I love Salzburg

旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
MENU

旧ユーゴ旅行記・番外編

今さらながら、2006年に亡くなったロシア語通訳兼エッセイストの米原万里さんの本を読み漁っている。

彼女の代表作『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』を、ふらりと立ち寄った書店で手にして以来、物の見事にハマってしまった。

重い内容のはずなのに、コミカルに時に下ネタまでも織り交ぜて、なまじ教科書じみた歴史書を紐解くよりもうんと身近に1960年代以降の東欧の歴史を学ぶことができる。
いや、学ぶというよりももっと身近で、とにかく面白い。

*

『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』は、1960~64年までの5年間、著者が滞在したチェコ・プラハでのソビエト学校時代の3人の親友を通して、激動の東欧の真実の姿を個人の目線で描かれている。

米原さんは子供の頃から観察力も優れていたのだろう。
その上でさらに多くの体験を経た後、改めて少女時代の親友と再会を果たし、当時では知り得なかった真実と出会い、彼女ならではの洞察力と表現力でこの本が生まれたのだ。

その中で、3人目の親友として登場するのが、セルビアはベオグラード出身のヤスミンカ。
彼女について記した頁の中で、かつてのユーゴスラビアにおける紛争について書かれている箇所がある。

旧ユーゴは私にとって2012年を迎えた縁のある場所。
ここに、旅行記の番外編として、また旅行記の補足として、彼女の文章を写し出しておこうと思う。


* * *


ところで日本では無頓着に「東欧」と呼ぶが、どの国もこう括られるのをひどく嫌う。
「中欧」と訂正する。

ウラル以西を欧州とするなら純地理的には、当地域はそのへそに当たるが、地理的正確さを期して「東」を嫌がるわけではない。

「東」とは第一次大戦まではオーストリアまたはトルコの支配収奪下に、第二次大戦後はソ連邦傘下に編入されていたために、より西のキリスト教諸国の「発展」から取り残され、さらには冷戦で負けた側を表す記号だ。
後発の貧しい敗者というイメージが付きまとう。

「西」に対する一方的憧れと劣等感の裏返しとしての自分より「東」、さらには自己の中の「東性」に対する蔑視と劣等感。
これは明治以降脱亜入欧をめざした日本人のメンタリティーにも通じる。


(中略)


たしかにユーゴ多民族戦争の端緒となった91年6月のスロベニアとクロアチアの独立宣言の性急で強引なやり方にはそら恐ろしいほど激しい「脱東入西」欲を感じる。

両国がバルカン半島分割時代ハプスブルクのカトリック文明圏に組み込まれたのに対して、セルビア、マケドニア等はビザンツ帝国の正教文明を引きずったままオスマン・トルコのイスラム文明圏内で生きてきた。
しかも旧ユーゴでは経済先進地域とカトリック圏、後進地域と正教圏がほぼ完全にオーバーラップする形で「南北格差」が極端に拡大していった。

この矛盾を背に容貌上の特徴を言語も双子のように相似形の、カトリックのクロアチア人勢力と正教のセルビア人勢力の対立を主軸にして、それにボスニア・ムスリムが巻き込まれた形で今回の戦争(ボスニア紛争)は展開した。
各勢力とも優劣つけがたい残虐非道を発揮した。

ロシア語が理解できる私には、西側一般に流される情報とは異なる、ロシア経由の報道に接する機会がある。
だから、「強制収容所」や「集団レイプ」も各勢力においてあったことを知っている。


だがセルビア人勢力のそれだけが衝撃的ニュースとなって世界を駆けめぐり強固な「セルビア悪玉説」を形成したのは周知の通り。

NATOの三千数百回以上の空爆の対象とされたのもひとりセルビア人勢力のみであり、EUと国連の制裁にはセルビア人勢力の後ろ盾として新ユーゴ連邦まで対象とされた。


この一方的な情報操作のプロセスは今後早急に検証されるべきだが、現時点で気になるのは、ユーゴ戦争の両主役の支援諸国の宗教的色分けの露骨なほどの明快さだ。
EUでセルビア制裁に反対したのが正教を国教とするギリシャだけであることひとつ見てもそうだ。


そして現代世界の宗教地図を一目すれば国際世論形態は圧倒的にカトリック・プロテスタント連合に有利なことが瞭然とする。


* * *


改めて、旧ユーゴの旅、ドゥブロヴニクとモスタルで見た痛々しい傷痕を見つめ直そうと思う。


マルッシオの解釈はどうなのだろうか?
今も時々、彼に問いかけることがある。
もう二度と会うことのない彼ではあるが、今では私の心の友であるようだ。(笑)

スポンサーサイト

握手の意味 ・・・ ドゥブロヴニク&モスタル旅行記、最終章☆

旧ユーゴスラビアの旅から3ヶ月半。

2012年のミラクルは、思えば ボスニア・ヘルツェゴビナ南部の町 モスタルでマルッシオと奇跡の再会を果たしたことから始まったように思います。

あり得ないことが起こるんだ!ってこと、

これまでは自分の意思で行動していたと思っていたことも、実は大きな宇宙の意思に動かされていたんだってこと、

そして、もうそろそろ そういう見えない引力に自然の流れで従ってもいい時期なんじゃないかな~って、

自分を呼んでくれる場所へ素直に行ってみるのもいいんじゃないかな~って、

この歳になって やっと気付きました。(笑)


*

「ドゥブロヴニクとモスタル、君はどっちが気に入った?」
時間を気にする私に、マルッシオは尋ねてきました。

二つの町を単純に比較することはできないけれど、たぶん普通なら、ドゥブロヴニクと答える人が多いと思います。

でも、私はどこか寂れた、悲しいほど美しいモスタルにより魅力を感じていました。
「そうだね、僕もモスタルの方が好きさ。」

そういえば、私達。
アドリア海の真珠と呼ばれるような輝く美しい街よりも、こんな土埃が混じったような空気の方がお似合いかもしれないわね。

そんなことを思いながら、私はマルッシオを見上げました。


「もうそろそろタクシーが来る時間?」 
「うん。・・・」


少しの沈黙を破ったのは、少し離れた場所から大きく手を振るタクシードライバーのお兄さんでした。
「ごめ~ん、待たせちゃったようだね。」
ドライバーのお兄さん、サングラスの似合う、なかなかのイケメンだったのです。(笑)

「全然大丈夫よ~!」私も彼に手をあげました。


「昨日と今日、本当にどうもありがとう。 あなたは本当に親切な方ね。」
私はもう一度 マルッシオを見上げ、そう言いました。

先ほどまでお喋りだったマルッシオ、、、この時だけは黙って、私の伸ばす手を握ってくれました。

その大きな手と握手を交わし、軽くおじぎをして、私はタクシーに乗り込みました。

マルッシオもその場から立ち去ります。
その後ろ姿が、なぜか小さく、少し寂しそうに見えて、ここで初めて 私の胸もきゅん・・・としたのでした。

だって、本当に彼の背中が小さく見えたから。。。

私の気持ちを察してか、タクシーがマルッシオの横を通り過ぎる時、ドライバーのお兄さんが一度だけクラクションを鳴らしてくれました。

見上げたマルッシオの顔は本当に寂しそう。 
あんなにお喋りだったのは、本当はものすご~いさびしがり屋さんだからなのかもしれないな。。。

私はタクシーの窓から大きく手を振りました。

「ありがとう!!!」 その思いを込めて、マルッシオが小さく見えなくなるまで、私はずっと手を振り続けました。


2012-01-13 22:19:03

ドゥブロヴニクへ戻った私は、旧港の船着き場に腰を降ろし、しばらくこの旅を振り返っていました。


ホント、最初から最後までマルッシオとの二人旅になっちゃったわ。

苦笑しながら、静かに打ち寄せる波の音に耳を傾けました。


私が旅に出るのは、世界中の人と繋がりたいって思うから。

私が旅先で握手を交わすのは、世界中の人達を繋げたいと思うから。

私の手を通して、私が出会った色んな国の人達が握手を交わしている、そんな風に思えるから。



やっぱり私は一人旅の方が好きだけど、たまにはこんな二人旅もいいもんだわって、

やっぱり苦笑しながら、黒くなったアドリア海の波音を静かに聴いていました。


たった2日間の旅日記を記すのに、こんなに時間を要することになろうとは全然思ってもいませんでした。
それにも関わらず、最後まで私のドゥブロヴニク&モスタル旅行記にお付き合いくださいまして、まことにありがとうございました。

これで、私とマルッシオの旅は終わりです。

たぶん、マルッシオとはもう二度と会えないことと思いますが、あの2日間はかけがえのない思い出になりました。
もう伝えようがありませんが、今は彼に感謝でいっぱいです。


* * * * * * *


◆12月30日(金)

16:10 ウィーン着
    
18:30 ザグレブ着 ・・・ picchukoサンタ、2011年・最後の使命を果たす☆

22:00 ドゥブロヴニク着

22:30 ホテル・RIXOS チェックイン


◆12月31日(土)

6:30 起床

8:30 ホテル出発

9:00 『フランシスコ会修道院』入口にてマルッシオと出会う
 
   ドゥブロヴニク旧市街観光
    ・フランシスコ会修道院、薬事博物館
    ・ルジャ広場
    ・聖レヴェリン要塞から城壁一周
    ・スポンザ宮殿
    ・大聖堂
    ・旧総督府
    
13:30 ランチ

14:00 セルビア正教会
    
     カフェにて食後のコーヒー
    
14:30 マルッシオと別れてスルジ山へ向かう

     スルジ山から旧市街を見下ろす

16:00~17:00 バニェビーチ

17:30~19:30 旧市街をぶらぶら散策&ショッピング

20:00 ホテル着


◆1月1日(日)

7:00 ホテルのベランダからアドリア海の初日の出を拝む

8:00 ホテル出発

8:30~9:30 ドゥブロヴニク旧市街観光
        ・プラツェ通り       
        ・ルジャ広場
        ・聖ヴラホ教会
        ・大聖堂
        ・聖イグナチオ教会
  
9:30~11:30  タクシーにてモスタルへ

11:30~14:00 モスタル観光
         ☆マルッシオと再会☆
         ・旧市街オールド・バザール
         ・スタリ・モスト
         ・コスキ・メフメッド・パシナ・ジャーミヤ(イスラムモスク)
         ・カラジョスベグ・ジャーミヤ(イスラムモスク)
         ・フランシスコ会修道院(カトリック教会)

