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I love Salzburg

旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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私のブダペスト。

ブダペスト到着の夜、
フェリヘジ空港に降り立った私は、これまでにない陰鬱な空間を感じました。

到着は、予定通りの'09年12月30日、午後9時5分。

少しでも早くホテル入りしたかった私は、すでに日本円からフォリントへの両替を関空で済ませていました。
(日本では大手銀行でもフォリントを扱うことは少なく、関空では唯一 直営店でのみ両替可能です。)

とにかく足早にその場を去りたかった、、、その記憶が今も残っています。


けれど、その印象は空港だけではありませんでした。
私が3泊滞在する「ホテル・アトランティック」のロビーはとても狭く、学生らしき若者たちが吸っていた煙草でむせかえりそうなほど煙っていました。

手早くチェックインを済ませ、8階だという部屋の鍵を片手にエレベーターに乗るものの、
そこには7階までしかボタンがありません。

確かに8階のはずなのに、、、と「7」の数字を押しました。
当然のこと、扉は7階で開きます。
そこから先、私の部屋へ行く為には目の前にある階段を、自分の足で上るしかないようです。

常に荷物は最小限という私でも、長時間の飛行機の疲れで、一瞬ムッとしました。
安いホテルなのだから、ポーターさんがいないのは当然です。
しかし、最上階までエレベーターで行けないだなんて、、、。

見降ろすと、ホテルは2階部分のレストランが吹き抜けになっており、それを囲む四角いアパートメントのような造りをしていました。
本来は、最上部から射し込む陽射しによって 明るい空間を生み出す役目をしているのでしょうけど、真冬の夜、もしくは どんよりとした曇り空の下ではかえって閉鎖的な雰囲気を醸し出しています。
圧迫感に近いものすら、私には感じました。

そして、それが私の持つ旧共産圏のイメージと重なったのです。

少し不愉快さを感じながら扉を開きました。
部屋は思ったよりも広く、いや一人では十分すぎる広さがあり、小さな照明ではそれが逆に部屋の中を薄暗く感じさせてしまいます。

ホテルの周囲は、同じ高さの建物が隙間なく並んでおり、そのせいで各部屋には外へ向かう窓さえありませんでした。
一つだけある通路に面した大きな窓にはカーテンはなく、味気ない白いブラインドがぶら下がっているだけです。

テレビはありました。 電話もあります。 もちろん、ガラス張りのシャワールームだって、きちんとお湯は出て来ます。

けれど、それ以外は何もない、、、冷蔵庫の中はもちろんのこと空っぽです。

ここまで何もないホテルというのは初めてのこと、まさかユースホステルじゃあるまいし、、、。


実は、私の機嫌を悪くしたのは、何もホテルのせいだけではありませんでした。
飛行機の中において、ブダペストへと着陸態勢に入ってからの耳鳴りがず~っと続いており、不快な違和感は布団に入ってからも私を困らせました。

もともと時差には強い私でも、こうも耳鳴りが続いた中では眠ることはできません。
そして、外すら見えない部屋なのに、天井には降り出したばかりの雨音がバラバラと大きな音を立てて響き始めました。

シトシトと降り注ぐ雨音ならば 多少の風情はあるものの、こうもバラバラ降られてはたまりません。
次の日の天候も気になって、私はますます眠れなくなってしまいました。


「私ったら、どうしてブダペストなんかに来ようと思ったのかしら、、、。」

「なんで、慣れ親しんでいる大好きなザルツブルクを選ばなかったのかしら、、、。」

何度も何度も寝返りを打ち、布団で頭を覆いました。

「何が゛ドナウの真珠"よ! 何が゛ドナウの薔薇"よ!!」

自分の直感でブダペスト行きを選んでおきながら、ガイドブックの謳い文句にさえケチをつけ、
その最初の夜、私は悶々と後悔の中に蹲っていました。


* * *


これが私とブダペストとの正直な出会いです。(笑)

明け方、少しうつらうつらしたおかげで、この酷い感情を朝まで、まして観光に出てまで引き摺ることはありませんでしたが、
ここまで第一印象が最悪な旅は初めてです。

私のブダペスト

だからでしょうか?
その最悪な印象が幸いして、それからブダペストの表情と一つ一つ出会うごとに新鮮な驚きを覚えました。
哀愁漂う街の雰囲気は、それはあまりに美しく そして優しく私の心に映っていきました。

ブダの丘からドナウ河を挟み、薄く霧がかった国会議事堂を見降ろした時などは、前日の自分の後悔を恥ずかしくさえ思ったほどです。

それは、オペラ座での華やかなジルベスターや グドゥルー宮殿でのシシィのドレス、そして本当に真珠を散りばめた様な美しい夜景のおかげで、ますます魅力的に膨らみました。

そして、最初は毛嫌いしていたホテルでさえ、それがハンガリーの一つの顔を私に教えてくれたように思え、好ましく面白く感じるようになっていきました。


帰国後、旅の余韻に浸りながら もっとあの国と街を知りたいと思う分だけ、また新たな発見と親しみが湧いてきて、
気が付けば、ブダペストは私にとって特別な場所になっていたのです。




私のブダペスト

今日で、このブダぺスト旅行記も終了です。


本当は、ブダの丘の地下に広がる鍾乳洞の真っ暗闇の「王宮地下迷路」や、
見上げても先が見えないほど長い、地下鉄のエスカレーターの異常なほどの速さ
(駅によっては、日本のエスカレーターの倍以上のスピードがあります!)、そのせいで大きく風にあおられ、あわやエスカレーターから吹き飛ばされそうになった思い出など、

まだまだ記しておきたい出来事は沢山沢山あるのですが、
なんだか それらは蛇足のような気がしてきて、この辺で止めておこうと思います。


私はこれからも愛すべきハンガリーについて色々調べていこうと思っていますし、
これを次回の旅(行き先は未定ですけど)にも繋げていきたいと思っています。


3ヶ月近くに亘るこの旅行記にお付き合い下さいまして、まことに有難うございました。^^

私のブダペスト

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ブダペストと「ツィゴイネルワイゼン」

ブダペストと「ツィゴイネルワイゼン」


紀行文『異国の窓から』の中で、宮本輝氏はドナウ河について こう語っています。


~ハンガリーのブダペストを流れるドナウ河、そしてブルガリアとルーマニアの国境に流れるドナウ河は、それぞれ川幅も流れも速度も、色も、周囲の景観もまったく趣きを異にしている。
にもかかわらず、この三つのドナウ河は見事である。

バイエルンのドナウは、うねうねと曲がりくねって、ついきのうまで「美しき青きドナウ」であったかのような幻想をもたらせる。
ブダペストのドナウは、悠々としていて、しかも絶えずそこに黄昏を漂わせている。


サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」は、ブダペストの街と河が作曲家にそっと旋律を伝授して生み出された名曲だと思えてくる。

ブルガリアとルーマニアの国境を成すドナウは、終末感を帯び、寂しくひなびている。
イワノヴィッチの「ドナウ河のさざ波」の軽快なワルツは、きっと、ひなびた孤独な河がもたらしたのだという気がしてならない。


東西ヨーロッパの歴史は、この二千数百キロにおよぶドナウ河抜きにしては語れないが、
歴史に残ることのなかった無数の人間ドラマを、愛を、別離を、苦しみを、それぞれの国のドナウ河は飲みこんで流れつづけているのである。~



私がウィーンを訪問した数年前、ドナウ河といえば ヨハン・シュトラウス2世の「美しき青きドナウ」のイメージを抱いていました。
それを求めて、地下鉄で郊外まで足を伸ばしたものの、私の期待するドナウはそこにはなく、大河というよりも運河に近い、どこか人工的で味気ない川が目の前を素通りしたのです。

ですから、いくらブダペストが゛ドナウの真珠"と謳われていても、今回はさほどそれに対して思い入れを持つことはありませんでした。

けれど、ブダとぺストに挟まれた少し濁ったドナウ河を前に立った時、
独特の何ともいえぬ哀愁が肌にまとわりつき、それは不思議といつまでも いつまでも感触として残りました。
ドナウ河の印象は大きく変わり、本物の大河へと成長していたのです。


帰国後、そのドナウ恋しさに、宮本輝氏の『ドナウの旅人』を読んでみると、
その旅人の一人である母・絹子は、サラサーテの有名なヴァイオリン曲「ツィゴイネルワイゼン」に惹かれ、ドナウ河に沿って旅をしたくなったとあります。

ところが、私のドナウに「ツィゴイネルワイゼン」のイメージは一切ありませんでした。

どちらかといえば、「ドナウ河のさざなみ」の方がブダペストに合っていると思ったのです。


*

ブダペストのメイン・ストリートであるアンドラーシ通りの一角に、『Terror Haza(恐怖の館)』という博物館があります。
大晦日と元日は休館だった為、残念なことに今回の旅行では訪ねることができませんでした。

それは、第2次世界大戦中、ハンガリー極右政党であった「矢十字党」やナチスの本部として使われた建物で、
戦後は共産主義の秘密警察の本部として、また地下には政治犯を収容する牢獄があった場所を大改装したものだとか。
ハンガリーにおける共産主義時代を知る上で、貴重な場所の一つとなっています。

どの時代もどの国もそうですけど、こういう場所は、時の主導者によるプロバガンダ的要素が強いのも事実でしょうが、
そのベールに包まれた そう遠くない過去について、私には大変興味深いものがあります。


オペラ座での夢のような体験とともに、
帰国後に 少しづつではありますが、あらゆる角度からハンガリーの複雑さを調べることで、
ブダペストにおける煌びやかさの裏側とそのギャップに、
逆にサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」を強く感じるようになりました。


これが作曲された1878年は、オーストリア=ハンガリー二重帝国時代。
ハプスブルク家の支配下にあったものの、それでもまだ彼らに明るさがあった時代なのかもしれません。
その後に続く、幾多の苦難はまだ想像もされていなかったでしょう。


けれど、もともと陽気で逞しいマジャールの血を引く彼らです。
どんな苦境に立とうとも、そこから這い上がるマジャールの力をこの音楽は表現している、、、そんな風に思えたのです。
とりわけ、速いテンポの後半部分からそれを感じました。

この「ツィゴイネルワイゼン」も、ハンガリーのジプシー音楽や民謡を基にして、以前もご紹介した「チャールダーシュ」という舞曲形式なのだそう。

彼らはどんな思いを抱えて、この旋律に耳を傾けてきたのか、、、。

そんなことを考えながら、もう一度 宮本輝氏の文章を読んだ時、
彼の描くドナウがいかに深みを帯びているか、私は感ぜずにはいられないのでした。

picchuko版 『夢から醒めた夢』、、、。

picchuko版 『夢から醒めた夢』

豪華な内装に合わせたであろう ゴールドとワインレッドの無数の風船が、
2010年を迎えると同時に オペラ座いっぱいに溢れ出しました。

各ボックス、そして天井近くに飾り付けてあった風船が、この時を待って、一斉に降ってきたのです。

これは夢?
煌びやかな会場の中を、ふわふわと舞い降りる数えきれない風船のせいで、まさに観客は夢の世界を錯覚します。

ぽ~ん、ぽ~ん、、、
近くに降りてきた風船を、誰かがもう一度 上へと飛ばし始めました。

そんな風船と大勢の人達の合間を縫って、私は元の場所へと帰ろうとしました。
長い裾を踏まないように片手でスカートを少し持ち上げ、もう一方でグラスを持って…。


カチン。 
小さく音を立て、すぐ目の前のおばあさまとも、先ほどまで給仕してくれていたウェイターさんとも、
目が合った全ての人と新年を喜びあい、笑顔の乾杯を交わしながら席へと戻りました。

そして、席に着いた私を待っていてくれたのが、隣りのボックスのおじさま、、、ではなく、なんと 先ほどまで恐そうに座っていた 彼の奥さまだったのです!
いえ、全然 恐そうなんかじゃありません。
やはりご主人が素晴らしい方だけあって、その奥さまも優雅な物腰でグラスを軽く上げました。

「Happy New Year !!」

頭上にはまだまだ風船が舞っています。

ぽ~ん、、、今度は一つ 私のところへ飛んできました。
見降ろすと、あるおばあさまが笑顔で応えてくれています。 「私よ!」というように手を挙げています。
私もその風船を飛ばし返してあげました。^^

