I love Salzburg

旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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パディントンに夢中☆

四国に春一番が吹いたという今日、午後から髪を切って映画を観て来た。


「パディントン」

先日三越へ行ったらちょうどパディントンの展示をしてて、どうもそれに影響されたらしい。

それでも、こんなに好みの映画だったとは。


愉快で可愛くて、温かくて愛しくなる映画だった。

クスクス笑って、そしてパディントンをぎゅうって抱きしめたくなった。


暗黒の地ペルーからロンドンにやって来たパディントン。

暗黒、暗黒って何度も言ってたけど、ペルーってパディントンが誕生した1958年頃はまだそんなイメージだったのかな?(笑)
冒頭でイギリス人の探検家がペルーの森の奥に入って行くシーンなど、私の頭の中ではハイラム・ビンガムが山奥でマチュピチュを発見した場面と被ってしまった。


ロンドンに到着するなりハチャメチャなパディントンだったけど、もし私が初めてロンドンへ行けば、同じようにパニックになるんだろうな。

パディントンに会いに、冒険をしに、今すぐロンドンへ行きたくなる。

でもひとまずは明日の朝、食パンにマーマレードをたっぷりぬって食べようか。


02-13 映画「パディントン」



四国に春一番が吹いたという今日、雨のせいで気温のわりに寒かった午後だけど、パディントンのおかげで心はホカホカ暖まってる。



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FOUJITA。

仕事でとても疲れた先月末、家でゴロゴロするだけでは気分転換にならないと映画を観に出掛けた。

12月以降、私としてはよく映画を観に行く。
一度映画館で観てしまうと、そのサイクルはしばらく続いてしまうのだ。


その日選んだのは、気分で『FOUJITA』だった。


01-30 映画「FOUJITA」


画家・藤田嗣治の絵は、別に嫌いでもないが特に好きということもない。
しかし、どこか私の好きなモディリアニやローランサンにも通じるところがあって、彼の絵に出会うと立ち止まってしまう。

といっても、フジタの絵の本物を観たのは隣町にあるカフェが初めてで、美術館で観た記憶は殆どない。

そのカフェは、今は亡きオーナーさんが大のフランス好きで、年に何度も渡仏して集めた骨董品や絵画に囲まれた空間と、南仏から眺める地中海を模して瀬戸内海を一望できるテラスがある。

オーナーさんの好むシャネルの香水が微かに漂い、会話の邪魔にならない低い音で流れる古いフランス映画も憎い演出。
目の前の海は南仏をイメージしたものでも、オーナーさんの醸し出す雰囲気からか私にはどこかパリを感じられる場所だった。

それはレモンの木の鉢植えを横目に少し坂を上って行くのだが、その庭の一角にピンク色した小さな美術館があって、そこに20点ほどフジタやコクトーの絵が並んでいる。


この映画は、そのフジタの絵のような作品に仕上がっていた。

日本とフランスの合作というのも納得させる。

フジタのトレードマークであった「おかっぱ頭に眼鏡」姿のオダギリジョーもなかなか様になっていた。


絵描きの、しかも裏町が舞台であるから、そう気取ったパリの町を観ることもなく、

初めて私がパリを訪れた時の、まだ夜が明けきれてない早朝いきなり黒人女性に恐喝され、緑色のゴミ収集車が走るパリの記憶にぴったりだった。


久しぶりに思い出したパリが恋しくなって、前述のカフェに行こうかなと思うも、
オーナーさんが亡くなって以来、同じ家具や食器に囲まれても、景色は変わらず美しくても、不思議とパリの香りは消えてしまったように感じて。

それでも、ピンク色した小さな美術館だけは、フジタの絵の前でシャネルの香りをさせたオーナーさんに会えるようで、まだパリの空気が残っていると信じたい。

そういえば、オーナーさんはどこかフジタに似ていたような。


パリを愛し、パリに愛された人だけに共通する何かがそこにあるのだと、そう思った帰り道だった。



と書けば、しっかり映画を観たように聞こえるが、実際はよほど疲れていたのだろう。
日本でのシーンは殆どが夢の中、記憶にない。(笑)

「黄金のアデーレ」を観る。

昨夜のレイトショーは、私を含め鑑賞者はたったの2人だった。

私的にはとても面白かったし、終わってからも色々考えさせられるいい映画なのに、勿体ない。
だが、おかげで映画に没頭できたのは有難かった。

この映画、香川では上映されないということで高速を飛ばし、ドライブがてら愛媛県新居浜市まで行ってきた。


12-15 映画「黄金のアデーレ」


たぶん、私がウィーンを初めて訪れた時、クリムトの名画「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I(黄金のアデーレ)」はまだベルヴェデーレにあったはず。

しかし残念なことに、その当時の私は「接吻」の強烈さに今回の映画のある意味主人公である「アデーレ」については覚えていない。

今はニューヨークのノイエ・ギャラリーに展示されているそうだが、そこに行きつくまでのアデーレの姪であるマリアとオーストリア政府との所有権争いがこの映画の主軸。
実話なんだそうだ。



*


それは1938年、ナチスがオーストリアを占拠した際、価値ある個人の財産をすべてナチスに奪われたことから始まる。
それが敗戦後、正当な持ち主に返されることなくそのままオーストリア政府の手に渡った。

ナチス侵攻前、アデーレ本人は自分を描いた作品についてはオーストリア・ギャラリーに寄贈するよう言い残していた。
だが、真の所有権はアデーレ自身ではなく、夫のフェルディナントにあった。
ユダヤ人であった彼は絵画を残して国外へと逃亡し、ユダヤ人排他の流れにあった国への寄贈を取りやめ、甥姪に相続させるという遺言を残していた。

マリア自身もこの年、アメリカへ亡命している。


結果は周知のとおり、この裁判でマリアは勝訴するのだが、結局この物語に本当の勝者はいないんじゃないか。

そして、国を追われるということに改めて考え込んでしまった。


もう3年も前、私がたった一ヶ月の欧州の旅を終え、帰国への列車に乗り込んだ時、「ああ、これでやっと日本に帰れる」と涙が出るほど安堵の気持ちでいっぱいになったことがある。

その旅行はちょっと色々あって、今でもきっとこれからも誰にも言えない心の傷が私の中にある。
しかし、その代わりに得たものもあって、その一つが「国」だった。

日本人に生まれて本当に良かったと思った。
日本にいるときは感じなくても、日本という国にいつも守られているんだと気が付いた。

それは日本だからというより、例えば平和が許されるならばどこの国でも構わない。
自分の祖国があり、いつでも帰れるふるさとがあり、そこを追われる心配のない私たち。
世界の歴史を見ても、現に今も、当たり前のようで決して当たり前じゃないその幸せを痛感した瞬間だった。


劇中で、マリアは老いた病身の父母をウィーンに残してアメリカへ渡るのだが、その別れは特別心に残るシーンだった。
「君の未来ある国の言葉で話そう」と、娘を思う気持ちと悲しみでくしゃくしゃな顔をして別れ間際に父が英語で言うところなど、本当なら誰が母国ではない国の言葉で別れの挨拶などしたいと思うだろうかと、胸がぎゅーと痛くなった。
いや、マリアだって決してアメリカへなど行きたくない。
もう二度と会えない大切な人をそのままに、生まれ育った国を好んで捨てる人などいるわけがない。

「アデーレ」もそうだと思った。

映画を終えて、あらゆることが脳裏に浮かんでは消えていき、そして今はやはりいつかはオーストリアで「アデーレ」に会いたいと思う。
オーストリアに帰ってきて欲しいと願う。

マリアが争った真の相手はオーストリア政府ではなかったと私は思う。
この物語の結末はこれでいいと思っているし、マリアへの「アデーレ」の返還は正しかったと思うけれど。

ラスト、この裁判を共に戦った新米弁護士ランディの胸で泣くマリアの涙がすべてだと思った。

私の涙は一滴も出なかったけど、胸の奥底を乾いた白い息が沈んでいくような痛みに泣いた映画。
だからといって重くもなく、テーマのわりに軽快なタッチで描かれている。
だから面白い。

