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旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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旧ユーゴ旅行記・番外編

今さらながら、2006年に亡くなったロシア語通訳兼エッセイストの米原万里さんの本を読み漁っている。

彼女の代表作『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』を、ふらりと立ち寄った書店で手にして以来、物の見事にハマってしまった。

重い内容のはずなのに、コミカルに時に下ネタまでも織り交ぜて、なまじ教科書じみた歴史書を紐解くよりもうんと身近に1960年代以降の東欧の歴史を学ぶことができる。
いや、学ぶというよりももっと身近で、とにかく面白い。

*

『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』は、1960~64年までの5年間、著者が滞在したチェコ・プラハでのソビエト学校時代の3人の親友を通して、激動の東欧の真実の姿を個人の目線で描かれている。

米原さんは子供の頃から観察力も優れていたのだろう。
その上でさらに多くの体験を経た後、改めて少女時代の親友と再会を果たし、当時では知り得なかった真実と出会い、彼女ならではの洞察力と表現力でこの本が生まれたのだ。

その中で、3人目の親友として登場するのが、セルビアはベオグラード出身のヤスミンカ。
彼女について記した頁の中で、かつてのユーゴスラビアにおける紛争について書かれている箇所がある。

旧ユーゴは私にとって2012年を迎えた縁のある場所。
ここに、旅行記の番外編として、また旅行記の補足として、彼女の文章を写し出しておこうと思う。


* * *


ところで日本では無頓着に「東欧」と呼ぶが、どの国もこう括られるのをひどく嫌う。
「中欧」と訂正する。

ウラル以西を欧州とするなら純地理的には、当地域はそのへそに当たるが、地理的正確さを期して「東」を嫌がるわけではない。

「東」とは第一次大戦まではオーストリアまたはトルコの支配収奪下に、第二次大戦後はソ連邦傘下に編入されていたために、より西のキリスト教諸国の「発展」から取り残され、さらには冷戦で負けた側を表す記号だ。
後発の貧しい敗者というイメージが付きまとう。

「西」に対する一方的憧れと劣等感の裏返しとしての自分より「東」、さらには自己の中の「東性」に対する蔑視と劣等感。
これは明治以降脱亜入欧をめざした日本人のメンタリティーにも通じる。


(中略)


たしかにユーゴ多民族戦争の端緒となった91年6月のスロベニアとクロアチアの独立宣言の性急で強引なやり方にはそら恐ろしいほど激しい「脱東入西」欲を感じる。

両国がバルカン半島分割時代ハプスブルクのカトリック文明圏に組み込まれたのに対して、セルビア、マケドニア等はビザンツ帝国の正教文明を引きずったままオスマン・トルコのイスラム文明圏内で生きてきた。
しかも旧ユーゴでは経済先進地域とカトリック圏、後進地域と正教圏がほぼ完全にオーバーラップする形で「南北格差」が極端に拡大していった。

この矛盾を背に容貌上の特徴を言語も双子のように相似形の、カトリックのクロアチア人勢力と正教のセルビア人勢力の対立を主軸にして、それにボスニア・ムスリムが巻き込まれた形で今回の戦争(ボスニア紛争)は展開した。
各勢力とも優劣つけがたい残虐非道を発揮した。

ロシア語が理解できる私には、西側一般に流される情報とは異なる、ロシア経由の報道に接する機会がある。
だから、「強制収容所」や「集団レイプ」も各勢力においてあったことを知っている。


だがセルビア人勢力のそれだけが衝撃的ニュースとなって世界を駆けめぐり強固な「セルビア悪玉説」を形成したのは周知の通り。

NATOの三千数百回以上の空爆の対象とされたのもひとりセルビア人勢力のみであり、EUと国連の制裁にはセルビア人勢力の後ろ盾として新ユーゴ連邦まで対象とされた。


この一方的な情報操作のプロセスは今後早急に検証されるべきだが、現時点で気になるのは、ユーゴ戦争の両主役の支援諸国の宗教的色分けの露骨なほどの明快さだ。
EUでセルビア制裁に反対したのが正教を国教とするギリシャだけであることひとつ見てもそうだ。


そして現代世界の宗教地図を一目すれば国際世論形態は圧倒的にカトリック・プロテスタント連合に有利なことが瞭然とする。


* * *


改めて、旧ユーゴの旅、ドゥブロヴニクとモスタルで見た痛々しい傷痕を見つめ直そうと思う。


マルッシオの解釈はどうなのだろうか?
今も時々、彼に問いかけることがある。
もう二度と会うことのない彼ではあるが、今では私の心の友であるようだ。(笑)