あちらこちらで、そうやって風船で遊ぶ姿が見られます。
私もお隣りのおじさまや奥さまとも 風船を飛ばし合い、しばらく楽しい時間を過ごしました。^^

そのうちに、今度は何人かがパ~ンパ~ンと風船を割り始め、
多くの風船が割られるその音が、美しいオペラ座内部で反響し、まるで打ち上げた花火のように響き亘りました。

この時、゛現実"という世界にいる人は、このオペラ座内では きっと一人もいなかったことと思います。
夢の中の そのまた夢の中へ、誰しも入り込んでしまったようです。^^


リサ達がステージで踊っているのが見えました。
おじさまも奥さまと腕を組み、ステージへと向かう姿が見えました。

今宵 オペラ座では、生演奏をバックに 夜通し舞踏会が開催されるというのです。


時計の針は0時30分を指していました。
このまま夢の世界に浸りたいけれど、ブダペスト滞在が短い私は、どうしても明日の余力を残しておかなければなりません。

今日出会ったばかりの素晴らしい大好きな方達に、
「ありがとう」と「さよなら」をこっそり心で呟いて、私は会場を去ることにしました。

*

クロークで預けたコートを手にし、足早に階段を降りようとしたその時、
深い黒色の髪と瞳を持つ私好みの男性から、「マダム。。。」と呼び止められました。

「マダム、足元に襟巻きを落としましたよ。」

シンデレラがガラスの靴を片方置き忘れてしまったのなら、私は同じく階段で 黒色の襟巻を落としたのでした。(^^*)

完璧だわ!(何が?・笑)
そう自分で自分に酔いしれながら、私はオペラ座を後にしました。


あぁ~、このまま 酔いが醒めなければ良かったのですが、、、。



picchuko版 『夢から醒めた夢』

オペラ座の面したアンドラーシ通りとその周辺は、2002年に世界遺産に登録された美しい大通りです。
別名、「ブダペストのシャンゼリゼ」と言われるほど。

午前0時をとっくに過ぎても、大晦日のアンドラーシ通りは輝きを失う様子はありません。

さて、ここからどうやって帰ろうかしら、、、。

地下鉄やトラムに乗っても、最寄りの駅からホテルまで少し距離もあることだし、
何より爆竹が建物に反響する派手な音が恐い。。。

私はタクシーでホテルまで帰ることを決心しました。


私は、ブダぺストの流しタクシーが宜しくないことを知っていました。
正規の料金よりも かなり高く請求されることも知っていました。

ですから、ブダペストでタクシーを利用する場合、
必ずホテルやレストランから信頼できるタクシー会社に電話してもらうべきだということも、十分過ぎるほど知っていました。


ですが、すっかりほろ酔い気分の私は、少しくらい高額でもいいかな~と、オペラ座前にずら~っと並んだタクシーに自分から近付いて行ったのです。

「どこまで?」 「ホテル・アトランティックまで。」
「じゃぁ、○フォリントでどう?」 
たぶん、ハンガリーの゛いまどきの兄ちゃん"って感じの運転手でした。

私は頭の中で、ホテルで頼んだ 行きのタクシー料金を思い出していました。 
確か1,500フォリントだった…。
いくら深夜といっても、4,000とは高いわねぇ…。

「せめて3,000フォリントでどう?」
「ダメダメ~、今晩は大晦日なんだよ。それにこんな真夜中、特別料金で当然さ。」

他に並ぶタクシーも、どうやら彼の仲間らしい感じです。

う~、寒くなってきたしなぁ~。 「まぁ、いいわ! あなたの言う料金でお願いするわ!」

まだ少し私は酔っていました。

タクシーに乗り、遠く鎖橋方面で打ち上げられている花火にしばし見とれながら、
はたと我に返りました!!

あ゛~!!!(><)
私ったら、完璧に酔っていたようです。

彼が言った「○フォリント」は、、、
実は4,000ではなく『6,000』だったのです!(><)。。

あまりに単純なミス、、、『six』と『four』を間違えるなんて!!!

6,000とは、通常料金の4倍ですぅ~!!!(><)

あぁ~、これこそが夢の世界であって欲しかった…。(T_T)


しばしお付き合い下さったシンデレラの夢は、こうして一気に醒めたのでありました。(爆)

せめてもの反抗は、「あんたになんか、チップをあげるもんですか!!」(><)

夢のあとさき。(後篇)

夢のあとさき(後)

「失礼。。。」
その一声に顔を上げると、そこには 私と同年代であろうドイツ人カップルの姿がありました。

「こんばんは。はじめまして。^^」
この方達と今宵、私はジルベスターを共にするのです。

*

オペレッタ『こうもり』は、
ヨハン・シュトラウス2世の代表作であるとともに、数あるウィンナー・オペレッタの中でも最高峰とされる作品です。
オペレッタは基本的に喜劇であり、またヨハン・シュトラウスの優雅なウィンナー・ワルツがその陽気さに一層の彩りを添えてくれます。

通常は、3幕からなる2時間半の上演なのだそうですが、
音楽は自由に挿入または省略され、観客を笑わせる為に、台詞や演出もその都度 アドリブが加わるのだとか。

それが一般庶民には少し敷居の高いオペラとは違う、「小さなオペラ」の意味を持つオペレッタの特徴でもあるのですって。


さて、その『こうもり』ですけど、

物語の舞台が大晦日の夜ということで、ウィーンをはじめドイツ語圏の主な歌劇場では大晦日恒例の出し物になっているとのこと。

まして幕中では、登場人物の一人である男爵夫人が仮面を被ってハンガリー伯爵夫人に扮したり、ハンガリー民族舞踊のチャールダーシュまで歌われるのですから、
まさにブダペストのジルベスターにぴったりの演目でした。


「ちゃんと楽しんでるかい?」
時々、隣りのボックスからおじさまが顔を出し、私の様子を窺います。

というのも、こんな夢のような舞台は初めての私ですから、舞台上の喜劇なんて そっちのけだったのです。(笑)

ただただ その豪華絢爛な内装に目を奪われ、
いえ、この貴重なオペラ座での時間をしっかり頭に刷り込もうと、何度も頭をもたげては辺りを見回していたのです。


それでも 言葉は分からなくとも、笑う場面くらいは分かります。^^
男爵夫人の小間使いが女優を装って、陽気に酔っ払いのバレエを演じるシーンなど、観客の笑いの渦がオペラ座内部を包み込みました。

「ちゃんと楽しんでるみたいだね。^^」

ええ、おじさまもとても嬉しそうだから、私も本当に幸せだわ!(*^^*)


*

オペラ座内がわっと沸いたところで、『こうもり』は終了。

上演時間はわずか1時間15分と短縮されておりましたが、今宵はなんといってもジルベスターなのですから、そんな 堅っ苦しいことは抜きですよね。^^

その後 少しの休憩が入り、観客の皆さんがロビーでシャンパンを楽しんでいる間に、
ステージ上には多くのテーブルが並べられ、カチャカチャと食器を並べる音が聞こえてきました。


「マダム、、、3人ともこちらでお食事されますね。^^」
蝶ネクタイをしたウェイターさんが、ボックス席にも ディナーの準備にやって来ました。

ステージ上は平土間席の観客用、各ボックスにはそれぞれタキシード姿の給仕が配置されているのです。

「ええ、後の二人ももうすぐ戻ってくるはずよ。」          

夢のあとさき(後)

小さなテーブルに、前菜が並べられます。

魚のマリネにオレンジとフェンネルで味付けされたサラダ、そして松の実でコーティングされた鹿の肉..etc。


「さぁ、私達も戴きましょう。」 

ベルリンからやって来たという その二人は、この夏にワイマールで結婚したばかりの新婚さんだと話し始めました。

あら、、、私ったらお邪魔虫ね。(実際、本当にお邪魔だったに違いありません。(^^;)
そんな私の表情をとっさにくみ取った その若奥さまは、
「付き合い出してからは、もう7年になるんだけどね。」ですって。^^

「あぁ、自己紹介がまだだったよねぇ。 僕はベルリンの大学で講師をしている○○だよ。」
すでにシャンパンでほろ酔い気分の私は、その若いご主人の名前を聞き洩らしてしまいました。

「こちらが妻のリサ。」
「はじめまして。 私、picchukoと申します。」

「日本の方なのね。 あら、私、中国語なら少しだけ勉強しているのに残念だわ。」
「じゃぁ、せっかくだから ニイハオということで。(笑)」


ステージの前方では、生演奏とともに様々な種類のダンスが披露され始めました。
(ステージ後方はボックス席以外の観客が食事を楽しんでいます。)

ワルツあり、タンゴもあり、次から次へと踊り手が変わります。


私は前菜を口にしながら、そのかなり手の込んだ独特の味付けに舌が慣れてくれず、
半ば水で流しこむように胃の中へと押し込みました。

「ねぇ、picchuko、、知ってた?」 「ん?」
「今日ね、私達 セーチェニ温泉に行ったんだけど、、、」 「セーチェニ温泉?」
「ほら、お風呂の中でチェスをするのが有名な!」

「その温泉の近くに、高級レストランの『グンデル』があって、そこでランチを取ったの。
それがとても美味しかったのよ~。^^

そしてね、picchuko、、、この晩餐もそのグンデルのものなのよ♪」


「グッ、、、!!!」 私は今 飲み込んだばかりの その料理を、喉に詰まらせそうになりました。

『グンデル~~~☆ w(◎◎)w』 
それはハンガリー一の、いや欧州でも名の通った超一流レストランではないですか!?

「ね、ナプキンにだってGUNDELって書いてあるでしょ!^^」 とニコニコ顔のリサ。


絶対に縁がないと思っていたグンデルの料理が、知らぬ間に目の前に並べられ、しかも゛美味しくない!"と感じた私の舌って、、、、。(><)

しかし、味覚とは 非常に奇にして妙なもの!
グンデルと知って、その後に出てきたメインディッシュのステーキの柔らかで美味しいことといったら、
デザートのチョコレートケーキの頬がゆるみっぱなしの美味しさといったら、、、

わぁ~、これが有名なグンデルの料理なのねぇ~、さすがだわ~。(^^ゞ)


ただし、極々庶民の私が最も美味しく感じられたものは、何を隠そう「マッシュポテト」なのでした。
ここだけの内緒話(?)、料理全般を絶賛し通しのリサもそうだったみたいです。(爆)


順調に食事と会話が進む中、私はふと気が付きました。
出逢って間もない彼らに対して、どうしてこんなにも親しみが持てるのかということを。。。

それは、彼らが私に声を掛ける度に、必ず「picchuko!」という呼び掛けから始まっていたことだと気付きました。

そういえば、これまで海外で出会った人達は、どの人も私の名前を何度も何度も口にしてくれたように思います。

親しみを込めて相手の名前を呼ぶ、、、
あまりにも簡単なことなのに、私はこれまで「you」で片づけてしまっていたのです。

意外にも、誰とでも仲良くなるコツは、相手が外国人であろうと日本人であろうと、こんな単純なことなのかもしれませんね。
      


夢のあとさき(後)

とうとう、2009年も残すところ後10分程となりました。

「picchuko、私達 ちょっと階下へ行って来るわね。」 
リサ達はそう言って、席を立ちました。

一段と盛り上がりを見せるステージ上では、一組、また一組と、観客までもがお互い 肩と腰とに手を回し合い、ゆったりとリズムに乗って踊り始めました。

こういうところは、やっぱり恋人同士か夫婦二人で来なくっちゃね。。。
階下には、ご主人と寄り添うリサの姿も見えました。
私、一人ぼっちだ…。

ちょっぴりセンチメンタルになっていると、またも隣りのおじさまと目が合いました。
「おじさまは踊りに行かないの?」

「じゃぁ、僕と一緒に踊るかい?」 
「まさか!(笑)」 私は奥さまに視線を向けて、そう答えました。

私が踊れるのは阿波踊りぐらいでんがな、、、。(笑)
場所が場所ならそんな冗談も言えたのでしょうけど、ここはオペラ座、しかもその時の気分はおセンチな私です。
そして、目の前にいる この方は、本物のヨーロッパ紳士なのですから。