主役のヘレン・ミレンはもちろんのこと、段々頼もしくなっていくランディ役のライアン・レイノルズも良かったじゃないかな。

それにしても、絵画一枚になんて色んなドラマがあるんだろうか。


映画「母と暮せば」。

近頃、土曜日は映画の日になっている。

今日は、「母と暮せば」。

舞台は長崎。
原爆で息子を失った母と、亡くなったはずの息子。
淡々と物語は進んでいくが、伝えたいことはしっかり胸に届いてくる。


詳しい内容は十分前宣伝をされているのでここに改めることはしないが、吉永さんと二宮くんの親子が本当に自然で、ありえない設定でもすっと物語に入っていけた。


私は3年前まで邦画は一切観たことがなかったので、今回初めて吉永小百合さんの映画を観たけれど、やはり美しい方ですね。

二宮くんの恋人役の黒木華さんもそうですけど、お二人とも所作も言葉遣いも美しくて。
最近は身近にも綺麗な方が増えてきたけど、物腰の柔らかい方となると、ね。

私がまだ25歳前の頃、行事の多い職場ゆえに失礼がないよう町の作法教室に通ったことがある。
その時習った食事の仕方、私も時々思い出しては意識するけど、実はできる方を見たことは一度もない。
それを、何気ないシーンで吉永さんはさらりとされていた。
そのちょっとした場面でも吉永さんの人となりを見たようで、さすがだなと思った。


そして、出演されたどの役者さんもそうだけど、後ろ姿がとても素晴らしかった。

映画の終わりにはうっすら涙が滲む、そんなふうに仕上がっていると私は思う。




スギハラ チウネ。

本日公開の映画「杉原千畝 スギハラチウネ」を観た。

私が彼とその「命のビザ」を知ったのは確か2000年、日本政府によって正式に杉原氏の名誉回復がされた時だった。
それ以来、リトアニアをはじめバルト三国を訪れたいという想いを募らせながら、未だ果たせず。

世界情勢の先が見えない今、シリアを主とする難民問題も前途多難な今、ある意味この映画はタイムリーだと思う。


それまでリトアニア領事代理として、日本政府に背いてビザを発給したことしか知らなかった彼の人生の、当然ながらその前と後があることに気づく機会にもなった。
ビザを発給した当時、杉原千畝は40歳。

また、第二次世界大戦が描かれるとき、必ず登場するといってもいいシーンが省略されているのを不思議に思いながら観ていたら、逆に彼が救った命によって皮肉にも失われた命もあったことを、直接的な表現を避けてはいたが気付かされた。

もちろん、彼の判断は人道的であったと思うし、そこから先の各々の将来は全て人の力ではどうにもならない定めだったのだと私は思う。
それはいつの時代にもあったことだし、それが世の常なんだとも思う。



杉原氏の人生は壮大過ぎて、どうしても2時間半弱では描ききれない。

なので、映画そのものは私的には少し物足りなさを感じたのは否めない。
いくら唐沢さんの演技が素晴らしくても、杉原さんのバックグラウンドは半端じゃないし、スケールが違いすぎる。

でも、観て良かったと思う映画だった。


冒頭の雪に覆われた真っ白な大平原を蒸気機関車が走るシーンが、映画では満州となっているものの一目でポーランドとわかる景色に、それだけでも私にとっては東欧を懐かしむのに十分。


最後に、杉原千畝が書いたビザが6000人の命を救ったならば、それを受け入れた杉原氏の友人、ウラジオストク総領事代理の根井三郎も忘れないでおきたい。

結局 観てきた『レ・ミゼラブル』。

前評判の高い映画は、正直苦手な私。

天邪鬼な私は、ついケチをつけたくなる。(笑)
というより期待しすぎるのかな、その時は感動したつもりでも、心に残る作品はわりと少ない。

だから、現在上映中の『レ・ミゼラブル』も見に行くつもりはなかった。


けれど ある日のこと、スマホがメール受信を伝えた。

「picchuちゃん、最近なにしてる?
私は、先日 久しぶりに映画を見に行きました。 レ・ミゼラブルです。
picchuちゃん、おススメですよ。 ミュージカルだけど、曲が良いわぁ、と思ったの。
picchuちゃんに伝えよう、と思ってメールしたの。」

岡山に住む親友M子からのメールだった。

M子と私は非常に好みが合う。 
男性以外は、彼女が良いと言ったものは大抵 私も気に入る。

M子が言うならと、ちょうど目の前にいた母に声をかけてみた。

『レ・ミゼラブル』なんて洋物、本を読まない母は知るまい。
そう思い、ちょっとふふんって感じで誘ってみた。

「知らないと思うけど、昔 日本では『ああ無情』って題名で有名な作品が映画になってるんだけど …」
ここまで言った時、母が私の言葉を遮った。

「あ、レ・ミゼラブルでしょ。 母さん、中学2年の時に舞台を観たことあるのよ。」
「へ? だって母さんが中学生の頃っていったら、、、」
「そうそう、戦後3年くらいだったけど、母さんが通ってた女学校の講堂が、当時県下では珍しく設備が整ってて、そこで上演されたのよ。」

なんか、無性に悔しくなった。
「じゃ、観に行かなくていいのよね!」
「そんなこと言ってないじゃない。 もちろん観るわよ。」


こんな感じで、結局 観に行くことになったのだ。(笑)


* * *


泣ける話ということだが、私は映画や舞台を観て、そう簡単には人前で泣かない。

とりわけ男女や親子の情を誘う話ほど、意地でも泣かない。(笑)

なんか自分の過去や心の内を覗かれるようで、変に見栄をはってしまう。


だが、そんな私でもホロロとくるものもある。

それは、健気な動物ものと、、、
このレ・ミゼラブルのように、自由を求めて立ち上がる民衆の姿だ。

そうなると、ホロロではすまなくなる。

自由・平等・博愛を表す三色旗がはためくだけで、胸が熱くなる。

そういえば高校時代、再放送された『ベルサイユのばら』で、三色旗を掲げたオスカルに胸が震えたことを思い出した。


私、フランスの国旗にも弱いんだよな。(苦笑)


民衆がそれらを勝ち取るまでに流した血と涙を思うだけで涙が出る。

今では多くの人を惹きつけてやまないパリの街も、礎になった彼ら抜きでは語れない。

しかも散っていったのは、多くの勇ましい(カッコいい)若者達だ。


<民衆の歌>が頭から離れない。


思いの全てを絞り出して歌い上げたファンティーヌにさえ泣かなかったのに、若者にやられた。

だが、隣りに母が居た。 私はぐぐぐっと涙を呑みこんだ。(笑)



M子に返事を書こう。

「M子の言う通り、曲がすごく良かったわぁ。
色んな愛と涙と感動が詰まった作品だね。 いい映画を教えてくれてありがとう。」



あ、若者達と共に戦った、あの幼い少年が超~私好みだった。

ドン・ジョヴァ~ンニィ~♪

場面はいきなり、18世紀のイタリアはヴェネチアから始まりました。

真夜中、小舟は静かに運河を進む。 
青白い顔をした2人の男を乗せたその舟は、ランタンに照らされて無気味に浮かび上がる、巨大な真っ白い石像を乗せた舟とすれ違う。

ドン・ジョヴァ~ンニィ~♪


昨晩、簿記の勉強が今週の目標まで進んだので、
2009年公開の映画『ドン・ジョヴァンニ ~天才劇作家とモーツァルトの出会い』を見ました。

舞台は、ヴェネチアからウィーンへ。
う~ん、この頃のウィーンの雰囲気って好きだわ~。^^

ヴェネチアの映像も素敵でしたが、当時の厳粛で重く暗いヴェネチアと華やかなウィーンの対比がこれまた美しく、しばし酔っておりました。

絵画を巧く映像に取り込んでいて、それが18世紀の雰囲気を漂わせる効果になったのでは、
そう私は感じます。

この映画は、モーツァルトの代表作、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』が生まれるまでの物語を、
作曲家モーツァルトではなく、劇作家ロレンツォ・ダ・ポンテを中心に描いたもの。


聖職者でありながら放蕩生活に明け暮れ、思想的にも危険人物と見なされたダ・ポンテは、
ヴェネチアから15年間の追放を言い渡されます。
向かった先は、ウィーン。
そこで出会ったのがモーツァルトでした。