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握手の意味 ・・・ ドゥブロヴニク&モスタル旅行記、最終章☆

旧ユーゴスラビアの旅から3ヶ月半。

2012年のミラクルは、思えば ボスニア・ヘルツェゴビナ南部の町 モスタルでマルッシオと奇跡の再会を果たしたことから始まったように思います。

あり得ないことが起こるんだ!ってこと、

これまでは自分の意思で行動していたと思っていたことも、実は大きな宇宙の意思に動かされていたんだってこと、

そして、もうそろそろ そういう見えない引力に自然の流れで従ってもいい時期なんじゃないかな~って、

自分を呼んでくれる場所へ素直に行ってみるのもいいんじゃないかな~って、

この歳になって やっと気付きました。(笑)


*

「ドゥブロヴニクとモスタル、君はどっちが気に入った?」
時間を気にする私に、マルッシオは尋ねてきました。

二つの町を単純に比較することはできないけれど、たぶん普通なら、ドゥブロヴニクと答える人が多いと思います。

でも、私はどこか寂れた、悲しいほど美しいモスタルにより魅力を感じていました。
「そうだね、僕もモスタルの方が好きさ。」

そういえば、私達。
アドリア海の真珠と呼ばれるような輝く美しい街よりも、こんな土埃が混じったような空気の方がお似合いかもしれないわね。

そんなことを思いながら、私はマルッシオを見上げました。


「もうそろそろタクシーが来る時間?」 
「うん。・・・」


少しの沈黙を破ったのは、少し離れた場所から大きく手を振るタクシードライバーのお兄さんでした。
「ごめ~ん、待たせちゃったようだね。」
ドライバーのお兄さん、サングラスの似合う、なかなかのイケメンだったのです。(笑)

「全然大丈夫よ~!」私も彼に手をあげました。


「昨日と今日、本当にどうもありがとう。 あなたは本当に親切な方ね。」
私はもう一度 マルッシオを見上げ、そう言いました。

先ほどまでお喋りだったマルッシオ、、、この時だけは黙って、私の伸ばす手を握ってくれました。

その大きな手と握手を交わし、軽くおじぎをして、私はタクシーに乗り込みました。

マルッシオもその場から立ち去ります。
その後ろ姿が、なぜか小さく、少し寂しそうに見えて、ここで初めて 私の胸もきゅん・・・としたのでした。

だって、本当に彼の背中が小さく見えたから。。。

私の気持ちを察してか、タクシーがマルッシオの横を通り過ぎる時、ドライバーのお兄さんが一度だけクラクションを鳴らしてくれました。

見上げたマルッシオの顔は本当に寂しそう。 
あんなにお喋りだったのは、本当はものすご~いさびしがり屋さんだからなのかもしれないな。。。

私はタクシーの窓から大きく手を振りました。

「ありがとう!!!」 その思いを込めて、マルッシオが小さく見えなくなるまで、私はずっと手を振り続けました。


2012-01-13 22:19:03

ドゥブロヴニクへ戻った私は、旧港の船着き場に腰を降ろし、しばらくこの旅を振り返っていました。


ホント、最初から最後までマルッシオとの二人旅になっちゃったわ。

苦笑しながら、静かに打ち寄せる波の音に耳を傾けました。


私が旅に出るのは、世界中の人と繋がりたいって思うから。

私が旅先で握手を交わすのは、世界中の人達を繋げたいと思うから。

私の手を通して、私が出会った色んな国の人達が握手を交わしている、そんな風に思えるから。



やっぱり私は一人旅の方が好きだけど、たまにはこんな二人旅もいいもんだわって、

やっぱり苦笑しながら、黒くなったアドリア海の波音を静かに聴いていました。


たった2日間の旅日記を記すのに、こんなに時間を要することになろうとは全然思ってもいませんでした。
それにも関わらず、最後まで私のドゥブロヴニク&モスタル旅行記にお付き合いくださいまして、まことにありがとうございました。

これで、私とマルッシオの旅は終わりです。

たぶん、マルッシオとはもう二度と会えないことと思いますが、あの2日間はかけがえのない思い出になりました。
もう伝えようがありませんが、今は彼に感謝でいっぱいです。


* * * * * * *


◆12月30日(金)

