I love Salzburg

旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
MENU

思い出は消えない。

ロイター通信。

【クライストチャーチ大聖堂が取り壊しへ、NZ地震で被害大きく】


昨年2月にニュージーランドのクライストチャーチを襲った地震により被害を受けた大聖堂が取り壊されることが決まり、その131年の歴史に幕を閉じることとなった。

同大聖堂が2日、発表した。


同市中心部にあり、観光名所にもなっていたクライストチャーチ大聖堂は、死者185人を出したマグニチュード(M)6.3の地震で一部倒壊するなど、大きな被害を受けた。

その後も続いた強い余震で被害はさらに拡大していた。


同大聖堂のビクトリア・マシューズ主教は「(取り壊しの)決定は、一番に安全性を考慮し、熟考を重ねた結果」だとし、

歴史的な特徴を損なわないように2、3メートルの高さまで慎重に取り壊すと説明した。

ブルドーザーや鉄球は使わないとしている。


パーカー市長はこの決定を「胸が張り裂けるようだ」とコメントし、クライストチャーチ大聖堂の取り壊しを残念がった。


* * * * * * *


覚悟はしていましたが、この決定には パーカー市長と同じで、私も「胸が張り裂けそう」です。

大聖堂側としても、本当に辛い決断だったと思います。

ですが、これが新しいクライストチャーチへの第一歩になるのなら、受け入れるしかないのですね。




思い出は消えない


クライストチャーチ大聖堂へ、これまでありがとう。

もう一度だけ、会いたかったな。

でも、みんなの思い出の真ん中に、これからも大聖堂は存在し続けるよね、きっと。


(写真は借り物です。)

スポンサーサイト

いつまで続くのでしょうか?

ロイター通信。

【ニュージーランドのクライストチャーチ近郊で23日、マグニチュード(M)5.8の地震があった。
警察は人的被害の報告はないとしたが、負傷者1人が病院に搬送されたとの報道もある。

同国当局によると、震源地は同市北東20キロ、震源の深さは8キロ。
最初の地震発生後、M5.3を含む強い余震が続いた。津波警報は発令されていない。

住民の1人は地元ラジオ局に対し、
「とても激しかった。棚に置いてあった食べ物が床に落ち、グラスや絵の額縁も落ちた」と話した。

地元ラジオ局によると、ショッピングセンターやオフィスにいた人たちは、建物の外に避難した。
スーパーなどでは、陳列棚から商品が落ちるなどの被害があり、液状化現象や落石の報告もある。
また、電力会社によると、1万5000世帯で停電が起きている。

発生当時、ショッピングセンターでは、クリスマス直前ということもあり、買い物客らでにぎわっていた。
強い地震の発生を受け、一部の道路はクライストチャーチを脱出しようとする住民の車で渋滞しているという。

クライストチャーチでは今年2月、M6.3の地震があり、日本人留学生を含む182人が死亡した。
同市内では、現在もなお立ち入りが制限されているところがあり、復興作業が進められていた。

同市のボブ・パーカー市長は、
「ここまで長い道のりだった。余震は終わったと皆が思っていた。タイミングが最悪だ」
とした上で、通常の生活に徐々に戻りつつあった市民には心理的にも影響するはずだと語った。

警察当局は、ビーチにいた4人が落石により閉じ込められたが、無事救助されたとし、2月の地震で損壊した建物2棟が倒壊したと発表。
クライストチャーチ空港は、ターミナルや滑走路の点検のため閉鎖された。】




涙はもう枯れ果ててしまいました。

どうか神様、やっと前を向いて歩き始めた人達を、街を、これ以上 傷つけないでください。

I miss you so much.

私の住む町と中国上海市普陀区とは姉妹都市を結んでいます。

その普陀区から昨日、日帰りで私の勤める老人ホームへ視察団(5人)が研修に来られました。

今年は、夏にも 西安から3人の実習生の受け入れがあり、中国との縁の深い一年となりました。


そして、こんな時、私はふと思うのです。
中国からの来苑者の中に、NZ時代の親友・エリックがいたらいいな~って。

エリックは、クライストチャーチの語学学校で知り合った外国人学生の中で、私と最も仲の良かった友達です。
私より10歳くらい年下だったかな。

NZに来たばかりの頃は、いかにも~っていうほど中国人を絵に描いたようなタイプだったのに(笑)、
それが数ヶ月後には随分とアカぬけて、見違えるほど素敵な男の子に変身しました。^^

いつから親しくなったのか もう忘れてしまいましたが、友達になるのに そう時間は掛からなかったと思います。

真面目な反面、授業中にはよくウィンクを投げかけてきたり、なかなかお茶目で可愛い弟のような存在でした。

そのエリックが上海出身だったのです。

ですから、上海から視察があると聞くと、今度こそエリックが来るんじゃないかしら~って、
絶対あり得ないと分かっていても、つい期待してしまう私なのでした。

もちろん、今回の視察団の中にもエリックがいるはずもなく・・・。ちょっと、がっかり。



最後にメールのやり取りをしたのが2007年の2月のこと。

その時のメールには、まだクライストチャーチにいるということ、そして夏には上海へ帰国することなどが書かれていました。

あれからしばらく・・・
今年に入って 久しぶりにメールを送ってみたら、すでにアドレスが変わっていました。(T_T)

なのに会いたいと思い始めたら、もう連絡がつかないと思ったら、ますます想いは募るばかり。

部屋中を探し回って、彼に書いてもらった中国の住所を必死で見つけ出しました。

ちゃんと届くかどうか分からないけれど、来年の年賀状をエリックにも送ろう!^^

これで再び連絡が取れたなら、昨日 頑張って視察団の皆さまを接待した甲斐もあったというものです。



エリックと一緒にカウントダウンした2002年からもうすぐ10年。

クライストチャーチで同窓会は無理そうだけど、上海で同窓会っていうのもいいじゃない?って思う今日この頃です。^^

*

10年前にエリックからもらったメッセージも見つかりました。

改めて読んでみて、あ~、エリックったら本当に良いヤツ!ってニンマリしてしまいます。(^m^*)

Dear Picchuko
You are very lovely.
If you go back Japan, maybe I'll miss you.
But I want to ask you. Will you come back again?
If you will, I'm very happy.
26. October 2001 Eric

クライストチャーチ・ニュース (その3)

【NZの地震被災地が復興計画案、低層ビルや追悼施設】


ニュージーランド南島クライストチャーチ市は11日、市中心部の復興計画案を公表した。

高層ビルで多くの犠牲者が出た教訓から、市中心部の建物を7階建てまでに制限する。

公園や緑地を増やし、犠牲者追悼施設を設ける。


再建期間は10年以上で、事業費はおよそ20億NZドル(約1280億円)。

復興計画案は市民や専門家から寄せられた10万件以上の要望を考慮した。

今後、改めて市民らの意見を募り、最終案をまとめる。
                                (日本経済新聞)

* * * * * * *


地震より半年足らずの11日、ボブ・パーカー市長より「The Draft Central City Plan」が発表されました!