14:00~16:00 ドゥブロヴニクへ

16:00~16:30 ドゥブロヴニク旧市街観光
          ・フランシスコ会修道院
          ・ドミニコ会修道院

16:30~17:30 カフェ・グラツカ・カヴァナ

17:30~18:30 旧港

18:30~19:00 ショッピング

19:00~20:00 シーフードレストラン・プロトにて夕食

20:30 ホテル着


◆1月2日(月)

4:30 ホテル チェックアウト

6:40 ドゥブロヴニク発

8:30 ザグレブ発

13:15 ウィーン発


2012-01-16 18:43:06
私をモスタルへ連れていった張本人(?)・笑

石の花。

さて、アルゼンチン人のマルッシオ君とpicchukoさんには モスタルでの残り僅かな時間を仲良く楽しんでもらうこととして(笑)、

まず、私が帰国後に出会った、バルカン半島を舞台とする優れた漫画をご紹介いたします。



それは、あの手塚治虫先生でさえ一目置いていた坂口尚さんの作品『石の花』。

時は第二次世界大戦時、ナチスドイツが旧ユーゴスラビアに侵攻するところから話が始まるわけですが、、、

これを読むだけで、後に続く内戦の火種を理解することもできるし、

当時 枢軸国に分割占領されたユーゴスラビアが、いかにナチスドイツに立ち向かい、その中で国をどう模索していったかを知るのに、非常に勉強になりました。

それも、政府ではなく民衆の力で。

もちろん、これは第二次世界大戦下のユーゴ対ドイツとして読むこともできるし、
これを世界の縮図として、人類共通の物語として読んでみても面白いのではないか、と私は思います。


坂口さん自身も、「なぜ、ユーゴを選んだのか?」という問いに、

民衆が抵抗に立ち上がったパルチザンに興味を引かれたことと、

5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字が存在する複雑な環境であることが、積極的な創作動機になったと答えています。

そして、その極限の時代を生き抜いた一人の少年と仲間を通して、人間の本性と平和の本質に迫るという大きな挑戦に挑んでいるわけです。


一見、戦争もの、歴史ものということで抵抗を感じる方もいるかもしれませんが、

これ、本当に面白い! 中身が濃いぃ~!

最初はパルチザンって? チェトニクって~?っていう状態から読み始めた私です。

ですが、知らず知らずに もっとユーゴについて、その現代史について勉強したいと思わせる引力が並みではなくて…。

ちょっと私の中で、ユーゴスラビアブームが巻き起こっております。(笑)


* * * * * * *

2012-01-13 22:23:23


モスクの塔からも目に付いた、ネレトヴァ川対岸のカトリック教会の前に私達はいました。

「ほら~、ドゥブロヴニクにもあっただろう? 
クロアチア最古の薬局があった修道院と同じ、ここもフランシスコ会の修道院なんだ。」


「ここの鐘楼は、この辺りで一番高い建物なんだってさ。 登ってみる~?」

悪戯っぽく目をキラキラさせながら、マルッシオは私の顔を覗きこみました。

「ふんっ、いじわる~!><」
「あははは~。」

私達は教会の扉を引いてみました。 
けれど残念なことに、どの扉にも固く鍵がかけられており、私達は中に入ることができませんでした。

「もう時間だし、、、。」
私の腕時計は、すでに1時55分を示していました。

「じゃぁ、戻ろうか。」

「あ、でも最後にここだけは行った方がいいよ!」
マルッシオはますます早足で、私に付いて来るよう合図します。

「ほら、ドゥブロヴニクまでは遠いから、タクシーに乗る前にここだけは済ませておかなくちゃ。」

私は思わず笑ってしまいました。
「あはは、そうだね。ここだけは済ませておかなくちゃね。^^」

マルッシオが真顔で案内するもんだから、いったいどこへ連れていかれるかと思ったら~、

そうです、公衆トイレでした!(爆)


こんな細やかな気遣いまでできるマルッシオとのお別れまで、後10分です。

スタリ・モスト

スタリ・モスト

橋を守る人を意味するモスタルという街は、その名の通り橋とともに歴史を歩んできました。

ネレトヴァ川に架かる長さ約30メートル、高さ約20メートルのアーチ形の石橋『スタリ・モスト』は、橋脚を持たない頑丈な一本橋。
それは、セメントを一切使わず、組み合わせた石を鉄の鉤で補強して造られたオスマン建築の傑作です。


もともとモスタルは、15世紀~19世紀にかけてこの地を支配したオスマン帝国と、その後のオーストリア・ハンガリー帝国統治時代の建築物が巧く共存している美しい街ではありましたが、

1992年3月に旧ユーゴスラビアからの独立を巡り勃発した、ボスニア紛争の激化を逃れることができませんでした。

それは、正教徒のセルビア人、キリスト教徒のクロアチア人、イスラム教徒のボスニア人による民族的、宗教的対立とも重なり、

美しい街は戦火に巻き込まれ、街の象徴である『スタリ・モスト』も爆破されてしまったのです。


内戦は1995年に終結。
紛争後はEUによる監視の下に政治的統制が行われ、ユネスコなどの支援によって破壊された『スタリ・モスト』と周辺の歴史建造物の再建が行われました。

橋の修復には、川から回収した破壊された石材をも利用したのだとか。

1999年に開始されたその修復も2004年には完成し、その7月、石橋の修復記念式典が行われたそうです。

昔日の姿を取り戻した『スタリ・モスト』は、その歴史的価値だけでなく、国際協力と人々の団結、多民族・多文化の共生や和解の象徴として、2005年に世界遺産に登録されました。

スタリ・モスト

「それでも、街中に砲撃の痕がある建物が残っているよね。」

紛争から15年以上経つ今も、旧市街の至るところに破壊された建物がそのままの状態で存在していました。

「ドゥブロヴニクでも紛争は激しかったけど、あの街と比べると ここはとても貧しいからね~。」
マルッシオも目を細めながら、銃弾の痕を見上げました。

当然のことでしょうが、住民は内戦の傷痕には目もくれず、街を往来していきます。
その痛々しい傷痕も、街の景観のひとつになりきっていました。
すでに違和感がないほど、その銃弾の痕は街の景色に同化しているのです。

あ、だから街に着いた当初はそれに気付かなかったんだ!

「それでも酷いよね。」

一見、昔の姿を取り戻しているように見えても、それは上辺だけ。
街の姿でさえそうなのですから、ここで暮らす人々の見えない心の傷はどれだけ深いことでしょう。

さすがの私も、その傷痕にカメラを向けることはできませんでした。

橋から眺める緑色したネレトヴァ川。 今日も静かに街を見守っています。

スタリ・モスト


私のモスタル滞在も残すところ30分をきりました。

「タクシーとの待ち合わせ時間は?」
「14時だよ。」
「あんまり時間がないね。ちょっと急ごうか。 で、どこで待ち合わせしてるの?」

私は旧市街でゆっくりしたかったのですが、マルッシオはその先にあるカトリックの教会へ私を案内したいらしく歩を速めます。

最後の最後までマルッシオペースだな。(笑)


その時、足元に子犬が駆けよってきました。
思わず「可愛い~~~☆」と日本語で私。^^

「犬好きなの? 飼ってるの?」
「うん、ポメラニアンを2匹飼ってるの~。^^」

「へぇ、なんて名前?」
「クリス。」
「もう一匹は?」

え?
咄嗟に言葉が詰まりました。

というのも、私のもう一匹の愛犬の名前は「ヨンサマ」。
決してペ・ヨンジュン氏のファンではないのですが、当時の流行に合わせて付けた名前です。(笑)
それも月日の経過に伴って、
今では動物病院で「どうぞ、お次はヨンサマ~。」って大声で呼ばれる度、赤面してしまいます。^^;

あぅ~、マルッシオにバカにされるぅ~。(><)
「え~と、え~~~~と、ヨンサマって言うの。^^;」

「へぇ、ヨンサマか~。 それって日本名?」

あ、そっか!
日本ではお馴染みのヨンサマではありますが、そりゃマルッシオは知らないよね☆
つい日本にいる感覚で話していました。(笑)

「そうそう、そう日本名よ!」 
これって、日本名かな~? 日本名でいいんだよね? と自問自答しながら、、、。(*^^*)


ここまで来て、ヨンサマ話題(?)になろうとは!

一匹の子犬のおかげで、先ほどまでの重い気分が随分と楽になった私達。

銃弾の痕を縫いながら、ネレトヴァ川より西側のカトリック圏へと入って行きました。

モスクでのひとこま。

2012-01-13 22:22:40

う…。

ここを降りるのか、、、。

あ~、どうか誰も登ってきませんように。(><)

というのも、先ほど登っている最中に男女二人が降りて来て、私は壁に張り付くように、相手は柱にしがみつくように、お互い命がけですれ違ったのでした。(苦笑)

相手の女の子は「怖い、助けて~」って動けなくなるほど怯えていたし、、、。
確かに足が竦むよね、ここ。


あ~、どうか何事もなく日本へ帰れますように。
今回の旅、危険なことは一切なかったけれど、ここに来て 初めて「無事」を祈ったのでした。(笑)

ずりずり、ずりずり、、、。

こんな狭い階段、一体誰が設計したんだよっ!って、最後は16世紀のトルコ人設計者にまで文句を言う始末。


「はぁ~、もうへとへとだよ~。><」

なんとか下界に降りた私は、モスクのおじさんとマルッシオに大きなジェスチャーで、その大変さを伝えました。

「ははは。」 二人とも、なんだか楽しそうに笑っています。

「ははは、ご苦労さま。^^」 
もぅ! この大変さを知ってたんなら、初めから教えてよねっ☆(怒)

*

モスクを出て、立ち去ろうとする私達をおじさんは呼び止めました。
「ちょっと庭も案内してあげるよ。^^」

私が必死で塔に登っている間、二人はかなり仲良くなっていたのでしょう。
そう、私をダシにしてっ☆(怒)

前庭には泉があり、裏手には墓地がありました。

「平らな墓石が女性で、男性の墓石はとんがってる方だよ。」
マルッシオは指さしながら、私に説明を始めました。

「そうそう、君はよく知ってるね。」おじさんは感心した表情でマルッシオに言いました。

クロアチアもそうだけど、ボスニア・ヘルツェゴビナでも英語が普通に通用するんだ~。
言葉の垣根がないっていいことだなって、二人の会話を耳にしながら、つくづくそう感じました。
そう改めて思うほど、二人の仲がいい感じだったのです。