「もう少ししたら、僕達もステージに行って来るよ。」 そう言って、彼は奥さまを指さしました。


夢のあとさき(後)

カウントダウンまであと3分を切りました。
誰しも、たった今 配られたばかりのシャンパンを片手にステージを見上げます。

私って、カウントダウンを迎える多くのカップル達をただ眺める脇役でしかないのかな。(;_;)
(実際には、おひとりで来られた おばさまや、3人組の若い男性グループなど他にも何人かいましたけれど…。)

やっぱり私の心はおセンチです。。。

ブダペストにいる場合じゃないわ! 
     今すぐザルツブルクまで飛んで行き、急いで婚活しなくっちゃ!!
自分で自分を慰めます。(苦笑)


その瞬間!
私のボックス席の扉がバタンと大きく開かれて、リサのご主人が「picchuko! 急いで!!」と飛び込んできました。

訳も分からず慌てて付いて行くと、
「ほら、ここからの方がステージがよく見えるわ!」 リサがシャンパンを傾けてくれます。

彼らは私を一人ぼっちで年越しさせない為に、
数時間前に知り合ったばかりの可哀想(笑)な日本人と新年の乾杯をする為に、わざわざ私を呼んでくれたのでした。

「A Happy New Year!」 

グラスの向こう、シャンパンの泡越しに、
ゴールドとワインレッドの二色の風船で形作られた『2010』という文字が浮かびあがっていました。


ありがとう。本当にありがとう。 あなた達の優しさは、私 一生忘れないから。。。

夢のあとさき。(前篇)

夢のあとさき(前)

「午後7時にタクシーを呼んでちょうだい。」
フロントのお兄さんにそう言って、私は一度 ホテルの部屋へと戻りました。

さぁ、もうすぐ夢の舞踏会。
2009年のクライマックスであり、華やかなる2010年の幕開けがあと数時間後に迫っているのです。

30分ほど横になって疲れを取り、軽くシャワーを浴びてから、ほんの少しだけドレスアップしました。

そして、もう一度だけ服装をチェックする為、私は鏡の前に立ちました。

じぃーーーっと、鏡に映る自分の姿を眺めていると、、、
この私が伝統あるブダペストのオペラ座の、ましてジルベスターガラコンサートにおいて、ボックス席に座るなんてそんなこと、
実はものすごく無謀であり、オペラ座の名誉すら傷つけることになるのではないか、、
まさかオペラ座の怪人でもあるまいし…、、、
臆病なもう一人の自分が頭をもたげ出しました。

トゥルルル・・・  「タクシーが到着しましたよ。」

複雑な気分で外へ出ると、辺りは深い霧で覆われはじめ、すでに幻想的な雰囲気に包まれていました。

この日の為に買ったグレヴィの帽子を深く被り直し、「オペラ座まで。」

*

午後8時の開場には少し時間が早かったけれど、
さすがに外は冷え込み始め、私はオペラ座の重い正面扉を押してみました。

そこには大きなクリスマスツリーが飾られており、
高級そうな毛皮のコートを着た紳士淑女の皆さんが、すでに数人集まっていました。

夢のあとさき(前)

私、場違い?
そんな不安そうな顔をした私に、皆さんは優しく笑顔を向けて下さいます。


誰かが、あっ!と声を立てました。
ふりむくと、あっ! lots of Mozart(s)!

夢のあとさき(前)

彼らは一人一人に「New Year's Eve Ball 2009 Budapest Opera」と書かれたゴールドの腕輪を巻いてくれ、チケットを確認していきます。

赤いビロードの絨毯が敷かれた階段を上り、クロークにコートを預けると、シャンパンが手渡されます。
今日だけモーツァルトに扮した彼らの一人が 私に深々とおじきをし、慣れないこの一観客をボックス席までエスコートして下さいました。

「こちらがあなたの6番ボックスです。」

扉を開くと、ワイングラスの並んだ小さな机が片隅に、そして舞台に面して並ぶ3つの席。
その最も右端が私の場所だと、彼はゆっくりと椅子を引いてくれました。

「さぁ、どうぞ。」
「クスヌム(ありがとう)。」

私はこの場所で浮いていないかしら…。 まだ少しだけ不安な気持ちが顔を出します。
だって、珍しくロングスカートを履いた私は、何度も何度もスカートの裾を踏んでは 躓いていましたから。(笑)

それに、なんとまぁ豪華絢爛な世界なのでしょう。

夢のあとさき(前)

ここが、あのウィーンよりもゴージャスなオペラ座なのね…。 
まるで夢の中に迷い込んだよう。 
いえ、夢でだって、こんな壮麗な世界に足を踏み入れたことはありません。。。

よ~く見ると、派手に着飾ったドレスを身につけている人は主に平土間席へ、
ボックス席には、シンプルながらもかなり高価であろうドレスに身を包んだ、年齢層の高い紳士淑女が現れました。

夢のあとさき(前)

ふと隣りのボックスに目をやると、白髪の洒落たおじさまと ちょうど目が合いました。
「君のカメラを貸してごらん。」 

オペラ座の美しい内装に、ひたすらカメラを構える私を、彼はずっと見ていたのでしょう。
いきなり、そう英語で声を掛けてきたのです。

一瞬、゛なんなの?"と躊躇している私に、彼は「君はフランス語しか喋れないのかい?」
「まぁ。ふふふ。^^」

そしてカメラを手渡すと、ボックス席に座る私の姿をカメラに収めてくれました。
ちょっと疲れが顔に出ていたのが残念ですけど、その貴重な写真は私にとって宝物♪^^

今だから恥ずかしげもなく言えますけど、
そのおじさまったら、とても渋くて味のある素敵な男性だったのですもの!
きっと、お若い頃はかなりのハンサムであったに違いありません。
今のお年でだって、彼に誘われれば、私はそのまま(しっぽを振って!・笑)付いていったことでしょう。(*^^*)

けれど残念なことに、彼の後ろには少し頑固そうな奥さまが、背筋を伸ばして整然とご鎮座あそばされておりました。(爆!)


さぁ、まずはヨハン・シュトラウス2世のオペレッタ「こうもり」の始まりです。

その舞台の途中でさえ、煌びやかなオペラ座の内装と、ボックス越しにウィンクを投げてくれる そのおじさまにクラクラしどうしのpicchukoなのでした。^^

聖なる右手?!

聖なる右手

*通りの向こうは聖イシュトヴァーン大聖堂【'09.12.31】


鎖橋を渡り終え、ぶらぶらっと聖イシュトヴァーン大聖堂まで訪ねてみるものの、「午後3時まではプライベートの式典の為、入場禁止」の貼り紙が…。
聞けば、内部では結婚式が行われているらしい。

綺麗な花嫁さんを見たい気持ちもありましたが、なにせ私は時間が極度に限られた身。(^^;

そこで、先にシナゴーグまで足を運んだというわけですが、
遅めのランチで活力も復活(笑)、再度 大聖堂を目指しました。



ブダペストで最も威厳に満ちた巨大な建造物、『聖イシュトヴァーン大聖堂』。
それは大きなドーム型の屋根を持つ、ブダペスト随一の大聖堂です。

建設は1851年から始まったものの、壁のひび割れや、嵐でドームが崩れ落ちるといったアクシデントの連続で、完成までに54年もの歳月を要しました。


大聖堂の名前からも分かるように、ここに祀られているのは、イエス=キリストでも聖母マリア様でもなく、初代ハンガリー国王イシュトヴァーン1世。
彼こそがハンガリーにおいてキリスト教を国教とし、アジア系騎馬遊牧民族であるマジャールの国をヨーロッパの一国として位置づけた、ハンガリー建国の父なのです。

後にイシュトヴァーン1世は列聖され、8月20日を゛聖イシュトヴァーンの日"とし、今も国民の祝日になっているのだそう。
毎年その日になると、この大聖堂に安置されているイシュトヴァーンの『聖なる右手』を掲げ、行列が行われているというのですから、やはり彼は国民的聖人なのでしょう。


その『聖なる右手』が、ここの一番の見所???
それは、大聖堂の最も奥、゛聖なる右手礼拝堂"に恭しく祀られております。

お忘れなく、、、彼が亡くなったのは1038年のこと、聖なる右手とは、墨のように黒くなった゛ミイラ"のことです。

聖なる右手

それはガラスケースに入れて保管展示され、100Ft(単純に50円)硬貨を入れると2分間ライトアップしてくれます。

何もわざわざミイラを照らすこともないかな~、と思いつつ、
きっと誰かがコインを投入するだろうとしばし待っていたところ、やはり現れてくれました~!!(^^)

それは、幼い子供連れのお父さん。
すぐに飽きてしまったお子さんに代わり、この私がまじまじとミイラ観賞をさせて戴きました。(笑)        

Wikipediaによると、
「遺体から失われていた右手がトランシルヴァニアで発見されてから各地を転々とし、1771年マリア・テレジアによってブダに戻されたものである」とあります。

*

はて、何故に右手だけ???と思いつつ、、、。

一部の欧米人は、右手が聖なる天を、左手が地獄を象徴するというのだそうです。
例えば食事の時、左手でパンを取ろうとすると、右手で取るように諌められるといいます。
パンは、キリストの身体であって、聖なる右手で取るべきものであるからです。

少し意味が違うかもしれませんが、ご存知 イスラム教、ヒンドゥー教でも右手は清浄、左手は不浄。

仏教国タイにあっても、左手で物をやりとりすることはタブーです。
(実際、バンコクで つい左手を差し出した私は、チャオプラヤ川に振り落とされそうになりました。・笑)

それは、トイレの際に使うのが左手だからというのだけれど、もともとトイレで左手を使うようになったことにも意味がある?

いや仏教においても、右手が仏、左手は衆生を表わすもの。
(余談ですが、左右二つを合わせて仏と衆生が合体した姿(合掌)が、成仏の相を表わすものと考えられているのだそうです。
いやはや、これは日本における二つで一つという考え方、「対の文化」にまで繋がっていくのだろうか???)


な~んて、ついつい浅はかに意味もなく考えを膨らませてしまいましたが、
イシュトヴァーンの遺体から右手だけが失われていたのは、その意味するところは 天でも仏でもなく、単なる偶然なのかもしれません。(^_^)


それにしても、これは黄金のガラスケースに入っているから眩しく映るのであって、
初代国王の『聖なる右手』と称されるから見たのであって、
拳を握ったその黒ずんだ右手は、少し薄気味悪くもありました。

「これを見たあなたは億万長者に!!!」
そんな嬉しいことでもあればいいのですが、、、、、そのようなことはどこにも書かれておりません…。(爆)

聖なる右手

~ イシュトヴァーン王は、1038年8月15日に逝去された。
    1083年8月15日、シュケシュフェルヴァールにて聖人に列せられた。
    生前のままの状態で発見された右手は、以後国民に非常に尊敬されている。~


* * * * * * *

生前、そのイシュトヴァーンの右手が指し示した先にあったものは…。


彼らの祖先が東方から現在のハンガリーの地に移住してきたのは9世紀末。
10世紀前半のハンガリー人は、おのおのの部族ごとに自由に行動していました。

そして、なお西へ南へと掠奪遠征を繰り返していたものの、955年に大敗を喫しことにより西方への掠奪は終焉せざるをえなくなります。

すると、今度は逆に国力を高めたドイツからの圧力を受けることになる。
ドイツの軍勢が攻め入ってくる、その最も都合のいい大義名分こそが「異教徒ハンガリー人の討伐」だったのです。

そこで、イシュトヴァーンの父・ゲーザはカトリックを受容し、ドイツとの友好関係を築こうとしました。

それを引き継いだのがイシュトヴァーン1世。
はじめは抵抗する者を容赦なく武力で制圧していたものの、力だけでは支配は永続しないことを悟り、
権威を必要とするため、ローマ教皇から王冠を授かり、紀元1000年クリスマスの日に戴冠して国王となりました。

ここにカトリック王国ハンガリーが誕生したというわけです。



なんだ~、じゃぁ、イシュトヴァーンよりもお父さんこそが建国の父に相応しいじゃな~い!
というのは、私の勝手な独り言。(笑)

民族と歴史と宗教の複雑な絡まりは、島国である日本で生まれ育ち、まして信仰心のかけらさえもない私には到底理解の及ぶところではありません。(^^;

