I love Salzburg

旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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ドゥブロヴニクの大聖堂で、、、ちょっとぐちゃぐちゃな内容です。(笑)

        2012-01-14 05:03:19

ここに膝をついて、手の指はこう組んで、、、
そうそう、格好は真似ても、クリスチャンじゃない私は祈る必要はないよって、彼が言ってた、言ってた。(笑)

続いて訪れた大聖堂で、私は前日の出来事を思い出していました。

これが懺悔室(告解室?)で、これが聖水の入った洗礼盤、、、

白い大聖堂内部に明るい陽射しが射し込んで、聖ヴラホ教会の厳粛な雰囲気から一変、私の気持ちもいつのまにやら転換されていました。


最前列に座り、ヴィヴァルディ作曲の『四季』まで取り上げて、熱く語ってくれたアルゼンチンの彼。
一心に彼の目を見つめ、一つでも分かる単語から意味を引き出そうと、一生懸命だった昨日の自分を思い出しました。

それゆえ一晩中苦しめられた英語なのに、もう一度 同じ場所に立ってみると、不思議、不思議。
なんだか懐かしい、愛しい思い出へと形を変えてしまったみたいです。(笑)

この時、大聖堂内部には僅か3人の参拝者が、各々の世界に浸りながら、静かに腰を降ろしていました。

主祭壇には、ルネサンス期のイタリアの巨匠・ティツィアーノが描いた『聖母被聖天』が飾られています。

  2012-01-13 22:34:23

ルネサンス期の名画が日常の祈りの場にあるなんて、なんて贅沢なことだろう。
射し込む陽射しを浴びながら、しばらく主祭壇を見上げていました。

もしかしたら、彼がヴィヴァルディを話題に取り上げた理由の一つは、
このバロック建築の大聖堂と、同じくバロック期の音楽との関わりについて話したかったのかもしれないな。
昨日の話の流れを再び頭で辿りながら、私は大聖堂内部を見回しました。


ティツィアーノかぁ~。

その時、昔 抱いていた疑問が蘇ってきました。

そういえば 大学時代、芸術学の先生にこんな質問を投げかけたことがあったっけ。
「先生! 私はルネサンスの絵画にはバロック音楽が合うように思うのですが、絵画と音楽にどうして時代のずれがあるのでしょうか?」な~んてことを。

そして、その時は分からなかった答えを、ティツィアーノの聖母の前で自分なりに見つけることができました。

きっと、あの頃の私の中では、

バロック期を代表する大作曲家・バッハの得意とした音楽が、ひとつの主題を複数のパートが模倣しながら次々に追いかけて演奏するという様式のフーガであったことと、
それを演奏する楽器が、オルガンやチェンバロといった教会音楽に相応しかったこと、

それらがレオナルド・ダ・ヴィンチの受胎告知やラファエロの聖母子といったルネサンス期の絵画のイメージと結びついたんだろうな~って。(笑)


ですが、実際はバロック期にオペラが生まれ、人間臭い感情表現や極端な対比の効果をねらう性格が見えるのがバロック音楽の特徴であり、

均衡のとれたルネサンス期の美術よりも、
躍動感溢れ、流動的で、明暗の対比がはっきりしているバロック美術に通じるものの方が多かったわけで、

昔 感じた私の考えは、必ずしも間違いではないものの、やはり時代が求める表現というものは音楽、絵画、建築と形こそ違えども同じなんだな~と、訂正することができました。

2012-01-14 05:04:06

もちろん、各様式がその時代の全てではないけれど、

バロック建築の大聖堂の中で、他のバロック時代の彫刻に囲まれて、ルネサンス期のティツィアーノの絵画があることで、私の頭の中が勝手に(笑)整理されたのでした。


面白いな、この大聖堂。

となると、今度は彼が語ってくれたヴィヴァルディの『四季』の話がますます気になってきました。

あ~、彼の英語さえ完全に理解できていたならば・・・。



あ~、でも やっぱり 頭の中は全然 整理できていませんね~。^^;
ぐちゃぐちゃな内容でごめんなさい。

最後までお付き合い下さった方、どうか読まなかったことにして下さい。(笑)