すでにオペラ『フィガロの結婚』で大成功を収めた二人。
そして、ダ・ポンテが次にモーツァルトに持ちかけた作品が、『ドン・ジョヴァンニ』だったのです。


「『フィガロの結婚』より衝撃的になります。」とダ・ポンテ。
その題材が『ドン・ジョヴァンニ』と聞くや、「二番煎じは嫌だ。」と断るモーツァルト。

『ドン・ジョヴァンニ』という題材は、すでに過去にも戯曲化されていたのです。

ダ・ポンテはモーツァルトに迫るように、彼の描いているドン・ジョヴァンニの世界を語り始めました。

青白い顔がより白く、目の周りは赤く、ダ・ポンテの顔は無気味に大きく映し出されます。
そして、彼の語る物語の展開に、知らずとのめり込んでしまったモーツァルトと私。(笑)


その場面まで、正直 私はダ・ポンテ役のロレンツォ・パルドゥッチに対して、薄気味悪い人という感じで好きになれませんでした。
こんな気持ち悪い人が、決してお世辞でもハンサムと言えないこの男が、どうして色男の役に選ばれたのか、それが全く理解できませんでした。

ですが、その無気味な彼のアップを見つめていると、それこそ その妖しさに魂を抜かれたような、魔性にとりつかれたような、彼から滲み出た色気に酔ってしまいました。
彼が吸血鬼なら、私は自分から進んで首筋を差し出すわ~!(爆)

ダ・ポンテに酔い、美しく煌びやかな映像に酔い、音楽に酔う。 う~む、完璧だ!(笑)


ところで、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』と並行して、ダ・ポンテの恋物語も展開していきます。
これが、また巧い☆
現実と劇中劇が混ざり合った恋愛駆け引きも見どころで・・・。



こういう物語の構成を、随分前にも見たような~と監督さんを調べてみたら、
そうそう、私が思っていた1983年制作の映画『カルメン』を作った監督と同じ、スペイン人のカルロス・サウラでした。

あの時も、オペラ『カルメン』を題材に、カルメンのミュージカル化を目指して稽古に励むフラメンコ舞踊団の主宰者アントニオと、主役を掴んだカルメンとの恋愛を、劇中劇を織り交ぜながら描いて、魅力溢れる作品に仕上げていました。

カルメンといえば、真っ黒な髪と深紅の唇に褐色の肌、そして、惑わすような、時に突き刺すような視線の持ち主。
映画の進行に伴って、監督は主演女優からカルメンの要素を巧みに引き出していったと思います。

それが、今回のダ・ポンテも同じだったのでしょう。
最初は好みじゃないわ~とダ・ポンテを見て思っても、気が付けば虜になっておりますのでご注意くださいませ。

今も、出だしの「ドン・ジョヴァ~ンニィ~♪」のメロディと、
その妖しい彼の表情が、頭から離れない私からの忠告です。(笑)

「アララトの聖母」、観ました。

ひょんなことからアルメニアという国に興味が沸き、
機会があれば、いつか「ノアの箱舟」の欠片を見に行きたいな~なんて思ったりなんかして。^^

そんな時、これまた ひょんなことから手にしたのが、一枚のDVD『アララトの聖母』。

アララトとはご存知、「ノアの箱舟」が大洪水の後に辿り着いたとされる山で、
現在はトルコ領ですが、もともとはアルメニア人が多く居住していた地であり、アルメニア人の象徴、聖なる山です。


この映画、2003年に公開されたものですが、私は今回 初めて観ました。

*

goo映画より
【アルメニア出身の映画監督、エドワード・サロヤンは、新作の撮影のためにカナダへやってきた。

テーマは、20世紀初頭、アララト山の麓で起きたアルメニア人の虐殺事件。

サロヤンは、犠牲者を母に持つ画家、ゴーキーの存在に注目し、美術研究家のアニに映画の顧問を依頼する。
アニの息子ラフィは、アルメニアの活動家として死んだ父の存在に悩んでいた。

サロヤンの現場で働きながら、ラフィは次第に、民族の歴史と自らのアイデンティティーを探し求めていく。】


アララトといえばアルメニア~?程度の知識しか持っていなかった私には、出だしから少し難しかったです。
トルコ人による、アルメニア人大虐殺の史実も知らなかったですし、、、。^^;

あらゆる登場人物と時間軸を使って上手く表現しているところが、逆に予備知識のない私に物語をより難しくさせたのでした。

ですが、良い映画だと思います。
そして、分からないながらも 投げ出さずに最後まで観て良かったです。

ただ、映画に対する理解が浅い分、自分の中でも感想が纏まらないのが悔しいのですが、

アルメニアとトルコに限らず、世界中で繰り返される虐殺の歴史と人間の浅ましさ、
複雑に絡み合う民族や宗教の問題、教育の温度差など、考えさせられる部分の大きい作品でした。

そして、「土地」に対する民族の思いも、、、。
執着とは違う、民族の誇り、象徴、畏敬など、その重みを少しだけ感じとることができました。

シビアなテーマながら、最後は心が軽くなる作品。

出演者の表情の豊かさも評価されるべき作品だと思います。
特に、目での表現が素晴らしいっ!


個人的には、昔 大ファンだったカナダ人俳優ブルース・グリーンウッドの出演に、ちょっぴり心ときめきました。(*^^*)

手塚治虫のブッダ!

私は好きですよ、この映画。


巨匠・手塚治虫が10年もの月日を費やして完成させた作品の映画化ということで、
この映画化が決まってから私も原作を読んでみました。


あれほどの長編を僅か2時間でどこまでまとめ上げるのだろう?
映画にのめりこみながらも、どこまで描ききれるのかとそれも興味のひとつでしたが、

これからが入口という、ちょうどシッダールタ(ブッダの出家前の名前)が全てを捨て、新たな旅立ちへと向かうところで終了しました。

え?ここで終わるの?と思いましたが、どうやらこれは三部作のようですね。

ですが、感じ方は人それぞれでしょうが、この第一部だけでもかなり奥の深いところまで掘り下げていますので、これだけで一つの作品として十分に価値があると思いました。

*


第一部では、もう一人の主人公、奴隷階級から勇者へとのし上がったチャプラが、チャプラの感情が強烈に迫ってきます。

王族として生まれ、貧しさも惨めさも知らない若きシッダールタと、敵の勇者となったチャプラとが対峙する場面にも息を呑みました。

チャプラの声を演じた堺雅人さん、かな~りいいです。^^



時は今から2500年前。
インドではいくつもの国が誕生し、対立を繰り返しておりました。

とりわけ勢いに乗って勢力を広げるコーサラ国は緑豊かなシャカ国を手に入れようと、もはや争いはさけられない空気が流れていました。

当時、彼らの世界には大きく分けて4種類の身分があり、最も偉いのがバラモン(僧)、そしてクシャトリア(武士)、バイシャ(市民)、スードラ(奴隷)という順に。

底辺であるスードラは家畜も同然に扱われ、一生その運命を背負っていかなければなりません。


スードラ出身であるチャプラという人物を中心に持ってくることで、醜い争いと格差社会により一層感情移入でき、

それによってシッダールタが生まれた頃のインドの様子がよく感じられるな~と、
原作を読んでいる時も思いましたが、美しく激しい映像を見ながら改めて感心しました。


シッダールタが誕生する背景が描かれてこそ、手塚治虫のブッダですもの。


そして、最初からブッダとして悟りきったシッダールタでなく、その世界で迷い悩み、苦しみもがき、時に情けない姿のシッダールタが描かれているから人々は共感するのでしょう。

今の私達が求める者は、先を見通す力のある強いリーダーであるけれど、
本当に必要とするのは、私達と同じように苦しみを感じ、不安に震え、そこから立ち上がって導き示してくれる人だと私は思います。

大きなスクリーンを眺めながら、
「今、シッダールタは哀しくてたまらないんだろうな。辛いんだろうな。」
って、その痛みに私も共に傷ついていました。

きっと、誰よりも傷つく心をシッダールタは持っていたのだと思います。



人はなぜ苦しむのだろう。
なぜ生きるのだろう。

人は苦しむ為ために生まれてきた。
人は誰しも「生(しょう)」・「老」・「病」・「死」から逃れることはできない。

その思うがままにならないことを、思うがままにしようとして人は苦しむ。


シッダールタが後にブッダ(目覚めた人)となって人々を教え導くようになるまでには、これから長い長い旅路が続くのです。

そこからが第二部、第三部に描かれている部分。
第一部だけでも十分だと書きましたが、やはりこの先がとても楽しみです。

もし手塚先生が生きてらっしゃったなら、どう映画化されるのかな~?

