I love Salzburg

旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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私は『お姉ちゃん』!

*Southern English Schools、懐かしい教室風景。【'01.8月】


クライストチャーチにある語学学校の午前のクラスで、、。

その日は確か、家族についての話題だったと思います。
"ふっ"と浮かんだ姪っ子について発表しようと思いました。

私のノートを覗き込んだロビン(先生)は、
「picchukoは随分 お姉さんと年齢が離れてるのね~。」と声を掛けてきました。


私と一番上の姉は、年が「13」も離れています。
ですから、私が小学1年生の時に姉は結婚。
なんと! 私は9歳で「叔母さん」になったのです。。(*^_^*)

子供時代にバレエを、そして中学高校では新体操の選手として頑張っていた姪のAkikoは、
贔屓目なしにスタイル抜群の美少女でした。


私はロビンに"ヒソヒソ"と話し掛けます。
「たぶん、私より彼女の方が先に結婚すると思うわ。(*^_^*)」

優しいロビンは、"あらまぁ~、何て答えたらいいのでしょう。 "
といったちょっぴり困った表情で私の肩をポンポンと叩きましたっけ。

* * *

それから数年後。

私の予想はずばり的中☆☆☆
彼女は高校時代から付き合っていた彼と結婚。
その年に長男を出産しました。

そして つい先日(9/26)、二番目の男の子を無事出産☆


そうです !
結婚すらまだの私ですが、早くも二人の「大叔母様」になってしまったのです。(^_^;)
トホホッ。。。

喜ぶべきか、悲しむべきか。。。。。(T_T)(^o^)(T_T)


ちなみに、
姪は私のことを「picchuko姉ちゃん」と呼びます。

彼女の長男にも同じく「お姉ちゃん」と仕込んでいる私。。。


えぇ~~~い!! まだまだ『お姉ちゃん』で頑張りますよ~!!('◇')ゞ

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犯人はヨンサマ☆

気が付けば、すっかり秋らしくなってきて、、。

急に涼しくなったのはいいけれど、
私の愛する「ヨンサマ」は、気温の変化にとっても弱く、昨晩から又も持病の変な咳をし始めました。

"エヘン、エヘン。"

「ヨ~ン、大丈夫? つらいよねぇ。しんどいよねぇ。」

うっすらと涙を浮かべたこの子の瞳に見つめられると、
思わず "ぎゅ~"っと力いっぱい抱きしめてしまいたくなります。(*^_^*)

むぎゅ~~~。o^―^o
"グエェ~。。。"

「あらら。ヨン、ごめん。ごめん。(^_^;)」
どうも余計に苦しくさせてしまったようです。f^_^;


今は、お昼の食事に混ぜた薬が効いているのか、静かに落ち着いて眠っています。^^

* * * * * * *

「今日、上布団を交換したわよ~!」

私が帰宅するやいなや、母はそう叫びました。

「もう羽毛布団にはヨンとクリスを上げたらダメよ。どっちかがお布団の上でオシッコしてたんだから、、。」

「えっ! ホント?」

「2つも地図が書いてあったわよ。」

「気付いてなかったよぉ~、私。。。(^。^;)
お漏らししたのは、もしかして私ぃ~???(^。^;)」

「あほなこと言わないの。クリーニング代、3万円もしたんだからね。」

さっ、さん万、、、高っ!

「クリィ~ス! 犯人はおまえかぁ~!!」
"えぇ~~~!" おとぼけ顔で見上げます。"濡れ衣だぁ~!(クリス、心の叫び)"

確かにクリスはヨンサマほど賢くはないけれど、お漏らしするほど間抜けではない。。。


チッチッチッ♪
ヨンサマは至るところに自分の臭いを付けていきます。イタズラも大好き。

「ヨ~ン!!! ヨンが犯人だったのねぇ~!!!」

"エヘン、エヘン。" と咳こむヨン。
まぁ、今回だけは特別に許してあげましょうかね。。。(^。^;)

私の故郷 〈続き〉

*今も昔も変わらない「旧ソウル駅」。
父にとっては、この場所が一番懐かしいように見えました。
現在、その隣りには空港のように立派な新ソウル駅が並んでいます。

:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:

〈続き〉


父は、私が小学校へ入学した頃から教育に厳格であった。
将棋に夢中になっていた時などは、駒を庭に放り投げられたこともある。
そして、よく怒られたものだ。

そのような父であったが、他方では 四季折々に触れて私を各地へ連れて行ってくれた。

春の夜桜、夏の仁川(インチョンを当時は日本語読みで"じんせん"と呼んでいた。)での海水浴。
また、会社からの一泊慰労会にも同行させてもらった。

年末には、会社から渡される大入袋(当時は10銭が普通であった。)を父からもらって喜んだものである。


芳山町の次に移り住んだ新堂町は京城郊外にあり、
自然の草花が溢れ、澄みきった水の流れのある小高い場所であった。

私の家から10分余り登った山頂には、当時兵隊の管理下に置かれていた水源地があった。

小学5、6年の私は、そこから東大門国民学校まで電車通学をしていた。

上級学校への準備として、放課後は担任の先生の作成した問題集を頑張った。
その頃からであろうか、自分の将来を少し考えるようになったのは、、。


だか家に帰ると、やはりそこは子供である。
桜並木に四季の草花、トンボや蝶が飛び交うその中で、
時には水源地まで駆け上がり、昆虫等を取ったりと自由に遊んだものである。