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崇高な朝。

「写真撮ってよ~!」
前日も撮ったピレ門の写真を再び撮ろうとカメラを構えた時、旧市街から出て来た3人組みの若者達が手を振ってきました。

2012-01-13 22:37:05

元旦の観光地はどこも、大晦日の興奮とはうって変わってひっそりと、そして澄んだ空気に包まれています。
そして、たま~に 夜通し遊んだ若者達が、二人、三人、ふざけながら歩いているのに出くわします。

そんな時、私は大抵 彼らを避けようとするのですが、ここでは逆に私も大きく手を振り返しました。

「ひゃっほ~」と叫びながらも、可愛い人達。
クロアチアの若者って、観光客相手にも気軽に明るい声を掛けてくれるので、それが私の中のドゥブロヴニク評価を高めてくれます。(笑)

*

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ルジャ広場では、前夜の後片づけに大きな清掃車が大活躍をしておりました。

ふと視線を上げると、広場に面して建つ聖ヴラホ教会から明りが洩れています。

聖ヴラホとは、この街の守護聖人として祀られている実在した司教なのだとか。
316年に殉教した聖ヴラホは、かつてヴェネツィア共和国がこの街を奇襲した際、それをいち早く市民に伝え、街を救った人物だということで、昔から敬われているそうです。

ピレ門にも、街の模型を手にする聖ヴラホの像が中央に立ち、今も街を守ってくれています。


確か、昨日はかたく扉が閉ざされていたはず。。。

私は吸い込まれるように教会の扉を押していました。

この時、日曜日の礼拝が執り行われておりました。
正面には荘厳な大理石の祭壇があり、教会内には重いけれど静かな空間が漂っていました。

司教さまが何か読みあげており、信徒の方々は頭を下げ、祈りを捧げていました。

私は最後尾に立ち、彼らの深い祈りを感じながら、祭壇に立つ聖ブラホの像を見つめました。


その祈りに、

・・・ 遠い遠い昔から、こうやって人々は祈り続けてきたのだと、

・・・ 家族を愛し、友を愛し、この街を愛してきた人々の祈りが複雑な時代さえも支えてきたのだと、

そんな昔から続く人々の姿が目に浮かんできて、自分でもわけが分からず涙が溢れそうになりました。

海外を一人 旅すると、こんな風に感情の起伏が激しくなるってこと、私はよくあるのです。


ダメだ。
これ以上この場所にいたら、何故だか判らないけれど涙が止まらなくなる。

それくらい、その場の空気が崇高だったのでした。

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私はこぼれそうになった涙を拭い、慌てて教会から飛び出しました。


* * * * * * *


昨日は、母と姉とともに有馬温泉へ出掛けてきました。

昨年 訪ねた老舗旅館『御所坊』さんが大変気に入って、冬場は毎月 有馬の湯に浸かることにしたのです。(笑)

鳴門と明石の二つの橋を渡り、淡路島の緑に触れ、片道2時間半という道中もドライブに最適です。

この冬は、12月と1月に次いで三度目でした。


その有馬温泉で、
御所坊さんで昼食を戴き、温泉でゆっくり身体を温めた後、必ず立ち寄るお馴染みの喫茶店ができました。

それはお土産物屋さんの2Fにあり、マスターの凝った趣味が活かされた、どこかオーストリアチック(?)な私好みの落ち着いた雰囲気。

マスターが気さくな方なら、そこで働くお姉さんも物腰の柔らかい素敵な方です。

向こうも私達を覚えてくださって、いつもお喋りをして長居してしまいます。
昨日は1時間半もの間、5人で話しに花が咲きました。


先月、そのお姉さんにクロアチアのチョコレートをお土産にと少しだけ持っていきました。
確か、彼女はチョコが好きだと言っていたから。

すると、それをとても喜んでくれた彼女は、昨日 私達が有馬に来るであろうと予測して、お手製のチーズケーキを用意して待っていてくださいました!
近くの旅館の女将さんに、ケーキ作りなどを教わっているからと言って。

濃厚で滑らかなチーズケーキ、大変美味しく戴きました。

冬場だけ~と思っていた有馬行き、、、春になっても行こうかな。(笑)

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アドリア海で生まれて初めて初日の出を拝む!