あまりにも超大作なだけに、続きをどう表現するのかにもすごく興味があります。

アンナ・カレーニナには黒髪が、、、

今、光文社刊行の望月哲男さんによる新訳『アンナ・カレーニナ』を読んでいます。

とはいっても、
本を開くと眠くなる私ですので、その進行具合は遅々として進まず、、、。

場面はアンナの兄・オブロンスキーの離婚騒動の只中、、、
そう、アンナの登場どころか、未だこの長編小説の入り口でウロウロとしております。(苦笑)

* * *


そんな私の救いの主(?)か、
レンタルショップで偶然見つけた映画版『アンナ・カレーニナ』。

数多く撮られた中でも、フランスの人気女優ソフィー・マルソーがアンナを演じた、1997年版の作品です。

~ 浮気がばれたオブロンスキー公爵は、調停役として妹のアンナをサンクトペテルブルクから呼び寄せる。

モスクワに到着したばかりの汽車から降りようとしたアンナは、偶然 母を出迎えに来た青年将校ヴロンスキーと対面する。

一瞬、時間が止まったかのように交差する視線。

ロシアの高官カレーニンの妻であり、8歳の息子セリョージャの母親であるアンナに、ヴロンスキーは一目惚れしたのだった。


華やかな舞踏会で再開した二人。
アンナに夢中とあからさまに分かるヴロンスキーの視線とは対照的に、アンナはそれを上手くはぐらかす。
しかし、眩い二人が手を取り合って舞う姿は絵に描くよりも美しく、その短いダンスが「アンナの子宮に火をつけた」のだった。~

この場面、特別に美しいんです。

漆黒の長髪を艶っぽく結いあげたソフィー・マルソーは、まさに私のアンナ像とぴったりでした。

この恋に堕ちる瞬間、それがいいか悪いかは別として、この瞬間こそが絶頂の時。
アンナの中の何かが弾け、理由もなく熱く踊り出した感覚が、一観客である私の心にも連鎖しました。

*

~ 束の間の夢から逃れたはずの、サンクトペテルブルクの現実へと帰るアンナの前に、そこにいるはずもないヴロンスキーが立っていた。
真っ暗な夜の吹雪の中で、ヴロンスキーは抑えきれない想いをアンナに告げる。

「あなたの言葉 あなたの身振り 一生忘れません。」~


~ いつしか激しく求め合う二人の関係は社交界の話題となり、夫カレーニン公爵の耳に届くことになる。

「死にそうに不幸なの。」
離婚を申し立てたアンナだが、夫は息子の親権を盾に拒否をする。

すでにアンナの中には、ヴロンスキーとの新しい命が宿っていた。~


~ アンナは流産する。

軍隊を辞し、アンナを連れてイタリアで生活を始めるヴロンスキー。
しかしアンナの離婚問題は進展せず、モスクワへ戻った二人は世間から圧し掛かるプレッシャーと冷ややかな視線に耐えきれなくなっていく。

屋敷から出ることもままならないアンナは、とうとうヴロンスキーさえも信じられなくなり、やがてアヘンに溺れ出す。

アンナの選んだ結末は、あまりにも悲しすぎる最期であった。~


壊れていくアンナ、、、
その壊れゆく過程と、自分ではどうにも止められない狂った感情が痛いほどに伝わってきました。

さすがはソフィー・マルソー、アンナ以上にアンナになりきっていたと思います。

これを男であるトルストイがどう小説の中で表現しているのか、、、本を読む楽しみが増えました。^^


*

この二人のいきさつを、まるで二人の対角線上にいるかのような、
地主貴族リョーヴィンと 昔はヴロンスキーに淡い恋心を抱いていたキティとの、堅実な愛と対比させながら描いて行く。

リョーヴィンはトルストイ自身なのか、、、。

最後に悟りきったかのように語られるリョーヴィンの言葉は、全てを失ったヴロンスキーの心に響くのか、、、。
いや、読者(観客)の元まで届くのであろうか。


トルストイが描く世界なのですから、それは単なる不倫話でも悲恋でもなかったわけです。

それを理解するには、その感想を語るには、
私はあまりにも無知で、これまで浅はかな人生しか送ってこなかったことに気付かされました。

*

また、この小説の要となるシーンごとに登場する鉄道や駅舎。


光文社刊行の第一巻の巻末に掲載された読書ガイドによると、

当時、ロシア社会の急速な近代化を示す指標のひとつが鉄道の発達ぶりであり、この物語が描かれた1874年にはその長さは約18,000キロにも及びました。

しかし、近代化のシンボルであるその鉄道を、当時の作家たちの多くが、世界の基盤を揺るがす破壊装置のように不吉なものとして描いているのが興味深いです。

急速に広まる鉄道網が無神論や物質文化を広めて世の滅亡を招き、人間を破壊的な試練にいざなう呪われた機械として登場するとのことですが、
なるほど、だからこそ、あれほどまでにインパクトのある描き方がなされているわけですね。

そういう時代背景を知るだけでも、一歩 話に踏み込めます。^^

これから入門するロシア文学、やはり歴史も並行して勉強する必要がありますね。



何もかも上辺しか汲み取れなかった私ですけど、この映画を見て一つだけ確かなこと。(笑)

* アンナ・カレーニナには黒髪がよく似合う *
アンナ(ソフィー・マルソー)の哀れなまでのその美貌が、この物語をいっそう美しく切なく見せてくれました。


そして、映画に使われたチャイコフスキーの音楽と、白く澄んだロシアの原風景が実に素晴らしかったことは言うまでもありません。

『AUSTRALIA』、観ました☆

日本では、今年の2月に公開された映画『AUSTRALIA』、、、
DVDになるのを待ちかねて、先日 早速に借りて来ました。^^

まだ新聞配達も来ていない早朝の静けさの中、私はちょっと興奮気味にDVDを再生しました。(笑)


* * *


全体を通しての私の印象は、、、この映画、賛否分かれるだろうなぁ~というもの。

キャストもテーマも、そして壮大なスケールの映像も、どれをとっても素晴らしいはずのものなのに、゛もったいない"というのが一番の感想でした。


そこには、ニコール・キッドマン演じる英国貴族のサラとカウボーイ・ドローヴァーの身分違いの恋物語だけでなく、
オーストラリアの原住民・アボリジニの゛盗まれた世代"、また第2次世界大戦における日本の「2月19日のダーウィン大空襲」までが描かれていました。

゛盗まれた世代"については、
昨年2月にオーストラリア首相ケビン・ラッド氏が公式謝罪したことが記憶に新しいうちに、映画が公開されたのは良かったなって思います。^^
(オーストラリアでは昨年11月に公開)
*6/20にも書きましたが(『裸足の1500マイル』)、
オーストラリア政府は1869年から1969年まで、アボリジニと白人の混血の子供を親元から引き離し、彼らを野蛮な風習から守り、進んだ(と思い込んでいる)白人文化を強制的に植え付ける政策を行いました。


では何がもったいないかというと、上手く言葉では表現できないのですが、その意味ある内容が上っ面な、もしくは嘘っぽい感じを受けるのです。
それは恋物語がメインだから???
いえいえ、そんな単純な映画ではないでしょうに、、、。

*

映画の中の日本軍による大空襲を描いた場面で、オーストラリアに上陸した日本兵がアボリジニを撃ち殺すシーンがあります。
しかし、史実としてはそれは誤りで、日本軍はオーストラリアに上陸していないとのこと。

ということは、映画を盛り上げる為に虚偽の内容までも含まれているということ。
だからでしょうか、その他のシーンまでもがより嘘っぽく感じられてしまったように思うのです。^^;


そこで思い出したのが2001年5月公開の映画『パール・ハーバー』。
ご存知、真珠湾攻撃を背景に描かれた戦争&恋愛ものです。

この映画で真珠湾攻撃をより強烈に(アメリカ)国民に思い出させた後、あの「9・11」。

私は何かのTV番組の影響で、テロ組織と当時のアメリカ・ブッシュ政権との関わりを強く疑うようになりました。
だって、あまりにも映画公開時期と前宣伝が上手くでき過ぎていたから。
「9・11」を真珠湾以来の屈辱だと豪語した、アメリカ政府こそが実に怪しい。。。
映画に流されてはいけないと、この頃から思うようになりました。

映画『AUSTRALIA』で描かれている「ダーウィン空襲」とは、日本軍によるオーストラリア本土攻撃の皮切り日であり、真珠湾攻撃よりも激しいものだったと言われています。
オーストラリアで生まれ育った者なら誰もが知っている歴史。
それをあえて大袈裟に取り入れているとは、、、?