だから、そんな雰囲気を写真に撮りたくて、私はおじさんに頼みました。

「彼女、写真を撮るのが好きなんだよ。 良かったら写ってやってよ。^^」とマルッシオ。

くぅ~、私が写真を撮るのはね~、ブログに載せる為なんだよっ☆(怒)
で、なんやかんやケチつけながらも、意外とマルッシオって私の写真に写ってるよね。(笑)


「じゃぁ、撮るよ~。」

すると二人ったら、私は何も頼んでいないのに、仲良く「ピース!」ってVサインをしてくれました。

2012-01-13 22:22:12

大の大人が、それもいい年した二人の男性が、何やってんだか!(笑)


なんかこの雰囲気いいな~。^^

モスタルに滞在できる限られた時間、タイムリミットが刻々と近づくこの時になって、この出会いに終わりが来ることが非常に残念になってきました。


胸の中に寂しさが広がっていくのを微かに感じながら、

おじさんに大きく手を振り、マルッシオと私はカラジョズ・ベグのモスクを後にしました。

モスタルの風景。

第二次世界大戦で大きな被害を受け、後に修復されて今に至る カラジョズ・ベグのモスクは、
1557年にオスマン朝の宮廷建築家(トルコ人)によって設計され、ドゥブロヴニクの石工たちによって建造された、ヘルツェゴビナ地方で最も重要なモスクなのだとか。

それは、モスタルの目抜き通りであるチトー通りに面して建っていました。


「ここは中を見学できるはずだから・・・。」
マルッシオは先ほど訪ねた このモスクへ、再び私を案内するために引き返してくれました。

前日に知り合ったばかりなのに、私は彼にすっかり甘えて、それが当然のように彼の後に付いていきました。

「ちょうど先ほど礼拝が終わったばかりなんだそうだ。」
そう言いながら、マルッシオは中から出て来たおじさんに軽く手をあげました。

すでにマルッシオとは顔見知りになっていた そのおじさんに入場料を支払い、生まれて初めてモスク入場です。

モスタルの風景

テレビなどで見るイスラム寺院のモスクって、大抵 大勢の信者さんが処狭しと並び、深々と下げた頭を床につけてるイメージが強くて、モスクそのものの内部や装飾を意識的に見たことって、私はこれまでなかったように思います。


へぇ~、本当に清潔なんだ~。
もっと臭いイメージだっただけに(笑)、予想外の明るさと美しさに感動してしまいました。

床には色とりどりの絨毯が美しく敷き詰められています。


この場所で、低く穏やかに流れるコーランを聴いていたら、きっとすごく癒されるんだろうな~。
ほんの少し、イスラムに傾倒していく人達の気持ちが分かったような気がしました。(笑)


決して大きく華やかなモスクではないけれど、地元の人達とともに歩んできた歴史を感じられる温かい場所。

この狭さが逆に安心感を与えてくれるようにも思いました。


「女性は二階席なんだ。」
おじさんは扉を開け、私に階段を登るように言いました。

「塔にも登る?」
「あぁ、彼女は高いところが好きだから。」 私が返事するまでもなく、マルッシオが答えます。

「ね、登るよね? 僕にはこの螺旋階段は狭すぎるから、塔には一人で登っておいで。」
ちょっぴり悪戯な表情で、マルッシオは笑っています。

「じゃぁ、行って来るよ!」
高いところが大好きなpicchukoです!(笑) 元気いっぱい手を振って、階段へと向かいました。


う・・・。

2012-01-13 22:25:20

狭い、、、狭すぎる。。。

半端じゃない狭さだ。。。

膝を擦りながら這うようにしなければ登れない狭さです。


綺麗な格好で来なくて良かったかも・・・。

ずり、、、ずり、、、。
膝だけでなく、体中を塔の壁に擦りながらでないと登れない狭さです。

ここ、閉所恐怖症の人には無理かも・・・。


トホホ。
新年早々、しかもこんなに遠くまで来て、私は何をやってるのか・・・。

マルッシオめ~、この狭さをすでに知っていたのかも・・・?
もしや、昨日 大聖堂へ行かなかった私への復讐とか?!(笑)


ずり、ずり、ずり、、、。

確か、このモスクの塔は他のものよりも一段と高かったはず。
その高さがこのモスクを一層美しく、バランス良くさせているんだけどさ~。

うぅ~、マルッシオめ~。(><)

マルッシオへの文句をぶちぶち呟きながら(笑)、ずりずり、ぐるぐる、ぜいぜい、やっとのことで登りつめることができました。


う・・・。

2012-01-13 22:24:28

身を乗り出せば、簡単に落下しそう。(><。)。。

ここ、高所恐怖症の人にも無理かも・・・。

そりゃ、これだけ細く高い塔だものね。 



私は恐るおそる顔を上げ、街を見渡してみました。


モスタルの風景

モスタルの風景

ふふふ。

ここ、なかなか いいんじゃな~い?(笑)


モスタルの風景

街を一望できるだけでなく、

モスタルのどこか漂うもの寂しさとか、褪せた色合いとか、バルカン半島独特の山の姿とか、何故かものすごく身近に感じられるのでした。


街と自分が一体となる感じ。

しかも、他の人が入るスペースのない狭さなので、誰にも邪魔されることはありません。

真下を見ると怖いけど、なんだか鳥になった気分じゃな~い?(o^ー^o)

先ほどの文句をよそに(笑)、私はここがいっぺんに好きになってしまいました。



た、だ、し、、、

再び狭い螺旋階段を降りなければならないことに気付くまでは・・・。(苦笑)

不思議な縁と不思議な一日。

不思議な縁と不思議な一日

「昨日、僕と別れた後、君はどうしたのさ?」
「スルジ山へ登って~、、、(汗)」
「そんなことは知ってるよ。で、その後、どうして大聖堂に来なかったのさ!」
あうぅ~、あなたの話をちゃんと聞いていませんでした、、、
                        な~んて、言えるわけないじゃない!!!(><)

「ええっと~、え~と」 必死で答えを探す私。(笑)
「え~と、ものすごく疲れちゃって、早くホテルに戻って休んだの。」
「OK、OK~、僕も疲れてたし、昨日の夜は早めに寝たよ。」


「あ、あなたの名前、聞いてなかったよね。」 これ以上突っ込まれては困る私は、慌てて話を変えました。
「そうだったね~、僕たち、自分の名前もまだ名乗ってなかったよね。(笑) 僕はマルッシオっていうんだ。君は?」
「私はpicchukoです。」

マルッシオかぁ~。
外国の、しかも男性の名前って、いつもなら聞いてもすぐに忘れてしまう私ですが、
偶然にも、クライストチャーチの語学学校で仲の良かった事務員さんがブラジル人のマルッシオで、だから すぐに覚えることができました。

マルッシオね、ふふふ。(*^^*)
私、そのブラジル人のマルッシオのこと、結構お気に入りだったんだよね。(笑)

だからでしょうか、アルゼンチン人のマルッシオとも、この時 一気に距離が縮まったような、前日よりもリラックスして接することができたと思います。

それに右も左も分からない街で、知り合い(一応)と出会えた安堵感は何物にも代えられませんでした。

不思議な縁と不思議な一日


「イスラムのモスクは初めて?」と彼。

おぉ? 早速、再び難解な説明が始まるのか?
前日に比べると、私もかなり余裕がでてきました。(笑)

「ちょっと覗いてみるといいよ。」

どうやら、このモスクも閉まっているようです。

2012-01-13 22:26:42

耳元では、今日も怒涛のごとく彼の英語が続きます。
イスラムについての貴重な講義ではありますが、ちんぷんかんぷんの私には、もう頭の中で好き勝手にイメージするしかありません。(笑)

時折、私がちゃんと理解しているか顔を覗きこんで確認する彼。
そんな時は、ニコッて笑って、「ちっとも分かりません」って心の中で返事しました。(笑)
だって、キリスト教やルネサンス絵画ならまだしも、イスラム教なんて これまで全くもって関わっていないんですもの・・・。

初めて見るモスクの内部は、明るく清潔で、思ったよりも怪しくない!(笑)
格子におでこを当てて、私は一生懸命 中を覗きました。

そんな私をじっと見ていた彼は、「さっき、僕が行ったモスクは開いてたんだよ。 今からそこへ行ってみよう!」
そう言って、先を歩き出しました。


私はこっそり手持ちのガイドブックを開いてみました。
そこには、モスタルの二つのモスクについての記述が小さく載っていました。

その一つが最初に訪れた川沿いのモスク。
そして、もう一つがヘルツェゴビナ地方のイスラム建築で最も重要といわれる『カラジョスベグ・ジャーミヤ』というモスクです。

実は私、この時 自分が居る場所が、『カラジョスベグ・ジャーミヤ』なのだと思っていました。
ですが それは私の間違いで、この後 彼が案内してくれたモスクこそがそれだったのでした。

それを知ってか知らずか、彼は先を進みます。


あ~、彼との再会は、ここモスタルでも私が自分の思い通りに行動できていれば、絶対にあり得ないものだったんだ~。

間違いの連続が、この再会を生んだことに気付きました。


縁ってこういうものなのかな?


不思議な縁と、不思議な縁に恵まれそうなこれからの一年を感じながら、、、

不思議とこの日も彼と一緒に、モスタルの街を巡ることになったのでした。

picchuko、ボスニア・ヘルツェゴビナで腰抜かす☆

元日の朝、ドゥブロヴニク旧市街の主だった教会を巡った後、私はタクシーを拾いました。

それは、クロアチア最南端に位置するドゥブロヴニクから60kmばかり南にある、モンテネグロのコトルという街へ行く為に。

とはいっても、ドゥブロヴニクにもまだ見どころが沢山残っていましたので、わざわざ遠出することもないかな~って、この時は少し迷いもありました。

タクシーを拾えたら行こうかな。
そんな軽い気持ちで、プロチェ門を出てすぐにあるタクシー乗り場へ向かったのです。

それから後のことは、('12.01.02日記)に記したとおり。(笑)

ボスニア・ヘルツェゴビナの見えない引力に導かれ、気が付けば そこは内戦の痛々しい傷痕が未だ残る、美しくも切なく胸を締め付ける場所に立っていました。


モスタル・・・

ボスニア・ヘルツェゴビナ南部のこの街は、ネレトヴァ川を挟んで、カトリック圏とイスラム圏に分かれています。

タクシードライバーのお兄さんは、ネレトヴァ川に架かる この街の象徴とも呼べる橋『スタリ・モスト』のたもとで私を降ろしました。

「この街の見どころは、川より東にあるイスラム圏側だよ。それじゃぁ、14時にこの場所に戻って来るんだよ!」

地図を持たない私は、何も分からないまま この街に降り立ちました。


2012-01-13 22:29:24

一瞬、土埃の混じった風を感じました。

え?