ハンガリーで生きていけると感じた瞬間。(笑)

シナゴーグに到着した時、すでに私は足を引き摺っていました。

どこかでゆっくり座りたい。。。
かといって、シナゴーグの礼拝堂にいつまでも居座ることはできません。

そういえば、とっくに午後の3時を回っているのに、私ったら まだ昼食もとっていないじゃないの。
今晩はオペラ座でのガラコンサートもあることだし、少しでも何かお腹に入れておこう。


私はガイドブックを取り出し、シナゴーグのすぐ裏手にある「ケーク・ロージャ」という名のレストランをチェックしました。

ブダペストには趣きあるお洒落なレストランが数多くあります。
ですが、そういうお店は たった一人で入るにはちょっぴり敷居が高いのです。^^

その点、ケーク・ロージャはどこにでもあるごく普通のレストラン。
地元の若者がよく利用する、安くて美味しいと評判のお店です。
ケーク・ロージャという名前は゛青いバラ"を意味するとかで、そんなところも気に入りました。^^

その国ならではの一流店に入るのが旅の醍醐味なのであれば、
その国ならではの素朴な味を、庶民レベルで味わうというのも、これまた旅の醍醐味というもの。

日本人にとってのお味噌汁のような存在だという 代表的なハンガリー料理『グヤーシュ』こそ、どこにでもありそうな普通のお店が 一番家庭的な味なのでは(?)、、、
そう私は思ったのでした。
そして、まさしくケーク・ロージャはそんなお店だったのです。^^



そこで、定番のグヤーシュ・スープと、グリルした豚肉がメインのハンガリアン・メニューを注文しました。
値段は2700Ft。 単純に計算して、およそ1350円です。
(チョコレートパフェのようなデザート付き)

ハンガリーで生きていけると感じた瞬間

さほど寒くはなかったといっても、冬のヨーロッパ、しかも内陸部のブダペストです。
温かいグヤーシュを飲んだとたん、身体の芯から温もりを感じられました。

美味しい。 素直にそう思いました。

ハンガリーで生きていけると感じた瞬間

グヤーシュは、牛肉、じゃがいも、玉葱などをパプリカ風味でしっかり煮込んだスープです。
(韓国のキムチチゲよりは赤くないかしら…?!・笑)

もともとは、牛肉の煮込みならパプリカを使わなくてもグヤーシュと呼んでいたそうですけど、
18世紀後半に高価な胡椒の代わりとして広まったパプリカは、グヤーシュになくてはならない存在になったのだとか。


あぁ、美味しい。 

私の身体中の細胞の隅々に、その凝縮されたスープのエキスが染み込んでいく感じ。

好き嫌いの多い私は、こんなスパイシーなお料理は大抵が食べられないはずなのに…。


この瞬間、私はハンガリーで生きていけるような気がしてきたのです。(笑)

本当に、美味しい。。。 

たぶん、ハンガリーらしさを私の舌が感じ取ったのでしょうね。

なんだか心の底までも温めてくれるような、
きっと、このスープを作ってくれた方の心のぬくもりだったのでしょう。^^



<追伸>

ただし、グヤーシュの後に出てきたメインの皿は、どれもこれもが同じような濃い味付けで 、しかも このボリューム。(一枚目の写真)
私の胃袋は、今にもひっくり返りそうになりました!

それでも これが2009年 最後の晩餐か、、、と出来る限り口へと運びました。

まさか、数時間後に始まるガラコンサートが、最高級レストランの豪華ディナー付きだなんて思いもよらずに…。(><)

ハンガリーとユダヤ人。

ハンガリーとユダヤ人

ブダペストで どうしても行きたかった場所があります。

それは、ユダヤ教徒が集まる「シナゴーグ」です。

これまで数々のホロコーストに関する記事を読みながら、私はユダヤ人と称される人達の集まりを見たことがありませんでした。

アムステルダムでは、あの「アンネの日記」で有名な隠れ屋へ行ったりもしましたが、
そうではなく、現在もその場で礼拝が行われ、結婚式や教育の場として活躍するユダヤ人の生きた場所、それを見てみたいなぁ~と思いました。

な~んて書くと、まるで何かの研究者か宗教家とも思われそうですけど、
もちろん 無知な私はユダヤ教たるもの、一体どのような宗教かも全く理解できておりません。

正直に申しますと、ガイドブックに載っているユダヤ教独特の美しい内装をこの目で見たい!
という単純な理由だけなのでした。(笑)

*

ブダペストのシナゴーグといえば、まず名前が挙がるのが『ドハーニ(Dohany)街のシナゴーグ』。

3本の地下鉄が交差するデアーク広場から およそ500m、カーロイ(Karoly)通りを南に歩いて行くと、玉葱型の高い2本の塔が見えて来ます。

ここでは空港などと同じくセキュリティーチェックを受け、正面脇にあるチケット売り場で入場券と写真許可のお金を支払い、厳かな内部へと入っていきます。


ハンガリーとユダヤ人 ハンガリーとユダヤ人 ハンガリーとユダヤ人


ここは、欧州最大の、世界でも3番目に大きなシナゴーグなのです!!

1859年に完成したということは、数々の戦禍を潜り抜け、今なお当時の姿であるということ?

内部には男性1492席、女性1472席、合計2964もの信者席があるのですが、
改革派である このシナゴーグでは、メヒツァーと呼ばれる男女の席の間の仕切りはありません。

ちなみに、改革派とはユダヤ教派の一つであり、慣習や方針面における簡素化と、大きく違えた解釈を持つ、主にパレスチナの外で離散しているユダヤ人のコミュニティーなのだそう。(?…自信なし。。。(^^;)


すっかり観光化しているこの場所で、ユダヤ教徒だけはダビデの紋章が描かれた可愛い(失礼?)帽子を被って礼拝を行っていました。

私は何も考えず 一つの席に着き、その広々とした豪華絢爛の建築様式と、神妙に祈りを捧げるユダヤ教徒達に見入っていました。

はて?、、、私はちゃんと女性用の席に座っていたのだろうか?
そんな基本さえ守れなかったであろう自分を、軽々しくシナゴーグへ足を運んだそんな自分を、今では少し恥ずかしく思っています。。(苦笑)


けれど このシナゴーグ、美しい内装だけでなく、リストやサン・サーンスが度々弾いたといわれるオルガンまであるのですから、、、見応えは実にたっぷりなのです。

* シナゴーグにオルガン?と思われる方がおられるかもしれませんので、ここで一言。
その巨大なオルガンが存在するのも、このシナゴーグが改革派であるからだそうです。
色々と細かく難しい決め事が、どの宗教にもあるのですね~。


そして、そのような詳しいことは、帰国してから調べたこと。(笑)
その時は、ただただその場にいることに酔いしれておりました。


しかし いつまでもここにいる訳にいかないと、私は礼拝堂を後にして、裏手にある中庭へ、
ホロコーストの記念碑を見に行きました。

それは、柳の木をモチーフにした金属製のモニュメントで、その葉の一枚一枚にはホロコーストの大虐殺で犠牲になった人達の名前が哀しく刻まれているのです。

ハンガリーとユダヤ人


* * *


ハンガリーにおけるユダヤ人の迫害?

ユダヤ人が最初にハンガリーの地へやってきたのは3世紀ということですから、
ハンガリー人の祖先であるマジャル人がその地を征服するよりも、5~6世紀も前ということになります。

数々の変遷を経て、19世紀半ばのハンガリーにおいて、ユダヤ人の数は30万人に達していました。

ハプスブルク王朝からは冷遇されていた彼らですが、
オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立すると、ハンガリーでの国会においてユダヤ人の締め付けが解放され、才能あるユダヤ人達の活躍が目立つようになります。


20世紀前半にもなると、ブダペスト内だけでユダヤ人の数は20万人にも上り、シナゴーグの数も優に100を越えていました。

しかし この時代、決してドイツだけではなかった反ユダヤ思想。
ユダヤ人の職業の制限、財産の没収などの反ユダヤ法は、ナチス・ドイツがハンガリーを占領する以前に制定されていたのです。

なにも恐ろしいのはナチスだけではありませんでした。
ハンガリー国内においても、ドイツのナチス党を規範とする゛矢十字党"が結成され、
ナチスがアーリア人の民族的な純潔を表すのと同じように、ハンガリー人の民族的純血を示していきました。

そして、1944年にナチスに占領されるや、ハンガリー政府はすぐ各地にゲットー(強制収容所)を作り、
僅か2ヶ月の間に、全国で40万人以上ものユダヤ人をアウシュヴィッツ・ビルケナウ絶滅収容所へ送ったといいます。

また、矢十字党だけでも、一時期 毎晩のように50人ものユダヤ人をドナウ川に投げ込んで、溺死させたというのも信じ難い事実なのです。


あぁ~、私の知らない歴史でいっぱいだぁ~。
調べれば調べるほど、ぐちゃぐちゃで滅茶苦茶としか言いようのない事実が浮き彫りになるのです。><

*

日本人も辛い歴史を経ているものの、ただ我々には良くも悪くも『国』があった。。。


ふと、高校に入学したての頃、「『日本人とユダヤ人』という本を読んで、論文を書きなさい!」と、宿題を出されたことを思い出しました。

その時は、「なんでユダヤ人やねん!」と関西弁で思わずツッコミを入れてしまった私ですが。。。(^^;

その本は1970年に出版されたもので、当時 大ベストセラーになったということですが、
それより後に生まれ、ユダヤ人など全くの別世界だった当時の私にとって、その本の存在すら知る由もなかったのです。

今なら もっと興味を持って その本を読めるかもしれない。

ハンガリーとユダヤ人

ハンガリーまで行って、せっかくシナゴーグへ入ったのですから、
これからはもっと『ユダヤ』に興味を持ちたいなぁ~と思う、今日この頃です。

二つの街。

二つの街

『この人は、ブダペストに特別な思い入れがあるんだな。』

描写そのものからもブダペストへの格別な思いが溢れていて、文中においても「一番美しい街」と称している。


7つの国(1983年当時)をまたぎながら黒海へと注ぐ、欧州で二番目に長い河ドナウ。
その大河にそって、東西3000kmもの長い旅がはじまる。

西ドイツ、オーストリア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ブルガリアにルーマニア。
時代は、未だ東西に分厚い鉄のカーテンが降ろされたまま。

ハンガリーより以東は、すべてソヴィエト傘下の共産圏の国々というわけである。


それでも、次々と現れる魅力溢れる街の数々。
その中で、この作者は とりわけブダペストという街を愛してるんだな、、、そう私は感じました。


~ 麻沙子は部屋に入るとカーテンをあけた。
眼下にドナウのゆるやかな流れがあった。

対岸のブダの街の灯が、ドナウ河に白と黄の小粒な輝きを散らしていた。

ブダぺストが゛ドナウの真珠"と表現されることは知っていたが、
どうせ百万ドルの夜景と同じ陳腐な謳い文句であろうと予想していた麻沙子は、
確かに真珠としか言いようのない清楚な光を、いっとき我を忘れて見つめた。

ブダの街にも、ドナウの水面にも、糸が切れて散らばった首飾りの真珠が、ひとつひとつ独自の光を放って息づいていた。

烈しい雨が、それらを滲ませたり、揺らしたりした。

「ほんとに真珠ね」 麻沙子は溜息混じりに言った。
                       ~ 宮本輝著『ドナウの旅人(下)』より

これほどブダペストの夜景を そのままに描写した作家は他にいるだろうか、、、。

私は感心しながら、唸りながら次から次へとページをめくりました。


~ 「全ヨーロッパの中におけるハンガリーという国の、異邦人としての孤独か……。
つまらない学者の論考よりも、マサコのひらめきのほうが正しいかもしれないね」

シギィはしばらく頬杖をついて考えていたが、

「ブダペストは、元は別々の街だったんだよな。
ブダペストっていうひとつの街になったのは1870年代だ。

それまではドナウ河を挟んで二つの独立した街だった。

ブダは、ハンガリーの伝統を守る政治の街で、ぺストはドイツ人やユダヤ人が行き来する経済の街さ。

ぺスト、つまりペシュトはドイツ語から来た名前だけど、ブダは、ドイツ語にも由来していないし、
ハンガリー語でも意味不明だ。
どうしてブダっていう名前がついたのかハンガリー人にも判らないそうだよ」