原案によると、市中心部はより環境に優しく、魅力的な街になるだろうと。

中心部を流れるエイボン川の川岸ももっと広くし、新たに公園を作るようで、
大聖堂広場はもっと緑豊かになるのかな。

クライストチャーチ・ニュース (その3)
(「The Press」より、借り物です。)

地震前の街並みを思い出しても、私の知るどの国のどの街よりも緑が輝き、人にも自然にも優しい街だったクライストチャーチ。

もともと公園が多く、春や夏には色鮮やかな花で溢れ、「ガーデンシティ」と呼ばれていた街が、ますますその名に相応しい街づくりを進めていくようですね。^^


ビジネス街はよりコンパクトに、
7階までと制限された建物の高さは、63メートルの大聖堂よりもかなり低くなるのですから、
将来、大聖堂が再建されると、街のどこからでも大聖堂の尖塔部分が見えるというのもいいですね!^^

そして、まずは市の中心部からカンタベリー大学への電車が登場するかもです!
ということは、私達がかつて たらふくピザを頬張った(笑)、懐かしいリカトンモールも電車で行きやすくなるのかな?

その上、新しい中央図書館に、オリンピックサイズの水上競技設備や屋内スタジアム、国際規模のコンベンションセンターなど、かなり気合が入っていますよね~。^^

これらは106,000もの市民の意見を基に形づくられましたが、しかし最終案ではありません。
これを基に、これから再び市民に意見を求めます。


こうやって市民の手によって街が造られていく過程に胸が熱くなります。

何より、市の中心部移設計画も浮上していた中、今までと同じ場所で再建する計画にホッとしました。
もちろん、その為には頑丈な地盤造りも課題になろうかと思われますが。


再建には10年から20年の月日が掛かるようですが、日々 生まれ変わるクライストチャーチを見守っていくつもりです。

手元にある2001年版の古いクライストチャーチの地図を広げながら、私なりにクライストチャーチの未来図を描きながら…。



クライストチャーチ・ニュース (その2)

【NZ地震の地に仮設大聖堂、日本人設計「復興象徴に」】


2月のニュージーランド南島クライストチャーチ市の地震で半壊し、再建のメドがたたないクライストチャーチ大聖堂の代わりとなる仮設大聖堂の建設計画が浮上し、

世界的に有名な日本人建築家の坂茂さんが無償で設計を担当することが4日、分かった。

坂さんは、「復興の象徴になれば」と願っている。


仮設聖堂は、地震発生から1年になる来年2月22日の完成をめざす。

設計案によると、安価で現地調達可能な紙管を使い、大きな三角屋根のデザインで700人を収容可能。 
デザインは基の大聖堂の外観からヒントを得たという。

市中心部に建設予定だ。

教会のほか、コンサートなど幅広い用途を見込み、10年前後は活用される見通しだ。


坂さんは阪神大震災の被災地でも紙製パイプを使った仮設礼拝堂を手掛けたほか、東日本大震災後も避難所支援や多層仮設住宅の建設を進めている。

こうした経緯を知った大聖堂のべック首席司祭が坂さんに設計を依頼した。


日本人を含む181人が死亡した地震から約半年。

街の象徴で観光資源だった大聖堂の代わりの建設に、市側は工費や地元施工業者の人件費に充当するため、400万NZドル(約2億6600万円)を募金などで集める。
                                  (日本経済新聞)


* * * * * * *

「仮設~」とくれば、これまで「トイレ」とか「住宅」くらいしか頭に浮かびませんでしたが、
いやはや『大聖堂』とは、驚きました!(笑)


ただ現実として、この案に対し、どうも概ね否定的な意見が多いのだとか。

確かに、2億以上も掛けて紙(段ボール)の大聖堂を建設だなんてどうかとも思いますし、
それ以外に目先必要なものがあるでしょうに。


ですが、あの大聖堂はクライストチャーチ市民の心そのものであると言えるものです。

街の象徴、そして復興の象徴が形になれば、それはクライストチャーチの復活への大きな原動力になるに違いありません。

設計模型の写真を見ましたが、なかなか素敵です。

クライストチャーチ・ニュース (その2) クライストチャーチ・ニュース (その2)
(写真は借り物です。)

私は、この仮設大聖堂の実現を楽しみにしております。


これで、近い将来 クライストチャーチを訪れる喜びが出来そうです。
傷ついた大聖堂や更地のシティだけなんて、寂しすぎて悲しすぎて、到底 耐えられないもの…。


この他、シティセンターでも建物が解体され 更地になった後にプレハブの洒落た仮設パブができたりと、少しづつですが日常を取り戻しつつある様子。
復活したカジノでは、レストランがスペシャルメニューをどんどん出してくれているようだし!(^^*


私も負けられない!

傷ついてなお、私を勇気づけてくれるクライストチャーチに感謝です。

10年ぶりのジャージャー麺?!

ジャージャー麺が食べたい!

そう七夕の短冊に書きたいと思うほど(笑)、突然、無性にジャージャー麺が食べたくなりました。

そんな時に限って、見てしまった韓国ドラマ。
そして、そんな時に限って、主人公が美味しそうに頬張るジャージャー麺。

最近の私は、口を開けば「ジャージャー麺を食べられるお店 知らない?」
それくらいジャージャー麺に飢えていました。

そんな私に対し、
「父さんとよく行くお店で、タイムランチのメニューにジャージャー麺があったわよ。」と涼しい顔の母。

お~、香川でもジャージャー麺が食べられるようになったのか!と、
喜び勇んで食べに行ってまいりました!

恋い焦がれた(笑)ジャージャー麺、10年ぶりの対面です。^^

*

時は、2001年7月。

クライストチャーチで極度のホームシックに掛かった私は、日本食のお店で飲んだ味噌汁に感動して、上司のKさんに国際電話を掛けました。

その懐かしい声に思わず泣いてしまった私を元気づけようと、Kさんはわざわざ日本からNZまで さぬきうどんを送ってくださいました。
(送料がものすご~く高いのです。)

そして、私はその喜びと美味しいうどんを、仲良くなったばかりの数人の友達にもお裾わけすることにしました。


その一人が、韓国人のステラ。

私達より少しばかりお姉さんで、いかにも韓国美人といった感じの、知的さが滲み出た素敵な女性でした。
ステラは流暢な日本語が喋れるほど日本贔屓で、英語にうんざりの私も気軽にお付き合いできる相手でした。

「あの美味しいうどんのお礼がしたいの。」

そう言って、クライストチャーチの中心部にあった ある韓国料理屋さんに案内してくれたステラ。
メニューは彼女にお任せです。

そして出てきたものが、イカ墨を思わせる真っ黒いタレのかかった麺。
そう、それが初めて出会ったジャージャー麺だったのです。

その頃は、まだ日本では韓国ドラマが放送される前で、田舎の香川ではジャージャー麺の存在を知る人などいませんでした。

いかにもまずそうな(ステラ、ごめ~ん!)その食べ物を、一瞬 口にするのも躊躇いましたが、一口食べて 見た目と美味しさとのギャップに驚き~~~。


クライストチャーチに滞在中、それから数回は食したでしょうか。

*


そのジャージャー麺が韓国料理ではなく中華料理と知ったのは、帰国してしばらく経ってからのことでしたが、

美味しいものに国境はない! 10年ぶりの嬉しい再会です!

踊る心を鎮めながら、待つこと数分。 登場してくれました!

ところが、、、

10年ぶりのジャージャー麺?!

あれ? こんなかったかな?