私は今、一体どこにいるのだろう。

この時には、私はすでにここがモスタルだと知ってはいたものの、その街に関する予備知識を全く持っていませんでした。

2012-01-13 22:29:04

ここはヨーロッパ?

先ほどまで居たドゥブロヴニクの煌めきとは大違い。
まるで中東のとある街角に迷いこんだかのような、でもどこか懐かしい匂いのする景色が目の前に広がっていました。

ここ、ヨーロッパだよね?

2012-01-13 22:27:45

いいえ、ヨーロッパじゃない!

picchuko、ボスニア・ヘルツェゴビナで腰抜かす

どこからか、かすかにアラーの神を讃えるコーランのような響きが聞こえてきました。

私はそれに従うように、イスラム寺院のモスクへと向かいました。


イスラム圏へ足を踏み入れるのは初めてです。
正直、過激派の印象が強くて、これまでは少し怖いイメージを持っていました。

なのに、耳にする低いアラビア語の響きは心地よく、懐かしさに近いものすら感じます。


地図がないので、モスクに聳える高い塔だけが頼りです。

私はふらふら~っと、ネレトヴァ川沿いにあるモスクを訪れました。


picchuko、ボスニア・ヘルツェゴビナで腰抜かす

閉まってる・・・。

では、あの声はどこから聞こえてきたんだろう。

私は自分の勘だけを頼りに、そこから数十メートル先に見えている別のモスクの尖塔を目指しました。




ごくり。

目の前に、無数の白い墓標が現れました。

これは、、、、、

何も語らずとも、刻まれた日付を見れば、ボスニア紛争の犠牲者達だということだけは、無知な私でも分かります。

何とも言えず苦しい気持ちに、まるで時間が止まったかのような錯覚で立ちつくす私。
もう言葉は出ません。。。


その時でした☆

「また会ったね~。^^」

え? 振り向くと、あ、あ、あ゛~~~~~!!!!!!

黒装束のあの人が、
昨日 ドゥブロヴニクを共に歩いたアルゼンチン人のあの人が、、、
眩しいほどの満面の笑顔で立っているではありませんかぁ~!!!!!


「どうして昨日、大聖堂に来なかったんだよ! ずっと待ってたのに~。」

私は瞬時に自分の体を調べました。(笑)

私がまだ数年若かったら、きっとこれは運命だと、そう信じたことでしょう。
でも、運命を夢見る年頃はすでに今は昔です。

咄嗟に私は、自分の体に探知機が付けられていないかを確認したのでした。(笑)


あ、あ、あ゛~~~~~。
彼を指さし、私は言葉にならない驚きの声を洩らしました。


だって、ここはドゥブロヴニクじゃないよね~?><

ここはドゥブロブニクから130kmほど離れた、しかもクロアチアじゃなくてボスニア・ヘルツェゴビナなんだよね~?><


なんで、なんで、あなたがここにいるの~???

叫びたくても、あまりの驚きにそれ以上 声も出ず。。。

ボスニア・ヘルツェゴビナの真ん中で、新年早々、生まれて初めて『腰を抜かす』体験をしたpicchukoなのでありました。(苦笑)


なんで~???
なんで、あなたがここにいるのぉ~~~!?><

もう少し、ドゥブロヴニク。

この日、モンテネグロのコトルへ行こうと決めていたものの、もう少しだけドゥブロヴニク旧市街の教会を巡ることにしました。

遠出しようか、それとも もう一日 この街で過ごすか、まだはっきりとは決めかねていたのです。


ドゥブルヴニクの旧市街は、周囲2キロの箱庭ほどの小さな街です。

ですが、そこを歩けば至る所に見どころがあり、
教会好きな私にはとりわけ嬉しくなるような建物が狭い範囲に集まっています。

例えば、

         2012-01-13 22:33:54
          
主な教会だけでも、前述の大聖堂、聖ヴラホ教会、ドミニコ会修道院、
今回の私の旅を 一人旅から二人旅へと変えるきっかけとなった(笑)、ヨーロッパで3番目に古い薬局を持つフランシスコ会修道院、

         2012-01-13 22:30:35

そして、イコンを持つセルビア正教会に、
教会に近いものとして、現役のシナゴークとしても利用されているユダヤ博物館など。


そんな数々の見どころの中で、印象に最も残ったものが、大聖堂から西側へ少し石段を登った場所に建つ、聖イグナチオ教会でした。


この教会の名前であるイグナチオは、カトリック教会において聖人の地位にあげられた人。
イエズス会を創立した一人であり、その初代総長なのだとか。

日本でもおなじみのフランシスコ・ザビエルはイグナチオの同志です。

もう少し、ドゥブロヴニク

ガイドブックには、この教会はローマにあるイグナチオ教会をモデルに1725年に建てられたとあり、

調べてみると、あらホント! 正面から見上げると、ローマの教会と非常によく似ているのに驚きました。

だからかな~?
この教会へと続く石段も、まるでローマのスペイン階段を思わせるような趣きがあり、
ここでジェラートを手にしたら、(リトル)アン王女の気分を味わえそうな感じです。(笑)


内部はローマほど広くないのですが、それでも祭壇とドームに描かれたフレスコ画に感嘆の息が漏れてしまいます。

2012-01-13 22:32:41

2012-01-13 22:33:03

ちょうど私がこの教会を訪れた時、そこには誰の姿もなく、その空間と大理石の祭壇を独り占めすることができたのですが、、、

もう少し、ドゥブロヴニク

あまりの静けさにちょっぴり怖くて、中世にタイムスリップしたようで、ぞくぞくしました。
この薄暗さが、余計にぞくぞくさせるのです。(笑)

背後から魔女にさらわれて、一瞬にして暗黒の世界へ消されても、別に不思議じゃない空間。

その後に誰かがやって来ても、何もなかったような顔して、この祭壇は黙ってそこにあるんだろうな~。


もしかしたら私、、、本当はまだこの場所から戻っていないのかもしれません・・・。(*^m^*)

ドゥブロヴニクの大聖堂で、、、ちょっとぐちゃぐちゃな内容です。(笑)

        2012-01-14 05:03:19

ここに膝をついて、手の指はこう組んで、、、
そうそう、格好は真似ても、クリスチャンじゃない私は祈る必要はないよって、彼が言ってた、言ってた。(笑)

続いて訪れた大聖堂で、私は前日の出来事を思い出していました。

これが懺悔室(告解室?)で、これが聖水の入った洗礼盤、、、

白い大聖堂内部に明るい陽射しが射し込んで、聖ヴラホ教会の厳粛な雰囲気から一変、私の気持ちもいつのまにやら転換されていました。


最前列に座り、ヴィヴァルディ作曲の『四季』まで取り上げて、熱く語ってくれたアルゼンチンの彼。
一心に彼の目を見つめ、一つでも分かる単語から意味を引き出そうと、一生懸命だった昨日の自分を思い出しました。

それゆえ一晩中苦しめられた英語なのに、もう一度 同じ場所に立ってみると、不思議、不思議。
なんだか懐かしい、愛しい思い出へと形を変えてしまったみたいです。(笑)

この時、大聖堂内部には僅か3人の参拝者が、各々の世界に浸りながら、静かに腰を降ろしていました。

主祭壇には、ルネサンス期のイタリアの巨匠・ティツィアーノが描いた『聖母被聖天』が飾られています。

  2012-01-13 22:34:23

ルネサンス期の名画が日常の祈りの場にあるなんて、なんて贅沢なことだろう。
射し込む陽射しを浴びながら、しばらく主祭壇を見上げていました。

もしかしたら、彼がヴィヴァルディを話題に取り上げた理由の一つは、
このバロック建築の大聖堂と、同じくバロック期の音楽との関わりについて話したかったのかもしれないな。
昨日の話の流れを再び頭で辿りながら、私は大聖堂内部を見回しました。


ティツィアーノかぁ~。

その時、昔 抱いていた疑問が蘇ってきました。

そういえば 大学時代、芸術学の先生にこんな質問を投げかけたことがあったっけ。
「先生! 私はルネサンスの絵画にはバロック音楽が合うように思うのですが、絵画と音楽にどうして時代のずれがあるのでしょうか?」な~んてことを。

そして、その時は分からなかった答えを、ティツィアーノの聖母の前で自分なりに見つけることができました。

きっと、あの頃の私の中では、

バロック期を代表する大作曲家・バッハの得意とした音楽が、ひとつの主題を複数のパートが模倣しながら次々に追いかけて演奏するという様式のフーガであったことと、
それを演奏する楽器が、オルガンやチェンバロといった教会音楽に相応しかったこと、

それらがレオナルド・ダ・ヴィンチの受胎告知やラファエロの聖母子といったルネサンス期の絵画のイメージと結びついたんだろうな~って。(笑)


ですが、実際はバロック期にオペラが生まれ、人間臭い感情表現や極端な対比の効果をねらう性格が見えるのがバロック音楽の特徴であり、

均衡のとれたルネサンス期の美術よりも、
躍動感溢れ、流動的で、明暗の対比がはっきりしているバロック美術に通じるものの方が多かったわけで、

昔 感じた私の考えは、必ずしも間違いではないものの、やはり時代が求める表現というものは音楽、絵画、建築と形こそ違えども同じなんだな~と、訂正することができました。

2012-01-14 05:04:06

もちろん、各様式がその時代の全てではないけれど、

バロック建築の大聖堂の中で、他のバロック時代の彫刻に囲まれて、ルネサンス期のティツィアーノの絵画があることで、私の頭の中が勝手に(笑)整理されたのでした。


面白いな、この大聖堂。

となると、今度は彼が語ってくれたヴィヴァルディの『四季』の話がますます気になってきました。

あ~、彼の英語さえ完全に理解できていたならば・・・。



あ~、でも やっぱり 頭の中は全然 整理できていませんね~。^^;
ぐちゃぐちゃな内容でごめんなさい。

最後までお付き合い下さった方、どうか読まなかったことにして下さい。(笑)

崇高な朝。

「写真撮ってよ~!」
前日も撮ったピレ門の写真を再び撮ろうとカメラを構えた時、旧市街から出て来た3人組みの若者達が手を振ってきました。

2012-01-13 22:37:05

元旦の観光地はどこも、大晦日の興奮とはうって変わってひっそりと、そして澄んだ空気に包まれています。
そして、たま~に 夜通し遊んだ若者達が、二人、三人、ふざけながら歩いているのに出くわします。