そう言って、いたずらっぽい微笑を注ぎながら、シギィは麻沙子の頬を指でつついた。

「マサコのひらめきを展開して、ブダは、じつはブッダだったって推理はどうだい?」
「ブッダ?」
「インドのブッダ・ゴータマさ」 
麻沙子は声を殺して笑い、「でも、推理だけじゃぁペーターの論文の役には立たないわ。・・・」 
                                   ~ 『 同 』


二つの街

そのブダとぺストを初めて結んだのが、かの有名な『鎖橋』です。
正式名は、セーチェニー・ラーンツ橋。
全長375m、10年もの歳月をかけて造られた この橋が完成したのは1849年のこと。

しかし、ここにもまた、深く哀しい歴史が刻まれています。

そのすぐ後に勃発した対オーストリア独立戦争では、ハプスブルク家の軍隊によって爆弾が仕掛けられ一部が破壊。
橋は同年11月には開通したものの、第二次世界大戦では又もドイツ軍に破壊されてしまいます。

現在の姿は1949年に修復されたものですが、
1956年に起こったハンガリー動乱では、かつてナチス・ドイツからハンガリーを救ったソヴィエトの戦車が、この橋を渡って ハンガリーの自由を奪うことになるのです。

けれど、ベルリンの壁崩壊後、赤・白・緑の三色旗を持って集った市民が、やっと手にした自由を喜び祝ったのもこの場所なのだとか。


この橋はただの橋とは違う、、、誇り高いハンガリー人そのものなのだと、一歩一歩踏みしめながら渡りました。
そして、頬をかすむ冷たい空気を感じながら、橋から眺めたブダの街とペストの街。
二つの街は、それぞれに美しさを競い合うように、認め合うように佇んでおりました。


二つの街

ハンガリーで食べたスィーツ♪

ここ数年、オーストリアにて「オリジナル ザッハー・トルテ」と戦ってきた私ですが、
今回の旅行ではやむなく休戦。。。

けれど、ハンガリーのスィーツだって負けてはいません。

19世紀、オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立により、ここブダペストにおいてもカフェ文化が花開きました。

ウィーンと同じく、
カフェは、都市民にとっての社交場であり、雑誌や新聞などを読み暇つぶしをする場であり、
知識人たちが議論をし、執筆を勤しむ場でもありました。

その活気溢れる大都会ブダペストは、外国から一攫千金をねらうケーキ職人と、地元ハンガリー人とのケーキ作りの切磋琢磨の場所となったそうです。


そうと知れば、ますます期待が膨らみます!
私も文化人気取りで甘いスィーツに濃い珈琲でも一杯と、それも今回の旅行の楽しみの一つでありました。

* * *

王宮の丘をぐる~っと一巡した私は、休憩とその後の計画とを兼ねて、前もってチェックしていた『カフェ・ルスヴルム(Ruszwurm)』を探しました。
観光地の中心地にあり、何件も建ち並ぶカフェの中で、ひときわひっそりと 小さな入り口が老舗らしさを醸し出しています。
確か、高級磁器のヘレンド(Herend)ショップの隣りだったと記憶しています。

扉を押してみて、びっくり!
外からは静かな雰囲気しか感じられなかったのに、その日は観光客が多かったのか、中は人いきれで煙っていました。
その雰囲気は、19世紀の若者たちが新しい時代の幕開けへと熱く議論を交わした様子と似ているみたい。

いいねぇ~、いいねぇ~。^^
心の中でワクワクしながら、席が空くのを待っていました。

次から次へと運ばれるスィーツ!
それは、ハンガリースィーツの代表格「ドボシュ・ガトー(Dobos torta)」ではなく、
サクサクのパイ生地にバニラクリームをたっぷり挟んだ このカフェ看板「ルスヴルム・クレーメシュ」です。

ハンガリーで食べたスィーツ

これが非常に美味しくて、
このパイ生地のサックサク感がたまらなく美味しくて、
このバニラクリームの、まるで幸せを呼ぶような 甘さと滑らかさが とにかくとても美味しくて、
ここを訪れる人が、何故こうも揃いに揃って このクレーメシュを注文するのか納得することが出来ました。

美味しい♪ 一口食べた私は、きっと満面の笑顔だったことでしょう。(*^^*)

ただし、、、やはりそれも半分まで。
国内では かなりの甘党と自負する私ではありますが、このとことん追求された甘さに、本家ザッハー・トルテと同じく、とことん苦しめられてしまいました。
バニラのしつこい甘さと滑らかさが裏目に出てしまったのです。

甘さの種類は違うけど、これはザッハー・トルテだって降参する甘さかもしれない。。。><


おかげで、その全てを平らげた私は、以後 著しくスィーツ熱は低下します。(笑)

*

明けて、2010年1月1日。

まだ前日の甘さを引き摺りつつ、
グドゥルー宮殿のカフェで、皇妃エリザベート(シシィ)にちなんで「シシィ・カフェ」と名付けられた、アプリコット・リキュール入りの珈琲を飲むため、席につきました。

そこで 止めればいいものを、つい「ドボシュ・ガトー」を頼んでしまいます。

「ドボシュ・ガトー」とは、
死ぬまでレシピを明かさなかったというドボシュ・ヨージェフの黄金の手によって、1884年に生み出されました。
冷蔵技術が未熟だった当時、美味しいケーキをいかに長持ちさせるか悩んだ末、10日以上も品質を下げずに人々に愛されるケーキを完成させたのが始まりだそうです。

チョコとスポンジが幾重にも重なっているのが特徴ですが、6層以上ないとドボシュ・ガトーとは呼べないのだとか。
一流店のドボシュ・ガトーは12層もあるそうですよ。        

ハンガリーで食べたスィーツ

ところが、これがイマイチ美味しくない。><
スポンジはパサパサで、表面に乗るカラメルもガッチガチ。

いくら長期間保存できるといっても、まさか10日以上も前のケーキではないでしょうね~???
明らからに数日前のものでしょう!!!
新年早々、大外れです。><

ですが、リキュール入りの「シシィ・カフェ」の方は美味しかったです。
凭れた胃の中を、優しく温かくじわ~っと広がっていき、疲れが一気に解消されました。

あぁ、飲み物だけにすればよかった。

*

さて、ブダペストのカフェといえば、一番に名前があがるのが、『カフェ・ジェルボー(Gerbeaud)』。

ジュネーブ出身のジェルボー・エミルは各国で菓子作りを学んだあと、豪華で煌びやかに装飾されたロココ様式のカフェをブダペストで開きました。

1858年に創業され、シシィも作曲家リストも常連だったとか。

ここは、1/1の夕方5時頃に訪ねてみました。
すでに日没を過ぎています。

ハンガリーで食べたスィーツ

外観からして、なんて立派なことでしょう!

さぞ内装も素晴らしいのでしょうね~。
自分の服装をチェックしつつ 店内に入ろうとするも、そこには長~い行列ができておりました。

入り口では、ウェイターさんが中へ入ろうとする人を確認しています。
「カフェですか? テイクアウトですか?」

並ぶ人の多さにげんなりした私は、「テイクアウトです。」と偽って、とにかく中へ入ってみました。              

ハンガリーで食べたスィーツ

これは、勘弁。><

どんなに優雅な空間でも、これほど人がごった返している中でお茶を飲むのはご免だわ…。

これ以上 甘いケーキを食べる自信がなかった私は(飲み物だけでもいいけれど・笑)、
正直 胸を撫で下ろしながら外へ出ました。


あれから一ヶ月半、まだケーキに抵抗があります。(^_^)


次のオーストリアでは悲願の打倒ザッハーを果たす為にも、
この一年は甘さ控えめでいくことを、改めて心に誓うバレンタイン・ディーなのでした。(笑)

グドゥルー宮殿へ、ようこそ。

グドゥルー宮殿へ、ようこそ

*グドゥルー宮殿【'10.01.01】


あんなに固く閉じられた扉も、正午を少し過ぎて訪ねてみると、そこは大きく開かれ、
どこから現れたのかと思うほど、外国からの団体客で溢れ返っておりました。

館内をドイツ語やスペイン語が飛び交っています。
何気なく後ろから説明を聞こうかなぁ~と思いましたが、日本語じゃないのならお手上げです。(笑)

ですが、なかなかハンサム君が多かったスパニッシュ系の観光客。(*^^*)
何食わぬ顔でついて行こうとしたら、ちょいちょいっと館員さんに手招きされました。

まさか、「君はその団体じゃないでしょ!」って注意される~?
いえいえ、「クロークにコートを預けるように」、、、とのお言葉でした。(笑)

グドゥルー宮殿へ、ようこそ

存分にシシィのドレス('10.01.25日記)を堪能した後、階段を上り、
はい、写真はここまで、いざ入場です。

*

18世紀。
この宮殿は、女帝マリア・テレジアからの信望が厚く、当時 最も高い地位であった貴族の一人、グラシャルコヴィチ伯爵によって建てられました。

その後、1867年にはフランツ・ヨーゼフ皇帝の所有となり、夏の離宮として使われました。
乗馬を好んだシシィはこの城を特に気に入り、春から秋にかけて滞在することが多かったそうです。

しかし、シシィが暗殺された後、ハプスブルク家の者がこの宮殿を訪れることも稀になり、
やがて勃発した二つの世界大戦では国家元首の別荘として、
戦後はソ連兵の兵舎や老人ホームとして使われ、一時は廃墟のように荒れ果てていたといいます。

半世紀近く手入れがなされなかった建物ですが、数々の記録をもとに、1989年から1996年まで修復工事が行われました。
現在、その内の26の部屋を見学することができます。

なんと、バロック宮殿としては世界でベルサイユ宮殿に次ぐ2番目に大きなものだとか?!
広大な庭園に囲まれ、また宮殿内には乗馬学校や劇場、そして丘の上には六角形のパビリオンまでありますので、隅々まで巡ると その大きさは想像以上のものなはず。

きっと夏には木洩れ日の下、キラキラと眩しく当時の面影を感じさせてくれることでしょう。
できればもう一度、そんな季節に訪れたいものです。


他の宮殿と同じく、内部にはシシィが実際に使っていた家具や日用品、写真や絵などが数多く展示されていました。

印象的なのは、シシィが好んだというスミレ色の壁紙。
部屋が進むにつれ、段々と濃くなるスミレ色ですが、それを背景に最も奥にある大理石のシシィ像は一段と気高く 美しい姿で私を出迎えてくれました。
これまで色々なシシィ像を見て来ましたけど、私はこの宮殿のシシィが一番好き。^^
ハンガリー王妃としての戴冠式に臨んだ姿で刻まれています。

また、息苦しい宮廷生活になじめなかったという彼女らしく、来客を避けるための隠し扉も興味深かったです。
扉の後ろには、やはりスミレ色の小部屋があって、ここで息をひそめていたのかな。
私も内気だった子供時代、誰にも会いたくない時にこっそり隠れた思い出があって、
そんな自分とシシィとを重ね合わせて、思わずクスッと笑ってしまいました。

グドゥルー宮殿へ、ようこそ

ここでシシィは多くの夏を過ごしたんだ~。
ちょっぴり感極まっていると、ふと ちょうど一年前に訪れたオーストリアの「カイザーヴィラ」を思い出しました。
('09.01.29日記)


確か、カイザーヴィラはシシィの夫、フランツ・ヨーゼフ皇帝が好んで 毎夏滞在した宮殿。
ということは、やはり皇帝とシシィは別々に過ごすことが多かったのね。

激務に追われるフランツ・ヨーゼフ。
彼は仕事の合間に、シシィへ向けて数多くの手紙を書き続けました。

そんな寂しそうな皇帝の後ろ姿を、昨年 カイザーヴィラで切なくなるほど感じ取っていただけに、
なんとなく複雑な気持ちを抱きつつ、グドゥルーを後にした私です。。。

向かうは、グドゥルー宮殿☆

旅程が前後しますけど、せっかくですので『グドゥルー宮殿(ゲデレ城)』について先にお話したいと思います。


・・・ブダペスト東駅から鉄道にて直行1時間に1~4便。

         所要30分~、2等600フォリント、1等750フォリント。・・・


1月1日の朝、ホテルから徒歩10分にある東駅(ケレティ)へと向かいました。

郊外列車(HEV)で行けば、最寄駅を降りると すぐ目の前が宮殿なのですが、
ホテルからは東駅が便利だし、鉄道の方が分かりやすいかなぁ~と、↑の説明だけを頼りに駅へと向かいました。