もっとタレが多くて、もっともっと味噌が黒かったよ~な。
もっともっとタレが麺にからんで、もっと麺にコシがあったよ~な?

何より甘みの感じ方が違うよ~な?

段々と当時の記憶も怪しくなってきました。
10年という月日がジャージャー麺を美化してしまったのでしょうか?

少し期待ハズレです。。。


*

なんとなく納得がいかずに調べてみると、、、

私がクライストチャーチで食べていたものは、実はジャージャー麺ではなかったことが判明しました。(爆)

韓国ドラマによく出て来る黒い麺も、本当の(?)ジャージャー麺ではなかったのですね。(笑)


韓国人のソウルフードとも呼べるあの真っ黒なあの麺は、チャジャンミョンといって、
ジャージャー麺から派生した韓国式中華料理だったのですね!

今日食べたものが、本物(中国北部の家庭料理)に近いジャージャー麺。
10年ぶりと待ち焦がれたジャージャー麺は、10年目にして真実を知ったジャージャー麺もどきでした。


今度は、無性にチャジャンミョンが食べたくなってきました~。(苦笑)

悲しいかな、クライストチャーチのお店は地震で潰れてしまったでしょうから、韓国へ行って私の口に合う美味しいお店を見つけるしかないかな~。

中国から来た実習生。

今月上旬から私の働く老人ホームに、中国からの実習生が3人来ています。

二十歳そこそこの女の子で、スラッとして足の長い可愛い子ばかり。^^

今月はデイサービスで実習をし、来月は特養で、8月は社協にて介護を学んだ後、帰国する予定です。

将来、本国で介護を指導する立場になる、選ばれた6人の内の3人なのだそうですが、
どうして うちの施設が選ばれたかは謎~。(笑)

私は特養の事務員なので、朝夕の挨拶くらいしか接することはありませんが、
今時の日本人が失いつつある、大和撫子らしい慎ましさを持っているように感じます。


ただ、カタコトの日本語や習慣の違いの中で介護を学ぶことは大変で、
説明する側である相談員のN島氏もかなり苦戦している様子。

介護を指導するというよりも、なんだか日本語教師みたいで、端から見る私としては面白いです。
* N島氏よ、ごめん。(笑)



そんな彼女達の姿を見ていると、クライストチャーチの老人ホームでボランティアをしていた日々が懐かしく思い出されます。


市の中心部、大聖堂から自転車で20分くらいだったかな。
パパヌイという地区にある老人ホームで、日本でいうと特養ほどではなく養護老人ホームくらいのレベルだったと思います。

weekdayの、語学学校が終わってからの PM 5時~7時半のボランティアでしたので、
主に夕食のテーブルセッティングと配膳、その後はそれぞれの寝支度の手伝いが私の仕事でした。

私の担当は、102歳のミセス・ホワイトと少し認知症がかったミス・ミンゴ、そしてお喋り好きなミセス・チョークリンの3人。
ミセス・チョークリンの場合は入れ歯の片付けくらいでしたけど。(笑)

一月ほどして慣れてくると、夕食時には寝たきりのおばあさん・リタの食事介助も任せてもらいました。


私の場合、履歴書持参で面接を受け、それまでの日本での5年間の介護経験からボランティアの許可を戴いたのですが、

ですが、なんといっても幼稚園児以下の英語力!(爆)

職員の皆さんも、ミセス・ホワイト達も、私の知らないところで色々フォローしてくれていたんだろうな~と、
実習をしている中国の女の子達と彼女達を指導する職員達の姿を、自分のクライストチャーチ時代と重ね合わせながら、
今になって皆さんの苦労がほんの少し見えてきました。

なのに、いつも「My dear~.」と優しく頭を撫でてくれたミセス・ホワイト。
あれが一番嬉しかったんだな~。^^

あれから10年も経ったから、当時すでに100歳を超えていた彼女はもう生きてはいらっしゃらないでしょうが、彼女のか細い声はずっと耳に残っています。


今 私の施設に通っている中国の子達も、実習生という立場ではありますが、
私がミセス・ホワイトから戴いたような温かく優しい思い出を、ひとつでも多く持ち帰ってもらいたいな~。

そして私も、いつも優しい笑顔と明るい挨拶で接したいな~と思います。


慣れない日本語と日本の生活に負けないで、良きリーダーになれるよう頑張ってください!

クライストチャーチ・ニュース

【クライストチャーチ大聖堂、解体の危機 NZ、二度被災】


2月の大地震に続き、今月13日の余震で大きな被害を受けたニュージーランド・クライストチャーチの大聖堂が、解体の危機に直面している。


1864年から建設が始まった大聖堂は、年間70万人以上が訪れる観光名所であるとともに、
多くの市民の憩いの場としても親しまれてきた。

今年2月末に多数の死傷者を出した地震では高さ63メートルの尖塔が倒壊し、屋根の一部が崩れるなどの被害を出したが、

パーカー市長が「復興のシンボル」として大聖堂の再建に言及するなど、修復・再建の計画が進んでいた。


ところが、今月13日に相次いで起こったM5.6とM6.3の余震で大聖堂はさらに被災。


ピーター・ベック首席司祭によると、聖堂正面にあったステンドグラスの円形の窓が崩れ、
聖堂の西側の壁も75%まで崩壊した。

倒壊を免れた部分も非常にもろい状態だ。

残った建物を生かしながらの再建とともに、すべて解体して作り直すことも検討されている。

結論が出るには数ヶ月必要としている。


また、現地では強い余震が続き、建物倒壊などの被害が広がった市中心部を、
地盤の安定した別の地域に移す案までも浮上。


大聖堂が今の市中心部から移転を迫られる可能性もある。


ベック首席司祭は、
「大聖堂は市民のシンボルとして、また、強く、持続可能な街づくりを進めるなかで、やはり市の中心部に再建したい」と話している。
                                  (asahi.com)

* * * * * * *


初めてクライストチャーチ大聖堂を訪れたのは、今から10年前の7月下旬。

多くの市民に混じって、日曜日の礼拝に参列したのが大聖堂との出会いだった。

その日は偶然にも司祭さまの誕生日で、礼拝の後にみんなで歌った「Happy Birthday to you!」を、まるで昨日のことのように覚えている。

まだその頃は友達もいなくて、日本が恋しくてたまらなかった。

季節は冬で、重い雲が立ち込めた空がますます私の心を沈ませていた。

そんな時だったから、余計に 大聖堂の、そしてクライストチャーチの人達の温かさに救われを感じたのだった。

*


地震によって大聖堂が崩壊した姿に大きなショックを受けたけれど、時間とともに少し気付いたことがある。

それは、大聖堂がクライストチャーチを守ってくれたんだということ。

あの緩い地盤で、あれだけの液状化で、震源の浅さゆえマグニチュード以上の揺れを感じたその中で、

確かに尊い命は何人も失われてしまったけれど、

それでも市中心部以外はそれほど被害が大きくならずに済んだのは、

大聖堂が体を張ってクライストチャーチを守ってくれたんだと、

痛ましい姿の大聖堂を見て、私は思った。

大聖堂は、揺るぎない永遠の「クライストチャーチのシンボル」になったんだ。

例え、姿は変わっても…。



God bless.

Kia Kaha! ~強くあれ!