元日の朝、ぐったりとベッドから起き上がりました。(笑)

そうだった、夜中の零時に遠くで花火が打ち上げられてたな~。
俯いて、目を擦りながら、昨晩 聞いた花火の音を思い出していました。

きっと旧市街のルジャ広場では、多くの人達で大騒ぎだったことでしょう。

旧市街から少し距離のあるホテルにも、その音が聞こえていたのでした。

ホテルの近くでも小さな花火が打ち上げられ、窓から眺めたことを思い出しました。

早く寝ようと思ったのに眠りが浅くて花火の音に起きてしまい、それからも熟睡できなくて、何度も何度も打った寝返りで、疲れが全く取れていません。

花火の音とアルゼンチンの彼の英語が入り混じって、頭の先まで神経が尖っているようでした。

はぁ~、、、。頭を掻きながら、大きな溜め息。
ボロボロな顔にとりあえず薄くファンデーションを塗り、腫れあがった顔でレストランへ向かいました。

*

あ、まぶしいっ!
殆ど眠れていない私の目に、もうすぐ昇ってくるであろう太陽の僅かな光が突き刺さってきました。


「あけまして、おめでとうございます!^^」

その時、その眩しい先に立つ一人の日本人男性が、丁寧に頭を下げて挨拶をしてくれたのでした。

そうだった、今日は元日だったんだ! お正月なんだ!って、この時 やっと頭が働き出した私。(笑)
慌てて、「あけましておめでとうございます。」と背筋が伸びた気がします。


窓辺の席に座り、アドリア海に目をやると、今にも太陽が顔を出してきそうな様子です!

私はベランダへ出てみることにしました。
元日の朝なのに全然寒くはなくて、程良く冷たい空気です。

「もうすぐですよ。^^」
先ほどの男性も、同じくベランダから初日の出を待っていました。


「昨日はカウントダウンへ行かれましたか?」
「いえ、疲れていて、ホテルで寝てました。」と私。

「行かれたんです?」
「ええ、ツアーの皆さんの何人かで、夜に出掛けたんですよ。」
彼は一人でツアーに参加をし、昨晩 ドゥブロヴニク入りしたと話してくれました。

「爆竹、、、怖くなかったですか?」
というのも、欧州でのカウントダウンではいつも、街中に爆竹や悪ふざけの若者たちの叫び声が響いてきて、こんな私でも怖いな~って思ったことが何度かあったのです。

しかもドゥブロヴニクの旧市街は、どこかフィレンツェの街の造りと似ているので、絶対に怖いと思ったのでした。
6年前に体験したフィレンツェのカウントダウンは、狭い広場や路地裏での爆竹の音が建物に反響して大きく鳴り響き、辺りは煙が立ち込めて、それはまるで戦場のような有り様だったから。
その時は一人ではなく、レストランで知り合った日本人のご夫婦と一緒だったにも関わらず、あまりの危険に早々にホテルへ戻ったのを覚えています。

「いえ、それほどでもなかったですよ。」
「でも、ワインをかけあったりするんでしょう?」
「いえいえ、結構 お行儀良く新年を迎えましたよ。(笑)」

なんだ~、それなら どうせ眠れなかったんだもの、カウントダウンをルジャ広場で迎えれば良かったな。


「あ、もうすぐ昇りますよ!」 彼はカメラを構えました。

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「今年はアドリア海で初日の出ですね。^^」

それにしても、穏やかなアドリア海です。

「まぁ~、写真に撮ったら伊勢志摩の風景と、そう変わらないっちゃ変わらないんだけどね~。(笑)」
日の出に合わせてやって来た、彼と同じツアーのおじさんの台詞です。
「あ~、それを言っちゃぁ~。(爆)」


帰国後の彼からのメールにもありましたが、
何分昨年は暗い話題が多かった年、新年を明るい気持ちで臨もうと初日の出を楽しみにしていたのは私も同じです。

初日の出なんて何年ぶりだろう。
いや、生まれて初めてかもしれないな~って、嬉しい気持ちがアドリア海をますます輝かせるようで、最高な気分です♪

先ほどまでの疲労感はどこへ行ったのやら。(笑)

幸せな心地で朝食を取り、張り切って街へと飛び出しました。




さぁ! 新たな2012年!