東駅は、主な国際列車が発着する大きな駅です。
(ちなみに、ブダペストからザルツブルク行きの列車もここから発車します。)

向かうは、グドゥルー宮殿

とにかく、まずはグドゥルー(Godollo)までの切符を買わなくちゃ。
そこで他の駅と同じように、切符売り場のお姉さんに、
「どの方面行きに乗ればいいのですか? 次は何時の列車がありますか?」と尋ねました。

「インフォメーションで聞いて。」 
そっけない表情とその返事に、思わず心の中で「ケチッ!」と叫ぶ私☆。(笑)
これがザルツブルクだったら、乗換え場所や所要時間まで詳しく印字してくれるのに!!
('09.01.25日記)

しぶしぶインフォメーションへ赴くと、そこでは乗り場のホームと、帰りの時刻まできちんと調べてくれました。
なんて親切なんだ!(人間って単純なものです、、、って、私だけ?・笑)


ゴトゴト 列車は進みます。
片道たった30分の小旅行ですが、郊外へ足を伸ばすだけで、その街と少し親密になった気がして嬉しくなるのです。^^

車窓からは、中欧の冬らしい薄暗く寂しい景色が続きます。
途中、寒空の下で 貧しい人達がテント生活をしている場面も見かけました。
また 騎馬民族の国らしく(?)、目の前を一頭の馬が自由に(?)駆けて行きました。

これが夏であれば開放感に満ちた気持ち良さを感じるのでしょうけど、どんよりとした真冬の空では印象も一変してしまいます。

そうだった、ブダペストはハンガリーのほんの一部分の表情でしかないんだ…。
僅か30分列車で走るだけで、こんなにも風景が違ってくるんだ…。

そんなことを思いながら、気が付けば あっという間にグドゥルー着。
こちらの駅も、夏の離宮があった街だとは思えないほど、どこか寂れた雰囲気です。

向かうは、グドゥルー宮殿

さて、ここからは???
この街の象徴ともいえる『グドゥルー宮殿』ですから、駅を降りれば道順は容易に分かると思っていました。

ところが地図がない。 
いや、地図らしきものは目にしたけれど、どこに宮殿があるのか分からない。
先ほどまでいた人達も、私が地図を探しいる間にどこかへ消えてしまいました。><

ここまで来て迷子とは辛い!
必死で当たりを見回していると、ありました♪ ありました♪ 可愛い道しるべがありました♪                   

向かうは、グドゥルー宮殿

ホッと安堵しながら矢印の方向へ進むも、私の他に人影がありません。
長く続く一本道は両側に深い木々が立ち並び、見上げると 今にも雨が降ってきそう☆
不安になりつつも、私は足を速めました。

歩くこと15分弱、やっと周囲が開けたように明るくなり、宮殿の屋根らしきものも見えてきました。
安心と嬉しさで 喜び勇んで扉に駆け寄りました! 
開館は通常10時から、その時 時計は11時少し前を指していました。

ところが、、、
開かない…! 押しても、引いても開かない!!!
なんてこった! もしかして、元日は休み~?! 

ここまで来て休みとは、、、私が顔面蒼白でウロウロしていると、一人の禿げたお爺さんが顔を出してくれました。
なにやらハンガリー語で喋ってくれましたが、私には全く理解できず…。(T_T)
そしてあっけなく、扉はもう一度 固く閉じられてしまったのです。。。

ちょっと、ちょっとぉ~! 今日は休みなの? もう少ししてから開くのぉ~???

それさえも分からないなんて、帰りたくても帰れないじゃありませんか!><


ドンドンドンッ!  「おじぃさぁ~ん!」
私はその大きな扉を何度何度も叩きました。「さっきのお爺さぁ~ん!!!」

扉が少し開きました。 つるっとしたお爺さんの頭が覗きます。
「おじいさん!!」 その頭に髪の毛は少なくても、私は藁をも縋る思いです。。。

怪訝そうな顔つきで、お爺さんは又も何やらハンガリー語で捲し立てました。

「ハンガリー語じゃ、何を言われても分かんないよ!!!」

眉のつり上がったお爺さんと、困り顔の私がしばし睨めっこしていると、
扉の後ろから「May I help you ?」と優しそうな青年が現れてくれました。
きっと私達の様子を見かねたのでしょう。

これほど英語が有難く耳に響くとは!! 
「今日はお休みですか?」
「いいや、いつもは10時からだけど、元日の今日はお昼の12時からなんだよ。」


あ~、よかった、よかった。(><)

そして1時間、グドゥルーの町で時間を潰した後、もう一度 出向いたシシィゆかりの宮殿について、
長くなりましたので、今月 鑑賞した京都の「THE ハプスブルク展」と、
岡山の「華麗なるオーストリア大宮殿展」とともに、次回の日記で記したいと思います。^^

これぞ、ウエスト50cm☆

これぞ、ウエスト50cm


身長172cm、体重47~50kg、ウエスト50cm前後。
その体型を維持するために、絶えず努力を惜しまなかったシシィ(エリザベート皇后)。
特に全体の容姿を際立たせるために、ウエストには非常に気を配ったといいます。

理想的な体重保持の為、彼女は日々のエクササイズを怠りませんでした。
王宮内に運動器具が置かれていたことは有名ですが、
その他にも乗馬、水泳、フェンシングに凝り、特に好んだという乗馬の為にアイルランドまで出掛けたこともあるそうです。

早足で何時間も歩くことも運動の為に不可欠で、とりわけ歩くことの多かった旅先では、女官達が彼女に付いて行くことができなかったほどだとか。

* * *


そこまでして完璧な体型を目指した彼女の衣装が、ブダペスト郊外にあるグドゥルー宮殿(ゲデレ城)にも数点 展示されていました。

グドゥルー宮殿は、オーストリア=ハンガリー二重帝国成立記念に贈られた、シシィが最も好んで滞在した場所の一つです。
この宮殿については後日改めることにして、まずは彼女の衣装からご覧くださいませ。^^


「これ! これ、全部 本物なんですか!?」
興奮のあまり 部屋中を飛び跳ねながら、そう私は尋ねました。

「オリジナルはガラスケースに入っているもののみです。後は、すべて複製品なんですよ。」
ガラスケースには、衣装に施された刺繍の部分、そして歯並びの悪さを隠すために用いられた扇子などが並べられていました。

そうですよね~、オリジナルをここまで揃えるのは不可能ですよね~。

それでも、これまで憧れ続けてきたシシィの衣装が目の前に飾られているです!
それも、彼女が最も美しく輝いた時代に手を通した衣装の数々!!

これぞ、ウエスト50cm これぞ、ウエスト50cm

これぞ、ウエスト50cm これぞ、ウエスト50cm


どれほど豪華な衣装でも、急を要する場合には、30人のお針子が僅か2日間で縫い上げたのだそう。             


これぞ、ウエスト50cm  
これぞ、ウエスト50cm


ハンガリー王妃として戴冠式に臨んだ衣装も、乗馬に用いられた洋服も、
あの星型の入ったお馴染みのドレスまで、、、
生前の彼女の写真とともに、思う存分 眺めることができるのです。

洋服の隣りには、その服と同じ生地が並べられ、上等な手触りを確かめさせてくれました。
「わぁ~、とってもなめらかぁ~♪」


私って やっぱり女の子(?)なんだなぁ~って思った瞬間なのでした。(照)

エーヤン、エルジューベト!

エーヤン、エルジューベト!


一行はさらに東へと進む。 古都デブレツィンへ行くのだ。

ブダペストと違い、オーストリアへの敵意が根強く残っている街だ。

大聖堂広場には、市長以下 オーストリアと組んで儲けている連中が千人近く、黄色い旗を手に集まってくる。
黄色い地に双頭の鷲が縫い付けられた、オーストリアの紋章旗 ― これを振って皇帝夫妻をお出迎えというわけだ。

「おーい、馬車が城門をくぐったぞ!」
「いよいよ、オーストリア皇帝の到着だな。」

フランツ・ヨーゼフは、反オーストリア派の牙城デブレツィンでも、予想外の万を超える人出に驚いていた。
エリザベートの人気はここまで波及したのだろうか? 夫妻は玉座に立つ。

「オーストリア帝国皇帝、フランツ・ヨーゼフ一世陛下のために、ハンガリー語で万歳三唱を致しましょう。」
市長が音頭を取る。
ドイツ語でしないのは、あえて市民感情を考えたのであろう。 市長が音頭を取る。

「エーヤン、フランツ・ヨーゼフ!」
市長の取り巻きの親オーストリア派の人々が黄色い紋章を振りかざし、続けて声を上げる。
「エーヤン、フランツ……」
その時、群衆の中から一人の男が走り出る。 「ハンガリーに独立を!」
男は黄色い巻布を投げ捨てて、赤白緑の色鮮やかな三色旗を振り立てる。

「ハプスブルクはウィーンへ帰れ!」 「帰れ!!!」
今まで歓迎の人波と同化していた独立派の人々は、一斉に黄色い旗と見せかけた巻布を捨て、三色旗を打ち立てる。

即時に軍隊が威嚇射撃を始める。 人々は叫び声を上げながら逃げ惑う。
広場は一瞬の内に修羅場と化した。

「やめろ! 市民に発砲してはならない!!」 我に返ったフランツ・ヨーゼフは、すぐ軍隊に射撃を止めさせる。

皇帝はこのまま大多数の市民に背を向け逃げ帰るのか、、、それとも、この親善旅行を弾圧粛正で終わらせ、世界中に自分の統治能力の無さを曝すのか…。
フランツ・ヨーゼフは身動きが取れない。


すると、今まで黙っていたエリザベートが意を決したように一歩前に出た。

そして、辺り構わず羽織っていた濃紺のガウンを脱ぎ捨てた。 群衆はどよめく。
エリザベートが着ていたのは、白い絹のドレスの上に、赤と緑のオーバードレスが重ねられたもので、鮮明に三色旗がデザインされていた。

エリザベートは落ち着いた表情で、群衆に対し右手を挙げた。

「エーヤン、ハンガリー!」

美しいハプスブルク家の皇后が文字通り、全身全霊を上げてハンガリーへの尊敬を示したのだ。
              
~ ミヒャエル・クンツェ著『エリザベート 愛と死の輪舞』より抜粋 ~


*

エリザベート(エルジューベト)の粘り強い勧めを入れ、フランツ・ヨーゼフはハンガリーの独立を認めました。

とはいえ、完全独立という訳ではなく、ブダペストにハンガリー人の政府を開くけれど、外交と軍隊と財政の三つは、オーストリアと組んで行うこと。
そして、ハンガリー国王には改めてフランツ・ヨーゼフが、ハンガリー王妃にエリザベートが戴冠しました。

1867年6月8日。
ブダペストの王宮の丘にある『マーチャーシュ教会』で、ハンガリー歴代王にならって戴冠式が行われました。

エリザベートはその時、ハンガリー民族風衣装を身につけ、ハプスブルク家を快く思っていないハンガリー民衆の心を掴んだといいます。
ミヒャエル・クンツェは、その逸話を元に、ミュージカル『エリザベート』をこう描いたのかもしれません。


そして、この戴冠式のために自身が作曲した「戴冠ミサ曲」を指揮しながら、
ハンガリーが生んだ作曲家フランツ・リストは、「これほど美しい王妃はいないだろう。」と賛嘆したそうです。^^


*

ブダの丘に一際目立つ 高い尖塔を持つマーチャーシュ教会。
残念なことに、その尖塔は現在 修復中で、美しい外観は覆われていました。

ですが、内部の厳かな空間と 見事な主祭壇やステンドグラスに、しばし時を忘れ見入ってしまった私です。^^


私のハンガリー旅行の中で、あの美しいエリザベートの残影が最も強く感じれらた場所がここでした。

というのも、
数々の歴史に翻弄され続けた ブダペストの象徴であるこの教会と、

本来の自分を求めて放浪し続けたエリザベートの、美しさに隠れた哀しくも強い意志が通じるように思えたのです。


エーヤン、エルジューベト! エーヤン、エルジューベト!