ニュージーランド航空からメールが届いていました。

「日本の皆様へ、私たちが今お伝えしたいこと。 Kia Kaha! 運動を始めました」と。

JAPAN & NEW ZEALAND

Kia Kaha(強くあれ)。

クライストチャーチに震災が起きたあの日から、私たちは、古くから伝わるこの先住民マオリの言葉に、どれだけの勇気や希望と、生きる力をもらったことでしょう。

今度はその力を、大切な友人である、日本の皆さんへ届けたい。

私たちは忘れません。

あの時、手を差し伸べてくれたことを。

私たちはそばにいます。 いつでもこの言葉とともに。

Kia Kaha!

今こそ強く、そして笑顔で。 いっしょにがんばりましょう。


*

クライストチャーチの市街地の3分の2の建物が壊されるという話を聞いて以来、私の心は沈んでいました。

街の中心、賑やかな通りだったコロンボストリートも殆ど更地のようになっていて。

クライストチャーチでもまだ大きな余震があるようで、日本では報道されなくなった現地の様子が気になって仕方がありませんでした。

すでに復興に向けて歩み出していることと思いますが、それも複雑です。

津波で流された東北の被災地に比べると、まだ街そのものは残っているといっても、
あの街が変わってしまうことに寂しさを覚えます。

東北もクライストチャーチも、今回の地震や津波で失われた街を 今度は災害に強い街へと大規模な計画がなされるのでしょうが、

あの素朴で懐かしい景色は二度と戻らない、面影さえも失われてしまうかもしれない。

そう思うと、以前は明るいイメージしかなかった「復興」や「再生」という言葉に対しても、素直に希望を見出すことができませんでした。



そんな時、クライストチャーチ在住のcantamamaさんがブログで嬉しい写真をアップしてくださいました。

つい先日、立ち入り禁止区域であったレッドゾーンが狭くなったそうで、
これまでレッドゾーンにあった、私が通っていた語学学校や通学路、放課後のアクティビティなどで行ったアートセンターを写してきてくださったのです。

私が心配しているだろうと思ってと、、、その優しいお心遣いに涙が出ました。
cantamamaさん、本当に本当にありがとうございます。


建物にはそれぞれ色紙が貼られていて、安全が保障される建物は緑の紙、危険な場所は赤色なのだとか。

語学学校には黄色の紙が貼られているそうで、今後 修復補強していくのか、建て直すことになるのか、それは全く分かりませんが、

それでも、あの地震に耐えてその姿を見せてくれたことに胸がいっぱいです。


きっと崩壊してしまっただろうと思っていた私たちの学校が、同じ姿で立っていた。


それだけで心から感謝することができました。

私たちの思い出は崩されていなかったのですもの!


クライストチャーチよ、日本よ、そして自分自身に、、、Kia Kaha!


* * *

最近、ボブ・ディランの名曲「Blowin' In The Wind(風に吹かれて)」をずっと流しています。

英国のクラシカル・ポップ・グループ「オール・エンジェルス」がカバーした この曲を聴いていると、訳もなくそのサウンドに、クライストチャーチの風の中に立つ自分を感じるのです。



何度見上げたら、空を見ることが出来るのだろう。

どれだけ耳を持っていたら、人々の叫びを聞くことが出来るのだろう。

どれだけの命が奪われたら、沢山の人が犠牲になっていることを知るのだろう。

友よ、答えは風の中にある。

答えは風に吹かれている。


友よ、答えは風に吹かれている。

答えは風に吹かれている。



How many times must a man look up, Before he can see the sky?

How many ears must one man have, Before he can hear people cry?

How many deaths will it take till he knows, That too many people have died?

The answer, my friend, is blowin' in the wind,

The answer is blowin' in the wind.


The answer, my friend, is blowin' in the wind,

The answer is blowin' in the wind.

Isle Of Hope, Isle Of Tears...

まだ流れる涙が残っています。

先日、またもクライストチャーチにいる夢を見ました。
正確には、市の中心部から10kmばかり南東へ下ったところにあるリトルトン(Lyttelton)という港町。
あの大地震の震源地、リトルトンです。

半壊したタイムボール・ステーションの中に私は居ました。
もう一度 余震がきたら怖いなぁ~、そう思った時に目が覚めました。

たぶん、被災後の映像の中に、悲惨な姿に変わり果ててしまったタイムボール・ステーションを見つけてしまったからでしょう。

*

私がクライストチャーチに滞在したのは9ヶ月間。
その間にもNZ一周の旅に出たり、オーストラリアやペルーなどにも出掛けましたので、実際に街でいたのは7ヶ月ほどでしょうか。

その間、私は5~6回ほどリトルトンを訪れました。

リトルトンはNZの主要な貿易港で、ロバート・スコット率いる英国の南極探検隊がここから出発したことでも有名です。
世界初の南極点到達を目指しこの地を後にしたスコット隊ですが、現実はノルウェーのアムンセン隊に先を越され、失意の帰路で遭難し亡くなったこともよく知られています。

また 1850年12月16日、リトルトンは英国からの最初の移民が4隻の船に乗って到着した場所でもありました。


そんな南極探検やスコットに関する資料が豊富で、植民地時代の面影を残した英国風建物の多いリトルトン。

南極ペンギンの剥製にこっそり触ってみたり(笑)、、、石造りの小さな教会を訪ねてみたり、
NZへ渡った当初は、一人寂しくリトルトン図書館でカモメを眺めていたりと、私にとっても色んな思い出がこの地とともに蘇ってきます。

そして、ここから船に乗り、リトルトン湾内にある無人島を探検したことも懐かしく思い出されます。

Isle Of Hope, Isle Of Tears


そのリトルトンの高台にあるタイムボール・ステーションは、まさに英国を思い起こさせるゴシック様式の建物で、その上に大きなタイムボールが乗っかっています。

タイムボールとは、船が海へ戻る前に航海士に正確な時間を知らせるための報時球のこと。

直径1メートルあまりの大きなボールが柱を伝え落ちることで、グリニッジ標準時を知らせ、
港の船舶はこれを見て航行機器を秒単位で合わました。

ビクトリア女王時代には世界中にあったタイムボール、現存するのは世界に僅か9機だけなのだとか。

このリトルトンのタイムボールはその中でも貴重なもので、
私は世界一美しいタイムボールだと、痛ましい姿になった今でもそう思っています。



クライストチャーチでは街のシンボルである大聖堂の尖塔が崩れおちました。

そして、リトルトンにおいてもまた、象徴であるタイムボール・ステーションが半壊しました。


blog_import_4f0b08f06ab46.jpeg



* * * * * * *

「行こうと思っとるやろ。」

ニュースにくぎ付けになっている私の背後で、同僚のI石氏がそう声を掛けてきました。

「行けるもんならね。」 私は答えました。

そう、行けるものなら行きたいけれど、、、

今 私が行っても、正しくは 今の私が行ったとしても、ただ足手まといになるだけのこと。

地震直後は、少しでも早くクライストチャーチへ行こうと色々考えていたのですが、でも今じゃない!