妹も4歳となり、50メートルほど下方のお宅へ毎日幾度ともなく行ったり来たりして走り回った。


家の中にはオルドルという暖房器具があり、冬季の寒い時期にも気持ちよく過ごすことができた。

夜は、遠く市内の灯りを窓から眺めていたものである。

* * *

老後に至った現在、私の人生を振り返ってみる時、
私はわが国の歴史の中で激動の時代を、特に戦後は最低の生活を過ごしたように思う。

しかし、その頃の気持ちとして自分の立場を特に不幸と思ったことはない。
むしろ、その後の人生を頑張っていこうと心中に期するものがあった。

このような私の人間形成ができたのは、
あの京城での幼少時代、自然の中において、まさに童謡「故郷」のとおりの暮らしがあったものと思われる。
本当に楽しい日々であった。

京城における はげ山、南大門、京城(ソウル)駅、漢江(ハンガン・ソウルを流れる大河。現在はそこに人工の島"ヨイド"が浮かび、国会議事堂や放送局、大企業のビルなどが集まった政治経済の中心地となっている。)、
そして幼き時代の友達等のことが走馬灯のごとく思い出され、
今、感謝の気持ちでいっぱいである。

私の故郷 (父の徒然日記)

*東大門の近くでしょうか、、。
日本統治下の時代、この辺りは"芳山町(ほうざんちょう)"と呼ばれていたそうです。
当時の面影のない街並みに、少し残念そうな父ですね。【'04.06.13】

:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:

~うさぎ追いしかの山 小鮒つりしかの川
夢はいまもめぐりて 忘れがたき故郷~


人はこの世に生を受け、その後は見えざる糸に操られ その生涯を終える。

その中にあって、人生の晩秋近くになってくる頃には、
自分の幼なかりし頃が無性に恋しいものである。

朝な夕な時間も忘れ、時には自分一人で、また近所の友達と無我夢中で過ごしたことが非常になつかしく思われる。

例え、その土地が現在 他国となっていようとも、
自分の幼少時代に過ごした土地での生活が克明に思い出され、なつかしさを覚えるのである。

今、私は77年という年齢に達し、自分の人生を振り返って見ると それは山あり谷ありで、
その住まいも年数の違いがあるものの 転々と変わっている。

その間、自分の人生に大いな影響を及ぼした時代を考えると、住まいの期間の長短ではなく幼少時代での生活であり、
「故郷は?」と聞かれると、即座に幼少時代を過ごした京城(けいじょう・現 韓国ソウル)と答える。

その故郷である京城での生活の中、心の中に刻まれていることを記し、故郷を思い浮かべてみたい。

* * *

私は昭和6年に京城で生まれ、小学6年まで暮らした。
6年生の時に父を残してソウルを去り、母と5歳の妹とで母の実家へ身を寄せることになる。

日本の激動の昭和の戦前・戦中・戦後のそれぞれの時代を、当時の人々同様に大変な生活であった。

特に戦後の生活は、借家住まいで 食糧難のため、
山を開墾する等をし、野菜や小麦を作り、一家の柱として働いた。
その中にあっても、私の心の中では、幼少時代を過ごした京城での思い出をかみしめて頑張ったことを覚えている。


私は京城で2ヵ所の住まいを経験した。

一つは京城市街地での芳山町という便利な所で、そこには小学4年まで。
他は、市の水源地(東大門より随分と東)があった新堂町(しんどうちょう)という郊外の山の手である。


芳山町での生活は、
父はアパートを経営し、自身は本町(現 明洞周辺)にあった三中井本店(デパート)に勤めていた。

私は両親の8年目の長男で すくすくと成長。
小学校は公立東大門尋常小学校(後に国民学校となる)で学んだ。

その学校は、
グランドは広く、大きなポプラの木が並んで植えられ、校舎は3階建ての立派な建物であった。
相撲場やプールもあり、それらをよく利用した。


近所の友達との思い出として、
2、3年上の友達と時間を忘れて将棋をしたり、
体を鍛えるために、数人で数キロ離れている京城神社(ソウルタワーのある南山の中腹。当時この辺りには、この他に乃木神社、東郷神社等もあった。)まで、日曜日の朝はランニングをして汗を流した。


冬には、
道路上でコマを鞭で打ち 回転させ、友達のコマとぶつかり合わせて争った。

芳山湯という浴場からの帰りには、タオルがカチカチに凍り、身震いしながら帰っていた。


私はアパートの皆さんに可愛がられ、お正月にはお年玉をもらっていた。
日本各地から一緒になった夫婦が多かったようで、お正月にはあちこちで雑煮のお餅で言い争いがあるということを両親から聞かされた。


一番の記憶は、1年生の時の秋季大運動会での騎馬戦である。
先ず1年から3年までが紅白に分かれ相手の帽子を取り合い、
その後で4年生以上も行ったが、その中でもただ一人私は最後まで走り回っていた。
その時の母親達の驚きと笑いがなつかしく思い出される。



〈続く〉

キンパッ!