16:10 ウィーン着
    
18:30 ザグレブ着 ・・・ picchukoサンタ、2011年・最後の使命を果たす☆

22:00 ドゥブロヴニク着

22:30 ホテル・RIXOS チェックイン


◆12月31日(土)

6:30 起床

8:30 ホテル出発

9:00 『フランシスコ会修道院』入口にてマルッシオと出会う
 
   ドゥブロヴニク旧市街観光
    ・フランシスコ会修道院、薬事博物館
    ・ルジャ広場
    ・聖レヴェリン要塞から城壁一周
    ・スポンザ宮殿
    ・大聖堂
    ・旧総督府
    
13:30 ランチ

14:00 セルビア正教会
    
     カフェにて食後のコーヒー
    
14:30 マルッシオと別れてスルジ山へ向かう

     スルジ山から旧市街を見下ろす

16:00~17:00 バニェビーチ

17:30~19:30 旧市街をぶらぶら散策&ショッピング

20:00 ホテル着


◆1月1日(日)

7:00 ホテルのベランダからアドリア海の初日の出を拝む

8:00 ホテル出発

8:30~9:30 ドゥブロヴニク旧市街観光
        ・プラツェ通り       
        ・ルジャ広場
        ・聖ヴラホ教会
        ・大聖堂
        ・聖イグナチオ教会
  
9:30~11:30  タクシーにてモスタルへ

11:30~14:00 モスタル観光
         ☆マルッシオと再会☆
         ・旧市街オールド・バザール
         ・スタリ・モスト
         ・コスキ・メフメッド・パシナ・ジャーミヤ(イスラムモスク)
         ・カラジョスベグ・ジャーミヤ(イスラムモスク)
         ・フランシスコ会修道院(カトリック教会)

14:00~16:00 ドゥブロヴニクへ

16:00~16:30 ドゥブロヴニク旧市街観光
          ・フランシスコ会修道院
          ・ドミニコ会修道院

16:30~17:30 カフェ・グラツカ・カヴァナ

17:30~18:30 旧港

18:30~19:00 ショッピング

19:00~20:00 シーフードレストラン・プロトにて夕食

20:30 ホテル着


◆1月2日(月)

4:30 ホテル チェックアウト

6:40 ドゥブロヴニク発

8:30 ザグレブ発

13:15 ウィーン発


2012-01-16 18:43:06
私をモスタルへ連れていった張本人(?)・笑

石の花。

さて、アルゼンチン人のマルッシオ君とpicchukoさんには モスタルでの残り僅かな時間を仲良く楽しんでもらうこととして(笑)、

まず、私が帰国後に出会った、バルカン半島を舞台とする優れた漫画をご紹介いたします。



それは、あの手塚治虫先生でさえ一目置いていた坂口尚さんの作品『石の花』。

時は第二次世界大戦時、ナチスドイツが旧ユーゴスラビアに侵攻するところから話が始まるわけですが、、、

これを読むだけで、後に続く内戦の火種を理解することもできるし、

当時 枢軸国に分割占領されたユーゴスラビアが、いかにナチスドイツに立ち向かい、その中で国をどう模索していったかを知るのに、非常に勉強になりました。

それも、政府ではなく民衆の力で。

もちろん、これは第二次世界大戦下のユーゴ対ドイツとして読むこともできるし、
これを世界の縮図として、人類共通の物語として読んでみても面白いのではないか、と私は思います。


坂口さん自身も、「なぜ、ユーゴを選んだのか?」という問いに、

民衆が抵抗に立ち上がったパルチザンに興味を引かれたことと、

5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字が存在する複雑な環境であることが、積極的な創作動機になったと答えています。

そして、その極限の時代を生き抜いた一人の少年と仲間を通して、人間の本性と平和の本質に迫るという大きな挑戦に挑んでいるわけです。


一見、戦争もの、歴史ものということで抵抗を感じる方もいるかもしれませんが、

これ、本当に面白い! 中身が濃いぃ~!