まずはクライストチャーチが必要とする自分にならなければ、、、と気付きました。

まだ思い悩んでいる最中ではありますが、あることを決意しつつ、
ここにこの悲しみを封印致します。


*

ケルティック・ウーマンの作品の中に、
Isle Of Hope, Isle Of Tears(希望にあふれ、涙にあふれる島)」という曲があります。

これはアイルランドからアメリカへ移民した一人の少女を歌ったものですが、

クライストチャーチを想う今の私の心の底に、深く深く染み込んできます。



In a little bag she carried All her past and history

And her dreams for the future

In the land of liberty And courage is the passport

When your old world disappears But there's no future in the past
When you're fifteen years


Isle of hope, isle of tears Isle of freedom, isle of fears
But it's not the isle you left behind
That isle of hunger, isle of pain Isle you'll never see again

But the isle of home is always on your mind

But the isle of home is always on your mind.....

クライストチャーチ大聖堂

クライストチャーチ大聖堂

珍しく、こんな夢を見ました。

「今晩は大聖堂広場でカウントダウンね。」
「最近、大聖堂前での年越しは若者達の派手な集まりになってしまったから、あまり行かない方がいいよ。」

それは予知夢だったのかもしれません。

2011年2月22日早朝、私はその会話で目を覚ましました。

夢の中では、
久しぶりにクライストチャーチを訪れた私が、カウントダウンを迎えるために大聖堂広場へ行こうとするのを他の邦人観光客にとめられて、仕方なく郊外の高台から街を見下ろし新年を迎えていました。

私が実際に大聖堂前で新年を迎えたのは2002年のこと。
たぶん、今も変わらず あの場所で大晦日にはコンサートが開かれ、大勢の市民達が賑やかに新年を迎えていることでしょう。

それなのに、何故 こんな夢を見たのでしょうか。
しかも2月も下旬になってカウントダウンの夢だなんて。
ここ数年、クライストチャーチを思い出すことも少なくなっていたのに、、、。

今となっては、それから数時間後に起こる大地震を告げる夢だったのでは、、、と思わざるをえません。

* * *


私は探しました。

NZに居た頃の写真 全てを引っ張り出してきて、必死になって探しました。

なのに何百枚もある中から見つかった大聖堂の写真は僅か数枚のみ。


あんなに普通に存在したのに。
いつも私達とともにあったのに。

あまりに馴染み過ぎていた大聖堂、なのに探しても探しても見つからないのです。


「じゃぁ、明日の9時に大聖堂前でね。」
「大聖堂前にいるんだけど、今すぐ来れる?」

たとえ約束をしなくても、あの場所へ行けば、必ず誰かと会うことができました。

クライストチャーチに居た当時、大聖堂を見なかった日などあったのかしら、
大聖堂という名を口にしなかった日ってあったのかしら、、、。


あの街には大聖堂だけなのです。
クライストチャーチと言えば、あの大聖堂なのです。

あれほど街に溶け込んだ、市民の心の拠り所的存在を私は他に知りません。


クライストチャーチ市民はもちろん、私のようにクライストチャーチで数ヶ月を過ごした人、僅か数日 クライストチャーチを観光した人、

クライストチャーチを知る人は、クライストチャーチを思う時、間違いなく あの姿を一番に思い浮かべることでしょう。
そう断言できるほど、みんなに最も近い存在だった大聖堂。


尖塔が崩れた大聖堂の姿がテレビに映し出された時、私の心臓は本気で止まるのかと思うほどショックを受けました。


そして、あの大聖堂がどれほど大きな存在だったのか改めて気付きました。

私達だけではありません。

遠い昔、はるばるヨーロッパから移民してきた人々がどんな思いで大聖堂を建てたのか、
どれほど心の支えであったかを思う時、またも私の胸は引き裂かれそうになるのです。


あんなに普通にあったのに。


クライストチャーチ大聖堂

そして、優しく善良なクライストチャーチのみなさんは、、、。

まだ救出作業が難航していると聞きます。
多くの方々が家を失い、避難場所で眠れない夜を過ごしていると聞きます。
電気も水道も止まったままだと聞きます。
余震がまだまだ続いていると聞きます。


私達に笑顔をくれたみなさん、私達に沢山の思い出をくれたみなさん。

みなさん、無事かしら。
みなさん、怪我などしていないかしら。
みなさん、家族と連絡は取れたのかしら。

被害がこれ以上広がりませんように、一人でも多くの方が助かりますように、
心の底から祈ってやみません。

クライストチャーチ!!!

こんなにショックを受けたことは初めてです。

まさか、まさか、クライストチャーチが、、、まさか、私達の大聖堂が、、、。


9月の地震の爪痕がまだ残っているのに。

9月の地震では、奇跡的に大聖堂は助かったのに。


涙出そう。

今すぐクライストチャーチへ飛んで行きたいです。

クライストチャーチの町はずれにて。

クライストチャーチへ渡って間のないある日、私はマオリ族の集会所を訪ねてみることにしました。

『ナ・ハウ・エ・ファ・ナショナル・マラエ』、
マラエとは、マオリ語で庭や集会所を意味するそうです。

それは、市の中心部から車で10~15分ほどの場所にありますが、私のホームスティ先からは徒歩圏内でした。


毎晩、ホストマザーから「今日はどこへ行って来たの?」と尋ねられます。
雨の日に゛リトルトン・ハーバー"('09.07.18日記)へ行ったり、晴れた日に「図書館にいました」と答える私に、
「あなたは変わってるわねぇ~。」とマザーはいつも呆れ顔。

そんなこと言ったって~!! と、内心 反発気味の私でした。
そう、マザーとの相性はイマイチだったのです。(T_T)


その日は、マオリ族の文化に触れようと、その場所へ行くことを思いつきました。
ニュージーランドといえば、先住民族であるマオリ族を抜きにしては語れません。
独特の彼らの彫刻は、私が一番楽しみにしていたものでした。


そこには、その彫刻が施された2棟の大きな集会所があるのです。

*

ガイドブックによると、
そこではマオリ族の歌やショー、伝統のハンギ料理を楽しめるとありました。
それは市内からのガイドツアーによるもので、最少人員でなければ催行しないと書かれてあります。

ですが、まずはマオリの彫刻だけでも見られたらいいかなと、私は一人歩いて行くことに決めました。

ニュージーランドへ来て1週間。
手持ちの地図といえば、まだ日本から持って来た゛地球の歩き方"だけでした。

私は自分が人一倍方向音痴であることも忘れ、大雑把で分かりにくい地図を片手にマラエを探します。
が、案の定、迷子です。><

その上、今にも雨が降り出しそうになってきました。
あぁ~、又もマザーに笑われる…。><

どんよりとした薄曇りの中、足元には凍った霜が溶けだした芝生が続いていました。
ここはどこ?????

そんな時、遠くにバス停が見えて来ました。
しかも、そこにはポスターのような、地図のようなものが貼ってあります。
反対方向ではありましたが、勇みバス停へと駆け寄りました。

少しづつ その地図らしきものが大きくなってきます。
まだ鮮明には見えませんでしたが、どうも赤色の線が道路を表しているようです。

何本も網の目のように引かれた線に、そんなに入り組んだ道では迷子になるのは当たり前、と自分を納得させました。(笑)

とにかく現在地を確認しようと急ぎました。

段々とバス停が近づいてきました。雨がポロポロ降り出しました。

(◎◎) 絶句!