まぁ、映画『AUSTRALIA』の公開からは少し時間も経ちましたし、政府との関与は私の思いすごしでしょうけれど、
とにかく大宣伝のおかげで興行成績は良かったけれども、(オーストラリア)国内では酷評する人が多かったというのも『パール・ハーバー』と同じですね。。。


*

ですがこの映画、私は結構気に入って観れました。

それは、髭面をしたカウボーイ役のヒュー・ジャックマンがとってもセクシーだったから。
私って単純!? (笑)

そして彼がオーストラリア人だからでしょうけど、あの広大な大陸ととてもよく似合ってる。(*^^*)


原住民と白人とのハーフの少年ナラのキラキラ輝く瞳も、私の心をきゅん♪とさせました。

オーストラリア大陸の魅力が思う存分映し出された映像も必見!


2時間45分という長時間でも、途中で休むことなく最後まで楽しめました。

ただ、、、だからこそ、少し残念だなぁ~、勿体ないなぁ~って余計に思ったのかもしれません。

   

以上は、あくまでも私個人の感想に過ぎません。
これを気になさらずに、しっかりと映画をお楽しみくださいね。^^

やっぱり、この映画☆

皆さんにとって、一番好きな映画って何でしょうか?

私はある作品と出会うまで、殆ど映画(洋画)を見ずに大人になりました。
それでも、映画との素晴らしい出会いがある日突然やってきました。^^

それは大学を卒業して数年経ってから、25、6歳の頃だったと思います。
名古屋から香川へ帰る長距離バスの中で流された一本のビデオテープに、一人感極まって泣いてしまいました。(笑)

* * *


「フリー・ウィリー」☆

ご覧になられた方も多いでしょうか、、、
少年ジェシーとシャチのウィリーの心の交流を描いた、1993年に上映された名作です。

母親に捨てられ、孤児院を何度も抜け出すジェシーは、子供のいないある夫婦の元に引き取られます。
頑なに心を閉ざした少年が、ひょんなきっかけから小さな水族館でシャチのウィリーと出会う。
ウィリーもまた大海にいる母親から引き離され、寂しさを抱え、人間に心を閉ざしていたのでした。

人間嫌いのウィリーが、唯一ジェシーのハーモニカの音にだけ反応した場面では、ウィリーの心の叫びが聞こえてきそうです。

その日から、二人(?)は同じ孤独を抱える者同士、急速に心を通わせていき…。



久しぶりに、あの感動を観てみました。

ジェシーとウィリーの交流、そしてその出会いによって周囲の人達にも心を開いて行く少年の成長を見つめながら、
何度も観た作品であるにもかかわらず、またも目頭に熱いものを感じました。

やっぱり、この映画が一番好き☆^^

*


主題歌は、今は亡きマイケル・ジャクソンの「Will you be there」。

この音楽も最高ですよね♪
輝く大海原を気持ち良さそうに跳ねるウィリーは、マイケルの熱唱とともに瞼に眩しく映ります。

この曲は、広島において、私が大学時代に小中学生と一緒にある音楽祭で歌ったものでした。
その時の楽しい思い出と、この美しいメロディに懐かしさを感じ、
又も、゛これ、めちゃくちゃいい映画じゃない!"と一人顔をくしゃくしゃ感動しまくり。(笑)


この作品、VHSなら持っているのですけど、、、この際、DVDも買っちゃおうかな~。^^


http://www.youtube.com/watch?v=JFli8LgG9ng
懐かしい映像はこちらでどうぞ。(*^^*)

盗まれた世代とは。

久々にDVDを借りて来ました。

『裸足の1500マイル』、2002年に制作された映画です。

*

「え? この時期にエアーズ・ロックへ行くの?」
'02年2月のある日、NZのクライストチャーチのバス停で、偶然一緒になった男性は私にそう言いました。
その2日後に、私はオーストラリアへ向け出発することになっていたのです。

「大陸の真ん中辺りは、真夏の今頃、日中の気温が40℃以上に上がるんだ。」


実際、私が参加したcontikiツアーの行程も、暑い盛りの日中は冷房の効いたバスに乗って移動をし、夕方から砂漠や渓谷を探検するといった具合でした。

とにかく暑い。 それは、汗さえも蒸発しそうな焦げるほどの暑さです☆


あの容赦なしに突き刺さる陽射しの下、母親の待つ故郷へと2400kmの道のりを必死で歩き通した少女達の物語が画面いっぱいに広がっていました。

これは、今年の2月に日本でも公開された映画「オーストラリア」のような恋愛色はなく、゛盗まれた世代"を取り上げた実話でした。

* * * * * * *

1931年 西オーストラリア州。
100年の間 アボリジニは白人入植者に侵略された。
その後、アボリジニ保護法で彼らの生活は厳しく規制された。
アボリジニ保護局長ネビルは、西オーストラリア州の監督官として、混血アボリジニの子供を親から引き離し、収容する権限を持っていた。

*

主人公モリー・クレイグは、妹デイジーと従妹のグレイシー、そして彼女の母と祖母と一緒にギブソン砂漠の端にあるジガロングに生きる砂漠の民だった。

ところがある日、3人はアボリジニ保護局の人間に連れ去られ、パース近郊にあるムーア・リバー保護施設へ強制収容されることになる。
そこでは、粗末な環境の下、白人社会へ適応するための教育が行われていた。

たまりかねたモリーたちは脱走を決意。
そこから延々と続く1500マイルの過酷な旅が始まる。

しかし、そんな彼女たちをネビルと追跡人が追い掛ける。。。

*

私は白豪主義について、全く知識がありませんでした。
アボリジニに対する人種差別があることしか、知りませんでした。

昨年2月、オーストラリア政府が初めて゛盗まれた世代"に対して公式謝罪したことすら知りませんでした。

この映画によって、私がこれまで理解してきた人種差別とは、ほんの一部分、それらの表面しか見てこなかったことを教えられました。


ネビルは呟きます。
「原住民の問題は難しい状況にある。
特にアボリジニたちは、彼ら自身の野蛮な風習から守ってやらなければならない。
彼らに分かってほしい。
我々は、彼らのために努力しているのだということを…。」

大英帝国がオーストラリアを植民地化して以来、白人の入植者は原住民を迫害し続けました。
そして その根底には、「白人の文化は進んでいる」との思い込みがありました。

モリーたちは白人の父とアボリジニの母との混血でした。

人種交配が3代も続き、白人の血が代々濃くなることで、肌の黒さもアボリジニの人種的特徴も消滅してしまう。

彼らの中からアボリジニの血を消し去ろうというのです。
アボリジニの血そのものを一切否定したその政策ほど、ぞっとするものはないでしょう。
なんて、浅はかで勝手な考え方。。。

しかも、それは1970年まで続いていたということに改めて驚きました。

アイデンティティーの喪失に今も苦しむ゛盗まれた世代"、、、
この映画では、モリーたち3人の少女を通して、それらの現実と、アボリジニ人の逞しさと聡明さ、オーストラリア大陸の無情なほどの広さを知らされました。


