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旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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裁判員経験者との意見交換会

てっきり私は、裁判員裁判時に評議を行ったような小部屋で、裁判官、検察官、弁護士に裁判員経験者の代表者が顔を合わせ、ざっくばらんに意見交換をするのだと思っていた。
だから、裁判終了後のアンケートでも、自宅に郵送されてきた意見交換会開催の案内にも気軽に参加希望の意を表した。


先日、その意見交換会が高松地方裁判所において行われた。
私も選ばれた経験者のひとり。

裁判中は3名の裁判官としか直接話す機会がなかったから、今回は検察官や弁護士らも同席ということに多少の興味を持って高松まで足を運んだ。
何より、馴染みの裁判官との再会が楽しみだった。


ところが、会場に案内されてびっくり。
通されたのは、結構広い会議室だった。

確かに裁判員経験者8名と裁判官、検察官、弁護士がそれぞれ一名出席しての座談会形式には違いないが、向かい側には各報道関係者、その他の検察官や裁判官等、20名以上の関係者が傍聴席に座っている。
中央には高松地方裁判所所長と進行役の裁判官。

一気に緊張が高まる。

実際の裁判でさえ平常心で臨めた私だが、この日心臓のドキドキがとまらなかった。


裁判員経験者による意見交換会


自分が参加した裁判は一例にしかすぎず、それぞれ異なった事例があることはよくわかっているつもりだった。
しかし、この意見交換において改めて痛感したことがそれだった。


私が経験した起訴内容は強盗致傷。

裁判当時を思い出す。

私が臨んだ裁判では被告は有罪を認めており、争点となるのはそれが計画的か偶発的かということだった。
被害者を殴った棒をめぐって議論が繰り返された。

初日に被害者による答弁が行われた際は私の気持ちも被害者側に大きく動いた。
また、裁判が進むにつれ曖昧な返答を繰り返す被告に対しても、それを弁護する国選弁護人に対しても不信感が募り、被告に向ける自分の眼が日増しに厳しくなるのを感じた。

だが、実際に刑を決める段階になると、若い被告の将来について考えざるを得なかった。
たぶん、いっときの出来心からの犯行に違いなかった。
被害者の受けた心の傷の深さまでは計り知れないが、被害者が負った外的な傷は比較的浅く、盗まれた金品の額もそう大きいものではなかった。

しかし、犯した罪は罪。
罪を償うことも被告の将来においても非常に大切なことだ。


* * *


今回の意見交換会の中で、ある経験者がこんなことを言った。
「被告が語った中で、自分の将来についての言葉がありました。私はそれがとてもショックでした。」

私以外7名の経験者が、殺人か殺人未遂という重大な事件を受け持っていた。
殺した側、人の命も未来も奪った人間が自分の将来を思う。

別の経験者はこう言った。
「(殺された)被害者の父親の意見陳述を聞きながら涙が止まらなかった。自分も娘がおり、どうしても感情移入をしてしまい家に帰ってからも泣きました。50何年生きてきて、これほど辛い時間はなかったです。」


私は周りの人たちと自分の意見との温度差を感じた。
裁判員裁判で受けた心理的苦痛も、殺人事件に携わった彼らと私とでは比較にならないほど違っていた。


私は裁判後、周りの人に裁判員に選ばれたならぜひ参加すべきと伝えてきたが、果たしてどうなのだろうか。
色んな思いが頭の中を駆け巡った。

だが、やはり裁判員裁判を経験したことは自分の人生上貴重な経験になったと思うし、裁判で終わらず、今回のような意見交換の場に選ばれたことを有難く感じた。


日々、新聞をあらゆる事件が賑わす。
文字としてそれらを見るのと、実際に被告や被害者、その家族と向き合うと、その重さは全くもって違ってくる。
感情的にもなるし、感情移入した状態で判決に関わるのはどうかと疑問に思うこともある。
けれど、裁判に参加する機会を与えられるということは、やはり意味あるものだろう。


意見交換会での私の意見が今後の裁判員制度の運用に役立つとは思えないが、自分の中で見直すいい時間になったと思っている。

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模型に恋した「世界一孤独な鳥」ナイジェル死す。(AFP)

ニュージーランドの島で何年もの間たった1羽で暮らし、「世界一孤独な鳥」として知られていた雄のシロカツオドリ「ナイジェル(Nigel)」が死に、同国の野生生物愛好者の間に悲しみが広がっている。

「仲間のいないナイジェル」とも呼ばれていたこの鳥は、ウェリントン沖にあるマナ(Mana)島で、野生生物を呼び寄せようと環境保護活動家らが設置したコンクリート製模型のコロニーの中で数年間にわたり暮らしていた。
ナイジェルはこの模型の一つと恋に落ち、羽づくろいや巣作り、さらには交尾をしようとする姿も目撃されていた。

同国自然保護局(DOC)の監視員クリス・ベル(Chris Bell)氏は7日、「ナイジェルはマナ島に住むことを選んだ。
いつでも去ることができたのにそうしなかったので、彼が幸せだったことが分かる」と語った。


ナイジェルは先月末、コンクリート製の「恋人」の隣に横たわり死んでいるところをベル氏に発見された。
死因は今後の解剖で特定されるが、老衰とみられている。

悲しいことに、ナイジェルは偽のコロニーの効果が現れつつある中でこの世を去ってしまった。
ベル氏によると、昨年12月末には3羽のシロカツオドリがマナ島を訪れ始めた。
3羽は現在も定期的に島を訪れており、コロニーの形成につながればナイジェルの遺産となるだろうとベル氏は述べている。


シロカツオドリ

内戦から20年、断絶つづく故郷ボスニアへ。(ナショナル ジオグラフィック)

スレイマン・ビエディッチさんは5歳でボスニアを離れた。
それでも、祖父母の家で遊んだことや、泳ぎを教えようとする父にネレトバ川に投げ込まれたことが今も記憶にある。
銃声も街頭の混乱も、父が捕虜収容所に連れて行かれるところも覚えている。
クロアチアの港に車で連れて行かれ、夜になってイタリア行きの船に乗ったことも忘れていない。
飛行機の音やサイレンが聞こえると、こうした記憶がよみがえることがある。

2016年、ビエディッチさんはカメラを携えてイタリアを発ち、母の故郷の村ポチテリに向かった。
小さいころに両親と一緒に訪れたことはあるが、今度は一人だった。
村に留まったムスリムたちの社会と、内戦後に戻ってきた人たちを記録したかったのだ。
このプロジェクトを、彼は「Odavle Samo U Harem」と呼んだ。
村の老人が言った「ここからは墓へ行くだけ」という意味の言葉だった。

ビエディッチさんの母が幼いころの思い出として語ったポチテリは、パブとレストランが立ち並び、自然に囲まれた牧歌的な村だった。
だが、ビエディッチさんが目の当たりにしたのは、内戦で破壊された村だ。
1990年代のユーゴスラビア分裂後、正教徒のボスニア系セルビア人、カトリックのクロアチア人、イスラム教徒のボスニア人による内戦が起こった。
地元の産業は崩壊し、残ったのは高い失業率と社会の緊張状態だった。
ネレトバ川にはごみが浮かんだ。

しかし毎年夏になると、先祖の地とのつながりを確かめようと、ビエディッチさんの世代がヨーロッパ各地から戻ってくる。
「彼らの親は、子どもたちに自らのルーツ、言語、一族との関わりを失ってほしくないと願っています」とビエディッチさんは言う。

外国に逃れた難民たちにとって、故郷に帰るのは厄介なプロセスだ。
内戦終結から20年あまり経つにもかかわらず、町のサッカークラブも商店も、民族ごとに分断されている。
ボスニア・ヘルツェゴビナはどこもそのような状態だ。