私が地図だと信じて疑わなかったその大きなポスターは、、、、、なんと下着の広告でした!
しかも、真っ赤な女性用のショーツ☆

道路に見えたその赤い線は、網目模様のデザインだったのです。

Oh, my God !!(><)

こんな話、絶対にホストマザーにはするもんか!
間違いなくバカにされるに決まってる!!

「今日はどこへ行って来たの?」
英会話の練習だし、会話を作ろうとしてくれるのは有難いけれど、、、。
もう、放っておいて!!
この頃の私は寂しさのあまり、非常に閉鎖的になっていました。

「図書館です。。。」


*

こちらは、後日 改めて訪ねた『ナショナル・マラエ』です。

クライストチャーチの町はずれにて

クライストチャーチの町はずれにて

8年前の今日。

時が経つのは早いもので、私がワーキングホリデービザを使ってニュージーランドへ降り立った日から、ちょうど8年になりました。

2001年7月18日の午前8:30にオークランドで入国し、11:00に滞在先のクライストチャーチに到着しました。
日本との時差はプラス3時間です。

*

これまでの人生を振り返る時、一番大きな節目にあたるのがニュージーランドで過ごした9ヶ月間でした。


そこで出会った様々な風景を、私の視線からではありますが、これから時折り ご紹介したいと思います。

今までも、何度かクライストチャーチ滞在記を綴ったことがありましたが、もっと普通の、もっと普段のニュージーランドをお届けできれば幸いです。

*

8年前の今日

胸の高鳴りを秘めて降り立ったニュージーランドではありますが、
到着したその日の夜から 大好きな人達に会いたくて、日本が恋しくてたまりませんでした。

それまでは例え海外へ出向いても、それはたったの数日間。
旅行と生活とでは、まったく長さも意味合いも異なってしまいます。

強がりを言って日本を飛び出してきたけれど、一体 この場所で私に何ができるというのだろう…。


ニュージーランドの7月は、まさに冬の真っ只中。
とりわけ南にあるクライストチャーチでは、日本よりもずい分と早くに日が暮れてしまいます。
その暗さが、余計に寂しさを募らせるのでした。

そんな時、ふと訪れた「Lyttelton Harbour(リトルトン・ハーバー)」。
クライストチャーチからバスで20~30分くらいでしょうか。
リトルトンはクライストチャートの外港として発達した港町です。

もともと英国からの入植時代は、クライストチャーチよりも先に町づくりの中心地として発展しました。

また、英国のキャプテン・スコット率いる南極探検隊は、このリトルトンの港から出航しました。


古い町並みには、石造りの英国式教会など、そんな植民地時代を彷彿させる建物も数多く残っています。
それ故か、重くてどんよりとしたその空のせいか、まだ見ぬアイルランドの景色をも連想させてくれそうです。

この淋しい町並みを歩きながら、それでも負けてはならないと、、、と涙を拭いたあの日のことが懐しい。。。

スイス人との相性は…。 

ところで!
ある方のブログで、「スイス人男性と日本人女性の国際結婚が意外と多い」、なんていう素敵な話題を見つけました。(*^^*)

英国やアメリカの語学学校に通う生徒の中で、なんとスイス人男性と日本人女性が一番真面目に勉強するんですって。。。
そこで、学校で共にする時間の長い二人は自然と仲良くなり、、、それでもって国際結婚まで突き進んでいくのだとか…?!
(なんて羨ましいこと!・笑)


スイスは複数言語の国として有名ですが、それら母国語の他に、国際化社会で最も幅のきく英語の学習に力を入れる州も増えてきたのだそう。

* * *


私が通ったNZ・クライストチャーチの語学学校でも、スイス人の男の子が一人いました。

名前は忘れてしまったけれど、
日本人を筆頭に、中国人、韓国人、タイ人というアジア勢の生徒が多い中、その金髪の彼は密かに(?)目立っていたと思います。^^

クラスメイトのうち、数少ない貴重な欧州出身が、ハンガリー女性とスイス人の彼でした。
しかも、スイス人の彼とはたった一週間だけのお付き合い。

2人とも、私と午後の会話のクラスで一緒だったと思います。
(その語学学校では、それぞれのレベルに分かれて、午前が文法、午後に会話の授業が行われていました。)

今思えば、私と同じクラスだったということは、彼の英語のレベルだってかなり低いものであったに違いありません☆
ですが、金髪の碧い瞳は英語ペ~ラペラのイメージが固まっていた当時の私は、彼に一目置いておりました。(笑)


ある日、彼とペアを組まされます。
詳しくは覚えていませんが、何かのテーマに基づいて意見を出し合うものだったと思います。

アジア人とは違う白い肌とブルーの瞳に、いつになく緊張した私の頭の中は真っ白け!
ただでさえ英語なんて分からないのに、もう何もかもがパニックです!!(><)


「うぅ~~~。><」
こういう時、単語一つ頭に浮かんできてくれません。

「英語で喋ってちょうだい!(英語)」と彼。

「言葉が出てこないのよ~。><(日本語)」と私。

「はぁ~い! 英語で言ってみよう!!(英)」

「だって、本当に言葉が出てこないんだもん。><(日)」

「ほ~ら、ほら! ちゃんと英語で喋らなきゃ~!( ̄ー  ̄) (英)」

「だって~~~!(ー゛ー;) (日)」

「ほら、゛だって~~~"じゃ、ないでしょ!(英)」

*かなり意訳した英語と日本語ではありますが、それなりに会話は続いている…。(爆)


*

私の中には、スイス人とはそんな彼の意地悪な表情しか残っていません。^^

彼が真面目だったかどうかも???ですし、私の周りにいた真面目な生徒といえば、それは中国人や韓国人の男の子ばかりでした。

もちろん、サボリ魔の私が真面目であるはずもありません!!(笑)

ということは、、、私が「スイス人男性と語学学校で出会って国際結婚☆」ってことは、まずあり得ないでしょう。(泣)


懐かしいけれど、今思い出しても悔しくなる思い出です。くぅ~。。。(><)



スイス人との相性は

゛ホーキーポーキー(NZのアイス)"を食べる幸せそうな彼。 '01年、ある日の授業で。

私は『お姉ちゃん』!




クライストチャーチにある語学学校の午前のクラスで、、。

その日は確か、家族についての話題だったと思います。
"ふっ"と浮かんだ姪っ子について発表しようと思いました。

私のノートを覗き込んだロビン(先生)は、
「picchukoは随分 お姉さんと年齢が離れてるのね~。」と声を掛けてきました。


私と一番上の姉は、年が「13」も離れています。
ですから、私が小学1年生の時に姉は結婚。
なんと! 私は9歳で「叔母さん」になったのです。。(*^_^*)

子供時代にバレエを、そして中学高校では新体操の選手として頑張っていた姪のAkikoは、
贔屓目なしにスタイル抜群の美少女でした。


私はロビンに"ヒソヒソ"と話し掛けます。
「たぶん、私より彼女の方が先に結婚すると思うわ。(*^_^*)」

優しいロビンは、"あらまぁ~、何て答えたらいいのでしょう。 "
といったちょっぴり困った表情で私の肩をポンポンと叩きましたっけ。

* * *

それから数年後。

私の予想はずばり的中☆☆☆
彼女は高校時代から付き合っていた彼と結婚。
その年に長男を出産しました。

そして つい先日(9/26)、二番目の男の子を無事出産☆


そうです !
結婚すらまだの私ですが、早くも二人の「大叔母様」になってしまったのです。(^_^;)
トホホッ。。。

喜ぶべきか、悲しむべきか。。。。。(T_T)(^o^)(T_T)


ちなみに、
姪は私のことを「picchuko姉ちゃん」と呼びます。

彼女の長男にも同じく「お姉ちゃん」と仕込んでいる私。。。


えぇ~~~い!! まだまだ『お姉ちゃん』で頑張りますよ~!!('◇')ゞ

Don't touch !!!