ドナウ川のさざなみ。

そういえば、ホテルの朝食で一緒になった女性が言ってましたっけ。

「この街で地図を広げているとね、
何人もの人から、゛どこへ行きたいの? 道を教えてあげようか?"って声が掛かるのよ。」


そう。
私の場合も、行く先々でハンガリーの人達の温かさに触れる機会がありました。

くさり橋ですれ違った男性とそのご夫人、
「どちらから来たの?」
「まぁ、日本だなんて遠いところからようこそ! あなたから見て、ブダペストの街はどう?」
ただドナウ川を背に写真を撮ることをお願いしただけの私に、温かなまなざしでそう言葉を掛けて下さいました。

また、郊外からブダペストへ戻る列車の中でも。
私の斜め前に座っていた一人のお婆さん、
私の足元に置いてあって荷物をサッと除けて下さって、「お疲れでしょう。 足を伸ばすと楽になりますよ。^^」

オペラ座で隣りのバルコニーになったおじさまも優しい方でしたし、、、。

思い返すと、どれもこれもブダペストの少し霧がかった柔らかい情景と同化して、私の心にじんわりと広がっていきます。


一人 私は旅に出ると、例え「Excuse me!」の一言だけでもいい、沢山の方達と声を掛け合い、目を合わすようにしています。
友達になるには、まずはそこから。^^
世界中が友達の国になるように、その願いを込めて旅に出るのです。

特にハンガリーでは、逆に相手側から優しく声を掛けて貰うことが多かったように思います。
とても素敵な国なのだと、私は自信を持っておススメします☆^^

* * *


ハンガリー人(マジャル人)はウラル山脈を起源とし、9世紀頃に現在のハンガリーの地に定住しました。

その後、10世紀末に現れたイシュトヴァーン1世によってキリスト教に改宗され、ここにハンガリーの初代国王が誕生、王国が樹立されます。

13世紀にはモンゴル軍による襲来を受け、壊滅的な打撃を受けるも、
14~15世紀には中欧最強国となり、文化面でもルネッサンスが花開きました。

しかし、治世が安定していたマーチャーシュ王の時代が終わると、国政は大きく揺らぎ、貴族と農民の間に対立が深まります。

そこに力を付けて来たオスマン軍からの強い圧力を受け、
戦いに敗れたハンガリーは、以後 3分の2をオスマン帝国が、残りの3分の1をオーストリアのハプスブルク家によって支配されることになるのです。

オスマン帝国が軍事的に後退すると、その領土はオーストリアに割譲されました。
結局、支配者が全てハプスブルク家に代わっただけでのこと。
国内からは独立を求める運動がたびたび繰り返されるようになりました。

1848年の3月革命はロシア軍の介入により失敗に終わりましたが、オーストリアに民族独立運動を抑えるための妥協を決断させることに成功。
ハプスブルク家はオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨するものの、
両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合するオーストリア=ハンガリー帝国となりました。

その二重帝国も第一次世界大戦での敗戦で崩壊。
その戦後処理に締約されたトリアノン条約で、ハンガリーは国土の70%近くを削り取られてしまいます!
そして、30%もの国民が国外に取り残される形となったのです。

この時の失望感と悲壮感、失ってしまった土地への郷愁が世代を越えて今も受け継がれているそうです。
現在でも、学校の教室には割譲される前の国土地図を掲げているところもあるのだそう。
そして海に面していないハンガリーが、水泳やカヌーといった水物スポーツに力を注いでいるのも、現クロアチアの海岸線を失った屈辱によるものだそうです。

もちろん、その後の第二次世界大戦、共産主義国家としてのソ連の衛星国時代、ソ連による動乱の鎮圧、、、
近年においても、数々の辛く悲しい、そして厳しい歴史をハンガリーは乗り越えてきました。



その痛みが、ハンガリー国民を強く優しくしたのかもしれません。

今はその全てをドナウの流れが静かに呑み込み、国の行く末を黙って見据えているようです。

ドナウ川のさざなみ


皆さんも、、、

深い赤ワインを片手に、
アコーディオンで奏でる『ドナウ川のさざなみ』に耳を傾けながら、
ブダペストの情景を瞼に浮かべ、遠くハンガリーの歴史に思いを馳せてみて下さい。

ドナウ川のさざなみ(You Tube)

picchuko流 ブダペストの歩き方。

picchuko流ブダペストの歩き方

*「漁夫の砦」より、 対岸に見える美しい建物は国会議事堂です。【'09.12.31】


その日の朝、
まずホテルの位置確認をして、ブダペストの3本の地下鉄が交差するデアーク広場へ行こうと決めていました。

そこからブダペストのシンボルとも呼べる「くさり橋」までは およそ600メートル。
そこまで行けば、すぐ目の前に「王宮の丘」が現れます。


そこで とりあえず、ホテルから1キロメートル先にある地下鉄2番線「Blaha Lujza ter」駅を目指しました。

うっすらと立ち込めた朝靄の中、道端でパラパラと見かけるのは どうも地元人ばかりです。
むさ苦しい髭を生やしたおじさんや、薄汚れたジャンパーに手を突っ込んで歩く人。

さほど治安の悪い街ではありませんが、この時だけは ちょっぴり背筋が伸びました。^^


ホテルは街の中心部から少し外れにありました。
今回 泊まったホテルは3つ星クラス。
過去に5つ星クラスの豪華なホテルを選んだこともありますが、最もその国らしさを感じられるこのレベルが 私的には面白かったです。^^

それに、、、クリスマスからニューイヤーにかけてホテル代金が驚くほど高くなる中で(国にもよります)、今回選んだホテル・アトランティックは良心的なお値段だったことが決め手でした。

そんな感じですから、ブダペストの第一印象は私にとって薄汚れた裏町、、、です。(笑)


それでも欧州らしい石造りの建物に、そして上手く表現できませんが、どこかしら漂う欧州の香りに、゛今、私はヨーロッパにいるんだぁ~!!!"と、思わず奮い立ちました。(><)

浮足立つ心を落ち着かせながら、でも辺りをキョロキョロ、、、
               よしっ! 間違いなくヨーロッパだ!(笑)


しばらく歩くと大きな通りに出て来ました。
少し向こうにトラムが見えます。

そこで、地下鉄よりトラムの方が外の景色を楽しめるかも~^^ と急に思い立ち、「王宮の丘」方面のモスクワ広場行きに飛び乗りました。

たぶん、この時の私が一番ワクワクしていたと思います。/

少し遠回りのルートなのですが、ブダペストのシャンゼリゼ「アンドラーシ通り」と出合うオクタゴンを越え、徐々に街並みが洗練されていきます。

ドナウ川に架かるマルギット橋に入ると、見えてくる国会議事堂。
それは、世界でも指折りの、世界一美しいとも言われる建築物なのです。  ほぅ~(*^^*)

この瞬間、ブダペストにいる自分を自覚しました。(笑)

*

トラムに揺られて20分ばかり、モスクワ広場に到着です。
当初 計画していた「くさり橋」方面からは、丘を挟んで正反対の場所になります。


では、まず最初に訪れた「漁夫の砦」から!

建国1000年を記念して造られた「漁夫の砦」。 
1902年に完成した、まだ新しい観光名所ですね。^^

ユニークなこの名前は、かつてここに魚市場があったこと、また城塞の辺りをドナウの漁師組合が守っていたことより付けられました。
白い石灰石で出来ており、ハンガリーの遊牧民族のテントに似た尖った屋根が特徴です。

街の美化計画の一環として建造されたに相応しく、対岸からは可愛らしい尖がり帽子(?)がひょっこり顔を出してくれます。
そして、何よりこの場所からドナウ川を挟んで見下ろす景観が息を飲む美しさでした☆

夏には回廊の下部にあるカフェがオープンされるようなので、その時期 行かれる方は是非!

picchuko流ブダペストの歩き方

picchuko流ブダペストの歩き方


私は、回廊から柱ごしに見る景色が好き。
    まるで城塞の中から街を見下ろすお姫様になった気分を味わえますもの。(笑)

暗い日曜日。

~哀しみと甘さの絶妙なバランス、、、 たとえ歌詞がなくても私に語りかけてくるわ~

映画『暗い日曜日(Gloomy Sunday)』の中で、ある女性が「暗い日曜日」という曲を聴きながら口にした言葉です。

その夜、女性は手首を切って自殺する、、、そして、部屋には ただ延々と「暗い日曜日」が流れていた。


暗い日曜日

オペラ座(写真)からそう遠くない場所に、映画『暗い日曜日』が実際に撮影されたレストラン『Kispipa(キシュ・ピパ)』があります。

私は帰国後に映画を見たので、残念なことに そのレストランには行っておりませんが、
とてもしっとりとした趣きあるお店です。
ランチが大体 2000~2500円と ブダペストでは少し高めですが、ブダペストの雰囲気を十分に堪能できる場所として、次回こそはその扉を開いてみたいと思います。^^


*

1999年に公開された映画『暗い日曜日』。

それは、1933年にハンガリーで生まれた曰く付きの名曲、映画と同じ題名の「暗い日曜日」を元にして生まれた小説を、ドイツとハンガリーの共同で映画化されました。


・・・聴きながら自殺する者があとを絶たず、゛自殺の聖歌"と呼ばれる「暗い日曜日」。

第二次世界大戦前夜のブダペスト。
レストランを経営するラズロ、若く美しい恋人イロナ、ピアノ弾きアラディの3人は愛を共有し合うが、アラディが「暗い日曜日」を作曲したことをきっかけに運命の歯車が回りだす。・・・


この映画、まさに私好みでした!
しかも、ドナウの真珠と謳われるブダペストの輝きが存分に映し出され、不思議な色気のある映画です。

また、イロナ役のエリカ・マロジャーンがたまらなく魅力的で、それだけでも見惚れてしまいます。(*^^*)

しかも、何気にサスペンスなんですよね。 ホント、私的にヒット作♪

瞼を閉じて音楽を耳にすると、まるでブダペストの街自体がヒロインのような、ブダペストの為の旋律のようにも聞こえてくるのです。
とても素敵な調べです。^^

もしもまだ観ていないという方は、「明るい日曜日」にでもご覧になってみてください。(笑)

*

ハンガリーだけでも157人もの人を謎の死へ追いやったという「暗い日曜日」。

その後もその死の連鎖は世界に広がり、英国のBBCをはじめ世界各国の放送局がその音楽を禁止しました。

現在では、数多くのミュージシャンがこの曲をカバーし、すでに死へと導く歌として恐れられてはおりません。


では、何故にあの時代、かくも多くの人々がこの歌の為に次々と命を絶ったのか、、、?