1995年に和平合意が成ると、90年代後半には、国際社会が難民にボスニアへの帰還を求め始めた。
「これによって、切望されていた経済支援がもたらされ、新たに見出された融和政策がうまくいっていると証明できるはずでした」と話すのは、人道活動家のハンネス・アインシュポーン氏だ。
同氏は2016年、英オックスフォード大学で修士号を取るため、ボスニア帰還難民の調査を行っていた。
内戦後に帰還する人々は、「国に帰ることで新しい体制に賛同を示し、国家が再び機能することに信頼を託そうとしています」とアインシュポーン氏は話す。

しかし、帰国はまだ第一歩に過ぎない。
帰国に続いて、土地の所有権を確認したり、家々を再建したり、関係を修復したりする道のりが始まった。
帰還難民を満載した国連のバスに護衛部隊が続き、帰還者たちには法的支援が与えられた。
一方、土地には地雷が埋まり、建物には偽装爆弾が仕掛けられていた。

敵意はまだ薄れてはいなかった。
帰還者は迫害に遭ったり、撃たれることすらあった。
特に、内戦の間に民族構成が変わった地域でその傾向が強かった。
2015年になってさえ、ボスニア北部に戻ってきた人たちが暴力を受けたりしている。
国内各地にある仮設住宅に住む人は、今も7000人以上に上る。

2004年、100万人目の難民がボスニア・ヘルツェゴビナに戻った。
だが平均的な帰還者は高齢か、引退した世代だとアインシュポーン氏は言う。
たいてい、彼らはヨーロッパのどこかに家を持ち続けていて、ボスニアの村と行ったり来たりするのだ。
雇用の機会が乏しいため、若者は親の母国に戻って永住したいとは思っていない。

アインシュポーン氏が調査を行ったボスニア・ヘルツェゴビナ北西部の都市プリイェドルも、分断されたままだ。
中心街の商店はセルビア人が所有し、元々の居住区に住むムスリムはほとんどいなかった。
帰還者が新しい家を何軒か建て、決まった季節にだけ住んでいた。
アインシュポーン氏は、隣人同士が互いを幽霊同様にみなしているという感じを受けた。
「住民が街に戻っても、別々の2つの街に分かれてしまっています。両者の間に、実質的な交流はありません」

時間が経てば経つほど、帰還は難しくなる。
アインシュポーン氏は、国際社会で「本国への帰還」という意味で使われている用語に疑問を呈する。
「『リパトリエーション(repatriation)』は、ラテン語の故国(パトリア)に戻るという概念です」とアインシュポーン氏は言う。
「故郷の国そのものが変化することは考慮されていません。実際には、母国は変わるのです」

アインシュポーン氏は自身の研究で、帰還者が母国での生活にスムーズに移行するには、政治的・経済的な力を得ることが欠かせないと結んでいる。
しかし、多様性のある国を建設する計画は、ボスニアの地域レベルでは具体化していない。
「内戦は凍りついた状態で、克服されたとはまだ言えません」とアインシュポーン氏。
内戦後の統合の必要性は、イラクやシリアといった地域でも取り組むべき課題だろうと彼は言う。
氏は現在、国際協力NGO「CARE」の一員としてイラクで活動している。

しかし、故郷へ戻って暮らせない人々にとっても、訪問で古い傷が癒えることがある。
母親の村を再訪したスレイマン・ビエディッチさんは、アブドゥラ・ボシュチェロさんというという老人に出会った。
ボシュチェロさんは、この若い写真家の求めるものを直感的に理解してくれた。
彼が危篤になった時、家族は病院に連れて行こうとした。
その度にボシュチェロさんは拒み、こう言うのだった。「ここからは墓へ行くだけ」

土地へのこうした愛着が、ビエディッチさんの心に響き渡った。
「生まれた場所と直に接触を持てなくなり、外国で育つのは、誰にとっても容易ではありません」と彼は言う。
「自分の足元にしっかりした土台がないようなものです」。
その土台を取り戻し、母国への誇りを認識する手助けをしてくれたのが、老いた友のボシュチェロさんだった。
ビエディッチさんは彼の言葉「Odavle Samo U Harem」を、撮影プロジェクトのタイトルにした。

「戦争は兵士が銃撃をやめた日に終わるのではありません」とビエディッチさんは言う。
「多くの人にとって、それは始まりに過ぎません。彼らは戦争が残したものを一生、あるいは数世代にわたって背負って行かなければならないからです」


 

(Nina Strochlic、訳・高野夏美)

長雨のひとやすみ。

長雨のひとやすみ


今年5月に「開運!なんでも鑑定団」で本物と認められた伊藤若冲の掛け軸を、丸亀城城郭内にある資料館で現在見ることができる。

双幅【鶏図】という。


本日、しとしとと数日前より続く雨の下、私も若冲を訪ねてみた。

若冲といえば、奇抜なほどの色鮮やかな鶏の絵を思い浮かべる人が多いのだろうか。
私も漠然とそんな印象を持っていた。

ただ、昨今の若冲人気のおかげでそれを知り得たくらい、私は彼の絵を全く知らない。
これまで唯一目にした本物が、金刀比羅宮(こんぴらさん)奥書院の障壁画「花丸図」であり、今日出会う作品が私にとって若冲の鶏第一号となる。

なので偉そうに若冲を語ることはできないのだが、ちょっとブログに残そうと思った。



あらかじめ掛け軸の写真を見て水墨画ということはわかっていたが、派手さのない若冲に一瞬戸惑った。
正直、「ふん」というのが第一印象だったのだが、じーっと眺めているうち味が出てくる。

まあ、「これは若冲が描いたものだよ」と聞かされているからかもしれないが、さすが若冲、面白い絵を描くなと思った。
墨の濃淡もいいが、絵に勢いがあった。
鶏の顔もひょうきんでいい。頭に残る。


若冲は鶏を描くにあたり、自身で鶏を飼い、一年ひたすら深く観察し、続く二年は写生を続ける修練を積んだという。

若冲研究者の第一人者である狩野博幸さんによると、「菊のこの描き方は若冲にしかできず、鶏も若冲がよく使う表情をしており、雄鳥と雌鳥の目線を意識的に合わせている」とのこと。
やはり「ふーん」程度にしかわからない私だが、この絵、好きだなと思う。



この鶏は、瀬戸内海に浮かぶ本島(香川県丸亀市)のある町家にあった。
現在所有している方の父親が海運業を営んでいた50年ほど前に、木材の運賃代わりに材木商から渡されたものらしい。

なので保存状態は完璧とは言えないのだが、対で残っていたのは幸運だろう。

もともと本島を中心とする塩飽(しわく)諸島は、昔水軍で栄えた場所。
江戸時代には船大工の技術を生かし家大工や宮大工として活躍していた彼らの裕福さは、島を訪れると今も残る古い町並みからもよくわかる。
この鶏と塩飽水軍に関わりはないだろうが、塩飽大工によって建てられた立派な民家から見つかったことは大いに頷ける。



資料館をでると冷たい雨はやんでおり、長雨はひとまずお休みということか。

仏像の中に歯や髪の毛!? ーCTスキャンでわかった運慶仏の内部 (日刊SPA!)