最初はパルチザンって? チェトニクって~?っていう状態から読み始めた私です。

ですが、知らず知らずに もっとユーゴについて、その現代史について勉強したいと思わせる引力が並みではなくて…。

ちょっと私の中で、ユーゴスラビアブームが巻き起こっております。(笑)


* * * * * * *

2012-01-13 22:23:23


モスクの塔からも目に付いた、ネレトヴァ川対岸のカトリック教会の前に私達はいました。

「ほら~、ドゥブロヴニクにもあっただろう? 
クロアチア最古の薬局があった修道院と同じ、ここもフランシスコ会の修道院なんだ。」


「ここの鐘楼は、この辺りで一番高い建物なんだってさ。 登ってみる~?」

悪戯っぽく目をキラキラさせながら、マルッシオは私の顔を覗きこみました。

「ふんっ、いじわる~!><」
「あははは~。」

私達は教会の扉を引いてみました。 
けれど残念なことに、どの扉にも固く鍵がかけられており、私達は中に入ることができませんでした。

「もう時間だし、、、。」
私の腕時計は、すでに1時55分を示していました。

「じゃぁ、戻ろうか。」

「あ、でも最後にここだけは行った方がいいよ!」
マルッシオはますます早足で、私に付いて来るよう合図します。

「ほら、ドゥブロヴニクまでは遠いから、タクシーに乗る前にここだけは済ませておかなくちゃ。」

私は思わず笑ってしまいました。
「あはは、そうだね。ここだけは済ませておかなくちゃね。^^」

マルッシオが真顔で案内するもんだから、いったいどこへ連れていかれるかと思ったら~、

そうです、公衆トイレでした!(爆)


こんな細やかな気遣いまでできるマルッシオとのお別れまで、後10分です。

スタリ・モスト

IMG_0872.jpg

橋を守る人を意味するモスタルという街は、その名の通り橋とともに歴史を歩んできました。

ネレトヴァ川に架かる長さ約30メートル、高さ約20メートルのアーチ形の石橋『スタリ・モスト』は、橋脚を持たない頑丈な一本橋。
それは、セメントを一切使わず、組み合わせた石を鉄の鉤で補強して造られたオスマン建築の傑作です。


もともとモスタルは、15世紀~19世紀にかけてこの地を支配したオスマン帝国と、その後のオーストリア・ハンガリー帝国統治時代の建築物が巧く共存している美しい街ではありましたが、

1992年3月に旧ユーゴスラビアからの独立を巡り勃発した、ボスニア紛争の激化を逃れることができませんでした。

それは、正教徒のセルビア人、キリスト教徒のクロアチア人、イスラム教徒のボスニア人による民族的、宗教的対立とも重なり、

美しい街は戦火に巻き込まれ、街の象徴である『スタリ・モスト』も爆破されてしまったのです。


内戦は1995年に終結。
紛争後はEUによる監視の下に政治的統制が行われ、ユネスコなどの支援によって破壊された『スタリ・モスト』と周辺の歴史建造物の再建が行われました。

橋の修復には、川から回収した破壊された石材をも利用したのだとか。

1999年に開始されたその修復も2004年には完成し、その7月、石橋の修復記念式典が行われたそうです。

昔日の姿を取り戻した『スタリ・モスト』は、その歴史的価値だけでなく、国際協力と人々の団結、多民族・多文化の共生や和解の象徴として、2005年に世界遺産に登録されました。

IMG_0876.jpg

「それでも、街中に砲撃の痕がある建物が残っているよね。」

紛争から15年以上経つ今も、旧市街の至るところに破壊された建物がそのままの状態で存在していました。

「ドゥブロヴニクでも紛争は激しかったけど、あの街と比べると ここはとても貧しいからね~。」
マルッシオも目を細めながら、銃弾の痕を見上げました。

当然のことでしょうが、住民は内戦の傷痕には目もくれず、街を往来していきます。
その痛々しい傷痕も、街の景観のひとつになりきっていました。
すでに違和感がないほど、その銃弾の痕は街の景色に同化しているのです。

あ、だから街に着いた当初はそれに気付かなかったんだ!

「それでも酷いよね。」

一見、昔の姿を取り戻しているように見えても、それは上辺だけ。
街の姿でさえそうなのですから、ここで暮らす人々の見えない心の傷はどれだけ深いことでしょう。

さすがの私も、その傷痕にカメラを向けることはできませんでした。

橋から眺める緑色したネレトヴァ川。 今日も静かに街を見守っています。

IMG_0873.jpg


私のモスタル滞在も残すところ30分をきりました。

「タクシーとの待ち合わせ時間は?」
「14時だよ。」
「あんまり時間がないね。ちょっと急ごうか。 で、どこで待ち合わせしてるの?」

私は旧市街でゆっくりしたかったのですが、マルッシオはその先にあるカトリックの教会へ私を案内したいらしく歩を速めます。

最後の最後までマルッシオペースだな。(笑)