韓国料理で私が最も好きなものといえば、それは定番の「キムチチゲ」です。^^

以前、オランダを旅した時のこと。
短い海外旅行で日本食が恋しくなることのない私ですが、キムチチゲだけは何故か無性に食べたくなって、唾を呑み込みながら我慢した覚えがあります。
喉の奥から欲しくなるんですよ~。^^


韓国料理屋さんのウォンさんに、
「韓国料理は世界で一番美味しいですよね~。」と言ってみました。

「えっ?! そうなんですか~?」とウォンさん。

「ええ、私にとっては一番です。(*^_^*)」
という返事に、いつも以上にチャーミングな笑顔を見せてくれました。(o^―^o)



そんなウォンさんに、最近 初めて『キンパッ』を食べさせてもらいました。

『キンパッ』とは、お馴染み「韓国ノリ巻き」のこと。
「キム」が"海苔"で、「パッ」が"ご飯"という意味なんですね。

ですから、韓国のコンビニで「キンパッ下さい。」と言うと、
「三角キンパッですか? 普通↑のキンパッですか?」と尋ねられるそうです。
三角キンパッとは、"おむすび"のことです。^^

そんなことさえ知らない私は、ソウルのコンビニで真っ直ぐ"おむすびコーナー"に向かいました。
この時は、普通のキンパッを知らなかったのです。

日本と同じで、コーナーには"おむすび"がずらりと並んでいます。
ところが、難解ハングル文字を前に、一体 中身が何なのか見当もつかず、、、
罰ゲームのようにドキドキしながら適当に選びましたっけ。(^。^;)


このキンパッ↑、軽くつまめて美味しくて、私にとっては別腹になってしまうので要注意食べ物となってしまいました。
かな~り、はまってます。^^

ご飯の熱がしっかり冷めてからでないと作れないキンパッは、注文を受けてから作るお店がほとんど。
これは本場韓国でも同じです。

キンパッを思い出しただけでお腹がすいてきちゃいました。
食欲の秋ですね~。(*^_^*)


* * * * * * *


〈『キンパッ』をまだ召し上がられたことのない方へ〉

一見、日本の巻き寿司のように見えますが、酢飯ではなく 白いご飯をそのまま使います。
ゴマ油を塗ったノリを巻いていますので、その風味が食欲をそそるのです。

主な具は、卵やキュウリ、ゴボウやハムなど。
沢山の野菜が入っているので栄養のバランスもいいですよ。

元々は日本から伝わったものなのですね。^^

父の故郷。

*旧ソウル駅前にて、左から 母、父、姉、私。 【'04.06.13】


いつの間に用意したものか、400字詰め原稿用紙が机の上に。。。


先週末、またも私は両親と韓国料理屋さんへ出掛けました。

お馴染み、ウォンさんというソウル出身の奥さんのお店。
数ヶ月前から、ウォンさんのお友達がお店を手伝ってくれています。

その奥さんは少し内気なウォンさんと違い、"難波のおばちゃん"といった風情の、元気いっぱい まるで太陽のような方。
ウォンさんの温かい柔らかさに彼女の明るさが加わって、ますます居心地のいいお店になりました。^^

さすが彼女も韓国が大好き☆
持ち前のバイタリティーと人懐っこさで、何度も訪れた韓国で様々な体験をされています。
その話を、クリクリと大きく目を見開いてお喋りする表情が印象的です。

ましてソウル生まれの父にとってはこれ以上にない楽しみに!!
このお店に来ると目が爛々と輝き、声までも高らかに、なんだか若返ったようになるのです。(*^_^*)

この土曜日も、懐かしいソウルでの子供時代の話を興奮しながら話す父の姿がありました。

美味な料理に弾む会話。
ニンニクや唐辛子もいい刺激となり、顔の血色まで違ってきます。

* * *

その帰り道。
ソウルを思い出すだけで これほど元気になるのならと、
「今のうちに、ソウルでの記憶を文章に残してみては?」と提案してみました。

父の知るソウルとは、戦前戦中の日本統治下の時代。
韓国人からしてみれば それは最も屈辱的な時代ではあるけれど、
当時 父は何も知らない子供だったわけですから、純粋にソウルの街を駆け巡った その視線で書けばいいと思うのです。

「昔通った東大門小学校は、、、。

僕が子供の頃は、市内を電車が走ってたんですよ。

今の明洞を当時は本町といって、、、。etc」

そんな他愛ない話を、
あの時代のソウルの子供しか知らないことを徒然と書くのも悪くないのではと、、。


今、父の机の上には原稿用紙が広がっています。
心持ち、なんだか毎日が楽しそうです。^^

いつか機会があれば、そんな父の日記をこのブログにも載せてみようと思っています。
どうかその時は読んでやって下さいね。o(^-^)o

私の初海外日記

*台北市・忠烈祠~ヂョンリェツ、その中国宮殿様式の本殿と儀仗兵【'99.09.12】

ここには、辛亥革命や対抗日戦などで戦死した将兵33万人の霊が祀られています。
1969年に建造。
この広い敷地は、日本統治時代には護国神社があったところ。

忠烈祠は軍によって管理され、英霊を守る儀仗兵は3ヶ月交代で陸・海・空軍の兵士が担当しています。
台湾男子は、18歳から2年の兵役義務を課せられているとのこと。

1時間ごとに行われる この儀仗兵の交替式は見ものです。
いえ、警備についている不動の姿勢だけでも十分に見る価値はありますね。
*これが記憶に鮮明だった為に、今年5月にソウルの景福宮で見た"王宮守門将交代式"にはがっかりしました。
ソウルでは単なるイベント、台北では真の衛兵といった感じでしょうか。。

* * *

どことなく沖縄の那覇市に似てるなぁ~。
これが、台北を訪れた時の一番の感想でした。

抽選で当たったパリ行き('08.06.01日記)を前に、関空出国の手続きすら分からない私は、
その予習にと、2歳年上であるTさんからの台北旅行の誘いに応じてみたのです。