昨日の夜、私の親友「ゆかちさん」はシドニーへ向け出発しました。
優しい旦那様と愛息子の"はるる"と共に。(o^―^o)

あぁ~、カジノに行くって言ってたなぁ~。
NZ時代によく食べた、"マフィンブレイク"のマフィンを食べて来るって書いてたなぁ~。

きっと、動物園でコアラやカンガルーと戯れて来るんだろうなぁ~。
あぁ~、羨ましい~!☆^^☆

* * *

私が初めてカンガルーを見たのは、クライストチャーチ郊外にあるサファリパーク、「オラナ・パーク」で。

ある休日、友達になったばかりの「きょんさん」と一緒に、動物園ツアーに出掛けました。
ツアーと言っても、添乗員はきょんさん、お客"様"は私だけです。(*^―^*)

遠くに放たれたレッドカンガルーは、愛想のかけらもない 無神経な生き物。
私は、カンガルーに少しでも近づきたくて、必死で跳び跳ねる真似をしてみました。
けれど、"ぷいっ"と知らん顔。
きぃ~~~!(`o´) と吠える私。
どちらが柵に入るべき獲物なのか、、、カンガルーは至って冷静でした。(^。^;)

そんな「オラナ・パーク」を後にして、私達が向かったのは「ウィロウバンク動物公園」。
ここは、森の中に造られた NZらしい 鳥や小動物の自然公園です。
南半球ならではの、そしてニュージーランドにしか生息しない動物が飼育されています。


「KIWI ~キウィ」という鳥をご存知ですか?

飛べない鳥、キウィ。
ニワトリよりも少し小さく、長いクチバシを持ち、天敵のいない環境から翼は退化してしまいました。
夜行性で、非常に繊細な鳥です。
*果物のキウイフルーツは、このキウイバードに似ていることより名付けられました。^^

「ウィロウバンク動物公園」でもキウィは一番の人気者。
常に内部を暗くした小屋の中に入ると、そこはガラス越しではなく 膝ほどの高さの柵の向こうにキウィを見ることができます。

暗さに目が馴染んでくると、小屋の静けさに耳が慣れてくると、ガサガサと動いているキウィバードを見つけることができるのです。

気が付けば、可愛いキウィは私達の目の前にいました。(*^m^*)

そぉ~~~っと手を伸ばすと、、、そこには丸い小さなお尻と、"チクッ"とする手触り。
ちょうど手のひらを丸めた形のお尻です。(*^―^*)

めっちゃ可愛い~☆(≧ω≦)b

きゃいきゃい騒ぐ私の隣りには、極めて冷静なカンガルーのようなきょんさんがいました。


さて、小屋を後にした私達。
振り向くと、出入口には大きく『Don't touch !』の看板が!!σ(^◇^;)。。。

えぇ~~~! ( ̄○ ̄;)

又もきゃいきゃいと騒ぐ私を前に、冷ややかな目つきできょんさんは言います。
「気づいてなかったの~?」

はい、全く気づいておりませんでした。(T_T)

よくよく冷静になってみると、絶滅の危機に瀕している貴重なキウィに触っていいはずがありません。
ごめんなさ~い!!(>_<)


これが、私がニュージーランドで犯した最も大きな罪ですね。
はぁ~、7年経って ようやく懺悔できました。(^。^;)

淡い恋心、、それはクライトチャーチの風の中。

*クライトチャーチ、語学学校"Southern English Schools"前にて【'01.12月】


今日はこれからヘイリーのコンサートへ。 まるで海外へ行くような気持ちの高まり。^^
ですから、今朝は早朝5時過ぎから大掃除をしました。


久しぶりに、昔の想い出が詰まった箱を開いてみました。
中学2年の3月、卒業式の後 部活の先輩からもらった制服の第2ボタンも、、、
初めてYさんとデートした時に二人で拾った貝殻も、、実はまだ捨てられずにとってあります。(*^_^*)

そして、クライトチャーチでも淡い片思いをした記憶が蘇ってきました。
私だって、日本男性を好きだった時代があったのですね~。^^


それは、語学学校の午後の授業、メラニーのクラスで一緒になったYujiくん。
鋭い視線と可愛い顔立ちの彼に、気が付けば28歳の私は惹かれていました。

とっても気になる存在なのに、話し掛ける勇気はなかった私。
今まで私の周りにいた男性とは全く違うタイプの、神戸の雰囲気のような少しクールな感じの男性でした。

けれどメルアドを教えてもらったことを機に、思いきってメールを送ってみました。
「同じメラニーのクラスのpicchukoです。 Yujiくんって、すごく英語ができますよね。
何かいい勉強方法があれば教えて下さい。」

私達、とっても不思議な関係だったと思います。
学校で会ってもお互い一言も喋らないのに、長文メールで色んな話をするようになりました。

彼がブラックミュージックを好きなこと、神戸大丸で働いていたこと、私より1歳年下だということ。。
私の話も沢山しました。
けれど、会えばやはり無言でお辞儀をするだけ。

それでも、私にとってドキドキする時間があったのです。o(^-^)o

それは、まるで中学時代に戻ったかのような時間帯。 通学路での"まちぶせ"です。^^
(30歳目前にもなって、、。^^;)

彼から少し離れて、様子を伺いながらついていきました。

ある朝、そんな私に気付いた彼が、歩く速度をおとし 後ろを振り返って待ってくれたことがあります。
私は、嬉しくて嬉しくて、それこそ中学生のようにスキップのような小走りで駆け寄りました。

二言三言 言葉を交わし、、胸の高鳴りが絶頂を迎えたその時!

「picchuごん、おはよう! (^o^)/」背後からやけに明るい弾んだ声が、、。
振り向くと、そこには親友Chiekoの笑顔。。。。。

あっ!(T_T)
Yujiくんは颯爽と学校に入っていきました。

あぁ~。(T_T)(T_T)(T_T) Chi~e~ko~~~。(T_T)(-_-#)(`o´)

それ以来、二人だけでまともにお話したことはなかったと思います。

淡い淡い片思いのお話でした。^^

* * *

さぁ、もうすぐコンサートが始まります。
一曲目は、私の最も好きな曲「ポカレカレ・アナ」です。^^

きっと、ヘイリーは爽やかな懐かしいクライトチャーチの風を運んできてくれることでしょう。*^―^*

僕は陽気なブラジル人。

*彼、マルッシオはブラジルのサンパウロ出身。
2001年、クライトチャーチの語学学校で事務員をしていました。


今でも時々、マルッシオにメール送ろうかな~、なんて思うことがあります。(アドレス変わってるよね。。)
元気にしてるかなぁ~、なんて。^^

なぜマルッシオと仲良くなったのか、、今となっては不思議ですけど、いい年してはしゃいでいた私はラテン男から見ても貴重(?笑)だったのかもしれません。^^

* * *

2001年9月。

あの頃は毎日16時まで学校で、17時から19時まで老人ホームでボランティアをしていた私。
その日もちょっぴりくたびれて、帰りにどこかで晩ごはんを食べようと日本食のお店に入りました。