モリーのまっすぐで力強い瞳に、白人たちの姿がとても薄っぺらく感じます。
原住民たちは、私たちでは到底理解しきれない霊力のようなものを持っているのではないか、、、そう思わせる場面が何度か出て来ました。

けれど、それほど霊格の高い民族である原住民たちへの差別が、きっと現在も形を変え、どこかに残っていることでしょう。
私達は進んでいる、、、そう思っているのは、今も自分勝手な先進国の人間だけかもしれません。。。(もちろん、私も含め…。^^;)

そして、ある時、気付くのかも…。
決して「先進」ではなかったことを…。

その時 逞しく生き残っていけるのは、自然の愛情も厳しさも知り尽くした彼らの方かもしれません。


現実をそのままに、さほど脚色もされていないこの映画、結構 私のお気に入りです。^^


こちらは、'02年2月のオーストラリア大陸。 独特の赤土が伝わりますでしょうか…。

盗まれた世代とは

盗まれた世代とは

「ぜんぶ、フィデルのせい!」

「ぜんぶ、フィデルのせい!」


「それじゃ、ぜんぶ フィデルのせいなのね?」
゛フィデル"とは、キューバ革命で社会主義政権を成立させたフィデル・カストロのことです。

「キョーサン主義って?」
「赤くてヒゲがあって、神をおそれず引っ越しばかりする人たち!」

*

ブログ仲間さんの「Tea316さん」の日記を読んで、とても気になっていた映画『ぜんぶ、フィデルのせい』を借りて来ました。
*Teaさん、ありがとうございます。^^ かなり私好みの映画でした♪

*

公式サイトより
【70年代、フランス・パリ。
弁護士のパパと雑誌記者のママ、やんちゃな弟フランソワと暮らす少女・アンナは、何不自由ない、満たされた生活を送っていた。
かわいいワンピース、上品な食事、そしてボルドーでのバカンス。
大好きなものに囲まれた、完璧な毎日。

ところが、とつぜんパパとママが゛キョーサン主義"に目覚めたから大変。
庭つきのお家から小さなアパルトマンへ引越し、さらに大好きな宗教学の授業も受けられなくなってしまい、アンナは不満爆発。

元の生活に戻りたい! ぜんぶ、フィデル・カストロのせいなのね!】



好きだなぁ~、アンナ役のニナ・ケルヴェルちゃん。^^
キッと睨みつける目つきも最高なのですが、ちょっぴり悪い歯並びが彼女の性格にピッタリでね、それがとってもキュートなの☆

この仏頂面がたまらなく可愛くて、そして彼女の着る洋服のカラフルな色合いがとってもお洒落で、それだけでもこの作品が好きになりました。^^


この映画、全てが9歳の主人公・アンナの目線で描いているのがいいですね。
ヘンな大人の説明が全くないので、逆にリアルに70年代の世界が生きています。


キョーサン主義? ダンケツ? ファシズム?
ミッキーがどうしてファシストなのか、、、無知な私はアンナとともに???でしたけど。(笑)