今年は絶対いい年になるっ!!!!!(*^ー^*)


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アドリア海に沈む夕陽。

  2012-01-14 04:45:02

もうひとつ、
ドゥブロヴニクの絶景を堪能するために、スルジ山からの景色に名残惜しさを感じながら、私は山を降りました。

この日、大晦日ということを忘れそうなくらい温暖で、ずっと外にいても辛くありません。

私は旧市街には戻らず、その足でバニェビーチを目指しました。


バニェビーチは旧市街の東側にあり、ここもドゥブロヴニクを紹介するガイドブックによく登場する場所です。

とはいっても、そのビーチがどこにあるかは手持ちの本には載っておらず、写真から推測される方角を頼りに、海沿いの道を歩きます。

たぶん、そう遠くはあるまい、、、。
そこは、旧市街を遠望するも良し、そして旧市街から徒歩ですぐというのも魅力的です。


バニェビーチは、夏場ともなれば絶景の海水浴場として大人気の場所。

きっとシーズン中であったなら、一人の私は足を踏み入れることに躊躇したでしょう。
だって、あまりの人の多さに興ざめするって、それはまるで芋の子を洗うようだと口コミに書いてあったから。


ですが、今は冬。 
しかも大晦日の今日は、殆ど人影がありません。

夕暮れ時のビーチからの景色は、写真で見たような碧いアドリア海があるわけでなく、青い空があるでなく、

誰もいない砂浜だけが、寂しそうに続いていました。


私は石段を下り、大きな岩に腰を降ろしました。

少し控えめに、ざぶ~ん、ざぶ~んと波が打ち寄せてきます。

一年分の疲れと、一年間溜めてきたマイナスの感情を優しくさらってくれるように、


ざぶ~ん、ざぶ~ん。。。


海は清きも濁りも受け入れて、まるで新たな年を迎える準備をしているかのようです。

私は彼方を眺めながら、今年最後の夕陽が沈むのを待ち続けました。
それは、アドリア海の彼方ではなく、自分の中にある過去と未来の彼方を見つめながら・・・。
な~んてセンチメンタルに浸れるのも、一人である自由さゆえ。(笑)

そこで1時間近く頬杖をついていたでしょうか。
気が付けば、太陽は今年最後の輝きを放ちながら、旧市街の向こうへと急ぎ足で沈もうとしていました。

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しばし黄昏に身を置いて、あてどなく砂浜を歩いた後、いつになく疲れを感じてきました。

私はもと来た道を戻ることにしました。

この疲れはきっと、怒濤のごとく押し寄せてきた彼の英語のせいでしょう。(苦笑)
まだ日が暮れて間もないのに、これ以上 街を歩くことは無理だと判断。


帰りにスーパーに立ち寄り、軽めの食事と、お土産用にとクラシュのヌガーチョコレートを購入しました。

「今、ちょうど特売をやっててね、300gを200gの値段で売ってるのよ。」とレジのおばさん。
私が手にしていた200gのチョコレートを、わざわざ300gに変えてきてくれたのでした。

「いい年を迎えなさいね。^^」

あ~、この街の人は本当に気さくで親切な人ばかり。

子供からおじいちゃん、おばあちゃんまで、みんなみんな素敵な人達。
ユーモアもあって、とても楽しい人達。

私はクロアチアのことは何にも知らないけれど、クロアチアの人達が素晴らしいってことだけは大声で言えます!^^

おかげで、ほんの少し疲れを忘れ、ホテルへ戻る前にもう一度旧市街を歩くことにしました。

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旧市街の中心を伸びるプラツァ通りは、積年の往来による摩擦で、ただでさえピカピカに磨かれているのに、

夜は明りを反射して、ますます眩しく輝いて見えます。

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ふぅ~、でもやっぱり疲れた・・・。  やっぱり英語ずくめは苦しいわ・・・。^^;

油断すると、今も彼の話し声が耳元で聞こえてくるかのよう。


その感覚はホテルに戻ってからも続き、

夢の中でさえも続き、、、


2011年から2012年へと年を越えてなお、

ぐるぐる、ぐるぐる~(◎◎)

あぁ、延々と私を苦しめ続けることになろうとは・・・。(苦笑)

お別れ?!