「今年はね、私にもpicchuちゃんにとっても台湾はいい方角みたいよ。」
「台湾かぁ~、」と渋る私に彼女は言いました。

実際に訪れてみて、
日本女性に大人気の台湾ですが、予想通り 私との相性はイマイチみたい。
特にコンビニの臭さは、鼻がねじ曲がるのかと思うほどキツかったです。><。。


ただ、↑に紹介した忠烈祠での儀仗兵には驚きましたねぇ。

警備に当たる彼らのピクリともしない不動の姿勢に、
感動というか、感心というか、どんな訓練を受けているのだろうかと興味津々の私。
そんな彼らをバックに写真に写る、その自分の間抜けな顔との対比も面白かったです。^^;

その他に私が訪れた場所は、
世界4大博物館の一つに数えられる"故宮博物院"、
蒋介石の偉業を讃えるために造られた"中正紀念堂"、
1738年に建てられた台北最古の寺"龍山寺"など。
占いや足つぼマッサージも忘れずにして来ましたよ。^^


それらの話は後日にして、
なぜ台北旅行を思い出したかといいますと、それはメラミン混入の粉ミルク問題や汚染米などのニュースから。

私達が台湾から帰って一週間後にマグニチュード7.6の大地震が起こりました。
'99年9月21日。
それは阪神大震災の4倍、地震のエネルギーは10倍ということでしたので、その大きさも見当がつくでしょう。

初めての海外旅行を終えて、まだその熱が冷めやまぬ時。
自分達の泊まったホテルから さほど遠くない建物が崩壊した映像に、胸を撫でおろすと同時に他人事ではない痛みを感じました。

倒れた建物からコンクリート偽装などが浮き彫りになり、テレビで大きく報道されました。
コンクリートの中にはペットボトルやドラム缶、ゴミまでもが混入されていたのです。
そのずさんさに、それによって失われた命に どれだけ多くの台湾人が泣いたことか、、。

あれから日本でも耐震偽装が発覚。
そして、今では食の安全が根底からとことん覆されてしまいました。

今まで疑いもしなかったことが、これほど私達を脅かす材料となるなんて、、、。

まだまだ知らない現実を思うと、なんだか恐いを通り越して、とても悲しくなりますね。

落雷☆

「どうも○○高校の大木に、雷さんが落ちたみたいよ。」
今日の夕方、近所のお宅から戻って来た母は そう言いました。

私の家はその高校のすぐ裏手になります。

日曜日の午前中、雲行きが怪しくなり始めたと同時に、派手な雷の音が轟きました。

ピカッ!! バリバリッ! ドォ~ン!!!

自分の部屋にいた私でしたが、少し離れた部屋にいる2匹の愛息子?が気になって(笑)、慌てて様子を見に行きました。
私には、昔飼っていたゴロ(同じくポメラニアン)が雷の音に震え上がっていた記憶が残っているのです。

2匹は私を見るや、嬉しそうに尻尾を振りながら駆け寄ってきます。
そんな可愛い彼らを抱っこして、私の部屋まで連れて行きました。


急に激しい雨が降り出しました。
風も出てきた模様。

雷もまだ"ゴロゴロ"と鳴っています。

ビュ~、ビュ~!!
かなり激しい雨風だったようです。

私は次の日に知ったのですが、
町内にある家々の多くの瓦が吹き飛ばされたようですし、竜巻も起こったという話。

確か、消防のサイレンも近くで聞こえていました。

県下では、浸水になった家もあったとか。



さて我が家では、、
家のすぐ傍で雷が落ちたにもかかわらず、
近所の家の屋根に、落雷に遭った大木が倒れかかってきたにもかかわらず、、、

私のベットの上にあがって、喜び放題のヨンサマとクリス。

まるで、"雷様、バンザイ!"といった笑顔でした。(^。^;)

母性愛

お恥ずかしいことに日頃あまり新聞を読まない私ですが、一面の下部にある毎日新聞の「余録」には目を通すことにしています。
朝日新聞では"天声人語"の部分でしょうか、、。