◆東京国立博物館に過去最多の22体が集結

史上最大の運慶展が上野の東京国立博物館でスタートし、初日から入館を待つ人の長蛇の列ができた。
仏像に疎くても、運慶の名前を聞いたことがある人は多いだろう。
2008年には運慶作とされる仏像がニューヨークのオークションに出品、約14億円で落札されニュースとなった。

運慶とは平安時代から鎌倉時代に活躍した仏師で、「慶派」と呼ばれる仏師集団に属していた。
治承4年(1180年)、平家による南都焼き討ちで、奈良の興福寺や東大寺は伽藍と仏像の大半を焼失。
父・康慶をはじめとする慶派の仏師たちは、その復興に携わった。
父亡き後は慶派一門の長となり、活躍を続ける。
武士の時代になり鎌倉に幕府が開かれると、東国武士からも仏像の注文が入るようになる。

現存する運慶作あるいはその可能性が高い仏像は31体と言われているが、今回の展示では過去最多の22体が集結。
普段お寺では見られない角度から、じっくりと鑑賞することができる。


◆仏像のリアルな表情をつくりだす「玉眼」

運慶は玉眼の使い方が非常にうまく、写実性の高さと相まって、存在感の強い生き生きとした仏像を作っている。
玉眼は、仏像の目をくり抜き、瞳を描いた水晶・白目の役割の白い和紙や綿・当て木で構成され、それを使用することで目に光が入りよりリアルな表情となる。

北条時政の注文に応じて造った願成就院(静岡県)の毘沙門天立像(国宝)の見開いた目にも、玉眼が使用されている。
はち切れそうな体躯で躍動的なポージングをとり、一点を見据える目が武将神としての毘沙門天の強さをよく表わしている。
伝統に縛られない東国の創作が、運慶の独創性を磨いていったと考えられる。

興福寺(奈良県)の無著菩薩立像・世親菩薩立像(国宝)にも玉眼が使用されている。
つぶらな瞳から漏れる小さな光が、逆に深い慈悲を感じさせる。
同じ玉眼でも、まったく表情が異なるのだ。

しかし運慶は後年、如来像や菩薩像には玉眼を使わなくなっていく。
悟りをひらく存在の目に人間的な表情は不必要と考えたのだろう。
今回の展示では、その違いを見比べることができる。


◆CTスキャンで得られた情報から、作者や制作年代を特定

仏像内部に仏舎利(釈迦の遺骨)やお経などを納めることは昔から行われていたが、運慶仏は納入品にも特徴がある。
真如苑真澄寺(東京都)の大日如来坐像(重要文化財)や光得寺(栃木県)の大日如来坐像(重要文化財)内部には、五輪塔の他に心月輪(しんがちりん)呼ばれる仏の心に例えられる球体が、心の位置に納入されている。

なぜそれがわかるかというと、仏像調査にX線によるCTスキャン(コンピューターによる断層撮影法)が用いられているのだ。
そこから得られる情報が、作者や制作年代の特定に繋がることもある。
遺髪や歯が納入されていることもあり、発願者の強い思いがうかがいとれる。
構造だけでなく、CTは過去の人々の思いも見つけ出す。

真如苑真澄寺の大日如来坐像が例のオークションに出された仏像なのだが、重要文化財に指定するにあたりボアスコープ(棒状の内視鏡)でも調査が行われた。
耳孔からボアスコープを挿入し、像内に金箔が押されていることや、鮮やかに色づけされた五輪塔が確認された。

当時の仏師や仏像たちは、まさか何百年後にこうして内部を見られるとは思っていなかっただろう。
今回の「運慶展」の展示では収納物についての解説もあるので、外側だけでなく内部も想像しながら見てほしい。


◆展示期間中に「仮説」をCT調査で解明

今回の展示期間中に、興福寺の無著菩薩立像・世親菩薩立像と四天王立像(国宝)のCT調査が行われる。
現在、興福寺では無著菩薩立像・世親菩薩立像は北円堂に、四天王立像は南円堂にと、別々に安置されている。
しかし今回の展示では「四天王立像はもともと北円堂に置かれていたのではないか」という仮説をもとに、同じ空間に配置している。

東京国立博物館企画課長の浅見龍介氏はこう語る。


仏像の中に歯や髪の毛


「内ぐりや収納物の有無、細かな造りなどを今回CTで調査します。無著・世親像と四天王像の調査結果を比較し、同じ堂に置かれていた可能性についても検討します。また、3D計測を行い、仮想空間の北円堂内部にそれらの仏像を配置してみる予定です。いろいろなことがわかると思います」

今回の展示で彫刻としての造形の美しさに感動したら、ぜひお寺へ訪れて信仰の対象として大切にされている運慶仏を拝観してみてほしい。
博物館とは異なる表情を見ることができるだろう。



(鈴木麦)

父の仕事と裁判員。

時が経ったので、許される範囲のことを少しだけ書いておこうと思う。

去年の11月、最高裁より裁判員候補に選ばれたという通知が分厚い封筒に入って送られてきた。

裁判員かあ。
まさか自分が候補に選ばれることなどあるものかと、この制度が決まった当初はざわめく周囲とは裏腹に全く関心を持っていなかった。

だが裁判員制度が始まって8年、当時は無関心だった私も、3年前に父を亡くしたことでできることなら参加してみたいという気持ちに変わっていた。

父は長年裁判所に勤めてきた。
父のように黒い法服を着ることはないが、同じように法廷に立ち合う機会があれば、父が生涯をかけて貫いた仕事を何らかの形で感じ取ることができるのではないか、今も本棚にずらっと並ぶ法律関係の書籍を眺めながらそんな風に思ったのだった。


そして、私は裁判に参加する機会を得た。
今回の起訴内容は強盗致傷。
最高無期懲役が科せられる罪ゆえに裁判員裁判が執り行われるという。

裁判所側は、裁判官3名、裁判員6名、補充裁判員2名の計11名。
裁判員が一人でも欠ければその裁判は成立しないことから、補充裁判員も裁判員と同じように最初から最後まで裁判に立ち合うことになる。
ただし、裁判員は法廷で質問することができるが補充裁判員は許されず、また審理後の評議(裁判官と裁判員が話し合って有罪か無罪か、有罪の場合はどのような刑に処するのかを決める)の場において多数決を行う際の投票権は補充裁判員にはない。

テレビで裁判の場面を目にしたことはあるが、当然ながら父は一切の仕事を家に持ち込まなかったため、法廷に入るまでは実際の裁判とはどんなイメージでどういう流れになるのかわからなかった。

裁判員は裁判官と一緒に法壇後ろの扉から入場する。
座る場所も裁判官と同じ法壇上。
私の席は裁判官の真横、中央に近い法廷を見渡すのにちょうどいい場所だった。

初めて法廷に入る時は緊張も高まり、心臓のドキドキ音が耳に届くほどであったが、いざ入場すると冷静に周りを見、話を聞く自然体の自分がフシギだった。

また、法廷前に起訴内容を見せてもらい、裁判長が今回の争点はここだよと具体的に言ってくれていたおかげでスムースに話に入っていけたように思う。

冒頭手続きから判決までの6日間、かなり真面目に頭を使い、私なりに真剣に考え、時に悩んだりもした。
同じ法廷に参加をし、同じ資料を読みながらも11名それぞれ考えは異なる。
その異なった考えを十分な話合いから一つの答えへと導いていく。
自分の考えに迷いが生じても、裁判官の皆さんがその悩みを受け入れ、認めてくれる。
裁判員にならなければ関わることのなかった人たちだが、裁判長が仰っていた通り、私たちは11名で一つのチームになっていた。

疑わしきは裁かない姿勢はなにも裁判所側だけでなく、丁寧に話を引き出し物事を見極めようとする検察側の態度にも好感が持てた。
いい経験になったし、司法に対する信頼も深まったように思う。