一番好きだった場面は、
~~~ 学校の授業で、先生が「ローマ文明とギリシャ文明のどちらが古い?」という質問を投げかけます。
「ローマだと思う人?」という問いに、アンナ以外は全員手を挙げました。

一番前に座っている彼女はこっそり後ろを振り向いて、自分はギリシャだと思いつつも、みんなに合わせておずおずと挙手しました。
正解はギリシャ。

帰宅後、アンナはパパとママに怒って言います。
「みんながローマだったから、私も手を挙げたの。正解を知っていたのに…。もう団結はウンザリ!!」

パパはママに、「どうやら団結の精神と人マネを混同しているようだ。」と耳打ちします。

それを聞いたアンナは、
「パパは人マネと団結の精神を間違えないの?」と納得のいかない様子。~~~


初めは両親の活動を理解できないアンナでしたが、少しずつ自分のことだけでなく周りや社会のことを手探りに学んでいく過程は素晴らしいと思いました。
それは、どの主義が正しいとかそういう問題ではなく…。

「どうして?」と思う疑問から逃げないこと、
子供の頃から社会に目を向けること、、、
数学や英語などの勉強も大切ですが、子供のうちから社会の一員として物事を考えさせる力を養うことって重要だなぁ~と思いました。

私が9歳の頃は、、、恥ずかしくなるくらい学校と友達とマンガのことしか興味がありませんでしたから…。

今でも゛キョーサン主義"とはどういうものなのか、政治や社会のことを全く理解できていないかもしれない。
アンナの鋭い視線を見習わなくっちゃと反省しました。(笑)

それに、アンナくらいの子供がいてもおかしくない年頃の私。
もしも自分の子供から同じ質問をされたら、私は何一つ答えることができないだろうなぁ。(^^;


実はこの映画、もっと現代史に明るければ、
1968年の五月革命、チリのアジェンデ大統領による社会主義政権成立、はたまた人工妊娠中絶の権利を求めるフランスのウーマンリブ運動まで、、、
幅広く楽しめただろうなって思います。

せめてこれから、
私のお気に入りの池上彰さんの著書「そうだったのか!現代史」でも引き出して、
少なくとも゛キョーサン主義"と゛フィデル"のことくらいは勉強しようと思います。(笑)

「ヒトラーの秘密」を観ました。

「ヒトラーの秘密」を観ました


*ドイツ・ベルヒテスガーデン近郊 【Eagle's Nest(ヒトラーの山荘)にて '07.07.16】


私がかつて旅した中で、最も不思議な感覚を覚えた場所が「ヒトラーの山荘」でした。
('08.05.27日記)
この場所に立った時、「あっ!今 世界中で私が一番 天に近い!」、ほんの一瞬のことですが、そう感じました。

早朝の霧に包まれた空中都市マチュピチュでは異空間を浮遊する面白い感覚を味わったこともありますが、このEagle's Nestほど゛天"を感じたところはありません。
また行きたい☆^^  

* * * * * * *

ヒトラーに関して、私は一般の人とは少し違う感じ方を持っています。

極悪非道な独裁者としては憎むべき存在でしょうが、
一人の男(男性というには少しニュアンスが違うかな。)としては、ちょっと興味深い。(危ない?・笑)

ヒトラーに関する映画といえば、
「アドルフの画集」という、画家と政治の2つの世界の岐路に立った若き日の苦悩のヒトラーを描いた作品を観たことがあります。
内容的にはまずまずだったと思うのですが、ノア・テイラー演じる青年ヒトラーがどうしても好きにはなれず(好きにならなくていいのですが…。笑)、
それ以来、ヒトラーを描いたものはなるべく避けてきました。

では、なぜ今回は手に取ったのかというと、
ヒトラーの実の姪である「アンゲラ・ラウバル」が中心人物として登場しているから。

1931年、当時まだ23歳だった彼女は、ヒトラーの自室でピストル自殺を図ります。
それは叔父と姪のただならぬ関係のもつれから悩んだ末の行動と推測されています。
ヒトラーによる殺害かとも噂されましたが、事実、ヒトラーにはアリバイがありました。

そのスキャンダラスな史実に着眼して、人間味たっぷりのヒトラーを描いているのがこの作品です。


恐ろしいほど執着心が強く、我が儘な男。
堂々とした表の顔とは裏腹に、どうしようもないほど子供だったヒトラーが存在していたのでしょう。
そんな彼がありのままの自分を見せ、甘えられる唯一の存在がアンゲラ・ラウバルだったのかもしれません。

姪に対する溺愛が、次第に独占欲となっていき…。

彼女に近づく男性をことごとく痛みつけるヒトラーに、
以前は叔父として慕っていた彼女も、その尋常ではない行動に恐れを抱き、精神的に追い詰められていく。

彼女の自殺後、もう誰にも止められない勢いで非道の世界へと突き進んでいくヒトラー。
皮肉にも、時代の波はますます彼を押し上げていったのです。

この先は、この結末しかなかったのでしょうか。


少し違った角度からヒトラーを見たい人にはお勧めかも。
ただ、、、私的にはやはりヒトラーものはしんどかったです。。。

「幻影師アイゼンハイム」

公式サイトより
【19世紀末ウィーン。
ハプスブルク帝国末期の芸術文化の都では、大掛かりな奇術=イリュージョンが一世を風靡していた。
中でも絶大な人気を誇っていたのは、アイゼンハイムという名の幻影師。

ある日彼は舞台の上で、幼なじみのソフィと再会する。
今では、皇太子の婚約者として注目を集める彼女は、その後ほどなく皇太子邸で謎の死を遂げてしまう。
謀殺の噂も沸き立つ一大スキャンダルのさ中、アイゼンハイムはソフィの幻影を蘇らせる前代未聞のイリュージョンを発表するのだが…。

果たして彼女の死の真相は?】



「ウィーン」・「ハプスブルク家」・「マイヤーリンク事件」

この3つが背景にある映画『幻影師アイゼンハイム』。
昨年末、ブログ友達のnanaco☆さんの日記で紹介されて以来、ずっと気になっていました。
ましてその魅力たっぷりのレビューに、私は胸の高鳴りを感じながらDVDを手にしました。
*nanaco☆さん、いつもありがとう!!!(o^―^o)

主人公アイゼンハイム役"エドワード・ノートン"の演技は言うまでもなく、ヒロインを演じた"ジェシカ・ビール"、
警部ウール役であり、この話のナレーターとしての役割も果たす"ポール・ジアマッティ"、
そして、皇太子レオポルト役の"ルーファス・シーウェル"、
その主軸となる彼らの存在感と、アイゼンハイムが放つイリュージョンの数々に、それはまるで私までも一観客として19世紀末ウィーンに迷い込んだかのよう。

たぶん、この映画を観た方は誰しもレオポルトに嫌悪感を抱くと思うのですが、
なんといってもレオポルトのモデルはエリザベート皇后の一人息子「ルドルフ」なのですから、彼から目を離すことはできません。(笑)

「マイヤーリンク事件」が元となった映画といえば、古く「うたかたの恋(1935年・フランス)」が有名ですが、
そこではルドルフが主役ですし、彼自身の恋物語が描かれているのですからマイナスのイメージはないと思います。

ところが、この映画の中での皇太子のなんて嫌味なヤツだこと!!
思わずルドルフ(映画の中ではレオポルト)自身を見下すところでした。
これでは、アイゼンハイムとソフィの恋路を応援したくなるのも当然です。(笑)

ただ、マイヤーリンクといえばルドルフとマリーとの心中が頭にあった為に、この役どころには驚きました。
そして、映画は単なる恋愛ものだけでなく、当時のオーストリアとハンガリーの微妙な関係、皇帝と皇太子の確執、皇太子の神経質な性格など、上手く要所に織り交ぜているなぁ、、、と感心しまくり。
皇太子の鼻の下の髭までもね。(^^)/

本当のルドルフはもっと誠実な人だと信じているのですが、、、、。
保守的な皇帝に対して時代の先を読み革新的だった皇太子、この二人の対立が行き詰まって選んだ結果を、映画の最後の部分できちんと匂わせています。

と、ついつい本題から逸れてしまうほど、皇太子役に注目していた私です。(笑)


ですが、エドワード・ノートンのあの深い瞳と、映画そのものがイリュージョンの雰囲気たっぷりの、黄昏にある世紀末ウィーンの情景にしばし浸っていたのも事実。

愛し合う二人の美しいシーンも、まるで幻の中にいる錯覚を抱かせる描き方で私は好きです。

石畳に響く馬の蹄の音も、色褪せた背景によく似合います。

そして、ラストの爽快な驚き。
あの走馬灯のような流れも好きです。

アイゼンハイムの魔術に、もう一度掛かってみたくなる摩訶不思議な映画でした。^^

メリル・ストリープ、最高です☆

観ました! 観ました!!  私も観てきましたよ~!!!(o^―^o)

多くの人を魅了してやまない「マンマ・ミーア!」
ミュージカルでその題名だけは知っていましたが、それが映画化されたとは。。。
何人もの方達の感想を読みながら、ワクワクする心を押さえきれずに映画館へと車を飛ばしました。

これほど幸せを感じた映画は、(私にとって)「サウンド・オブ・ミュージック」以来。
どうも私は、美しい景色と陽気な音楽を楽しめる映画が大好きなようです。^^

* * * * * * *

【舞台は、愛の女神アフロディテの泉の伝説が残るギリシャの小島。
主人公は、小さなリゾート・ホテルを経営するシングル・マザーのドナとその娘ソフィ。

父親を知らずに育ったソフィの夢は、「結婚式で、パパと一緒にヴァージン・ロードを歩くこと」。
挙式を控えて父親探しを思い立った彼女は、母の日記をこっそり読み、父親の可能性がある昔の恋人3人に招待状を送った。

物語は、その3人が島へやって来るところから始まる。】


どうすれば これほどチャーミングな女性になれるのでしょうか!!
ソフィ役のアマンダ・セイフライド、ドナ役のメリル・ストリープのみならず、
ドナの2人の親友ロージー&ターニャ、ワンシーンしか登場しない村のおばあちゃまだってイキイキとキラキラと輝いています。
もう腰の振り方までもがキュートなの!! (≧ω≦)b

私も一緒に踊りたぁ~い♪
何度もその衝動に駆られましたから、間違いなく映画館で体を揺らす私がいたことでしょう。^^


過去に嬉し涙の経験はありますが、楽しくて泣けてきたのは初めてです。
そして単なるコメディで終わらせず、その中には母娘の絆、思わず微笑んでしまう友情、女としての切なさや孤独感までもがぎゅっと凝縮されています。

~♪ 何もかも勝者が奪っていくのよ もうやめましょう 悲しくなるから ♪~
