皇子と鎌足が大化の改新の談合をしたところ。」
「そうですねぇ。」
これまでに二度そこを訪れている私はあまり乗り気じゃなかった。

「じゃあ、唐招提寺と薬師寺がいいんじゃない。」
どちらもすでに行ったことがある。
けれど、それは20年以上も前のことだ。
薬師寺は現在、『凍れる音楽』と謳われる東塔が修理中で観れないのが残念だけど、唐招提寺の落ち着いた雰囲気はいいかもしれない、そうちらっとその時思ったのだった。


時計は午後4時を過ぎたところ。
えいっと車を左折した。
そこから唐招提寺まではすぐだった。
大きな駐車場に車を停めて南大門をくぐると、大勢の観光客が引き上げた後のひっそりとした金堂が目に入って来た。

一人いにしえの旅(4)

一人いにしえの旅(4)


懐かしかった。
大学時代、一週間ほど滞在した奈良はレンタサイクルであちこち巡った。ここもそうだ。
この南大門の先に見える金堂の外観は有名すぎて、それでも昔から好きなお寺だったなと、しばらく立ち止まってその景色と向き合った。

一人いにしえの旅(4)

そこに立つ盧舎那仏と薬師如来像、そして千手観音像の迫力は言葉にならないほどだった。
作は奈良時代。
改めてすごいなと感心した。

たぶん、22歳の私はそれらに圧倒されすぎて、それ以外は見ずに帰ってしまったか、それともそれ以外の記憶は全く飛んでしまったか。


私は受付でもらったリーフレットを見て、ぐるり境内を一巡することにした。
拝観時間は残り40分しかない。

一人いにしえの旅(4)

講堂と鼓楼を見て、礼堂・東宝の横を通って開山堂へ。

開山堂には鑑真和上の御身代わり像が祀られている。
有名な国宝の像は毎年6月5、6、7日の3日間のみ開扉され、それ以外は御身代わり像を参拝してもらおうとつくられたらしい。
それは本物を模造して、当初のお姿を再現しようとしたものだ。
しかし私は、その像に心を打たれることはなかった。

御身代わり像に手を合わす人たちをするりと抜け、私は鑑真和上御廟に向かうことにした。

一人いにしえの旅(4)

一人いにしえの旅(4)

5人の団体にガイドさんが一人、先客がいた。
何食わぬ顔でガイドさんの話に耳を傾ける。

「当時、お坊さんの墓を建てることはなかったんです。像を作ることもなかった。なので、絶対とは言い切れませんが、これは日本で初めてのお坊さんのお墓ということになります。」

「そして、この細い木をご覧ください。これは瓊花(けいか)という木なんです。瓊花は鑑真和上の故郷、唐の揚州にあった花なんですが、ながらく門外不出の花でした。」

一人いにしえの旅(4)

「昔の皇帝がその花をたいそう気に入って門外不出としたのです。ですが鑑真和上遷化1200年の昭和38年、特別に揚州からいただいたものがこちらに植えられています。」
「花が咲く時期は4月下旬から5月上旬、残念ながらもう終わってしまいました。」

その時、「あそこに見えるのは花ではないですか?」と誰かが言った。
「あれ?ホントですね!普通ならもう終わっているのですが、日当たりが悪くてまだ残っていたのですね。」

一人いにしえの旅(4)

それは紫陽花によく似た花だった。
わずかしか咲いてはいなかったが、それでもその珍しい瓊花を見れたことはツイテるなと思った。


一人いにしえの旅(4)

そして鑑真和上に手を合わせた後、正倉院よりも古い日本最古の校倉造である経蔵と宝蔵を見て、再び金堂でお参りをし、南大門を目指す。


ここで今回のいにしえの旅は終わった。

やはり、やはり奈良はいい。
時空を超えて再び奈良を訪れよう。


一人いにしえの旅。(3)

先月のこと、行きつけの珈琲屋さんで、特別企画として「仏をたずね、京都・奈良へ」と題した雑誌を目にした。
ちょうど石舞台古墳で花見をした数日後のことで、帰りに拝した飛鳥大仏と中宮寺の菩薩半跏像の余韻からまだ冷めきれていない私は自然とその雑誌に手が伸びた。

そこでふと目に留まったページに、白い女性の美しい阿弥陀如来像が袴を履いて立ってらした。

その像は鎌倉時代作、モデルは光明皇后とある。
女人の裸形という珍しさもあってか、頭の片隅にそれは深く刻み込まれた。


一人いにしえの旅(3)



キトラ古墳、高松塚古墳、天武・持統天皇陵と巡った帰り道、せっかく奈良まできているのだから一つくらいお寺参りでもしようかなという気になった。

その時思い出したのが、その女人像だった。

場所は奈良市内、奈良公園の近くにある璉珹寺(れんじょうじ)という小さな寺で、もともとは紀氏の氏寺である紀寺だったところだ。

一人いにしえの旅(3)