また、裁判長のイメージも変わった。
これまでは閻魔大王という印象だったが、今はまるでお釈迦様みたいだと思う。
閻魔大王は検察側か?笑


そして、ああ、これが父の生前であればなあと、勉強になった分余計にそう思った。
父ならばどんな捉え方をしただろう。
父ならばどんな言葉を被告にかけたことだろう。

私は幼い頃から厳格な父が苦手で、だから法曹界はまったくもって興味がなかった。
自分から一番遠い仕事だと思っていた。
しかし、今は思う。
もしも学生時代に、せめて20代でこういう経験ができていたなら、私も法曹界の門を叩きたかったなと。
素直になれなかった自分を悔いた。
その後悔さえもいい経験になったと感謝している。


裁判員裁判の一切が終わった後、裁判員バッチをもらった。
今も父の仏前に供えてある。

父の仕事と裁判員



京都国立近代美術館へ。

大阪へ行くのなら京都にも足を延ばそう。

毎年世界で一ヶ所しか開催されないフランスのハイジュエラー・ヴァンクリーフ&アーペルと、日本工芸とがコラボした展覧会が京都であると知り、そう決めた。

もともとジュエリーには全く興味のなかった私だが、7年前にモスクワのクレムリンで迷い込んだダイヤモンド庫との出会いが私を変えた。
「本物」と呼ばれるものの圧倒的存在感は、人をも狂わすに値するだけのことはある。


京都国立近代美術館へ

1200年以上昔から都として栄えた京都には、衣食住に関連する最高級なものが生み出されてきました。
十二単や小袖、辻が花、能衣装など金襴を惜しげなく使った装束は、現在の西陣のような織ものから染ものまで技術の粋が詰まった地域で、熟練した職人の技と心意気により作られました。

フランスを代表するハイジュエリーメゾンのヴァンクリーフ&アーペルも同様に、熟練した職人が一子相伝のように技を伝えています。

本店では「技を極める」をテーマに、ヴァンクリーフ&アーペルの秀逸な作品が伝える「技」と、長い歴史の中で生まれた七宝や陶芸、漆芸、金工などの日本工芸の「技」の対比や結びつきを紹介します。
フランスと日本の技の競演をお楽しみください。
(リーフレットより)



私が最も見たかったのが、「ミステリーセッティング」という宝飾技法だった。

それは偶然テレビで見て知ったのだが、宝石を支える爪を表から見せない特別な技法で、格子状に作られた石座へ一つずつ石を置いていき、隣接する石がぴったりと合うようにカットして、パビリオン上にレーザーで溝を彫り格子状の枠へはめていくというヴァンクリーフ&アーペル独自のものである。
特にルビーとの相性がよく、思わずため息が出てしまう。
釘付けになった目の中でもキラキラと煌めきを放っていたに違いない。

もちろん、カッティングの素晴らしさだけでなく宝石の大きさや光具合にも心を奪われた。
とりわけバードクリップにつけられた大きな一粒のイエローダイヤモンドからはしばらく目が離せないほどだった。
小さなペンダントに輝くそのダイヤの大きさは、なんと96.62カラット。
はああああ、といった感じである。

そして数多く見ているうちに、本物と呼ばれるものほど光の放ち方が上品で、色合いも控えめだという印象を持つようになった。
控えめというより奥行きのある煌めきといった方がより近い表現かもしれない。
だから余計に石の世界に引き込まれてしまうのだろう。

多くの宝石に吸い込まれ心惑わされそうになりながら、だが、ふと心癒されていく自分に気付く。
手が届かない宝石の中にあって、段々と心が開放されていく感覚はフシギだった。

「本物」なんだと思った。

その「本物」を作り上げていく過程を、展覧会では工程ごとに映像で見ることができる。
驚くべきことは、そのすべてが今も手作業であること。
これだけコンピュータが浸透している現在において、デザインもすべて人の手で描かれているのだ。
細かい作業を一つ一つ見つめていると、そのすべてが愛おしくなってくる。
心が開放される、心が癒される、その理由がその時ほんの少し理解できたような気がした。


と、ヴァンクリーフ&アーペルのことばかり書いてしまったが、日本工芸も負けてはいない。
私が好きな並河靖之氏の七宝焼に、信じられないほど細かく見事な孔雀図屏風など、技を極めるということにかけて決してヴァンクリーフ&アーペルに引けを取らない作品たちがずらっと並んでいる。
ただ、今回の私はヴァンクリーフ&アーペルの煌めきに夢中になってしまっただけ。
それは自分でも愉快なほどヒカリモノに魅かれていったのだった。




私は現実に戻るため、美術館のカフェで少し早めのランチをとる。
ぼおおっと冷めやらぬ余韻にテラス席で浸っていると、一匹のスズメが私のパンを盗んでいった。
ダイヤやエメラルドはやれないが、パンならどうぞといった感じ。笑

京都国立近代美術館へ


この展覧会は京都国立近代美術館にて8月6日まで。
一見の価値ありと自信をもって伝えられる。

ボリショイ・バレエ。

ボリショイ・バレエ


先月18日、大阪のフェスティバルホールへ「ボリショイ・バレエ」を観に行ってきた。

世界にある名高いバレエ団の中で、私がどうしても憧れてやまない響きがこの「ボリショイ」。
たぶん、ロシアの持つミステリアスなイメージが私を惹きつけてやまないのだろう。

といっても、四国の片田舎で暮らす私がバレエと触れる機会はこれまでもほんの僅かで、趣味はバレエ鑑賞というにはおこがましい。
おこがましいのだけれども、有名なバレエ団は押さえているのよと密かに自慢できる自分になりたいと、このお上りさんは思うのである。


今回のボリショイ・バレエの大阪公演は2日間で、一日目が「ジゼル」、二日目が「白鳥の湖」という演目だった。
休みの都合で「白鳥の湖」を選んだのだが、どうやら「ジゼル」はボリショイの十八番とのことらしい。
ただ、「ジゼル」は過去にプラハ国立歌劇場で観劇したことがあり、「白鳥の湖」は二幕通して観たことがなかった私にはいい選択だったのではと思っている。

私がこの公演を知った時にはすでにチケットは完売にちかく、望む席はすべて空いていなかった。
迷った末に3階席最前列のほぼ中央を予約する。
だがそこは全体を見下ろすのにちょうどよく、とりわけ群舞の美しさは言葉にならないほどだった。

衣装の豪華さと舞いの優雅さと、それはまるで夢の中にいるようで、思わず「ブラボー」と叫んでしまって赤面する場面もあった。

出演者についていえば、昨年プリンシパルに昇格したばかりのオルガ・スミルノワがオデット(白鳥)とオディール(黒鳥)役を演じ、それがとても素晴らしかったので記憶に留めておこうと思う。
悪魔ロットバルト役のイーゴリ・ツヴィルコ、道化師役のアレクサンドル・スモリャニノフも頭の片隅に入れておこう。

そして、演出。
「白鳥の湖」といえば結末が悲喜様々あるのだが、このボリショイでは切ないフィナーレが選ばれていた。
てっきりオデットとジークフリート王子はどういう形であれ結ばれると思っていた私は、胸に穴があいたような寂しさが広がっていったのだった。
けれど、それがより儚い幻想的な世界を引き立てているようで、耳に残るチャイコフスキーの美しいメロディとともにじわり心の奥底に染み渡っていき、まさに「ブラボー!」と叫ぶしかなかったのである。

いつか、いつか、、、

いつか、本場モスクワのボリショイ劇場でロシアバレエの真髄に触れられる日が来ますように。

そんな淡い願いを抱きながら、フェスティバルホールを後にした。


青酸連続殺害で裁判員8割辞退ー京都地裁、6人を選任。(京都新聞)