日曜日の余録は、有害物質メラミンを混ぜた粉ミルクの問題から、食の安全に対する国の鈍感さを皮肉ったもの。

その内容に持っていくまでに、ある一匹の母犬の話について触れてありました。
その母犬の母性愛に、私もちょっぴり感動しましたので、ここで ご紹介☆ ^^


《8月末、南半球のアルゼンチンは冬のさなかだ。
夜になると気温は摂氏3℃にまで下がる。

ラプラタ川河口近くのある村で、犬小屋の様子がおかしいのに飼い主が気付いた。

中では8歳のメス犬が6匹の子犬に乳をやっているはずだった。
覗いてみると、母犬が人間の赤ちゃんを子犬と一緒に抱いていた。

赤ちゃんはすぐに病院に運ばれ、体にスリ傷はあったものの、すぐに元気になった。

近所の14歳の少女が名乗り出た。
妊娠を家族に言えないまま、ゴミ捨て場になっている空き地で出産したらしい。

母犬は、泣き声を聞きつけて飛び出していったのだろう。

もう数時間、寒い風にさらされていたら、きっと死んでいたに違いない。

空き地から犬小屋まで約50mもある。

普通の中型犬なのに、どうやって運んだのだろうか。

我が子の何倍もある人間の子に乳をやろうとした母性本能の偉大さに、村人はみな感動したという。》

遠くへ行きたい。

*南太平洋 クックアイランド・ラロトンガ島の朝【'01.10月】



はじめは小さかった「遠くへ行きたい病」が積み重なって、

私は、南半球にあるマオリの島へと旅立ちます。


ホームシックに泣いた夜もありますが、すぐに多くの友人に恵まれ、

今までの人生で、最も愉快で悩みのない日々を迎えます。


ところが、又もふっと沸き起こった「遠くへ行きたい病」。


日本から およそ10000km。
こんなに遠くにやって来ても、まだ遠くへと憧れるのです。


私は親しい友人と、南太平洋にある楽園"クックアイランド"を訪ねます。

次に、ひとりでカンガルーとコアラの大陸へと渡ってみました。
マオリの島のお隣りさんですからね。


そして、ついには南太平洋を横断し、タンゴの国を経由した後、

古代インカの都へと足を踏み入れました。


物悲しく愁いを秘めたその風に、切なさと懐かしさを感じます。

その風とともに、

「遠くへ行きたい。」


とうとう地球の裏側に立ってみて、

それでも遠くを夢見る自分を前に気が付きました。


「どこまで行こうとも、私は私であるということ。」


遠くへ行きたいというその気持ちは、

今の自分から抜け出したいという願望だったということを。


今でも時々、「遠くへ行きたい病」が疼きます。


私は、まだ迷っているのです。


いっそのこと、お月様まで、いえ天の川まで飛んでいこうかしらん。^^


もしや、チワワかも?!☆

ヨンサマが私の元にやって来て、3ヶ月ほど経った頃の写真です。
生後半年。 【'04年10月】

うちのヨンサマは、成長とともに ある一時期 毛がどんどんと抜け落ちて、
「ポメラニアン」というよりも まるで「チワワ」のようになりました?!
その頃は、某会社のCMで使われたチワワ人気の絶頂期。


私と母は日ごとチワワ化する愛犬を見つめ、勇気を出してペットショップに電話をすることにしました。

「3ヶ月前にお宅からポメラニアンを戴いたpicchukoですけれど、、、。
どうも、うちに来たワンちゃんはポメラニアンではなくチワワのようなんです。
毛が殆んど生えてこないんですよ。(;_;)」

「いえ、間違いなくポメラニアンですよ。
中には、成長過程で毛が抜け落ちる子もいるんです。」と冷静な返事。

「もう別にポメラニアンじゃなくてもいいんです。
この子もすっかりなついてくれて、とても可愛い子なので間違っていても構わないんです。
でも、本当のことが知りたいんですよ~。血統書も届きましたし、、。(/_;),」

「いえ、本当にポメラニアンです。もうじき ふさふさした毛が生えてきますよ。」

「いえね、間違いを責めている訳ではないんですよ。
ただ、最近 チワワは大人気でしょ。
だから、ポメラニアンの値段で それより高いチワワを頂いても構わないんでしょうか?」
(picchuko、しつこいぞ!・笑)

「いえ、絶対にポメラニアンですから~。(>_<)」

この押し問答の後、半分納得のいかない私は しばらく様子を見ることにしました。

別にチワワでもいっか! (それでも、しつこい!)


それから半月後。 生えてきました、生えてきました!! 
どこから見ても、正真正銘のポメラニアン☆

なんだぁ~、やっぱりポメラニアンだったのね。(*^―^*)

* * *

近頃は時々 カンガルーの子供に似てるなぁと思う時があるんです。
又もペットショップに電話して、
「4年前に買ったワン子ですが、本当に犬ですかぁ~?」なんて言ったら、、、、、
今度こそ 怒られてしまいそうですね。(*^_^*)

2008 黒拍子本公演~神と民~

なぜ松山を訪れたのかというと、
一番の目的は、創作芸能団『黒拍子』さんの松山公演を観る為でした。

7/3の日記にも書きましたが、
黒拍子のメンバーである安田典幸さんと服藤菜美さんは、佐渡ヶ島の和太鼓集団"鼓動"の研修所を卒業し、
現在は大阪を拠点に伝統芸能推進等の活動をされています。

そのお二人に、典幸さんのお兄さん・安田勝竜さん(太棹三味線)、吉岡正樹さん(舞台芸術、演出)を加え、幅のある演出で松山市民会館 中ホールを埋め尽くした大勢の観客を魅了してくれました。^^

* * *

チリン、チリ~ン。。。
菜美さんが手にした鈴の音色で幕は開きます。

私はひとり、弘法大師ゆかりの四国の遍路路を思い出していました。
お遍路さんの杖の先に付いた鈴の音を連想させる、
そして"ぴ~ん"と張りつめた神聖な空気は、正にこの公演《神と民》の神の出現をイメージするもの。

典幸さんの唄と踊りで神が舞い降り、彼らの太鼓で神が踊る。

太鼓を打つ手、バチを構える姿、その一つひとつの動作に念が込められているのですね。
菜美さんの"きりり"とした表情も印象的でした。^^

以前、和泉流狂言方・小笠原匡先生の舞台でも感じたこと、、、
彼らも日々の稽古から身に付けたものなのか、"時を止める"才能を持っているんですよ~。
伝統芸能の奥深さでしょうね、素直にカッコいい~☆のです!! ^^


そんな息を呑む空間を打ち破って登場したのが勝竜さん。
やはりお兄さんだけあって、どこか観る者に余裕と安堵を感じさせてくれます。

その身なりは、まるで幕末の志士のよう。
オーストリア&スイス男性贔屓の私でも、思わず日本男児に惚れてしまいそうになりました。(笑)