雑誌で見かけなければ、きっと足を踏み入れることのなかった場所。
フシギな縁を感じながら門をくぐった。

2人の女性が立ち去ろうとしているところに私が入り、薄暗い本堂の中はお寺の方と私だけという静かな時間になった。
御住職の語られるテープを流していただき、御本尊を見上げる。

写真のお顔よりもうんと柔らかい表情をされていた。
説明にそって仏様の頭を見ると、それはよく見られる丸まった螺髪ではなく綱を巻き上げたようになっており、指と指との間は水かきのような曼網と呼ばれる膜があり、それは一切の衆生を救い上げるという意味なんだとか。

「どうぞ間近に。」
テープが終わるとそのお言葉に従って、手を伸ばせば届く場所でゆっくりとじっくりと拝させていただけた。

本当に華奢で女性らしい美しさ。
金色の袴には細かく様々な図柄が織り込まれている。

その袴は50年に一度お取替えされるのだという。
平素は秘仏とされるこの像は、昔は袴のお取替えを行う時だけ御開扉されていた。
しかし、現在は毎年5月の一箇月間のみ御開扉され拝観することが許されている。

本堂を出たのち奥の部屋へと案内される。

そこには平成10年に取り替えられるまで仏様が召されていた、一つ前の袴がガラスケースの中に納められていた。
その真ん前に座り、説明を受ける。

写真には写っていないが、鶴の模様が沢山入ったその袴をじっくり覗くと、そこには先ほど飛鳥で出会ったばかりの「玄武・朱雀・白虎・青龍」も描かれていた。
白虎はひときわ浮き出る白っぽい糸で織られており、それが袴の印象を明るく見せている。
この絵柄はこの仏様だけのもので、それは昔から変わっていないのだそうだ。


ここでも出会えた四神の絵。
飛鳥の帰りにここに立ち寄ったのも、やはり何かの縁だったのだろうか。

一人いにしえの旅(3)

お庭を眺めながら琵琶茶で一服していると、「これもご覧くださいな」と一冊の雑誌を持ってきてくれた。
それは創刊40周年記念特大号と書かれた『クロワッサン』という雑誌だった。

「あ、これを見てここに来たんです、私。」



私が席を立った時、また別の見物客が現れた。
一気に押し寄せるのではなく、入れ代わり立ち代わり、ちょうどいいペースで参拝者が続くその場所は、境内にニオイバンマツリやオオヤマレンゲが咲き競う小さな小さな寺だった。

一人いにしえの旅。(2)

「もうこの頃になると防衛やら他のことにお金が必要だったのか、古墳も小さくなっちゃったわね。」
声の主はまた彼女だった。

「ホント、私の町にある地方豪族の古墳の方がまだ大きいくらいです。でも、さすが高貴な方のお墓だけあって中はすごいですよね。」
「この向こうに天武・持統天皇陵があって、この一帯はその血筋の者たちの古墳が集まってるのよね。」
天皇に近い存在ならば、この壁画のように当時時代の最先端だったものが描かれているのも頷ける。
たぶん、優秀な渡来人たちの存在が大きいのだろう。

「鎌倉時代に一度盗掘されてるらしいけど、その後古墳に入ろうとする者はいなかったのかな?」
私が一人呟くと、「たぶん、たぶんだけどね、祟りを恐れて入らなかったんじゃないかしら。」
ということは、鎌倉時代の泥棒はその後不幸な最期を迎えていて、それを祟りととらえて後世まで言い伝えられた、、、彼女の真剣な表情に、なぜかそうなのだと納得させられてしまった。
展示物の中には、その泥棒さんが盗掘時に使った瓦器片も発掘品に並んでいる。

以上、キトラ古墳での話。




「きっと高松塚でも会えるわね。」
そして、キトラ古墳横に建てられら壁画体験館・四神の館の駐車場で別れてから5分後、私たちは高松塚壁画仮設修理施設の前で再会した。

一人いにしえの旅(2)

一人いにしえの旅(2)



予約なしでも見学の許可を戴いた私は、彼女と同じグループで修理室に入ることができた。

そこはキトラのそれと違って、実際に壁画を修理している場所、その場所にずらっと並べられた石室の断片を窓越しに見学するというものだった。

それは博物館のように見せる展示をしておらず、非常に見えにくいという印象を誰しもが持ったと思う。
そして、思うより小さい絵というのが一番の感想だった。

なので手前にあった玄武や青龍、飛鳥美人を描いた女性群像などは比較的よく見えたのだが、少し離れた場所に置かれた男性群像や天文図は全く見ることができなかった。


一人いにしえの旅(2)