そんな時、私は大抵 彼らを避けようとするのですが、ここでは逆に私も大きく手を振り返しました。

「ひゃっほ~」と叫びながらも、可愛い人達。
クロアチアの若者って、観光客相手にも気軽に明るい声を掛けてくれるので、それが私の中のドゥブロヴニク評価を高めてくれます。(笑)

*

崇高な朝


ルジャ広場では、前夜の後片づけに大きな清掃車が大活躍をしておりました。

ふと視線を上げると、広場に面して建つ聖ヴラホ教会から明りが洩れています。

聖ヴラホとは、この街の守護聖人として祀られている実在した司教なのだとか。
316年に殉教した聖ヴラホは、かつてヴェネツィア共和国がこの街を奇襲した際、それをいち早く市民に伝え、街を救った人物だということで、昔から敬われているそうです。

ピレ門にも、街の模型を手にする聖ヴラホの像が中央に立ち、今も街を守ってくれています。


確か、昨日はかたく扉が閉ざされていたはず。。。

私は吸い込まれるように教会の扉を押していました。

この時、日曜日の礼拝が執り行われておりました。
正面には荘厳な大理石の祭壇があり、教会内には重いけれど静かな空間が漂っていました。

司教さまが何か読みあげており、信徒の方々は頭を下げ、祈りを捧げていました。

私は最後尾に立ち、彼らの深い祈りを感じながら、祭壇に立つ聖ブラホの像を見つめました。


その祈りに、

・・・ 遠い遠い昔から、こうやって人々は祈り続けてきたのだと、

・・・ 家族を愛し、友を愛し、この街を愛してきた人々の祈りが複雑な時代さえも支えてきたのだと、

そんな昔から続く人々の姿が目に浮かんできて、自分でもわけが分からず涙が溢れそうになりました。

海外を一人 旅すると、こんな風に感情の起伏が激しくなるってこと、私はよくあるのです。


ダメだ。
これ以上この場所にいたら、何故だか判らないけれど涙が止まらなくなる。

それくらい、その場の空気が崇高だったのでした。

崇高な朝

私はこぼれそうになった涙を拭い、慌てて教会から飛び出しました。


* * * * * * *


昨日は、母と姉とともに有馬温泉へ出掛けてきました。

昨年 訪ねた老舗旅館『御所坊』さんが大変気に入って、冬場は毎月 有馬の湯に浸かることにしたのです。(笑)

鳴門と明石の二つの橋を渡り、淡路島の緑に触れ、片道2時間半という道中もドライブに最適です。

この冬は、12月と1月に次いで三度目でした。


その有馬温泉で、
御所坊さんで昼食を戴き、温泉でゆっくり身体を温めた後、必ず立ち寄るお馴染みの喫茶店ができました。

それはお土産物屋さんの2Fにあり、マスターの凝った趣味が活かされた、どこかオーストリアチック(?)な私好みの落ち着いた雰囲気。

マスターが気さくな方なら、そこで働くお姉さんも物腰の柔らかい素敵な方です。

向こうも私達を覚えてくださって、いつもお喋りをして長居してしまいます。
昨日は1時間半もの間、5人で話しに花が咲きました。


先月、そのお姉さんにクロアチアのチョコレートをお土産にと少しだけ持っていきました。
確か、彼女はチョコが好きだと言っていたから。

すると、それをとても喜んでくれた彼女は、昨日 私達が有馬に来るであろうと予測して、お手製のチーズケーキを用意して待っていてくださいました!
近くの旅館の女将さんに、ケーキ作りなどを教わっているからと言って。

濃厚で滑らかなチーズケーキ、大変美味しく戴きました。

冬場だけ~と思っていた有馬行き、、、春になっても行こうかな。(笑)

崇高な朝

アドリア海で生まれて初めて初日の出を拝む!

元日の朝、ぐったりとベッドから起き上がりました。(笑)

そうだった、夜中の零時に遠くで花火が打ち上げられてたな~。
俯いて、目を擦りながら、昨晩 聞いた花火の音を思い出していました。

きっと旧市街のルジャ広場では、多くの人達で大騒ぎだったことでしょう。

旧市街から少し距離のあるホテルにも、その音が聞こえていたのでした。

ホテルの近くでも小さな花火が打ち上げられ、窓から眺めたことを思い出しました。

早く寝ようと思ったのに眠りが浅くて花火の音に起きてしまい、それからも熟睡できなくて、何度も何度も打った寝返りで、疲れが全く取れていません。

花火の音とアルゼンチンの彼の英語が入り混じって、頭の先まで神経が尖っているようでした。

はぁ~、、、。頭を掻きながら、大きな溜め息。
ボロボロな顔にとりあえず薄くファンデーションを塗り、腫れあがった顔でレストランへ向かいました。

*

あ、まぶしいっ!
殆ど眠れていない私の目に、もうすぐ昇ってくるであろう太陽の僅かな光が突き刺さってきました。


「あけまして、おめでとうございます!^^」

その時、その眩しい先に立つ一人の日本人男性が、丁寧に頭を下げて挨拶をしてくれたのでした。

そうだった、今日は元日だったんだ! お正月なんだ!って、この時 やっと頭が働き出した私。(笑)
慌てて、「あけましておめでとうございます。」と背筋が伸びた気がします。


窓辺の席に座り、アドリア海に目をやると、今にも太陽が顔を出してきそうな様子です!

私はベランダへ出てみることにしました。
元日の朝なのに全然寒くはなくて、程良く冷たい空気です。

「もうすぐですよ。^^」
先ほどの男性も、同じくベランダから初日の出を待っていました。


「昨日はカウントダウンへ行かれましたか?」
「いえ、疲れていて、ホテルで寝てました。」と私。

「行かれたんです?」
「ええ、ツアーの皆さんの何人かで、夜に出掛けたんですよ。」
彼は一人でツアーに参加をし、昨晩 ドゥブロヴニク入りしたと話してくれました。

「爆竹、、、怖くなかったですか?」
というのも、欧州でのカウントダウンではいつも、街中に爆竹や悪ふざけの若者たちの叫び声が響いてきて、こんな私でも怖いな~って思ったことが何度かあったのです。

しかもドゥブロヴニクの旧市街は、どこかフィレンツェの街の造りと似ているので、絶対に怖いと思ったのでした。
6年前に体験したフィレンツェのカウントダウンは、狭い広場や路地裏での爆竹の音が建物に反響して大きく鳴り響き、辺りは煙が立ち込めて、それはまるで戦場のような有り様だったから。
その時は一人ではなく、レストランで知り合った日本人のご夫婦と一緒だったにも関わらず、あまりの危険に早々にホテルへ戻ったのを覚えています。

「いえ、それほどでもなかったですよ。」
「でも、ワインをかけあったりするんでしょう?」
「いえいえ、結構 お行儀良く新年を迎えましたよ。(笑)」

なんだ~、それなら どうせ眠れなかったんだもの、カウントダウンをルジャ広場で迎えれば良かったな。


「あ、もうすぐ昇りますよ!」 彼はカメラを構えました。

アドリア海で生まれて初めて初日の出を拝む

「今年はアドリア海で初日の出ですね。^^」

それにしても、穏やかなアドリア海です。

「まぁ~、写真に撮ったら伊勢志摩の風景と、そう変わらないっちゃ変わらないんだけどね~。(笑)」
日の出に合わせてやって来た、彼と同じツアーのおじさんの台詞です。
「あ~、それを言っちゃぁ~。(爆)」


帰国後の彼からのメールにもありましたが、
何分昨年は暗い話題が多かった年、新年を明るい気持ちで臨もうと初日の出を楽しみにしていたのは私も同じです。

初日の出なんて何年ぶりだろう。
いや、生まれて初めてかもしれないな~って、嬉しい気持ちがアドリア海をますます輝かせるようで、最高な気分です♪

先ほどまでの疲労感はどこへ行ったのやら。(笑)

幸せな心地で朝食を取り、張り切って街へと飛び出しました。




さぁ! 新たな2012年!

今年は絶対いい年になるっ!!!!!(*^ー^*)


アドリア海で生まれて初めて初日の出を拝む

アドリア海で生まれて初めて初日の出を拝む

アドリア海に沈む夕陽。

  2012-01-14 04:45:02

もうひとつ、
ドゥブロヴニクの絶景を堪能するために、スルジ山からの景色に名残惜しさを感じながら、私は山を降りました。

この日、大晦日ということを忘れそうなくらい温暖で、ずっと外にいても辛くありません。

私は旧市街には戻らず、その足でバニェビーチを目指しました。


バニェビーチは旧市街の東側にあり、ここもドゥブロヴニクを紹介するガイドブックによく登場する場所です。

とはいっても、そのビーチがどこにあるかは手持ちの本には載っておらず、写真から推測される方角を頼りに、海沿いの道を歩きます。

たぶん、そう遠くはあるまい、、、。
そこは、旧市街を遠望するも良し、そして旧市街から徒歩ですぐというのも魅力的です。


バニェビーチは、夏場ともなれば絶景の海水浴場として大人気の場所。

きっとシーズン中であったなら、一人の私は足を踏み入れることに躊躇したでしょう。
だって、あまりの人の多さに興ざめするって、それはまるで芋の子を洗うようだと口コミに書いてあったから。


ですが、今は冬。 
しかも大晦日の今日は、殆ど人影がありません。

夕暮れ時のビーチからの景色は、写真で見たような碧いアドリア海があるわけでなく、青い空があるでなく、

誰もいない砂浜だけが、寂しそうに続いていました。


私は石段を下り、大きな岩に腰を降ろしました。

少し控えめに、ざぶ~ん、ざぶ~んと波が打ち寄せてきます。

一年分の疲れと、一年間溜めてきたマイナスの感情を優しくさらってくれるように、


ざぶ~ん、ざぶ~ん。。。


海は清きも濁りも受け入れて、まるで新たな年を迎える準備をしているかのようです。

私は彼方を眺めながら、今年最後の夕陽が沈むのを待ち続けました。
それは、アドリア海の彼方ではなく、自分の中にある過去と未来の彼方を見つめながら・・・。
な~んてセンチメンタルに浸れるのも、一人である自由さゆえ。(笑)