京都府向日市の男性らに青酸化合物を服用させたなどとされる連続殺人事件で、殺人罪3件と強盗殺人未遂罪の計4件で起訴された筧千佐子被告(70)の裁判員裁判の選任手続きが2日、京都地裁(中川綾子裁判長)であった。
過去最多となる920人の候補者から、裁判員6人と補充裁判員6人が選任された。
長期審理の影響などから、昨年の全国の辞退率64.7%を大きく上回る約8割が辞退した。

最高裁によると、これまで選定候補者数の最多は、広島県江田島市のカキ養殖加工会社で2013年に社長ら9人が殺傷された事件の裁判(広島地裁)が865人だった。

在任期間は、今月26日の初公判から11月7日の判決まで135日間。
裁判員裁判制度開始から3月末までで、2番目の長さで、開廷回数は計48回。
呼び出し状を送った人数は、過去最多の586人に上ったが、仕事や介護、病気などを理由に413人が事前に辞退していた。

選任手続きは午後1時20分に始まり、約3時間半で終了した。
出席した86人は事件の概要などについての説明を受けたほか、死刑求刑が予想される事件であることから、死刑制度に対する賛否や精神的負担を問う質問にも答えたという。

選ばれなかった京都市の会社員男性(20)は量刑判断などについて「もし選ばれていたら心理的負担はあったと思うが、裁判員を務めてみたかったので残念」と話した。

当日に辞退が認められた綾部市の事務員女性(41)は「地裁までの距離が遠く、通うのが負担だった」と話し、「職場の人員が少ないうえに夏休みにも重なるで参加は難しかった。選ばれず安心した」と胸をなで下ろしていた。

第33回四国こんぴら歌舞伎大芝居!

今日は朝から気温が上昇し、庭先を箒で掃いているだけで汗ばんできた。

本日、4月16日は私が初めてこんぴら歌舞伎大芝居を観に行く日である。
気持ちいいくらい青空が冴えて、初夏を思わせる陽気に一層心が弾む。

偶然チケットが手に入ったから行くのよと、昨日までは少し冷めたように周囲に話していた私はどこへやら。
とても楽しみにしていた様子が外からもバレバレな今朝の私だった。


第33回四国こんぴら歌舞伎大芝居

第33回四国こんぴら歌舞伎大芝居


ご存知、四国こんぴら歌舞伎大芝居は金毘羅さんの麓、金丸座と呼ばれる日本最古の芝居小屋で毎年4月に開催される。
今年は8日から23日までの16日間、片岡仁左衛門さんを筆頭に、襲名されたばかりの五代目中村雀右衛門さん、片岡孝太郎さん、尾上松緑さんという贅沢な顔ぶれが揃っている。

私の席は桝席「へ-1」。
花道脇の最前列だ。
本当に見事なまでの前列で、黒子はもちろん舞台の隠し棚までよく見えた。
役者さんのおしろいの匂い、火薬の匂いやらも直に届き、囃子や太鼓の音は真横から。
そして花道に立つ役者さん達はほぼ真上、首が痛いのを除けば臨場感溢れるいい席だった。
仁左衛門さんの軽やかな立ち回りとは裏腹な噴き出した汗もよく見えた。

第33回四国こんぴら歌舞伎大芝居


演目は3つ。
第一幕は孝太郎さんが娘お舟を演じる「神霊矢口渡」、
第二幕が雀右衛門さん登場の「忍夜恋曲者」、
第三幕は江戸っ子演じる仁左衛門さんの舞踊が見られる「お祭り」だった。

それぞれに魂が吸い込まれそうなほど見入っていた私だったが、なにせ歌舞伎観劇そのものが初めてということで、初っ端の孝太郎さんから参ってしまった。
一挙手一投足、微妙な目の表現、拗ねた顔にやけた顔。
思わず吹き出す場面も胸に迫る場面も、どれもこれも鮮明に覚えている。

第33回四国こんぴら歌舞伎大芝居

「神霊矢口渡」という話は、鎌倉幕府滅亡から南北朝時代を描いた軍記物語「太平記」にある新田義興の最期を素材にした浄瑠璃の一場面で、讃岐ゆかりの平賀源内が書いたものらしい。
といっても歌舞伎の話、軸となるのは恋話。
孝太郎さん扮する渡し守の娘お舟が義興の弟の義峯に一目ぼれするところから話は動き出し、義峯の身代わりに切られて虫の息になりながらも必死で彼を守ろうとする姿は目を逸らすことができないほど素晴らしかった。
衣装の美しさにさえ目がいかないほど孝太郎さんに釘付けだったんだなと、幕が引かれて初めて気がついた。

こんなふうに十分堪能したこんぴら歌舞伎。
狭い桝席で隣り合った者同士、芝居小屋らしく観劇の合間に和気あいあい仲良くなったのも楽しかった。

第33回四国こんぴら歌舞伎大芝居

なかなか手に入らないこんぴら歌舞伎のチケットではあるが、当日券が余っていることもあるという。
こんぴらさんまで車で15分、きっと来年も足を運ぶ自分がいそうな、そんな気がする。


第33回四国こんぴら歌舞伎大芝居

『食は、人の天なり』

今月頭に京都を訪れた。
職場の元施設長との日帰り二人旅。

その折、彼女からこんなことを教わった。

「朝起きて、一日一回身支度をきちんと整えて外出する、
 一日十回は笑う、
 一日百文字を書く、
 一日千文字を読む、
 そして一日一万歩歩くといいようですよ」

日ごろスマホやパソコンに触れるようになって全く文字を書かなくなったことを改めて反省した。
書かないと書けなくなる。

そこで、本を読むときに曖昧に理解している言葉をノートに書きだし、きちんと確認した意味を書き留めることにした。
書かないといい加減に解釈している単語のいかに多いことか。



今、私は八年ほど前に出版され話題となった時代小説「みおつくし料理帖シリーズ(髙田郁著)」を読んでいる。
この5月に黒木華さん主演でドラマ化されるのを知りやっと手にした次第。

全十巻あり、残りは一冊、十巻目のみとなった。
今月10日過ぎから読み始めたのだが、面白くて次から次へと手が伸びる。
料理帖シリーズであるからそこに描かれる料理の品々も心惹かれるし、髙田さんの柔らかく豊かな表現からも学ぶことが多い。
このシリーズを読んでいると、毎日感謝して頑張ろうと思えてくる。

さて、その中で「生麩」が登場する話がある。
京坂では馴染み深いのに江戸では見かけない食材、生麩とは文字通り乾いていない生の麩。

「串に刺して、味噌をつけて炙った生麩田楽ほど美味しいものはないですよ。豆腐と違ってもちもちしていて、炙ると焦げ目が」
思わず涎が出そうになって、澪は慌てて口を押えた。



ちょうど先日、京都は美濃吉本店・竹茂楼で昼食をとった際、口に入れた途端に思わず唸ってしまった一品がその生麩田楽だったことを思い出した。

私が初めて生麩を食べたのは、確か四国霊場第87番札所長尾寺で戴いた菜懐石だったと記憶している。
その時も麩のイメージを180°変えたその味と舌ざわりに驚いたのだが、さすがは美濃吉、今思い出しても感動が胸に広がる。

『食は、人の天なり』


主人公である澪が自分の進むべき料理人としての道、それがはっきり見えたところで九巻目が終わった。

『食は、人の天なり』

食は命を繋ぐ最も大切なものだ。ならば料理人として、食べるひとを健やかにする料理をこそ作り続けたい。
澪は潤み始めた瞳を凝らして自身の手を見つめる。
叶うことなら、この手で食べるひとの心も身体も健やかにする料理をこそ、作り続けたい。
この命のある限り。そう、道はひとつきりだ。
「食は、人の天なり……」