一人いにしえの旅(2)

けれどみんな夢中だ。
みんな夢中でガラスに張り付いていた。
だって、あの壁画が、あの飛鳥美人が目の前にあるのだから。

気が遠くなる時を越え、こうして壁画と向き合っているなんて、それぞれにみんな胸に浪漫を抱いているみたいだった。

僅か10分の見学だが、こんなすごいものを無料で観させてもらえることもありがたい。
日本人みんなの宝物なんだなって、じーんとなった。



「たぶんここの埋葬者は忍部ね。」
彼女の解説はまたここから始まる。

「近くに古代米のランチが食べられるお店があるんだけど、一緒にお昼食べない?」

それからもう1時間、私は彼女の古代飛鳥物語を延々聞くことになる。


一人いにしえの旅(2)

一人いにしえの旅。(1)

ちょうど一週間前、何気なくテレビを付けるとNHKの歴史秘話ヒストリアで高松塚古墳の壁画について取り上げられていた。

高松塚古墳といえば今から45年前、飛鳥美人で有名な鮮やかな色彩の壁画が見つかり、考古学史上まれにみる大発見と騒がれた史跡。
それは遠い記憶の歴史教科書に数多く並ぶ写真の中でもひときわ印象に残っていた。

その高松塚古墳の壁画修理作業室が公開されることを、番組最後に知らされる。
これで17回目、これまでだって公開されることを知らないわけではなかったが公開時期に間に合ったのは初めてのこと。
私は早速文化庁のホームページを開いてみた。
しかし期間中の応募定員はすべて満員、この番組で応募した人も多いだろうが、その競争に負けてしまった。

けれど未練がましく探していると、「キトラ古墳」の文字が目に入る。
キトラ古墳も一時期話題になった考古学ファン憧れの場所。
その石室内からも壁画が発見されており、今のところ壁画の残る古墳は国内ではキトラと高松塚しか見つかっていない。
そして、そこでも壁画公開が行われているという情報を目にすることができたのだった。



5月16日、私は先月も訪れた奈良は明日香村へと車を飛ばす。
応募したキトラ古墳の壁画見学の参加証が届いたのだ。
急きょ決まったことで、前もっての知識は全くないが気にしない。

それは訪れて知ったこと、キトラも高松塚に勝るとも劣らない壁画が存在したということだ。
高松塚と同じ、四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)が描かれており、その姿もほとんど同時期のものゆえかよく似ている。
残念なことは、どちらの古墳も鎌倉時代に盗掘を受け南壁に盗掘孔があけられており、そのせいで高松塚の朱雀は残っていないのだが奇跡的にキトラのものは助かった。

そして高松塚においては石棺を囲むようにある女性群像などの代わりにキトラには十二支が描かれ、頭上には現存する世界最古の科学的な天文図が広がっている。
ちなみに高松塚の天文図は略式のものだ。


今回はその中の青龍と十二支の寅のみの公開であったが、内心鳥肌が立つほどの興奮であった。
有名な高松塚が見れないのは惜しいけれど、実はキトラの方が凄いんじゃないか、、、そう思いながら目の前の壁画に見入っていた。

壁画は現在、そのままにしておけばやがて崩れてしまう極端なもろさであるために石室内より取り外されている。


一人いにしえの旅(1)

一人いにしえの旅(1)



「私は高市だと思う。」
急に声がして振り向くと、隣りに立つ年配の女性が私に向かってそう呟いた。

この古墳の埋葬者が誰なのか断定はできないが、様々な説の中から天武天皇の第一皇子で太政大臣にまでなった高市皇子だろうと彼女は言う。
私も高市だといいなと思っていたので、素直に彼女の話に耳を傾けていた。

「高松塚とキトラは兄弟。」
古墳自体も類似点が多いが、高松塚の埋葬者も天武天皇の皇子である忍部皇子が最有力候補とされている。

「あなた、高松塚壁画も見に行くんでしょ?」
「いえ、応募するにも満員で無理だったんです。」
「大丈夫よ。当日必ずキャンセルが出るから行ってみなさい。」

彼女に出会わなければキトラの壁画だけで満足していたかもしれない。
私は壁画見学後、キトラ古墳を見てから高松塚壁画にも足を延ばしてみることに決めた。

「キトラは本当に可愛い古墳よ。」

こんもりと小さく盛られたその古墳は、まさか内部にこれほどまでの宝物が埋もれていたのか信じられないほどひっそりと存在していた。

長い長い時間、ここで埋葬者と共にそれらは眠りから覚めるのを静かに待っていたのだろうか。
私はしばし古墳の前に立ちすくんでいた。


一人いにしえの旅(1)

一人いにしえの旅(1)

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