何てったって、勝竜さんの三味線が最高☆
難しいことは分かりませんが、彼の弾く三味線のバチの響きに、和楽器って深いなぁ~と感動しまくり。

その中でも、つい先日 勝竜さんが作り上げたばかりの、まだ名前も決まっていない太棹三味線の独奏曲は、特に私の琴線に触れました。

第二部は大衆的演目「民」をテーマとしています。
彼の三味線の響きは、親しみあるそんな民の音色と唄声を届けてくれました。

ですから、その名もない独奏曲を、私の中では単純に"民の唄"として心に刻んでいます。^^


こんなに素晴らしい舞台でも、まだまだ進行形の彼らです。
今後、どのような世界を見せてくれるのか、、
どれほど和太鼓や三味線の音色に 深みと温かみと息吹きを増していけるのか、、。

演出も非常に大切ではありますが、純粋な音色をますます大切にしてもらいたいと心から願っています。^^


*是非、彼らの世界を覗いてみて下さい。
そして、応援して下さいね~。(o^―^o)

・黒拍子公式HP http://kurobyoushi.com

・黒拍子公式ブログ http://blog.kurobyoushi.com

『坂の上の雲』のまち

*愛媛県松山市「坂の上の雲ミュージアム」


"名月や 伊予の松山 一万戸"
チンチンチン♪ と音こそはしませんが、そんな雰囲気を残した路面電車の中で、子規の一句を目にしました。

そこは松山。
正岡子規の故郷であり、道後の湯で有名な城下町。
今も昔ながらの風情を残す田舎町。
夏目漱石の小説「坊っちゃん」の舞台もこの町です。


来年(2009年)秋から3年間にわたり、NHKではスペシャルドラマ「坂の上の雲」が放送されます。
これは、ご存知 司馬遼太郎さんの同名小説のドラマ化です。

観光案内所で戴いた、"『坂の上の雲』のまち 松山 ヒィールドミュージアムマップ"によると、
《司馬遼太郎さんが40代のほとんどをかけて完成させた小説『坂の上の雲』は、正岡子規、秋山好古・真之兄弟の三人の人生を辿りながら、「近代国家」の仲間入りをしようとした明治の日本を描いた物語です。

貧しい下級武士の家に生まれ、軍人の道を選んだ好古と真之。
好古は草創期の日本騎兵を育て、真之は日本海軍における近代戦術の確立者としてそれぞれ道を歩みます。
真之の親友であった子規は新聞記者になり、近代俳句・短歌・文章の革新に力を注ぎました。

東洋の小国日本が、西欧諸国に追いつこうと懸命に国造りを行った姿から、多くのものが見えてきます。》

ドラマでは、秋山好古を阿部寛さん、真之を本木雅弘さん、正岡子規を香川照之さん、子規の妹に菅野美穂さん、、その他、加藤剛さんに伊東四郎さん、松たか子さん、竹下景子さん、渡哲也さんと超豪華なキャスティングですよ~。(o^―^o)


この日、雨の中 行く場所がなくて飛び込んだミュージアムでしたが、思いの外 明治という特異な時代を知ることのできる面白い松山の新名所に出会えました。^^

子規も遊んだと言われるステレオスコープ(ステレオカメラによって撮影された2枚の写真を立体的にみる機器)を覗いてみたり、からくり芝居を見てみたり、、なかなか楽しい場所なのです。

明治という時代そのものが古臭いようで新しい、逞しさと希望に満ちていたことが展示物などから伝わってきます。

閉館は18時半、入館は18時まで。
17時に入った私は、1時間ではこの博物館を満足するには全然 時間が足りませんでした。
でも、来館者の少ないこの時間帯はオススメかも?!


司馬遼太郎さんは、大の子規好きだったとのこと。
子規にふるくから関心があった彼は、ある年の夏、子規が生まれた伊予松山を訪れ、子規と真之の関係などを知るうちに彼らについて詳しく調べてみたくなったそうです。
小説に書くつもりはなかったと言いながら、これほどの大作を産み出したのですから、よほど子規に対する思い入れが深かったのでしょうね。

司馬さんといえば、「竜馬がゆく」!
彼の作品を知ると、幕末から明治にかけての四国はどこまでも興味が尽きないように感じてしまいます。^^

まだ未読の小説『坂の上の雲』、近々読んでみたいと思います。
読んだ後、松山の町並みをもう一度歩くとまた違った趣きを感じられそうです。


最後に、子規の詠んだ歌をもう一句。

"世の人は 四国猿とぞ笑ふなる 四国の猿の子猿ぞわれは" ^^

気になるニュース

*NZ ギズボーン、イーストケープからの日の出【'02.01.18】
これは〈2007/10/25日記〉の写真の数分後、太陽がその全貌を現したところをカメラに収めました。


私にとって今 最も気になるニュースというのが、自民党の総裁選でも 世界的な金融危機の始まりを予感させるリーマンショックでもなく、9/14の毎日新聞に記載されていた『太陽の異変』です。

そう。
2008年8月の1ヶ月間、太陽の表面上にほとんど黒点が出現しなかったという話題。
地球は本当にこれから小氷河期へ向うのでしょうか?