2012-01-14 04:50:54

その後、メインストリートから一つ奥まった通りを二人歩きました。

珍しく、彼は言葉数少なく、何かを考えている様子です。

再びドミニコ会修道院の近くまで来た時、彼が口を開きました。

「君は山に登りたいんだよね。」

うんうん。 私は黙って頷きます。

「じゃぁ、ここで一度 お別れしよう。  ・・・・・・・。」

ここでお別れ? 
その後も彼は何かを言っていましたが、そんな言葉など、この時の私の耳には入ってきません。

これで私はスルジ山へ行けるんだ!!!

幸いにも、私はまだ彼に情は移っておらず(笑)、スルジ山へ行ける喜びを隠しきれず、笑顔で彼を見上げました。

「僕は大聖堂で・・・・。」
もう彼の話など、全くもって聞いておりません。^^ゞ

「いいね、分かったね。じゃあね。」
そう言って、彼は人混みの向こうへと消えていきました。

あ~~~、私、やっと解放されたんだ~!
良い人だったけど、違う面白さもあったけど、ちょっとお別れがあっけない気もするけれど、
そんなことは、ま、いっか!

とにかく、私はこれからスルジ山へ向かうんだいっ!(笑)

*

私は地図を片手に、ブジャ門を目指しました。
城壁で囲まれた旧市街は、外部からの入口が3つあり、ブジャ門は街の北側、少し石段を登っていかなければなりません。

ロープウェイ乗り場は、その門からもう少し北へ登ったところにあります。


少し息切れしつつも小走りで駆け上がり、ロープウェイ乗り場まで辿り着きました。

旧市街を見下ろす絶好のビューポイントのスルジ山ではありますが、
ここにロープウェイが復活したのは、つい一年半ほど前のことです。

そう、復活ということは、もともとそこにあったということ。
それが、クロアチア独立戦争の際に旧ユーゴ連合軍によって爆破されてしまったのでした。
(><)

しかも この禿げた山、つい3~4年前までは戦争中に埋められた地雷を撤去しきれていない状態でした。
地雷は何も、カンボジアやアフガニスタンなどといった発展途上の国だけの話ではないのです。
そう、ここ欧州でも。。。

こんな風に、簡単にロープウェイで山頂だなんて、この街に再び平和が戻ってきた証拠。
そして、その美しい景色を優雅に眺められるのは、平和な今だからこそできる贅沢ですよね。

彼も来れば良かったのに…。

     2012-01-14 04:48:13

山頂には、ナポレオンが贈ったと言われる巨大十字架が聳えています。
それも紛争時に一度破壊されたのですが、今は復元されています。

ここは1667年の大地震の後、その被害から回復できず、1808年にナポレオン率いるフランス帝国に攻め入られた街でした。
それなのに、今なおこの十字架を大切にするのは何故かしら?

物知りな彼なら、その理由も分かるかも・・・。


2012-01-14 04:48:43

あ~、気持ちいい~☆(*^ー^*)

2012-01-14 04:44:08

2012-01-14 04:46:44

2012-01-14 04:45:44

ホント、彼も来れば良かったのに…。
この景色の中のどこかにいるはずの彼に、そう呟きました。

2012-01-14 04:53:04

ありがとうね。 どうもありがとう。 

旧市街を見下ろしながら、私は彼に話かけました。



その頃、彼は、、、。

待てども待てども姿を現さない私を、

「大聖堂で待ち合わせ」という、私に伝わっていなかった約束を守って、

延々と大聖堂で待ち続けておりました。

さて、ここで問題です。

あの日、彼が大聖堂で私をずっと待っていたこと、彼から解放された私が どうして知っているのでしょうか?(笑)

カウントダウンまで10時間!