あるサイトによると、
自殺を生み出していた本当の原因は、この曲ではなく、あの時代の重苦しい空気だったという。

その当時、世界的に重い経済不況と政治的緊張が続いていました。

「つまり、この音楽は、多くの名曲がしばしそう言われるように、
その時代の空気を余りにも生々しく旋律として引き受けたために、時代を最も鮮明な形で象徴してしまった。
結果、その陰鬱な旋律は、人々の感情をある衝動へと駆り立てるトリガーとしての機能を果たしてしまったのだ。。。」


私が思うに、
あまりにも美しいその旋律ゆえに、もしかすると人生最期の時に選ばれてしまったのかもしれません…。


映画より Glommy Sunday(You Tube)


暗い日曜日

私、刺繍が好きなんです♪

私、刺繍が好きなんです

*王宮の丘に建つ聖イシュトヴァーンの騎馬像【'09.12.31】


といっても、自分でチクチク刺繍をするわけではなく、
数ある工芸品の中で、特に伝統的な刺繍やレース編みが施された品物が大好きなのです。^^


ベルギーのレース編みも、ウィーンのプチ・ポアン(宮廷生まれの高級ゴブラン刺繍)も、ちょっと無理して買ったコレクションが私の部屋を特別にしてくれます。
(それは言い過ぎ?! ^^;)

「これ、お土産ね。^^」 はじめはニコニコ気前よく、そう母に渡すのですが、
「絶対に汚しちゃダメよ!」という言葉付きですから、いつも最後には私の手元に帰ってくるのです。
今回のカロチャ刺繍もそうでした。(笑)

*

時間があれば、ブダペストより約140kmほど南にあるカロチャという街や、刺繍を扱うお店がいっぱいの街 センテンドレにも足を伸ばしてみたかったのですが、
相変わらずの超特急の旅ですので、そんな贅沢は言ってられません。(><)

それに、商品価値の高い、丁寧に刺された刺繍ほど、本場カロチャよりも観光客の多いブダペストへ流れているようです。

そこで、ガイドブックに載っていた王宮の丘にある二つのハンドメイドショップへ立ち寄ってみました。
ここはブダペスト一の観光名所ですから、ブダペストを旅したことがある人は、きっと誰しも覗いてみたことでしょう。

私、刺繍が好きなんです

店内には、このように華やかな作品たちが 処狭しとぶら下げられています。^^

わぁ~、迷っちゃうな。(*^^*)


もともとハンガリーの刺繍の古くは、毛皮の縫い合わせに飾りとして色の糸を刺したもので、とあるお金持ちさんが美しい刺繍入りの毛皮のマントを作ったことに始まります。

チェーンステッチやクロスステッチなど基本的な技法で素朴な図案が多い初期の作品から、
次第に華やかなお花をモチーフとし、色々な模様が生まれてきました。

デザインだけでなく、刺繍糸の色も地域や宗教によっても異なるそうで、
ドナウ川とティサ川の間の地域では、カルヴァン教徒は赤を、カトリック教徒は青と黄色の色調を好んだそうです。

現在、お土産として最も親しまれている刺繍はカロチャ地方のもの。
白い木綿地に色彩豊かな花模様、そしてレースのような透かしが特徴なのですって。

一瞬、レース編みのように見えますが、木綿生地に一つ一つ穴を開け、かがりながら網状にしていく作業は気の遠くなる話ですね。


色鮮やかな作品に囲まれて、どれにしようかな~とグルグル店内を物色しておりました。

明るい色は喜びを、特に赤い花は生命の熱意を表しているとのことで、目が覚めるようなカラフルな作品たちが一番人気のようでした。^^

その時、単一の地味な色ではありますが、素敵な一枚が目に留まりました。

う~ん。。。
頭の中で値段交渉していると、店員さんが近付いてきました。

「綺麗でしょう~、こちらの方がもっと手が込んでいて綺麗ですよ。^^」 
次から次へと美しい作品を並べて見せてくれました。

「えぇ、どれもこれも綺麗だけれど、私はこれが気に入ったわ。」
元来 人にも物にも一目惚れするタイプなので(笑)、迷っているように見えても心はすでに固まっています。^^


そこで買ったのが、こちらの一枚。  幅35cm、長さ90cmのテーブルクロスです。

ですが、家で広げてみて気が付きました!
このテーブルクロスを飾れる大きなテーブルが、私の部屋にはないということを!><

今は悲しいかな、折り畳んで お気に入りのウェッジウッド用下敷きと化しております。

私、刺繍が好きなんです

陽気に Boldog uj evet !

陽気に Boldog uj evet !

ハンガリーの音楽を聴きながら、今 これを書いています。
今年始めの晩餐で聴いた音楽を…。


・・・Csardas (チャールダーシュ)♪

チャールダとは居酒屋、チャールダーシュは酒場風を意味するハンガリー語で、ハンガリー音楽の一ジャンルをそう呼びます。

実際には、ハンガリー音楽に貢献したユダヤ系作曲家の作品名から広まったそうですが、

これは、ハンガリーのダンス音楽である゛ヴェルブンコシュ"から派生をし、そこから次第に藝術的要素を増していった 19世紀のヨーロッパにおいて大流行した音楽です。


それらの基礎となった男性ダンス音楽が゛ヴェルブンク"で、
           このダンスと音楽が生まれた背景が ちょっぴり興味深い。^^

18世紀から19世紀半ばにかけて、ハンガリーでは兵士の補充に強制的徴兵に加え、゛募兵"という方法を取っていました。
その募兵活動は、居酒屋(チャールダ)において酒宴という形で行われ、陽気な音楽と旨いお酒で 軍隊生活をアピールしようとしたそうです。^^


なるほどぉ~、だからかな、、、
チャールダーシュの音楽は寂れた場末の酒場を連想させ、弾けるほどの陽気さを演じた中にどこか哀愁漂う独特の雰囲気を醸し出しています。

最も有名な「チャールダーシュ」は、イタリア人作曲家ヴィットーリオ・モンティの作品。
この有名すぎる旋律は、ブダペストの至るところでも耳にしました。

You Tubeで検索すると、私の大好きなDavid Garrettの演奏を見つけましたので、宜しければ聴いてみて下さいませ。^^ → (You Tube)


チャールダーシュとウィンナーワルツを融合させ名声を得た カールマーン・イムレ(エメリヒ・カールマン)の音楽も素敵でした。(*^^*)


* * *


「おはようございます。」
12/31の朝、アトリウムスペースを活かしたホテルのレストランで、一人の日本人女性を見かけました。

早朝7時、他の利用客はまだ布団の中のようです。

「おはようございます。宜しければ、一緒に食べます?」
彼女の言葉に甘えて、私も同じテーブルに着きました。

し~んと静まった中、私達は低いトーンで話し始めました。
8階の天井まで吹き抜けになっているそのスペースは、暖かな季節ならば天窓から漏れる光に開放感を感じるでしょうが、真冬の今は ただただ静かな空間を生み出していました。

彼女は12/20にドイツへ渡り、オーストリア、チェコ、スロバキアを経て、前日の午後にブダペスト入りしたと言います。
「昨日はもの凄く深い霧で、ドナウ川に架かる くさり橋も、その向こうにある王宮の丘も何もかも霞んで見えなかったの。
でも、夜に行ったレストランはとても楽しくて良かったわ。」

「そのレストラン、もしよかったら どこにあるか教えて!」

*

そして教えてもらったのが、東駅(ケレティ)のすぐ近くにあるレストラン『HUSZAR』です。

元日の夜、予約もせずにレストランの扉を押しました。
少し暗めの照明が落ち着いた店内を照らし、見回すと どうやら客は私一人だけのよう。

テーブルの上に置かれた蝋燭に火を灯しながら、「どこから来たの?」 そうお店のご主人が聞いてきました。

日本からだと答えると、彼は軽いおじぎに日本語の「ありがとう。」^^

そこへ二人の男性が、、、
一人はヴァイオリンを、もう一人はアコーディオンを持って現れました。

そこから広がる ハンガリー音楽に満たされた素敵な夕べ。
時おり「さくらさくら」や「浜辺の歌」など日本の曲を混ぜながら・・・。

疲れ切った私の心を溶かしてくれた陽気な彼らと音楽たち。
ブダペスト最後の夜は、少し懐かしく古めかしい調べに包まれて、優しく暮れていきました。         


陽気に Boldog uj evet !
*ライトアップされた くさり橋【'10.01.01】

picchukoサイズの旅を。

picchukoサイズの旅を

*残念なことに、行きも帰りもオーロラを見ることはできませんでした。

ですが、予想もしなかった暖かさに、寒さを一切感じることなく観光することが出来ました。
日中の気温はおよそ10℃。
吐く息は白くなく、手袋もいらない、お天気も良好の恵まれた旅となりました。^^



「picchukoサイズで、picchukoの見たいものを見て、食べたいものを食べて、行きたい所にいってらっしゃい。」
わが親友・きょんさんから、関空に到着したばかりの私の元へメールが届きました。

ブダペストは彼女にとってもお気に入りの街です。^^

「・・・旅のヒントは、敢えて省略!」と一言。 もぅ!意地悪なんだから~!!><
でも、そういうところが何とも彼女らしくって、
そうだよね、私らしい私サイズの旅をして来ることが一番大切なんだよね。^^
*きょんさん、どうもありがとう。


* * *

数独ばかりやってる場合じゃないでしょう。(笑)

日本を経って8時間後、やっとこの旅行の行程を考えようという気分になってきました。


さて、どこへ行こうか・・・。

実際のところ、オペラ座でのガラコンサート以外は何一つ決めていなかったのです。
結局、予習といってもハプスブルク家のことばかり。(^^;

ハンガリーの国名をハンガリー語で「マジャロルサーグ」といい、
ブダペストをマジャル語(ハンガリー語)で発音すると「ブダペシュト」、
しかも「ブ」にアクセントを置くということも、お恥ずかしいことに飛行機の中で知りました。

一体、どうなることやら・・・。(苦笑)

そこで、
すでに遅かりしかもしれませんが、念入りに『地球の歩き方』を読み、私なりに興味ある場所をチェック☆

ブダペスト滞在は正味2日間。
大晦日と元日だけですので、休館している博物館もしばしば、、、という残念なところもありましたが、、、

けれど、とにかくブダペストの今を肌で感じようと、
もうこれ以上は進めない、立っていられないというほど、街中を歩き回りました。
それは、両足の薬指の爪が剥がれてしまうほど。
そこまで無理する必要があったのかと、自分でも少し不思議なくらいです。


そして、ブダペストという街は、
過酷な運命に翻弄されながらも、その多くの苦難から這い上がった誇りに満ちた堂々たる姿で私を出迎えてくれました。

その美しさの下にある逞しさこそブダペストの素顔かもしれない。。。


親しみやすいザルツブルクにも、高貴なウィーンにもない、また違う欧州の魅力を教えてくれたブダペストの2日間。

これから始める旅行記を、宜しければ しばしお付き合いくださいませ。^^


* * * * * * *


◆12月30日(水)

16:20 予定より1時間早くパリ(シャルル ド コール空港)着

21:05 ブダペスト(フェリヘジ空港)着

21:30 ホテルチェックイン


◆12月31日(木)

8:30 トラムに乗ってモスクワ広場へ

8:45~13:30 『王宮の丘』散策
 ・ウィーン門
 ・漁夫の砦
 ・マーチャーシュ教会
 ・金の鷲薬局博物館
 ・王宮地下迷路
 ・カフェ『Ruszwurm(ルスヴルム)』
 ・カロチャ刺繍のお店『St.Valentin Folklor』
 ・マーリア・マグドルナ塔

13:40~14:15 くさり橋

14:30 『聖イシュトヴァーン大聖堂』へ行くも、15:00まで結婚式が行われていた為、その足で『シナゴーグ』へ向かう

15:00~15:30 シナゴーグ

15:35~16:15 レストラン『ケーク・ロージャ』で遅めの昼食

16:40~17:10 再度、『聖イシュトヴァーン大聖堂』へ

17:20~17:45 アンドラーシ通り

18:10 一旦ホテルに戻り、休憩&ドレスアップ

20:00~24:15 オペラ座にてジルベスターガラコンサート
 ・(20:30~21:40) ヨハン・シュトラウス作曲、オペレッタ『こうもり』
 ・(22:00~23:50) ダンスを見ながらの豪華ディナー
 ・(0:00) カウントダウン

0:40 ホテル着


◆1月1日(祝)

8:15~ ホテル近隣散策、東駅(ケレティ)へ向かう

9:40 ブダペスト発

10:20 グドゥルー着

10:50 『グドゥルー宮殿』に到着するものの、元日の為2時間遅れの12:00開館と知らされる

11:00 近隣のホテルで軽く食事

11:30~12:00 グドゥルー内を散策

12:10~13:50 グドゥルー宮殿(シシィ(エリザベート皇后)お気に入りの宮殿)

14:25 グドゥルー発

15:00 ブダペスト着

15:30 工芸美術館(元日の為、閉館 ><。。)
   (しかし この美術館の一番の見所は建物自体、しばらくその外観を堪能しました)

15:45~16:15 国会議事堂周辺を散策

16:30~17:10 ヴァーツィ通り
 ・カフェ『ジェルボー』
 (ここは恐ろしいほどの人混みでした)

17:20~18:00 夕闇に輝くブダペストの夜景を堪能

18:20~19:00 レストラン『HUSZAR』にて、ヴァイオリンとアコーディオンの伴奏つきディナー

19:30 ホテル着


◆1月2日(土)

4:30 ホテルチェックアウト

7:10 ブダペスト発

13:40 パリ発 関空へ

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