そこで1時間近く頬杖をついていたでしょうか。
気が付けば、太陽は今年最後の輝きを放ちながら、旧市街の向こうへと急ぎ足で沈もうとしていました。

アドリア海に沈む夕陽



しばし黄昏に身を置いて、あてどなく砂浜を歩いた後、いつになく疲れを感じてきました。

私はもと来た道を戻ることにしました。

この疲れはきっと、怒濤のごとく押し寄せてきた彼の英語のせいでしょう。(苦笑)
まだ日が暮れて間もないのに、これ以上 街を歩くことは無理だと判断。


帰りにスーパーに立ち寄り、軽めの食事と、お土産用にとクラシュのヌガーチョコレートを購入しました。

「今、ちょうど特売をやっててね、300gを200gの値段で売ってるのよ。」とレジのおばさん。
私が手にしていた200gのチョコレートを、わざわざ300gに変えてきてくれたのでした。

「いい年を迎えなさいね。^^」

あ~、この街の人は本当に気さくで親切な人ばかり。

子供からおじいちゃん、おばあちゃんまで、みんなみんな素敵な人達。
ユーモアもあって、とても楽しい人達。

私はクロアチアのことは何にも知らないけれど、クロアチアの人達が素晴らしいってことだけは大声で言えます!^^

おかげで、ほんの少し疲れを忘れ、ホテルへ戻る前にもう一度旧市街を歩くことにしました。

アドリア海に沈む夕陽

旧市街の中心を伸びるプラツァ通りは、積年の往来による摩擦で、ただでさえピカピカに磨かれているのに、

夜は明りを反射して、ますます眩しく輝いて見えます。

アドリア海に沈む夕陽


ふぅ~、でもやっぱり疲れた・・・。  やっぱり英語ずくめは苦しいわ・・・。^^;

油断すると、今も彼の話し声が耳元で聞こえてくるかのよう。


その感覚はホテルに戻ってからも続き、

夢の中でさえも続き、、、


2011年から2012年へと年を越えてなお、

ぐるぐる、ぐるぐる~(◎◎)

あぁ、延々と私を苦しめ続けることになろうとは・・・。(苦笑)

お別れ?!

2012-01-14 04:50:54

その後、メインストリートから一つ奥まった通りを二人歩きました。

珍しく、彼は言葉数少なく、何かを考えている様子です。

再びドミニコ会修道院の近くまで来た時、彼が口を開きました。

「君は山に登りたいんだよね。」

うんうん。 私は黙って頷きます。

「じゃぁ、ここで一度 お別れしよう。  ・・・・・・・。」

ここでお別れ? 
その後も彼は何かを言っていましたが、そんな言葉など、この時の私の耳には入ってきません。

これで私はスルジ山へ行けるんだ!!!

幸いにも、私はまだ彼に情は移っておらず(笑)、スルジ山へ行ける喜びを隠しきれず、笑顔で彼を見上げました。

「僕は大聖堂で・・・・。」
もう彼の話など、全くもって聞いておりません。^^ゞ

「いいね、分かったね。じゃあね。」
そう言って、彼は人混みの向こうへと消えていきました。

あ~~~、私、やっと解放されたんだ~!
良い人だったけど、違う面白さもあったけど、ちょっとお別れがあっけない気もするけれど、
そんなことは、ま、いっか!

とにかく、私はこれからスルジ山へ向かうんだいっ!(笑)

*

私は地図を片手に、ブジャ門を目指しました。
城壁で囲まれた旧市街は、外部からの入口が3つあり、ブジャ門は街の北側、少し石段を登っていかなければなりません。

ロープウェイ乗り場は、その門からもう少し北へ登ったところにあります。


少し息切れしつつも小走りで駆け上がり、ロープウェイ乗り場まで辿り着きました。

旧市街を見下ろす絶好のビューポイントのスルジ山ではありますが、
ここにロープウェイが復活したのは、つい一年半ほど前のことです。

そう、復活ということは、もともとそこにあったということ。
それが、クロアチア独立戦争の際に旧ユーゴ連合軍によって爆破されてしまったのでした。
(><)

しかも この禿げた山、つい3~4年前までは戦争中に埋められた地雷を撤去しきれていない状態でした。
地雷は何も、カンボジアやアフガニスタンなどといった発展途上の国だけの話ではないのです。
そう、ここ欧州でも。。。

こんな風に、簡単にロープウェイで山頂だなんて、この街に再び平和が戻ってきた証拠。
そして、その美しい景色を優雅に眺められるのは、平和な今だからこそできる贅沢ですよね。

彼も来れば良かったのに…。

     2012-01-14 04:48:13

山頂には、ナポレオンが贈ったと言われる巨大十字架が聳えています。
それも紛争時に一度破壊されたのですが、今は復元されています。

ここは1667年の大地震の後、その被害から回復できず、1808年にナポレオン率いるフランス帝国に攻め入られた街でした。
それなのに、今なおこの十字架を大切にするのは何故かしら?

物知りな彼なら、その理由も分かるかも・・・。


2012-01-14 04:48:43

あ~、気持ちいい~☆(*^ー^*)

2012-01-14 04:44:08

2012-01-14 04:46:44

2012-01-14 04:45:44

ホント、彼も来れば良かったのに…。
この景色の中のどこかにいるはずの彼に、そう呟きました。

2012-01-14 04:53:04

ありがとうね。 どうもありがとう。 

旧市街を見下ろしながら、私は彼に話かけました。



その頃、彼は、、、。

待てども待てども姿を現さない私を、

「大聖堂で待ち合わせ」という、私に伝わっていなかった約束を守って、

延々と大聖堂で待ち続けておりました。

さて、ここで問題です。

あの日、彼が大聖堂で私をずっと待っていたこと、彼から解放された私が どうして知っているのでしょうか?(笑)

カウントダウンまで10時間!

       2012-01-14 05:05:21

お昼を過ぎた頃から、街全体に気分の高揚が広がってきました。

旧市街の中心・ルジャ広場には、カウントダウンに備えてステージが設置され、すでに人の輪ができあがっています。


「もう閉めるところだよ。」
私達がセルビア正教会の前に着いた時、鍵を持ったおじさんがそう言いました。

「ちょっとだけ。すぐ出るからさ、お願いだ!」彼はよほどこの教会が見たかったのでしょう。

ドゥブロヴニク旧市街には、前述の大聖堂やフランシスコ会修道院、ドミニコ会修道院に、街の守護聖人を祀った聖ヴラホ教会といった、見応えのある教会が目白押しです。

それでも彼がここにこだわったのは、たぶん私と好みが似ているから。(笑)

今 挙げた教会らは、全てカトリックのものでありますが、
対するセルビア正教会は、その名の通り、この街に住むセルビア人のための教会です。
カトリックを信仰するクロアチア人の中にあって、正教を信じる数少ないセルビア人の為に毎週日曜日にミサが行われているのだとか。

今ではそうやって街に溶け込んでいるセルビア正教会ではありますが、
ラグーサ共和国時代はカトリック以外の教会は禁じられており、正教会の建物がこの地に設けられたのは、19世紀後半になってからのことだそうです。


正教会については、ロシアへ旅した時に少し勉強(?)したので、
このセルビア正教会もロシア正教会も、正教会を代表するギリシャ正教会も、どれも同じ教義を信棒していることは知っていました。

そして、ロシアで見た聖堂内と同じで、
原則として偶像崇拝に陥る危険性のある彫像は置かれておらず、代わって聖像であるイコンが飾られていることも想像できます。


彼は内部に足を踏み入れるや言葉を失い、イコンに囲まれた教会内部に釘づけになりました。

私も久しぶりに見るイコンの迫力に押され、口をぽかんと開けて数々の画を見上げていました。

「見たね!見たよね!しっかり見たね!」
まだぽかんとしている私に念を押し、「ありがとう、ここに入れて良かったよ。」と彼はおじさんに言いました。

え~、もう出るの?(><)
彼は自分の世界に入るのも早ければ、現実に戻るのも早いようです。
「じゃ、出よう。」って、入って2~3分後に、私達はセルビア正教会を後にしました。(笑)


「次はこっちだ!」
狭い路地裏を縫うように、次は旧市街の北側へと移動です。

市街地図が全て頭に入っているかのように、ずんずんと進んで行く彼。
そして、「あ~、休みか~。」ある建物の前で残念そうにつぶやきました。

見れば、そこにはダビデの印が。どうやら そこはユダヤ博物館のようでした。
やっぱり彼は私と興味が似てるかも。

そこで、私は言ってみました。「ねぇ、独立戦争博物館へ行かない?」
それは、1991年にクロアチアがユーゴスラビアから独立した際の記録が残された場所。
きっと彼も興味があるに違いない、、、そう私は思ったのでした。

そして、実は その独立戦争博物館はスルジ山山頂にあるのでした。( ̄m  ̄+)
そうです。この時も、スルジ山へ登ることを、私はまだ諦めてはいなかったのです。(笑)

しかし、、、
「え~、独立博物館は山の上にあるじゃないか!」って、即・却下っ!(><)

ちっ、ひっかからなかったか、、、。(T_T)

*

「ちょっと珈琲でも飲んで休もうよ。」 またも彼は人混みの中を押し分けて歩き出しました。

仕方がないので、彼が珈琲を運んでくる間、私はしばし路地裏を観察することにしました。


大晦日の午後、観光客の少ない路地裏では、様々な鬘やコスチュームに身を包んだ地元の人達で大賑わいです。

そして、建物の中では、若者たちが激しく踊り狂っていました。

2012-01-14 04:51:31

「写真、撮って~!」
カメラを構えると、そう言って明るく手を振ってくれるのは、クロアチア美人達。^^
「私も~!私も~!」って、一人異邦人丸出しの私に対し、眩しい笑顔を振り撒いてくれます。

ホント、綺麗な子が多いな~。(*^^*)
「クロアチアって美人が多い国なんだよね。」って、この旅行の前に、職場の同僚の男性から羨ましがられたことを思い出しました。
これは、ちゃんと報告してあげなくちゃ!と、写真を一枚。(笑)

         2012-01-14 04:54:15


「すごい熱気だね。」
振り返ると、エスプレッソとカプチーノを手に、彼が立っていました。

「こういうのって楽しいよね。 日常じゃないけど、でもその街らしさが見られるし。^^」

ただでさえ狭い路地なのに、前へ進めないほど人、人、人で埋め尽くされています。

そして、カウントダウンに向け、街はますます盛り上がりを見せていくのです。

ドゥブロヴニクと自由。

「ねぇ、気のせいかもしれないけど、この街って どこかフィレンツェに似てな~い?」


それはオレンジ色の屋根瓦で統一された街だからというのではなく、広場や通りに立った時、何となく似ているものを感じるというか、、、。

二つの街を写真で見比べると全然違うのだけど、ふと錯覚を起こすというか、、、。

といっても、私が旅した数少ない街の中での話だけれど。(笑)


彼は視線を少し上げ、頷きました。
「そうだね、どことなく似てるところがあるかもね。」

ふふふ、物知りな彼もそう思うのなら、まんざら私の感覚も間違ってはおるまい。(*^m^*)


もちろん、イタリアとクロアチアはアドリア海を挟んで対岸にあるわけだし、

一時期、ドゥブロヴニクはヴェネツィア共和国の支配下の時代もあって、
それからの独立後も、お互い影響をし合っていた中世の都市国家の面影をどこかに残していてもおかしくはありません。


それに、大聖堂やドミニコ会修道院に残されている祭壇画は、イタリアのルネサンス期の巨匠・ティッチアーノによって描かれたものであるし、

海上貿易で栄えたドゥブロヴニクに欠かせない要塞の一部は、15世紀にフィレンツェの建築家・ミケロッツィによって設計されたものですから、

ルネサンス期を色濃く残すフィレンツェと似た何かを持っていても不思議じゃないでしょう?