メリルの歌う「ザ・ウィナー」は、思わず感情移入しすぎて泣けてきます。
20年間も気丈に女手一つで娘を育ててきた彼女の、これまで見せなかった女性としての胸のうちを切々と歌い上げてくれます。


ここまで素直に感情表現できたなら、「生きる」って最高だろうなぁ~って思います。
そして、女に生まれてきて良かった~って心の底から思うことができました。

とにかく元気になれるんです。
ワクワクしてくるんです。
未来には絶対幸せが待っているって思わせてくれるんです。
胸の高鳴りが絶頂を迎える頃、きっと誰もが笑顔で納得できる結末へと進みます。


ますますメリル・ストリープの大ファンになってしまいました。
ここまで歌って踊れる女優さんだったのね。
なんて豊かな演技をするのでしょう。。。
彼女の作品を全て観たいって思いました。

そして、この映画「マンマ・ミーア!」のサウンド・トラックをすでに注文してしまった私です♪^^

ブーリン家の姉妹

歴史とは、一人一人の感情の積み重ねなんだなぁ~。

映画『ブーリン家の姉妹 (原題 : The Other Boleyn Girl)』を見て、改めてそう思いました。

そして、エリザベス1世の母「アン・ブーリン」がこれほどに野心家だったとは、、。
(もちろん、実際はどうだったか、、、?)

どちらかといえば、映画の中でアンの妹として描かれたメアリーの方が、今までの私の中のアン像でした。


時代に翻弄されつつも、自らの手で人生を切り開いていったアンを演じるのは、"宮廷画家ゴヤは見た"でもその才を見せつけた「ナタリー・ポートマン」。
平凡で穏やかな人生を望んだメアリーに、「スカーレット・ヨハンソン」。

そして、この二人の美の競演に、私も興味を示した一人です。(*^_^*)


アンの知的で挑発的な姿にまずは目がいくのですが、メアリーの柔らかな温かみに自然と心が和みます。
ヘンリー8世が最初メアリーに心惹かれ、最後まで彼女を信頼したのも分かるような気がします。

皮肉にも、姉妹で王の愛情を奪い合うことになるのですから、そこには嫉妬と憎悪が渦巻きます。
けれど姉妹であるからこそ、お互いを理解し、愛情と信頼で支え合う姿も印象的でした。
それを引き立てた二人の美貌が憎いです。^^

しかし、その二人が愛したヘンリー8世は、なんとも"しがない男"だこと。^^;


"最初に愛されたのは妹メアリー、王妃になったのは姉のアン。"

【時は16世紀イングランド。
20年にわたる夫婦生活で王女メアリーしかもうけることが出来なかったヘンリー8世の目下の関心事は、立派な男子の世継ぎをあげる事。

一族の富と権力を高めるため、振興貴族のトーマス・ブーリンは自慢の娘アンを差し出す。

しかし、王が目をとめたのは清楚で心優しい妹のメアリー。
姉より先に結婚したばかりのメアリーは夫と共に、王の愛人となるべく宮廷にあがる。

アンは姉でありながら、結婚も王の愛人という立場も妹に奪われてしまったのだ。

一族の発展のための企みが、次第にアンとメアリーの絆を、王の愛を巡る非情な対立へと変えていく。
メアリーの王への純粋な愛情を知りながら、容赦なく王の愛を求めるアン。

果たして王の寵愛を射止めるのは2人のどちらなのか・・・。】
(公式サイトより)


いつの時代も、男が時代を作っているようで、実はそれを陰で操る女の存在がある。

あぁ~、この映画は女の生き方をも考えさせられるものでした。



*実際は、メアリーはアンの姉であったようです。

そして、彼女達を道具にのしあがろうとしたブーリン家は、わずか4代前までは地方農民の家系だったとか。
だから、余計に地位や権力に憧れと執着があったのですね。


*この映画のおかげで、"イングランド国教会"がどういう流れで成立したのかを知ることができました。^^

私は見た。

映画の後、一枚、一枚、スクリーンに映し出される画家ゴヤの絵。
この映画でまさに命を吹き込まれたかのように、生きた姿で私の前に現れました。


『宮廷画家ゴヤは見た』

本来なら主人公であろうゴヤが狂言回しとして描かれ、
その彼の目を通して、一組の男女と、彼の生きた18世紀末から19世紀初めにかけてのスペインの動乱が生々しく映し出されています。

視点を少しずらしただけで、映画がこうも生きてくるなんて、ちょっと興味深い仕上がり。^^


私は子供の頃より絵画鑑賞が好きでした。
しかし、ゴヤの暗い作風はどこか馴染めず、あえて見てこなかったように思います。
きっと、最初に見た作品「我が子を食らうサトゥルヌス」が子供心にあまりにも衝撃的だったからでしょう。

この映画で、ゴヤのあの不気味な絵は、彼が架空に産み出したものではなく、彼が実際に見た悲しすぎる現実だったことを知らされました。


当時、隣国フランスでは"自由・平等・博愛"精神の下、フランス革命が勃発。
その時代に逆行するかのように、スペインでは異端審問所が存続し、
カトリック教徒以外の人々を異端と称し、連行拷問の末 強制的に自白させられ、火刑に処されるか異端審問所に送り込まれるか、、非人道的なことが日常に行われていたのです。

けれど、そのスペインにもフランス革命の波は押し寄せ、ナポレオンの指揮により古い王政は倒されます。

そのナポレオンによって弾圧されるスペイン民衆。
しかし、これもまたイギリスを中心とした反ナポレオン連合軍によって倒され、旧宗教勢力が復活するのですから皮肉なものですね。

・・・真実とは・・・。


その時代背景を、

かつて神父として異端審問を推し進め、「ある出来事」により国外逃亡を余儀なくされ、後にナポレオンにより検察官に任命されて再びスペインの地に戻ってきたロレンソと、

些細なことで異端とみなされ、15年間も牢の中に閉じ込められたせいで正気を失った美しくも悲しい娘イネスの数奇な運命と、

それを脇から見守ることしかできなかった宮廷画家ゴヤの視点から見事に復活させました。

権力やお金に執着し、時代に踊らされる人間の哀れさ、
それとは逆に、どんな時代でも力強く生き抜く人間の逞しさを表現した考えさせられる作品です。


ロレンソには、かつてアカデミー賞助演男優賞を受賞した"ハビエル・バルデム"。
堂々と汚れ役を演じきったイネス役に"ナタリー・ポートマン"。
フランシスコ・ゴヤ役には、時々見せるお茶目な笑顔が魅力の大ベテラン俳優"ステラン・スカルスガルド"。

そして、あの「アマデウス」の"ミロス・フォアマン"が監督なのですから、見て損はありません。

最後の最後、
全てに見放されたロレンソの手を握りしめ、心が壊れきった健気なイネスの歩き去る後ろ姿がなんとも印象的でした・・・。



歴史を知ることで、今の社会も垣間見れますね。
そして、自分の内面までも・・・。

映画『マリア』

【ヘロデ王の圧政に苦しむナザレの町で、家族と共に慎ましい暮らしを送るマリア。
愛してもいないヨセフとの婚約話が整ったことを両親から知らされた彼女は、心を落ち着かせる為に逃げ込んだ林で、天使ガブリエルから「あなたは神の子を身籠る」と告げられる。

その頃、"救い主"誕生の預言に怯えるヘロデ王の命により、街の人口調査が始まり、救い主の可能性のある者は全て抹殺するよう命令が下る。
ヨセフと身重のマリアは、ヨセフの故郷ベツレヘムへの険しい旅へと出発する。】

* * *

~トントントン。お尋ねします、こちらの宿は、、♪~
そう歌いながら、扉を叩く仕草をします。
5歳の私は、母お手製の薄いブルーの衣装を着て、マリア様の役をやらせてもらいました。

私がお世話になったキリスト教の保育園では、毎年 年長組の子供達がクリスマス会でイエス様の生誕の劇をします。
日曜学校では讃美歌を歌っていましたし、園長先生は牧師さんでしたので、プロテスタント系の保育園だったと思います。

ベツレヘムに辿り着いたばかりのヨセフとマリアは、その晩 泊まる宿を求めて扉を叩きますが、どこの宿でも首を横に振られるばかり。
最後に尋ねた宿屋の主人が、「馬小屋で構わないなら、、。」と二人を迎えてくれました。
その薄汚れた馬小屋で、神の子イエスは誕生するのです。

その誕生を喜んで、劇の最後でヨセフ役の男の子と共に讃美歌を歌ったことも覚えています。

* * *

先日、映画『マリア』を観ました。原題は『The Nativity Story』。

この映画を手にしたのは、マリア役が「ケイシャ・キャッスル=ヒューズ」だったから。
「クジラの島の少女」で主人公に選ばれたニュージーランドの天才子役です。
1990年生まれ。
僅か15~6歳の、マオリ族の血を引く彼女が、いったいどんなマリア像を演じるのか、私はそこに興味がありました。

褐色の肌を持ち、素朴であどけなさを残したケイシャのマリアは、すでに聖母として祀り上げられたマリア様ではなく、天使ガブリエルの言葉に恐れおののく一人の少女が女性へ、そして母親へと成長していく姿をより身近に感じられるものだったと思います。

レオナルド・ダ・ヴィンチやボッティチェリなどの絵画で知られる"受胎告知"の場面でも、マリアの衣装、純潔を示す白ユリの花、天使ガブリエルとマリアの配置などの多くの決め事にもとらわれず、自然な形に仕上がっていると私は思いました。

そして、それらの表面しか知らない私が考えもしなかったマリアとヨセフの苦悩。
確かに、結婚を前にして、男性を知らないはずのマリアが子供を宿したとなると、当時としてはどれほど大きな問題であり大罪であったことでしょう。
いくらマリアの上に聖霊が降りてきたと説明しても、いったい誰が信じるというのでしょう。
その言葉をヨセフだけが信じると言うのです。

あぁ~、幼い私が演じたマリアは、その苦しみを乗り越えて、ヨセフとの深い絆を結んだ後の姿だった、、。
イエス様の誕生はもちろん、それまでの道のりこそが一つのドラマであり、尊いものだったと気付かされました。

そのヨセフを演じた「オスカー・アイザック」の黒く深い瞳が、この映画をよりキリストの生誕に相応しくしたように感じます。
まるで本物のヨセフと錯覚しそうなほど。
しかも、かなり濃ゆいけれど私好みだし~。(*^―^*)

イエス様の誕生の場面と、その後ろに流れる"きよしこの夜"も素敵でしたよ。


聖書に詳しく著されていないヨセフとマリアの物語。
そんな彼らの内面に触れたような温かな余韻が残るいい映画でした。

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