その時、足元に子犬が駆けよってきました。
思わず「可愛い~~~☆」と日本語で私。^^

「犬好きなの? 飼ってるの?」
「うん、ポメラニアンを2匹飼ってるの~。^^」

「へぇ、なんて名前?」
「クリス。」
「もう一匹は?」

え?
咄嗟に言葉が詰まりました。

というのも、私のもう一匹の愛犬の名前は「ヨンサマ」。
決してペ・ヨンジュン氏のファンではないのですが、当時の流行に合わせて付けた名前です。(笑)
それも月日の経過に伴って、
今では動物病院で「どうぞ、お次はヨンサマ~。」って大声で呼ばれる度、赤面してしまいます。^^;

あぅ~、マルッシオにバカにされるぅ~。(><)
「え~と、え~~~~と、ヨンサマって言うの。^^;」

「へぇ、ヨンサマか~。 それって日本名?」

あ、そっか!
日本ではお馴染みのヨンサマではありますが、そりゃマルッシオは知らないよね☆
つい日本にいる感覚で話していました。(笑)

「そうそう、そう日本名よ!」 
これって、日本名かな~? 日本名でいいんだよね? と自問自答しながら、、、。(*^^*)


ここまで来て、ヨンサマ話題(?)になろうとは!

一匹の子犬のおかげで、先ほどまでの重い気分が随分と楽になった私達。

銃弾の痕を縫いながら、ネレトヴァ川より西側のカトリック圏へと入って行きました。

モスクでのひとこま。

2012-01-13 22:22:40

う…。

ここを降りるのか、、、。

あ~、どうか誰も登ってきませんように。(><)

というのも、先ほど登っている最中に男女二人が降りて来て、私は壁に張り付くように、相手は柱にしがみつくように、お互い命がけですれ違ったのでした。(苦笑)

相手の女の子は「怖い、助けて~」って動けなくなるほど怯えていたし、、、。
確かに足が竦むよね、ここ。


あ~、どうか何事もなく日本へ帰れますように。
今回の旅、危険なことは一切なかったけれど、ここに来て 初めて「無事」を祈ったのでした。(笑)

ずりずり、ずりずり、、、。

こんな狭い階段、一体誰が設計したんだよっ!って、最後は16世紀のトルコ人設計者にまで文句を言う始末。


「はぁ~、もうへとへとだよ~。><」

なんとか下界に降りた私は、モスクのおじさんとマルッシオに大きなジェスチャーで、その大変さを伝えました。

「ははは。」 二人とも、なんだか楽しそうに笑っています。

「ははは、ご苦労さま。^^」 
もぅ! この大変さを知ってたんなら、初めから教えてよねっ☆(怒)

*

モスクを出て、立ち去ろうとする私達をおじさんは呼び止めました。
「ちょっと庭も案内してあげるよ。^^」

私が必死で塔に登っている間、二人はかなり仲良くなっていたのでしょう。
そう、私をダシにしてっ☆(怒)

前庭には泉があり、裏手には墓地がありました。

「平らな墓石が女性で、男性の墓石はとんがってる方だよ。」
マルッシオは指さしながら、私に説明を始めました。

「そうそう、君はよく知ってるね。」おじさんは感心した表情でマルッシオに言いました。

クロアチアもそうだけど、ボスニア・ヘルツェゴビナでも英語が普通に通用するんだ~。
言葉の垣根がないっていいことだなって、二人の会話を耳にしながら、つくづくそう感じました。
そう改めて思うほど、二人の仲がいい感じだったのです。

だから、そんな雰囲気を写真に撮りたくて、私はおじさんに頼みました。

「彼女、写真を撮るのが好きなんだよ。 良かったら写ってやってよ。^^」とマルッシオ。

くぅ~、私が写真を撮るのはね~、ブログに載せる為なんだよっ☆(怒)
で、なんやかんやケチつけながらも、意外とマルッシオって私の写真に写ってるよね。(笑)


「じゃぁ、撮るよ~。」

すると二人ったら、私は何も頼んでいないのに、仲良く「ピース!」ってVサインをしてくれました。

2012-01-13 22:22:12

大の大人が、それもいい年した二人の男性が、何やってんだか!(笑)


なんかこの雰囲気いいな~。^^

モスタルに滞在できる限られた時間、タイムリミットが刻々と近づくこの時になって、この出会いに終わりが来ることが非常に残念になってきました。


胸の中に寂しさが広がっていくのを微かに感じながら、

おじさんに大きく手を振り、マルッシオと私はカラジョズ・ベグのモスクを後にしました。

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