そんなドゥブロヴニクは、かつてラグーサ共和国と呼ばれていました。

そして、現在はプラツァ通りと呼ばれ、旧市街のメインストリートとなっている場所は、10世紀頃までは海峡であったそうです。

ドゥブロヴニクと自由

南側には小島があり、そちらにイタリア系の住民が、海を挟んで北側本土にはスラブ系の住民が住んでいたのだとか。

共に繁栄をしていた両者の関係が良好になると、それらを隔てる海峡を埋め立て、二つの民族はますます一体化していったそうです。

だから、この街は、スラヴの要素とルネサンス期のイタリア文化が影響し合ったという歴史を確かに持っていました。

ただ、この街は1667年の大地震で壊滅的な被害を受けており、当時のゴシック、ルネサンス様式の建物の殆どが、その後 バロック様式に姿を変え、再建されました。

その地震から倒壊を免れた数少ない建物で、旧市街の中心に位置するスポンザ宮殿は震災以前の様式を残しており、

その周辺がとりわけフィレンツェの雰囲気と重なるように私は感じます。

ドゥブロヴニクと自由

まぁ、それも旧市街の中を歩いている時に感じる話であって、

城壁などからアドリア海とともに眺めるドゥブロヴニクには、フィレンツェとは全く異なる表情もありますが。

*

こうやって この街の歴史を見ていくと、

同じ民族から別れた者たちが争ったり、逆に異なる民族が同じドゥブロヴニク人として力を合わせたり、、、

本当に複雑な場所なんだな~と、つくづく感じます。


もともとドゥブロヴニクは地理的立場の為に、昔から多民族・多宗教のるつぼであったはずです。

それでも上手く共存できたのは、ある共通のモットーがあったから。

「いかなる黄金に換えても自由は譲れず。」

これが、中世以降、あらゆる外交交渉を重ねて戦争を避けてきた、ドゥブロヴニク人を象徴する言葉です。
彼らは様々な国の支配下に置かれても、宗主国に貢納金を支払うことで自治を確保してきました。

彼らにとって、この街の自治、そして自由は、何ものにも代えがたいものだったから。

自由・・・

それでも思うのです。

彼らを一つにまとめていたのも自由であれば、後に彼らを苦しめる歴史を生んだのも元は自由のためではなかったかと…。


あの紛争の火種となった多民族・多宗教という現実を前に、自由という言葉を噛みしめながら、再びこの街を見つめ直してみたいな~と思います。



思っていることが全然纏まらず、上手く表現できなくてごめんなさい。。。

スルジ山へ登りたい私と、登りたくない彼。

スルジ山へ登りたい私と、登りたくない彼

そうそう、この日の前日、成田空港のチェックインカウンターのお姉さんとこんな会話をしていました。

「今日中にドゥブロヴニクへ入っちゃうんですか?」
無謀な計画に、少し驚いた様子を隠しきれないといった表情で彼女は声を掛けてきました。
「そう、入っちゃうんですよ。(笑) やっぱりキツイですよね~。」と苦笑いの私。

「私も去年、ドゥブロヴニクへ行ったんですよ~。すごく綺麗なところです。羨ましいな~。^^」
「これまで行った街の中で一番のおススメはどちらですか?」ちょっとだけ尋ねてみました。

「バルセロナかな。あの街、大好きなんです!」と彼女。
「じゃぁ~、ドゥブロヴニクは何番目です~?」
「う~ん」と少し悩みながら、ちょっぴり意味深な目をして、彼女は腰の辺りで指を二本立てらせました。

「ロープウェイがある街ですよね? あそこからの景色が本当に美しかったです!」
「そうそう、私もあの山には是非とも登りたいと思ってるんですよ!」
そう言って、二人で頬笑み合いました。^^


* * * * * * *

「ねぇ、スルジ山からの景色が綺麗だって話だよ。」
歴史的建造物もいいけれど、綺麗な景色をもっと見たい私は彼に言いました。

その言葉は彼の耳には届かなかったのか、
「そろそろお昼にしようっか。何が食べたい?」と彼。

「そうねぇ…。」
朝食をしっかり食べていた私は、その時 さほどお腹がすいていませんでした。

「じゃ、簡単なものにする? 近くに美味しいと評判のピザ屋さんがあるんだけど。」
彼のガイドブックを覗くと、すでに赤丸で印が付けられておりました。


この街の旧市街は、メインストリートのプラツァ通りから外れると狭い路地がいっぱい。
それでも、ちょっとした広場では市場が開かれていたり、路地には処狭しとオープンカフェが並んでいます。

2012-01-14 05:00:09

2012-01-14 04:57:49

そして、プラツァ通りとは垂直な南北の通りは勾配のキツい階段が続いていて、高いところに洗濯物を連ねて干してあったりと、生活臭漂う空間を覗かせています。

2012-01-14 04:58:25


沢山の背中をかきわけながら、私は彼を見失わないように付いていきました。

「ここは僕がご馳走するよ。君はここで座って待ってて。^^」
店内は観光客よりも地元の若者であふれるほど混み合っていて、すでに長い列ができています。
フランシスコ会修道院でのお返しはすでに終わっていたので、ここで再びおごってもらうのもどうかな~と思ったのですが、この際 彼にしっかり甘えることにしました。

「飲み物は何がいい? え?コーク? 普通の?それともダイエットコーク?」
「ここはシーフードが美味しいから、それがたっぷり入ったピザにするよ。」

常に彼が先に考え行動してくれるので、私は待つだけ。 すごく楽です。(笑)

聞けば、彼は前日の夜から何も食べていないとのこと。
それじゃ~、いっぱい食べなさいね。^^
大きなピザを頬張る彼を写真に撮ってみました。 少し恥ずかしそうですが。(笑)
2012-01-14 04:58:55


「ねぇ、ねぇ、スルジ山からの景色が綺麗なんだって。」
私は再び、スルジ山へ行きたい気持ちを伝えました。

「まだまだ旧市街で見てないものが沢山あるじゃないか。 それに、山を登るのはしんどいよ。」
「え~、ロープウェイで登るんだよ~。」
「でも、さっき城壁を歩いて疲れたよ。」

う"~ん。。。

じゃ~、この先は別々に行動しましょうよ、、、と言おうと思った時には、すでに話題は変わっていました。

どうしよう。スルジ山からの景色は絶対に見たいし、、、。
明日、登ろうかな~。でも、明日 晴れるという保証はないし、、、。
頭の中ではぐるぐる迷っておりました。

って、いつまで私は彼と一緒にいるの?
ここで、私は根本的な疑問に気付きます。(笑)

意を決して顔を上げた時、
「さぁ、次はセルビア正教会へ行くよ。 そこでは貴重なイコン画が見れるんだ。」


あ"~、私はスルジ山へ行きたいのにぃ~!!!(><)

なのに、以前 ロシアで見たイコン画の独特な迫力と怪しい空間を思い出し、それにつられて彼の背中についていくpicchukoなのでありました。  トホッ。。。

バロック? ゴシック? ロマネスク?

2012-01-14 05:02:45

欧州を旅するのなら、少しはその建築様式を勉強しなくては~と思ったのは、やはりアルゼンチンの彼の影響からかしら。


城壁を降りた後、スポンサ宮殿に大聖堂、旧総督府を共に観光し続けた私達ですが、その間も彼による(私にとって)ハイレベルな説明は続きました。

ちなみに、スポンサ宮殿は、かつて税関として貿易の中枢を担っていた機関であり、
旧総督府はその名の通り、歴代の総督が住んだ邸宅であり、かつ行政の中心的機関。


「ほら、あれがロマネスク様式ならではのアーチ状の柱で・・・。」って指さしながら、
次から次へと繰り返される説明の中で、私は時々 彼の顔をじっと見つめながら、この人は建築家か何かなのかしらん?と素朴な疑問を抱いていました。

「例えば、ヴェルサイユ宮殿はバロック建築の代表作だけどさ~、
君の好きなザルツブルクの大聖堂も、ここドゥブロヴニクの大聖堂も同じバロック様式なんだよね。」

バロック? ゴシック? ロマネスク?