       2012-01-14 05:05:21

お昼を過ぎた頃から、街全体に気分の高揚が広がってきました。

旧市街の中心・ルジャ広場には、カウントダウンに備えてステージが設置され、すでに人の輪ができあがっています。


「もう閉めるところだよ。」
私達がセルビア正教会の前に着いた時、鍵を持ったおじさんがそう言いました。

「ちょっとだけ。すぐ出るからさ、お願いだ!」彼はよほどこの教会が見たかったのでしょう。

ドゥブロヴニク旧市街には、前述の大聖堂やフランシスコ会修道院、ドミニコ会修道院に、街の守護聖人を祀った聖ヴラホ教会といった、見応えのある教会が目白押しです。

それでも彼がここにこだわったのは、たぶん私と好みが似ているから。(笑)

今 挙げた教会らは、全てカトリックのものでありますが、
対するセルビア正教会は、その名の通り、この街に住むセルビア人のための教会です。
カトリックを信仰するクロアチア人の中にあって、正教を信じる数少ないセルビア人の為に毎週日曜日にミサが行われているのだとか。

今ではそうやって街に溶け込んでいるセルビア正教会ではありますが、
ラグーサ共和国時代はカトリック以外の教会は禁じられており、正教会の建物がこの地に設けられたのは、19世紀後半になってからのことだそうです。


正教会については、ロシアへ旅した時に少し勉強(?)したので、
このセルビア正教会もロシア正教会も、正教会を代表するギリシャ正教会も、どれも同じ教義を信棒していることは知っていました。

そして、ロシアで見た聖堂内と同じで、
原則として偶像崇拝に陥る危険性のある彫像は置かれておらず、代わって聖像であるイコンが飾られていることも想像できます。


彼は内部に足を踏み入れるや言葉を失い、イコンに囲まれた教会内部に釘づけになりました。

私も久しぶりに見るイコンの迫力に押され、口をぽかんと開けて数々の画を見上げていました。

「見たね!見たよね!しっかり見たね!」
まだぽかんとしている私に念を押し、「ありがとう、ここに入れて良かったよ。」と彼はおじさんに言いました。

え~、もう出るの?(><)
彼は自分の世界に入るのも早ければ、現実に戻るのも早いようです。
「じゃ、出よう。」って、入って2~3分後に、私達はセルビア正教会を後にしました。(笑)


「次はこっちだ!」
狭い路地裏を縫うように、次は旧市街の北側へと移動です。

市街地図が全て頭に入っているかのように、ずんずんと進んで行く彼。
そして、「あ~、休みか~。」ある建物の前で残念そうにつぶやきました。

見れば、そこにはダビデの印が。どうやら そこはユダヤ博物館のようでした。
やっぱり彼は私と興味が似てるかも。

そこで、私は言ってみました。「ねぇ、独立戦争博物館へ行かない?」
それは、1991年にクロアチアがユーゴスラビアから独立した際の記録が残された場所。
きっと彼も興味があるに違いない、、、そう私は思ったのでした。

そして、実は その独立戦争博物館はスルジ山山頂にあるのでした。( ̄m  ̄+)
そうです。この時も、スルジ山へ登ることを、私はまだ諦めてはいなかったのです。(笑)

しかし、、、
「え~、独立博物館は山の上にあるじゃないか!」って、即・却下っ!(><)

ちっ、ひっかからなかったか、、、。(T_T)

*

「ちょっと珈琲でも飲んで休もうよ。」 またも彼は人混みの中を押し分けて歩き出しました。

仕方がないので、彼が珈琲を運んでくる間、私はしばし路地裏を観察することにしました。


大晦日の午後、観光客の少ない路地裏では、様々な鬘やコスチュームに身を包んだ地元の人達で大賑わいです。

そして、建物の中では、若者たちが激しく踊り狂っていました。

2012-01-14 04:51:31

「写真、撮って~!」
カメラを構えると、そう言って明るく手を振ってくれるのは、クロアチア美人達。^^
「私も~!私も~!」って、一人異邦人丸出しの私に対し、眩しい笑顔を振り撒いてくれます。