新聞には、今から200年以上前にも同現象の"小氷河期"の時代があり、その時はテムズ川も凍ったと書かれてありました。

浅はかな考えの私は、地球温暖化にとってプラスになるかも~?、なんて一瞬 思ったりしたのですけど(^人^;)、想像以上に深刻な問題なのですね。
太陽の異常は、地球上の気候の大変動を招く可能性もあるわけですし、地球のみならず太陽系全てに何らかの影響を与えるはずですから。

どんな影響をもたらすのか気になった私は、色んなサイトで調べてみました。

黒点のデータは1749年からずっと集められているのだとか。
確かに、17世紀に太陽の黒点が発生しなかった無黒点期があったそうです。(マウンダー極小期)
その時代、農作物は実らず、農民は飢え、世界的に飢饉が発生。
また、栄養不足や日照不足による健康の悪化によってペストなどの病気が蔓延し、経済恐慌が起こったとのこと。
こうした様々な要因が重なり、安定性を欠いた社会では革命が起こったといいます。
一方で、科学的なパラダイムシフトの時代となり、近代への転換期にもなった時代でもありました。

逆に太陽活動が活発だった時代は、古代においては太陽信仰が起きた時代と一致し、作物はたわわに実り、新しい文明が生まれたといいますから、
太陽が地球に与える影響は、どうもリーマンよりも大きそう???

この夏、日本を襲った"ゲリラ豪雨"も黒点消滅と関係しているようだし、、。


「エコ!」と口では言いながら、いつまでたっても責任感のない人間の甘さに 痺れをきらした太陽が、とうとう怒ってしまったのかな?

おとぼけクリス。

東京の国立科学博物館で、『南極物語』の主役「ジロ」の本物の剥製を見て想像以上に感動した私は('08.09.01日記)、25年前にもなる映画のDVDを思わず購入してしまいました。


映画のせいでしょうか、、。

余計にわが家の愛犬達が愛おしく感じられる今日この頃です。^^

そういえば、

以前、愛犬のホームページを開きたくなって、職場で親しくしてもらっているNさんに、"作り方を教えて~!"って頼んだことがあります。

当時、Nさんは趣味である好きな車と福祉についてのサイトを立ち上げていました。
うちの施設のホームページも彼が作成しています。

"私のホームページの一部に載せる方法もあるよ"、って話もしてくれながら、いつの間にか忘れ去っていました。
彼自身もホームページを閉じてしまったし。


ブログを始めて、やっと自分で写真をアップできるようになった今、今度はヨンサマとクリスがカメラや携帯を構えると避けてしまうようになりました。

あぁ、ましてカメラ目線を狙うなんてこと、とっても難しい。。。(T_T)



↑の写真は、まだ恥ずかしがらずにカメラ目線をしてくれていた頃、赤ちゃんだったヨンサマです。

Stille Nacht Gedachtniskapelle

映画「マリア」の中で静かに流れていた『Stille Nacht~きよしこの夜』。
改めて、そのメロディがあまりにも素敵でしたので、この年末にザルツブルクを訪れた時、『きよしこの夜礼拝堂』へ行こうと思います♪


《1818年、オーストリア・ザルツブルク郊外の"オーベルンドルフ"という小さな村で この有名なクリスマス・キャロルは誕生しました。

ドイツ語の原詞『Stille Nacht』をヨゼフ・モールが書き、フランツ・クサーヴァー・グルーバーが作曲しました。

クリスマス・イヴの前日、オーベルンドルフの聖ニコラウス教会のオルガンがネズミによって壊されてしまいます。
クリスマスまでに修理が間に合わない為、モール神父は自作の詩に、小学校の先生であったグルーバーに急遽 曲を付けてもらいます。
曲が出来上がったのは、教会でミサが始まる僅か数時間前のことでした。

そのイヴの夜、グルーバーのギター伴奏で一夜限りに歌われたこの曲は、春になってチロルからオルガン修理にやって来たマウラッヒャーによって伝えられ、愛唱されるようになりました。

そして、この美しい曲は その後ドイツ各地へと広められ、世界中の言葉で歌われるようになったのです。》
以上、「地球の歩き方 ウィーンとオーストリア」・「Wikipedia」より



*写真↑は、『きよしこの夜礼拝堂』ではありません。
映画「サウンド・オブ・ミュージック」で、主人公マリアとトラップ大佐の結婚式のシーンに出てくる"教区教会 Pfarrkirche"のある街、「Mondsee~モントゼー」の一風景です。(o^―^o)

映画『マリア』

【ヘロデ王の圧政に苦しむナザレの町で、家族と共に慎ましい暮らしを送るマリア。
愛してもいないヨセフとの婚約話が整ったことを両親から知らされた彼女は、心を落ち着かせる為に逃げ込んだ林で、天使ガブリエルから「あなたは神の子を身籠る」と告げられる。

その頃、"救い主"誕生の預言に怯えるヘロデ王の命により、街の人口調査が始まり、救い主の可能性のある者は全て抹殺するよう命令が下る。
ヨセフと身重のマリアは、ヨセフの故郷ベツレヘムへの険しい旅へと出発する。】

* * *

~トントントン。お尋ねします、こちらの宿は、、♪~
そう歌いながら、扉を叩く仕草をします。
5歳の私は、母お手製の薄いブルーの衣装を着て、マリア様の役をやらせてもらいました。

私がお世話になったキリスト教の保育園では、毎年 年長組の子供達がクリスマス会でイエス様の生誕の劇をします。
日曜学校では讃美歌を歌っていましたし、園長先生は牧師さんでしたので、プロテスタント系の保育園だったと思います。

ベツレヘムに辿り着いたばかりのヨセフとマリアは、その晩 泊まる宿を求めて扉を叩きますが、どこの宿でも首を横に振られるばかり。
最後に尋ねた宿屋の主人が、「馬小屋で構わないなら、、。」と二人を迎えてくれました。
その薄汚れた馬小屋で、神の子イエスは誕生するのです。