街の中心を走るグロースターストリート。 そこから少し奥まった所に「大阪屋」という食堂があります。
メインは関西風お好み焼きだったかな。
そこではお味噌汁が飲み放題(具は葱くらいでしたけど、、^^)。
日本の雑誌も置いてあるし、結構な数の日本人でいつも賑わっていました。

知ってる人はいないよね~。^o^
小さな街クライトチャーチの、これまた小さな日本人社会。
いつの間にか顔見知り、っていう日本人は沢山います。

よしっ! 知り合いはいないみたい。^o^
お店の中を一巡見回し、馴染みの日本人の顔がないことを確かめてから席につきました。

唐揚げ定食の登場です。^^
「いただきまぁす!(^o^)/」 大きな口でパクパク食べていると、、、。

「よっ! さっきから視線送ってるのに、ホント気が付かないんだから~。」
その一声に驚き顔を上げると、、そこには、マルッシオの輝く笑顔。(; ̄Д ̄)

彼は、美人でオーストリア人の奥さんと二人で食事をしに来ていました。
ははは。(^。^;) 日本人以外は全然チェックしていなかったわ。。(^。^;)

彼は何かしら私に一言投げかけて、ウィンクして店を出て行きました。^_-)-☆


次の朝一番です。
教室までマルッシオが私を探しにやって来ました。

「よっ! 昨日の話だけど、いつにする?」
「なんの話?」
「だから昨日の話だよ。 ほら、大阪屋で会った時、約束しただろ。」
・・・(・_・;) 約束だなんて、私には全く記憶がないのです。

「ほら~、今度一緒に大阪屋でお好み焼きを食べる約束さ。(^O^)/」
そんな約束、いつしたのさっ!!

しかし、彼は引きません。 仕方なく、日時を決めることになりました。

彼が去った後、私は真剣に悩みました。
マルッシオとお好み焼きを食べに行くだなんて、そんな長い時間 二人だけで英語の会話は苦しいわ。

そこで他にも4人の友達を誘って、彼とのお好み焼きディナーに向かいました。

待ち合わせは、"in front of the Cathedral"、クライトチャーチのシンボルです。

現れたのは、いつもの癖っ毛マルッシオではなく、オールバックにテカテカギラギラの整髪剤をつけた陽気な夜のラテン男!!w(☆o◎)w

おいおい、その頭でお好み焼きかいっ!(^_^;)
思わずツッコミを入れたくなるのも我慢して、、
マルッシオは5人の日本女性に囲まれながら嬉しそうに満足そうにお好み焼きを食べていました。^^
変なヤツ~。^^ でも、可愛いヤツ~。^^


ホント、ラテンな男は一緒にいて楽しいですね~。
*もう一人、私が出会ったラテン男ジェシー君については、('08.02.08日記)に書いてあります。^^

もう一度、ANZの口座作ろうかな~。^^

*クライストチャーチ、大聖堂広場でチェスをする人達。【'01.12月】


今日の為替レートは、1NZドル=およそ80.8円。
昨日の日記に、2001年当時は70円弱だったかなぁ~って書きましが、調べてみると どうも50円台前半だったみたい。^^;
昨年6月に96円まで上昇した時と比べると少し落ち着いてしまったけれど、この6~7年間でずいぶんと伸びたなぁって感じます。'01年9月の、NY同時多発テロ直後は一時49円だったのに。。

こんなことなら、ANZ(オーストラリア・ニュージーランド銀行)の口座を解約しなければよかったと、、ちょっぴり後悔。 利率もいいし、、、。(^_^;)


* * *

クライストチャーチに到着した次の日、大聖堂広場一角にあるANZ銀行で口座を作りました。
新規に口座を開く場合、私のような者でもきちんと個室に通されます。
そこで、何種類もある預金のタイプを詳しく説明して下さいます。
私は、ある一定金額以上を預金しなければならない条件の、そして管理手数料の少ないタイプのものを選んだと思います。
通帳の代わりとして、月に一度 出し入れの詳細を送ってきてくれました。

当時すでにATMは24時間対応でしたし、お金を引き出すのが何時でも手数料は掛かりません。
便利だったなぁって、今でも給料を引き下ろしに ATMへ18時ギリギリ駆け込む度に、そんなことを思います。


ある日、語学学校からのアクティビティとして、NZ南島西岸にあるフォックス氷河への小旅行に申し込みました。
お金を添えて事務所まで。 担当者は私と仲良しだったブラジル人のマルッシオです。^^

旅行代金は125ドルだったと記憶しています。
ATMで「125」をプッシュして、下りてきた金額を確認せずにそのままマルッシオに手渡しました。

彼はすぐに私を追いかけ教室に入ってきます。
「いったい、何人分なんだ?」
「え? 私一人分だけど、、? もしかして足りない?」
「よく数えてみろよ。」 彼は笑っています。

1枚、2枚、、、??? 20ドル札が12枚と、10ドル札が1枚あります。
「250ドルあるねぇ~。(^。^;)、なんでだろう?」
「なんでじゃないだろう。」 彼はやはり笑いながら、私の頭をコツリとしました。

確かに「125」って押したよね~、、。(・ω・;)
お金を下ろした時に出てくる明細の紙切れには、何度見直しても「125」の文字。。???

もしかして、ANZ銀行から私へのボーナス?!o(^―^)o、そんな訳はありませんって!!
では、銀行のミス?

どちらにしろ、私の手元にはマルッシオから返された125ドルが存在します。

おぉ~、ありがたい、ありがたい。*^m^**^m^**^m^*
私は勿体なく感謝をして戴きました。クフッ!*^m^*


それからしばらく後、私の手元に毎月の明細が届きます。
そう、それはすっかり125ドルのことなど忘れた頃。その125ドルの影も形もなくなった頃。

いつもより少し分厚い封筒です。
開いてみると、そこには特別なお手紙が入っていました。

「あなたが、10月〇日の〇時〇分に大聖堂広場にあるATMで引き下ろしした金額についてですが、こちらの手違いで125ドルのところ250ドル支払ってしまいました。
ですので、今回 あなたの口座から差額分125ドルを引かせて頂きます。」

え~ん。(T_T) なんでバレちゃったんだろう。。
お金を下ろしたATMの場所も日にちも時間までも合ってるし~。(T_T)

125ドル、、これが正確な処理なのは分かりますけど、なんだか とって~も損をした気分。(∋_∈)


でも こんなことがあったからでしょうか、、?
逆にANZ銀行は親切で信頼できるっていうのが私の印象です。^^


<余談>

この銀行カード、ニュージーランドでもオーストラリアでも使えるっていうのが便利でした。

ただ、オーストラリアでお金を下ろした時、残高は当然のことオーストラリアドルで表示されます。
50ドル程度引き出しただけなのに、1000ドル近く残高が減っているのに驚いた私。\(◎o◎)/

それがニュージーランドドルとオーストラリアドルのレートの違いだと気付くまで、真剣に悩んだことも懐かしい思い出です。(^。^;)

このカテゴリーに該当する記事はありません。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。