ホント、綺麗な子が多いな~。(*^^*)
「クロアチアって美人が多い国なんだよね。」って、この旅行の前に、職場の同僚の男性から羨ましがられたことを思い出しました。
これは、ちゃんと報告してあげなくちゃ!と、写真を一枚。(笑)

         2012-01-14 04:54:15


「すごい熱気だね。」
振り返ると、エスプレッソとカプチーノを手に、彼が立っていました。

「こういうのって楽しいよね。 日常じゃないけど、でもその街らしさが見られるし。^^」

ただでさえ狭い路地なのに、前へ進めないほど人、人、人で埋め尽くされています。

そして、カウントダウンに向け、街はますます盛り上がりを見せていくのです。

ドゥブロヴニクと自由。

「ねぇ、気のせいかもしれないけど、この街って どこかフィレンツェに似てな~い?」


それはオレンジ色の屋根瓦で統一された街だからというのではなく、広場や通りに立った時、何となく似ているものを感じるというか、、、。

二つの街を写真で見比べると全然違うのだけど、ふと錯覚を起こすというか、、、。

といっても、私が旅した数少ない街の中での話だけれど。(笑)


彼は視線を少し上げ、頷きました。
「そうだね、どことなく似てるところがあるかもね。」

ふふふ、物知りな彼もそう思うのなら、まんざら私の感覚も間違ってはおるまい。(*^m^*)


もちろん、イタリアとクロアチアはアドリア海を挟んで対岸にあるわけだし、

一時期、ドゥブロヴニクはヴェネツィア共和国の支配下の時代もあって、
それからの独立後も、お互い影響をし合っていた中世の都市国家の面影をどこかに残していてもおかしくはありません。


それに、大聖堂やドミニコ会修道院に残されている祭壇画は、イタリアのルネサンス期の巨匠・ティッチアーノによって描かれたものであるし、

海上貿易で栄えたドゥブロヴニクに欠かせない要塞の一部は、15世紀にフィレンツェの建築家・ミケロッツィによって設計されたものですから、

ルネサンス期を色濃く残すフィレンツェと似た何かを持っていても不思議じゃないでしょう?



そんなドゥブロヴニクは、かつてラグーサ共和国と呼ばれていました。

そして、現在はプラツァ通りと呼ばれ、旧市街のメインストリートとなっている場所は、10世紀頃までは海峡であったそうです。

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南側には小島があり、そちらにイタリア系の住民が、海を挟んで北側本土にはスラブ系の住民が住んでいたのだとか。

共に繁栄をしていた両者の関係が良好になると、それらを隔てる海峡を埋め立て、二つの民族はますます一体化していったそうです。

だから、この街は、スラヴの要素とルネサンス期のイタリア文化が影響し合ったという歴史を確かに持っていました。

ただ、この街は1667年の大地震で壊滅的な被害を受けており、当時のゴシック、ルネサンス様式の建物の殆どが、その後 バロック様式に姿を変え、再建されました。

その地震から倒壊を免れた数少ない建物で、旧市街の中心に位置するスポンザ宮殿は震災以前の様式を残しており、

その周辺がとりわけフィレンツェの雰囲気と重なるように私は感じます。

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まぁ、それも旧市街の中を歩いている時に感じる話であって、

城壁などからアドリア海とともに眺めるドゥブロヴニクには、フィレンツェとは全く異なる表情もありますが。

*

こうやって この街の歴史を見ていくと、

同じ民族から別れた者たちが争ったり、逆に異なる民族が同じドゥブロヴニク人として力を合わせたり、、、

本当に複雑な場所なんだな~と、つくづく感じます。


もともとドゥブロヴニクは地理的立場の為に、昔から多民族・多宗教のるつぼであったはずです。

それでも上手く共存できたのは、ある共通のモットーがあったから。

「いかなる黄金に換えても自由は譲れず。」

これが、中世以降、あらゆる外交交渉を重ねて戦争を避けてきた、ドゥブロヴニク人を象徴する言葉です。
彼らは様々な国の支配下に置かれても、宗主国に貢納金を支払うことで自治を確保してきました。