作り手はその一心で料理する。

一心で無心。

だからいつまでも感動が残るのか。

いい本に出合った。





ノーベル賞授賞式に参加して④・・・香川高専詫間専攻科2年春日貴章(四国新聞)

④ 大隅先生と対面 <「仲間大切に」と助言>

2016年ノーベル生理学・医学賞受賞者である東京工業大学の大隅良典栄誉教授とは、日本大使館主催のレセプションで直接お話しさせていただくことができた。
私は非常に緊張していたが、実際に話してみると気さくでおおらかな方であるように感じた。
「それぞれ一つずつアドバイスを頂けますか」というお願いにも快く応じてもらった。

前日の記念講演や報道の内容から、大隅先生が共同研究者の方々を大切になさっているように感じていたため、「特にチームで研究を行う上で気を付ける点はありますか」と質問したところ、「若いうちから仲間を見つけて、大切にすること」というアドバイスを受けた。
自分なりの解釈ではあるが、損得抜きに助け合える仲間は貴重であり、年齢を重ねると見つけにくいという意味も込められているように感じた。

もう一人の日本人参加者で京都大学大学院の松本明宏さんの「良い研究テーマとはどのようなものでしょうか」という質問に対しては、「目先の結果だけでなく、5年、10年先を見据えたテーマを考えることが大切」と助言されていた。

ストックホルム国際青年科学セミナー(SIYSS)ではノーベルレセプション、授賞式、晩さん会などに参加した。
どれも華々しく、きらびやかなシーンが印象に残っている。
私は現在、工業を志していることもあり、今後ノーベル賞を強く意識することはあまりないかもしれない。
それでも地道に研究に取り組んだ結果がいつか報われるという瞬間をこの目で見られたことは、研究に対する大きなモチベーションになった。
日頃から視野を広く持つよう意識していたが、より広い範囲にアンテナを張り、仲間を大切にして協力しながら研究にまい進したいと、強く思わされた8日間だった。

今春からは大学院に進学し、新しい分野で研究活動を続けていく。
研究分野を変えることもあり、これから多くの困難や挫折が待っていると考えられるが、今回のセミナーやこれまでの活動を通して得てきた経験を糧に、一歩ずつ地道に取り組みたい。
そして、これまで支援していただいた地元香川、ひいては日本に少しでも貢献できるような成果を上げることが将来的な目標である。
=おわり=


ノーベル賞授賞式に参加して




ノーベル賞授賞式に参加して③・・・香川高専詫間専攻科2年春日貴章(四国新聞)

③ 華やかな舞台 <羽織はかま姿で参加>

ノーベル賞授賞式と晩さん会は、普段の生活からかけ離れた華やかな舞台だった。
目の前にある光景なのに、どこか現実感が湧いてこなかった。
ただ、テレビや新聞でしか見ることがなかった場面に立ち会っているのだという思いで、胸がいっぱいになった。

当日のドレスコードはタキシードもしくは伝統衣装となっており、せっかくの機会だと思い、私は紋付き羽織はかまで参加した。

授賞式では、ステージを正面から見下ろせる2階席という素晴らしい場所に座ることができ、生演奏をする楽団やスウェーデン王室の方々、そしてノーベル賞授賞者の皆さんの様子がよく見えた。
生理学・医学賞を受賞した東京工業大学栄誉教授の大隅良典先生へのメダル授与の瞬間も間近で見ることができ、同じ日本人として誇らしく、純粋にうれしかった。

晩さん会では1千人規模の招待客やテーブルの上に並べられた光り輝くカトラリー(ナイフやフォークなど)、天井に映し出された幻想的な映像など、会場の雰囲気をよく眺めることができた。
晩さん会は約4時間続き、前菜、主菜、デザート、各種アルコールといったメニューに加えて、楽器を用いたオペラ風のショーも楽しめた。
料理はどれもおいしく、これまで食べたことのないような凝ったものばかりだった。

当日の2日前に初めて習った拙いテーブルマナーだったが、会場の雰囲気が素晴らしく、そんなことが気にならないほど楽しい時間を味わえた。

この後は会場の2階に上がり舞踏会が始まった。
はかま姿だったため不安もあったのだが、一度だけ踊った。
これも2日前に基本だけ習った。
そんな状態だったので、とてもうまく踊れたとは言えないが、ダンスの輪の中に入って、パートナーと体を左右に揺らしているだけでも舞踏会の空気感を楽しめた。

また、羽織はかま姿は他の招待客やストックホルム国際青年科学セミナー(SIYSS)参加者から見ても珍しかったらしく、「一緒に写真を撮ってほしい」とお願いされたり、服装について褒められたりすることも何度かあった。
現地まで持っていき、一人で着付けするのは大変だったが、そのかいは十分にあった。


ノーベル賞授賞式に参加して


ノーベル賞授賞式に参加して②・・・香川高専詫間専攻科2年春日貴章(四国新聞)

② 世界の若き科学者 <積極性を見習うべき>

ストックホルム国際青年科学セミナー(SIYSS)のスケジュールは濃密の一言。
朝7時から夜11時までみっちり予定が詰まっている日もあった。
アメリカ、中国、イスラエル、南アフリカといった18カ国24人の参加者、コーディネーターを兼ねた現地大学生と8日間を共に過ごした。

選考過程や人数は国によって異なっており、例えばアメリカでは全国規模の科学コンテストの入賞者4人程度が参加の機会を得ることができ、日本では国際科学技術財団(東京)による選考を経て派遣される。
共通としているのは、18歳から24歳までという点と、全員それぞれ独自の研究テーマを持っている点であり、医学、薬学、流体力学、電子工学、さらに植物学まで、幅広い分野の研究を行っていた。

参加者同士の話題は多岐にわたった。
文化の紹介や、米大統領選、イギリスEU離脱などの世界情勢、そしてもちろん、それぞれの研究に関する説明や議論もあった。
自身の放射線の遮蔽(しゃへい)方法学習教材に関しても多くの指摘があり、そして現在の福島の状況を問われるなど、興味を持ってもらうことができた。

自分よりも数歳若い他の参加者と交流していく中で最も気になったのは、18歳や19歳という年齢でどうやって研究活動に取り組めたのか、という点だった。
数学や物理といった理論の世界では、特別な設備なしに研究を行うことが可能かもしれないが、化学や薬学といった世界ではどうじても専門設備が欠かせない。
聞いてみると、高校1、2年のころから自分で大学の研究室にお願いして設備を貸してもらっていた、という人が複数いた。
自分も低学年の時から、ものづくりコンテストなどに積極的に取り組んでいるつもりだったが、当時の自分に大学の教授に直談判するという発想も度胸もなく、そういった積極性や主体的に物事に取り組む姿勢には、見習うべき点が多いように感じた。

交流は非常に刺激的だった。
自分の専門外の事柄であっても貪欲に知識や経験を吸収しようとする姿勢からは、多くのことを考えさせられた。
自身の研究をキラキラした目で語る彼らは学生という枠を超えて、立派な一人の若手研究者であるように感じた。


ノーベル賞授賞式に参加して



ノーベル賞授賞式に参加して①・・・香川高専詫間専攻科2年春日貴章(四国新聞)

① 派遣決定 <福島原発事故が契機>

昨年12月4日から12日にかけて開催されたスウェーデンのストックホルム国際青年科学セミナー(SIYSS)へ思いがけず参加することがかなった。
世界各国から厳しい選考をくぐり抜けた若手研究者が一堂に集い、倫理セミナーと呼ばれる議論や1千人規模の現地高校生に向けた研究発表、そして授賞式や晩さん会をはじめとしたノーベル賞関連行事にも参加できる貴重な機会である。
これまでの人生で最も濃厚だった8日間を終えて、得たものは非常に大きい。