「~だよね!」って言われても、オスカルやモーツァルトじゃあるまいし、、、。(><)
まさかここまで来て、ヴェルサイユやザルツブルク大聖堂が登場するなんて☆

各建築様式の特徴を理解していれば簡単な内容なのかもしれませんが、数々の世界遺産などを前に、~様式だなんてこだわって見たことのなかった私にはちんぷんかんぷん。
バロックとゴシックだけでも頭の中でこんがらがってしまいました。(><)

ましてドゥブロヴニクの建築物は、度重なる大地震や火災で何度も修復が加えられているので、ゴシック+ルネサンス様式、ロマネスク+ゴシック+ルネサンス様式なんて各様式が混ざっていて、ますます頭を混乱させます。


そこで、せめてバロック、ゴシック、ロマネスクくらいは理解したいと思うようになりました。

2012-01-13 22:34:53

そこで役立ってくれるものが、これまた何かの縁かしら、、、なんとユーロ紙幣であります。
そっか! アルゼンチンの彼が欧州の建築様式に強いのは、ユーロの本拠地(?)で働いているからなのねって気付いたのは帰国してから後でありますが。(笑)

ご存知、ユーロ紙幣には、古代ギリシャから20世紀までの欧州を代表する建築物が、裏面にはそれぞれの建築様式を表した橋梁が描かれております。

残念ながら、私の手元には、古典古代を表現した5ユーロ紙幣から、ロマネスク(10ユーロ)、ゴシック(20ユーロ)、ルネサンス(50ユーロ)までの4種類しかありませんが、

100ユーロにはバロックとロココ様式、200ユーロにはアール・ヌーボー様式が、そして超高額の500ユーロには近代的な建物が記されているようです。

*

では、今回の旅で出会った建築様式の特徴を少しだけ。


<ロマネスク建築>  11世紀初め~13世紀頃

・戦乱の中世ヨーロッパで生まれた、修道院や教会のための様式で、巡礼路沿いに発展。
・ローマ時代の建築に多く使われた、半円アーチを開口部の構造に使うことが特徴。
・分厚い石壁の強度で木製の天井を支える仕組みだったため、窓は小さい。
・建築内部の壁面の面積が大きく、そこに数多くの絵がフレスコ画によって描かれた。
・独特の柱頭を持つ。


<ゴシック様式>  12世紀後半~15世紀  

・ 農村から都会へ流入した大量の人々の安息の場としての聖堂は、「建築化された“巨大な聖書”」として、文字を読めない市民に対しても図解的に教義を説くことができる建築物。
・尖塔アーチ。
・壁は薄く、ステンドグラスをはめた大きな窓。


<ルネサンス様式>  15世紀~16世紀

・この頃の建築の主流は、教会や修道院のような「神様のためのもの」から「世俗の民のためのもの」へと変化。
・外壁の石積みは1階が荒々しくごつごつとした石で、上の階に行くにしたがって表面が滑らかな仕上げとなる。
・2階と3階の窓が、半円アーチの複合形。
・最上部の分厚いコーニス(建物の頂部に来る水平な装飾的な縁)。
・均整のとれた静的・理知的な構成の美しさが特徴。


<バロック様式>  16世紀末~17世紀初頭

・法王や皇帝が権力を回復したこの時代、「国や皇帝、教会といった絶対的権力に相応しい様式」が模索される。
・ルネサンス建築の香りを残しつつも、際立った対照をなす。
・華麗で過剰なほどの装飾。
・彫像などを豊富に設置。
・捻(ねじ)り柱。
・躍動的で凹凸が深い。


こうやって建築様式を調べていくと、当たり前ですが、時代の流れや世相がよく現れているのが分かります。
どうしてその様式が生まれたのかを考えると、自ずと歴史が見えてくるのですね!
時代が求めるものが形になっている! 面白い☆

こういう学び方もあるのかと、これまでと違った歴史との接触ができるような気がします。

実際には、ドゥブロヴニクに限らず、色々な様式が混在している建築物が殆どなので、特徴を熟知している彼のようには簡単に見分けはつきませんが、これからは少しづつでも時代背景を感じながら建築様式を見ていこう。


延々と続いたお喋りに、時々くら~っとなりつつも、熱く語ってくれた彼に深く感謝です。(笑)

城壁にて。

城壁にて

城壁を一周し終える頃には、私もアルゼンチンの彼も、結構好き勝手なことを言い合うようになっていました。

私が真顔で冗談を言うと、彼は私の首を絞める仕草をしたり。
お店でポストカードを手にする私に、「君はあれだけ写真を撮ったんだから、これは必要ないよね」って、没収したり。

ちょっと~、あなたのせいで、私が写真を撮るのを遠慮してるのが分からないの!
って、文句でも言おうかと思いましたが、

あまりに嬉しそうに笑う彼が、アドリア海に反射する太陽の光に照らされて、その眩しさに、ま、いっかと思ったり。

これも一人旅では味わえない楽しさなんだろうな~と、大人な(?)私で対応することに致しました。(爆)

2012-01-14 05:08:30

そんな大人な私でも(笑)、どうしてもレディーファーストには慣れなくて、

建物に入る時、階段を登る時、何かにつけて彼とお見合いしてしまいます。

「お先にどうぞ。」
どうしても殿方に先を譲ってしまう。。。

後ろから守られてるって感覚より、前に立って守って欲しいタイプなのかしら、私って?

彼は彼で女性より先に行くことに抵抗があったようですが、次第に私への対応も慣れて来て、
「じゃぁ、僕が先に行くね。」って、何も言わなくても前を行くようになりました。

やっぱり大きな背中の後ろから付いていく方がいいな、私。
もちろん、この背中がアルゼンチンの彼ではなくウルスだったら~、このアドリア海の輝きはいっそう眩しく映るのでしょうにね~。(*^m^*)
って、これ以上 眩しければ、目を開けられないほどの煌めきを前にそう思いました。(笑)

城壁にて

「君、ヒロシマへいったことある?」
何を思ったのか、急に彼は振り返り、そんな質問を私に投げかけてきました。

「ヒロシマ?」
「うん、ちょうど昨日かな~、テレビで原爆投下について、アメリカ側からの視点で番組をやってたんだ。」

あ~、それで、、、。
「あのね、私、大学時代にヒロシマにいたのよ。」

「え?ホント? で、大学では何を専攻していたの?」

この時はまだ、私は彼が欧州中央銀行で働いていることを知りませんでした。
「経済を。。。」

「へぇ~、君ってヒロシマで経済を勉強したんだ!」
彼の目が一瞬輝いたことを見逃さなかった私は、咄嗟にヤバイ!と思いました。

「ねぇ、ねぇ、ヒロシマではどんなことを学んだの?」

すでに話題は原爆投下のことではなく、彼の関心は、そのヒロシマでどんな経済学を私が学んだのか、、、それに集中してしまいました。(T_T)

「いやぁ~、あのぉ~。^^;」
私は冷や汗を掻きつつ、しどろもどろに…。

「いやぁ~、もう随分と昔の話だし~~~。(汗)」

「ねぇ、ちょっとくらい思い出して話してよ。^^」

あ~、こんなことなら彼の後ろを歩くのではなく、さっさと前を歩いて逃げれば良かった~。
(><)


2012-01-14 05:14:56

何でもない会話なのですが、強く印象に残っている時間です。(苦笑)

きっかけはスタジアムから?

        IMG_0811.jpg


それは、1990年5月13日のことでした。

クロアチアの首都ザグレブにおいて、ディナモ・ザグレブ(ザグレブを本拠地とするサッカーチーム)とセルビアのレッドスター・ベオグラードが対戦しました。
どちらも、当時のユーゴスラビアリーグ上位を争う、代表的なチームです。

この試合で、互いのサポーター間に小競り合いが起こり、
それがザグレブのサポーターとセルビア人権力の象徴であるユーゴスラビア警察との衝突へと発展したのです。

これが、クロアチアとセルビアの最初の衝突となり、後に、クロアチアの独立は「スタジアムからの建国」と呼ばれるようになったそうです。

*

クロアチア人もセルビア人も、
もともとのルーツは、6世紀後半に東ローマ帝国がモンゴル系民族の襲来に備えて招き入れた、黒海周辺を発祥の地とする南スラヴ人です。

ちなみに、ユーゴスラビアとは「南スラヴ人の国」という意味。

ただ、バルカン半島の東寄りに定住したセルビア人は正教会を信仰したのに対し、西寄りに住みついたクロアチア人は主にローマ・カトリックを信仰したことにより、血統や言語は同じでも、後に別の民族として区別されるようになったとのこと。


それぞれに個別の文化を築き、いくつかの王国を興した南スラヴの人達。
やがて、セルビア人とモンテネグロ人はオスマン帝国に支配され、片やクロアチア人はハプスブルク帝国の統治下に入りました。

異なる宗主国の下、個別の民族意識を培った南スラヴ人ではありますが、同時にそれぞれの宗主国への反発心から「南スラヴ人の独立」という共通意識を持つようになります。

それが、第一次世界大戦後のハプスブルク帝国の敗北崩壊による「第一のユーゴ」の誕生へと繋がります。

しかし、それはセルビア人中心の政治体制であったため、クロアチア人が反発。
また第二次世界大戦による枢軸国の分割占領で、第一のユーゴは消滅してしまいます。


けれど1945年、ナチス・ドイツの降伏とともに、
戦時中に枢軸国に対する抵抗運動を行ってきた共産主義者のパルチザンが、ユーゴスラビア全域の支配権を確立し、その首脳であったチトーが再び南スラヴ人の統一を目指します。
それが、「第二のユーゴ」となるユーゴスラビア連邦人民共和国でした。

ユーゴスラビア人(南スラヴ人)は民族的に同質であり、外国による支配の下で単に宗教によって分けられていたに過ぎないものである、とする「兄弟愛と統一」という政治概念を掲げたチトー。

時に、世界は冷戦に突入したばかりでした。
ソ連のスターリンと不仲だったチトーは、社会主義陣営にも資本主義陣営にも属さず、独自の道を進むことになります。

けれど、強大な軍隊を持つソ連と対立していたがために、ユーゴスラビアでは「いつソ連軍が攻めてくるやもしれぬ」恐怖に常に脅かされていました。
それこそが、民族や宗教の違いを越えて団結する力となり、また、チトーのカリスマ性と統治の巧みさもあり、微妙なバランスでユーゴスラビアは纏まっていたのでした。

しかし、1980年にチトーが死去。
そして、時代は冷戦も終結を迎え、ソ連軍の攻撃を心配する必要がなくなりました。

対ソ連で団結していた国民意識もバラバラになり、再び複雑な民族感情、宗教意識が顔を出していきます。


きっかけはスタジアムから?

1991年6月、ユーゴスラビア連邦からの独立を宣言したクロアチアに対し、セルビアを中心とした連邦軍が攻撃。

「世界遺産の街は攻撃しないだろう」という期待に反し、同年10月にはドゥブロヴニクに最初の砲弾が落とされました。

12月6日には2000発もの砲弾、爆弾を浴び、建物の7割近くが全半壊。 
街は壊滅状態に陥り、直後 この街は「危機にさらされている世界遺産」に登録されました。


市民たちは紛争終結後、すぐさま再建に着手します。
破壊前と同じ石材を使い、壁の彫刻も寸分違わず修復されました。
そして、1998年には危機遺産リストから削除されるに至りました。 

2012-01-13 22:29:48

美しい景観に隠れた今も残る傷痕と、着弾地点を示した地図が、訪れる者にその過去を示しています。

果たして、この街を襲った連邦軍が悪いのか? 

この複雑な場所に立つ時、私には何が正しくて何が間違っていたのかが分かりません。


この先、南スラヴの人達はこのまま別々の道を辿るのか、それとも再び統一する日がやって来るのか、、、?


どちらにしろ、もう二度とむやみに血を流すことのないように、

お喋りな彼の一瞬の沈黙を見て、私は祈りながらシャッターを切りました。

2012-01-14 05:08:59

このカテゴリーに該当する記事はありません。