その誕生を喜んで、劇の最後でヨセフ役の男の子と共に讃美歌を歌ったことも覚えています。

* * *

先日、映画『マリア』を観ました。原題は『The Nativity Story』。

この映画を手にしたのは、マリア役が「ケイシャ・キャッスル=ヒューズ」だったから。
「クジラの島の少女」で主人公に選ばれたニュージーランドの天才子役です。
1990年生まれ。
僅か15~6歳の、マオリ族の血を引く彼女が、いったいどんなマリア像を演じるのか、私はそこに興味がありました。

褐色の肌を持ち、素朴であどけなさを残したケイシャのマリアは、すでに聖母として祀り上げられたマリア様ではなく、天使ガブリエルの言葉に恐れおののく一人の少女が女性へ、そして母親へと成長していく姿をより身近に感じられるものだったと思います。

レオナルド・ダ・ヴィンチやボッティチェリなどの絵画で知られる"受胎告知"の場面でも、マリアの衣装、純潔を示す白ユリの花、天使ガブリエルとマリアの配置などの多くの決め事にもとらわれず、自然な形に仕上がっていると私は思いました。

そして、それらの表面しか知らない私が考えもしなかったマリアとヨセフの苦悩。
確かに、結婚を前にして、男性を知らないはずのマリアが子供を宿したとなると、当時としてはどれほど大きな問題であり大罪であったことでしょう。
いくらマリアの上に聖霊が降りてきたと説明しても、いったい誰が信じるというのでしょう。
その言葉をヨセフだけが信じると言うのです。

あぁ~、幼い私が演じたマリアは、その苦しみを乗り越えて、ヨセフとの深い絆を結んだ後の姿だった、、。
イエス様の誕生はもちろん、それまでの道のりこそが一つのドラマであり、尊いものだったと気付かされました。

そのヨセフを演じた「オスカー・アイザック」の黒く深い瞳が、この映画をよりキリストの生誕に相応しくしたように感じます。
まるで本物のヨセフと錯覚しそうなほど。
しかも、かなり濃ゆいけれど私好みだし~。(*^―^*)

イエス様の誕生の場面と、その後ろに流れる"きよしこの夜"も素敵でしたよ。


聖書に詳しく著されていないヨセフとマリアの物語。
そんな彼らの内面に触れたような温かな余韻が残るいい映画でした。

2代目「ジロ」

赤ちゃんクリスが我が家へやって来た時、ヨンサマは1歳、ジロは9歳でした。
ヨンが誰よりも慕っていたジロですが、どうもクリスにとっては恐い存在だったようです。^^

そのジロの若かりし頃の写真です。

『南極物語』との再会。

「ジロ~~~~~!!!!!」
自分でも思ってもみませんでした、こんなに感激するなんて。。

windyさんに案内して戴いた上野の「国立科学博物館」。

同じく上野公園内の東京都美術館では、"フェルメール展~光の天才画家とデルフトの巨匠たち(12/14迄)"を、
国立西洋美術館では、"コロー展~光と追憶の変奏曲(8/31で終了)"を催していました。
*コロー展は、神戸市立博物館〈9/13(土)~12/7(日)〉を巡回します。

絵と彫刻の展覧会の場合、私は一人でなければ鑑賞できないタイプ。
しかも海外の大人気の展覧会は、貴重な時間 長蛇の列を並んでも、じっくり作品を鑑賞できないのが常です。

windyさんが親切にも「コロー展を観に行かなくてもいいですか?」と仰ってくれましたが、今の私の気分はフェルメールでもコローでもなかったので、windyさんの念願だった国立科学博物館にある『忠犬ハチ公』の剥製を観に行きました。
これが、私に最高の感激を与えることになるのです。^^

「どうも、南極物語のジロも展示されているようですよ。」
この何気ないwindyさんの言葉に、私は大きく反応しました。

『南極物語』といえば、一昨年にディズニー映画で製作されたリメイク版が有名になりましたが、私が小学5年生の時(昭和58年)に高倉健さん・渡瀬恒彦さん主演(そして、夏目雅子さんも出演されていたんですよね。)の映画が上映されました。

この映画、私の記憶に残る最も古い、しかも何よりも印象的で忘れられない作品です。
当時、『南極のタロとジロ』という題名の本を買ってもらい、繰り返し繰り返し読んだことを覚えています。


皆さん、ご存知だとは思いますが、ほんの少しだけ解説を。
【昭和32年、南極観測隊第一次越冬隊と共にカラフト犬はソリ犬として南極に上陸した。
翌年、第二次隊と交代するはずだったが、長期の悪天候の為に引き継ぎを断念。
第一次隊もカラフト犬15頭を無人の昭和基地に置き去りにして撤収することになる。

翌昭和34年1月、第三次隊が昭和基地に到着したところ、なんと2頭だけが南極の厳しい冬を乗り越えて生きていた。
それがタロとジロである。

タロは帰国後 14歳という長寿を全うしたが、ジロは タロよりも10年も早く昭和基地で病死。
現在、タロは北海道大学植物園にて、ジロは東京・上野の国立科学博物館にて、その剥製が展示されている。】


そのジロが私のすぐ目の前に立っている!~この事実が何よりも嬉しかったのです。
その隣りで、同じように「忠犬ハチ公」との対面に大喜びのwindyさんがいらっしゃいました。^^/

私には、有名なフェルメールの絵画より、"コローのモナリザ"と呼ばれる名画よりも、ずっとずっと心に深く刻まれる出逢いだったのです。
*windyさん、本当に本当にありがとうございました! o(^-^)o

↑の写真が、そのジロの剥製。
逞しい犬というより、可愛い熊ちゃんって感じでしょ☆

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