SIYSSは現地での研究発表がセミナー全体の大きな部分を占めており、参加者は自身の研究テーマを持ち、現地で研究の成果を分かりやすく発表することが求められる。
私は研究テーマである、放射線をどうすれば止めることができるのかを学ぶための教材「放射線の遮蔽(しゃへい)方法学習教材」を応募用紙に記した。

放射線や原子力の世界との出合いは、2011年3月までさかのぼる。
当時香川高専の本科2年生だった私は、現在の指導教官でもある天造秀樹准教授からの誘いを受け、3月6日から12日までの日程で、新潟県の柏崎刈羽原子力発電所近郊のBWR運転訓練センターでの研修に参加した。
いわゆる「安全神話」がまだ信じられていた。
私は人一倍好奇心が強く、「もしも想定している安全装置や緊急冷却システムが全て機能しなかったときはどうなるのか」といった質問を行ったが、講師の方からは「そのような事態が発生することは考えられないし、予算の関係で全ての状況に備えるのには限界がある」という説明しか受けることはできなかった。

3月11日、東日本大震災の影響で福島第1原発事故が発生した。
1週間という短期間に起きた劇的な展開は、自身の考え方に強烈なインパクトを与えた。
特に、科学を志す以上「絶対」という言葉は慎重に使わなければならないこと、そして、「安全神話」の崩壊と震災後に出回った放射線に関する数々のデマを目の当たりにして、良いイメージにせよ悪いイメージにせよ、正しい知識を持って事実を受け入れ、世論やイメージに流されず、自分の頭で考えて備えることが大切だと感じるようになった。
そこで私は、拡張現実(AR)と放射線シミュレーションを組み合わせ、放射線を「目で見て」直感的に学ぶことができる教材の開発を始めたのだった。

国内からSIYSSへの派遣が許されるのは、毎年2人の狭き難関と知っていた。
過去の参加者を見ても東大や京大の方が多く、高専生の派遣は前例がない。
正直、自分が参加できるとは夢にも思っていなかった。
ただ、応募しても失うものはなく、将来的に後輩が応募する時に今回の経験が少しでも助けになればという思いだった。

面接審査後、紙1枚しか入っていないような薄い封筒が自宅に届いた。
私が不在のため代わりに受け取った母は落選したと思ったらしく、気を使ってしばらく封筒が届いたことを伝えてくれなかった。
数日後、机の上に置いてあった封筒を見つけた私が封を開けてみると、「派遣決定」の文字が目に飛び込んできた。

ノーベル賞授賞式に参加して





久しぶりのバレエ鑑賞。

お盆の帰省ラッシュのさなか、兵庫県は西宮市の県立芸術文化センターへ車を飛ばした。
2月にチケットを取って半年、ずっと楽しみにしていたのだった。

私がバレエに興味を持ったのは10年ほど前のこと。
NHKのEテレで毎週日曜日の朝に放送されていたパリ・オペラ座の元エトワールの男性によるバレエ講座を偶然目にした際、これほど優雅な世界があるのかと衝撃を受けたのがきっかけだった。

テレビとはいえバレエとの出会いがパリ・オペラ座というのは、ツイテいるというべきか、ツイテないというべきか。
世界最古の世界最高峰のバレエ団の、元トップの踊りを観たことで、生で観るなら完璧な美しさを求めるようになってしまった。
といってもバレエの薀蓄には興味はなく、その夢のような舞台に憧れを抱くのみ。


久しぶりのバレエ鑑賞



今回鑑賞したのは、昨年亡くなった20世紀最高峰のバレエダンサーと名高いマイヤ・プリセツカヤを追悼してのガラコンサート。
出演は、パリ・オペラ座と同じ世界三大バレエ団のひとつ、ロシアのマリインスキー・バレエ団である。

演目のひとつが「白鳥の湖」というのも、楽しみに拍車をかけていた。
というのも、これまで私が実際に劇場で観たバレエは「コッペリア」と「ジゼル」のみで、クラシックバレエの定番中の定番である「白鳥の湖」とは縁がなかったからである。

真っ白な衣装で身を包んだバレエダンサーの踊りに最も似合うのが白鳥じゃないかと、私はずっとそう思っていた。
バレエ=白鳥の湖、白鳥の湖=バレエという、バレエのバの字も知らない者が誰しも思う固定観念。(笑)
しかし実際に観た後も、その考えは変わっていない。

白鳥以上に白鳥らしい可憐さと優雅さに惹きこまれた時間。
息をするのさえ忘れて吸い込まれていった世界。

幸せだった。


最後にみせてくれた「瀕死の白鳥」も、今時の表現でいうなら「美しすぎる」ものだった。

曲はおなじみ、サンサーンスの「白鳥」。
Wikipediaによると、湖に浮かぶ一羽の傷ついた白鳥が生きるために必死にもがき、やがて息絶えるまでを描いた小作品だそうで、私の最もお気に入りのバレエとなった。

ちなみに、その「瀕死の白鳥」も「白鳥の湖」もこのマリインスキーバレエ団から誕生したもの。
ロシアにはマリインスキーといい、ボリショイといい、素晴らしいバレエの土壌がある。
手足の長いロシア人のバランスのよい美しい体系も抜きにしては語れないのかも。

きっと伝説のプリマであったプリセツカヤの白鳥も、言葉では言い尽くせない美しさだったのだろう。


20世紀最高のバレリーナがプリセツカヤなら、きっとまだ見ぬ21世紀最高のバレリーナを求めて、これからはバレエに触れる機会を増やしていきたいと密かに思う。

世界情勢がもう少し落ち着いてきたら、パリにロンドンにモスクワに、そしてサンクトペテルブルクへとバレエ鑑賞の旅もいい。
そんな夢みる私である。(笑)



兵庫陶芸美術館。

これは展覧会を称賛すべきか、美術館を褒めるべきか。


05-15 2.兵庫陶芸美術館


比較的自然豊かな処に暮らしている私でも、非日常の緑の中は本当に気持ちいいと心底思う。

訪れた兵庫陶芸美術館は、深い緑に囲まれて思わず大空に手を伸ばしたくなるそんな場所だった。

すっかり初夏の陽射しが眩しい空はすぐそこだ。
流れる水の音がすでに恋しい涼を運んでくる。


そんな心地良い空間で、今日、言葉では言い表せられないいいものを見せてもらった。



05-15 3.展覧会『明治有田超絶の美』


デザインといい、

色遣いといい、


圧倒され続けてしまった。



9年越しの思い、実る。

ぽかぽか陽気の中、現代狂言を観てきた。


『現代狂言X』


03-12 1.現代狂言(於・金丸座)


ナンチャンこと南原清隆さんと狂言和泉流九代目野村万蔵さんによるこの舞台も、今年で早10年になるそうだ。
私は9年前に一度、「現代狂言2」を高松で観たことがある。

今回久しぶりに足を運ぼうと思ったのは、公演場所が旧金比羅大芝居・金丸座であったから。

こんぴらさんの麓にある金丸座は、天保時代に造られた現存する日本最古の芝居小屋。
毎年四月には金毘羅歌舞伎が盛大に執り行われるのだが、そちらはチケット争奪戦がかなり激しく、地元でありながら金丸座での観劇は半ば諦めていたのだから、この公演を知った時には即飛びついた。

一度、江戸時代の人々の気分で観劇するのも乙だと思った。


03-12 2.現代狂言(於・金丸座)


9年前、高松出身のナンチャンが香川県民ホールで凱旋公演をした際には、観客の多くがナンチャンの親戚や友人だったこともあり、ナンチャンの緊張度合いが手に取るように伝わってきたが、

場数も踏み、自身の演じる狂言にも自信がついてきたのか、今日は堂々と声もよく通っていて気持ち良かった。


この現代狂言は二部構成であり、一部では通常の古典狂言を、二部で新作現代狂言を演じる。

以前は古典狂言を演じるのは和泉流狂言師の方達ばかりだったが、いつからかその古典にも多くの芸人さん達が参加をし、しかもナンチャンが主役を演じ、しかもしかもそれがすっかり板についていたのには驚いた。
さすがだと思った。

金丸座の舞台に立つ、ということが許されたことも大きな自信と誇りになったのだろう。


03-12 3.現代狂言(於・金丸座)


その中で、やはり素晴らしかったのが万蔵さん。

初めて彼の舞台を観た時の、登場するだけで舞台上にぽっと灯りを灯した存在感は今もはっきり覚えている。

オーラがあるだけじゃなく、場の空気を変えられる人だと私は思う。

そのオーラだって、たぶん無我なのか。
自由自在にオーラを操り、決して表立っていなくとも知らぬ間に万蔵さんを目で追っている自分に気づく。

当然のこと、所作も自然で美しい。

二度目の今日も、万蔵さんから目が離せなかった。


運が良かった私は花道のすぐ脇の席で観劇でき、花道上で何度も立ち止まる万蔵さんをちょうど真上に見ることができた。
近くで見れば、はいている袴の絵柄は現代狂言の題材に用いられた京都は高山寺に伝わる国宝・鳥獣戯画。

凛々しいお顔を見上げながら、やっぱり「大好き!!! 万蔵さん!!!」と思っていた。(笑)




このチケットは、先月誕生日を迎えた母への少し遅いプレゼントとして用意したのだが、母が喜んだのはもちろん、一番はしゃいでいたのは万蔵さん好きの私だったのではないかと思う。


そして、ナンチャンが舞台前のあいさつで、「大いに笑って、健康になって帰ってください」と言っていたが、

最も元気の源になったのは、終演後の握手だったに違いない。


03-12 4.現代狂言(於・金丸座)
「へー4」


そう、花道の脇の席だけの特権。


82歳の母もすっかり娘時代に戻っていた。(笑)

私にとっても、9年越しの片思いの相手とふれあった貴重な時間だったことは言うまでもない。






現代狂言X   於・旧金毘羅大芝居(金丸座)
平成二十八年 三月 十二日(土) 午前十一時開演

・古典狂言 「千切木 ちぎりき」
     太郎      南原 清隆
     連歌の当屋   野村 万蔵
     太郎冠者    佐藤 弘道
     連歌の仲間   平子 悟
             岩井 ジョニ男
             森 一弥
             石井 康太
             大野 泰広
             三浦 祐介
     太郎の妻    ドロンズ 石本 


・新作現代狂言 「不思議なフシギな鳥獣茶会」  
                作・南原清隆、野村万蔵(補助) 演出・野村万蔵、南原清隆(補助)
     現太郎     南原 清隆
     太郎冠者    野村 万蔵
     和ウサギ    佐藤 弘道
     時計ウサギ   森 一弥
     ハートの王様  野村 万禄
     ハートの女王  岩井 ジョニ男
     主人      平子 悟
     次郎冠者    大野 泰広
     カエル     ドロンズ石本
             石井 康太
     ウサギ     河野 祐紀
     フクロウの精  三浦 祐介


本来、狂言は能楽堂で演じられるのが常である。
しかし旧金毘羅大芝居は大衆向けの歌舞伎小屋であり、奈落や廻り舞台、すっぽんなどの舞台仕掛けがあるのだが、今回は歌舞伎の三百年も昔からある狂言ということで、それら一切は使用されていない。
     



パディントンに夢中☆

四国に春一番が吹いたという今日、午後から髪を切って映画を観て来た。


「パディントン」

先日三越へ行ったらちょうどパディントンの展示をしてて、どうもそれに影響されたらしい。

それでも、こんなに好みの映画だったとは。


愉快で可愛くて、温かくて愛しくなる映画だった。

クスクス笑って、そしてパディントンをぎゅうって抱きしめたくなった。


暗黒の地ペルーからロンドンにやって来たパディントン。

暗黒、暗黒って何度も言ってたけど、ペルーってパディントンが誕生した1958年頃はまだそんなイメージだったのかな?(笑)
冒頭でイギリス人の探検家がペルーの森の奥に入って行くシーンなど、私の頭の中ではハイラム・ビンガムが山奥でマチュピチュを発見した場面と被ってしまった。


ロンドンに到着するなりハチャメチャなパディントンだったけど、もし私が初めてロンドンへ行けば、同じようにパニックになるんだろうな。

パディントンに会いに、冒険をしに、今すぐロンドンへ行きたくなる。

でもひとまずは明日の朝、食パンにマーマレードをたっぷりぬって食べようか。


02-13 映画「パディントン」



四国に春一番が吹いたという今日、雨のせいで気温のわりに寒かった午後だけど、パディントンのおかげで心はホカホカ暖まってる。



FOUJITA。

仕事でとても疲れた先月末、家でゴロゴロするだけでは気分転換にならないと映画を観に出掛けた。

12月以降、私としてはよく映画を観に行く。
一度映画館で観てしまうと、そのサイクルはしばらく続いてしまうのだ。


その日選んだのは、気分で『FOUJITA』だった。


01-30 映画「FOUJITA」


画家・藤田嗣治の絵は、別に嫌いでもないが特に好きということもない。
しかし、どこか私の好きなモディリアニやローランサンにも通じるところがあって、彼の絵に出会うと立ち止まってしまう。

といっても、フジタの絵の本物を観たのは隣町にあるカフェが初めてで、美術館で観た記憶は殆どない。

そのカフェは、今は亡きオーナーさんが大のフランス好きで、年に何度も渡仏して集めた骨董品や絵画に囲まれた空間と、南仏から眺める地中海を模して瀬戸内海を一望できるテラスがある。

オーナーさんの好むシャネルの香水が微かに漂い、会話の邪魔にならない低い音で流れる古いフランス映画も憎い演出。
目の前の海は南仏をイメージしたものでも、オーナーさんの醸し出す雰囲気からか私にはどこかパリを感じられる場所だった。

それはレモンの木の鉢植えを横目に少し坂を上って行くのだが、その庭の一角にピンク色した小さな美術館があって、そこに20点ほどフジタやコクトーの絵が並んでいる。


この映画は、そのフジタの絵のような作品に仕上がっていた。

日本とフランスの合作というのも納得させる。

フジタのトレードマークであった「おかっぱ頭に眼鏡」姿のオダギリジョーもなかなか様になっていた。


絵描きの、しかも裏町が舞台であるから、そう気取ったパリの町を観ることもなく、

初めて私がパリを訪れた時の、まだ夜が明けきれてない早朝いきなり黒人女性に恐喝され、緑色のゴミ収集車が走るパリの記憶にぴったりだった。


久しぶりに思い出したパリが恋しくなって、前述のカフェに行こうかなと思うも、
オーナーさんが亡くなって以来、同じ家具や食器に囲まれても、景色は変わらず美しくても、不思議とパリの香りは消えてしまったように感じて。

それでも、ピンク色した小さな美術館だけは、フジタの絵の前でシャネルの香りをさせたオーナーさんに会えるようで、まだパリの空気が残っていると信じたい。

そういえば、オーナーさんはどこかフジタに似ていたような。


パリを愛し、パリに愛された人だけに共通する何かがそこにあるのだと、そう思った帰り道だった。



と書けば、しっかり映画を観たように聞こえるが、実際はよほど疲れていたのだろう。
日本でのシーンは殆どが夢の中、記憶にない。(笑)

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