彼らにとって、この街の自治、そして自由は、何ものにも代えがたいものだったから。

自由・・・

それでも思うのです。

彼らを一つにまとめていたのも自由であれば、後に彼らを苦しめる歴史を生んだのも元は自由のためではなかったかと…。


あの紛争の火種となった多民族・多宗教という現実を前に、自由という言葉を噛みしめながら、再びこの街を見つめ直してみたいな~と思います。



思っていることが全然纏まらず、上手く表現できなくてごめんなさい。。。

スルジ山へ登りたい私と、登りたくない彼。

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そうそう、この日の前日、成田空港のチェックインカウンターのお姉さんとこんな会話をしていました。

「今日中にドゥブロヴニクへ入っちゃうんですか?」
無謀な計画に、少し驚いた様子を隠しきれないといった表情で彼女は声を掛けてきました。
「そう、入っちゃうんですよ。(笑) やっぱりキツイですよね~。」と苦笑いの私。

「私も去年、ドゥブロヴニクへ行ったんですよ~。すごく綺麗なところです。羨ましいな~。^^」
「これまで行った街の中で一番のおススメはどちらですか?」ちょっとだけ尋ねてみました。

「バルセロナかな。あの街、大好きなんです!」と彼女。
「じゃぁ~、ドゥブロヴニクは何番目です~?」
「う~ん」と少し悩みながら、ちょっぴり意味深な目をして、彼女は腰の辺りで指を二本立てらせました。

「ロープウェイがある街ですよね? あそこからの景色が本当に美しかったです!」
「そうそう、私もあの山には是非とも登りたいと思ってるんですよ!」
そう言って、二人で頬笑み合いました。^^


* * * * * * *

「ねぇ、スルジ山からの景色が綺麗だって話だよ。」
歴史的建造物もいいけれど、綺麗な景色をもっと見たい私は彼に言いました。

その言葉は彼の耳には届かなかったのか、
「そろそろお昼にしようっか。何が食べたい?」と彼。

「そうねぇ…。」
朝食をしっかり食べていた私は、その時 さほどお腹がすいていませんでした。

「じゃ、簡単なものにする? 近くに美味しいと評判のピザ屋さんがあるんだけど。」
彼のガイドブックを覗くと、すでに赤丸で印が付けられておりました。


この街の旧市街は、メインストリートのプラツァ通りから外れると狭い路地がいっぱい。
それでも、ちょっとした広場では市場が開かれていたり、路地には処狭しとオープンカフェが並んでいます。

2012-01-14 05:00:09

2012-01-14 04:57:49

そして、プラツァ通りとは垂直な南北の通りは勾配のキツい階段が続いていて、高いところに洗濯物を連ねて干してあったりと、生活臭漂う空間を覗かせています。

2012-01-14 04:58:25


沢山の背中をかきわけながら、私は彼を見失わないように付いていきました。

「ここは僕がご馳走するよ。君はここで座って待ってて。^^」
店内は観光客よりも地元の若者であふれるほど混み合っていて、すでに長い列ができています。
フランシスコ会修道院でのお返しはすでに終わっていたので、ここで再びおごってもらうのもどうかな~と思ったのですが、この際 彼にしっかり甘えることにしました。

「飲み物は何がいい? え?コーク? 普通の?それともダイエットコーク?」
「ここはシーフードが美味しいから、それがたっぷり入ったピザにするよ。」

常に彼が先に考え行動してくれるので、私は待つだけ。 すごく楽です。(笑)

聞けば、彼は前日の夜から何も食べていないとのこと。
それじゃ~、いっぱい食べなさいね。^^
大きなピザを頬張る彼を写真に撮ってみました。 少し恥ずかしそうですが。(笑)
2012-01-14 04:58:55


「ねぇ、ねぇ、スルジ山からの景色が綺麗なんだって。」
私は再び、スルジ山へ行きたい気持ちを伝えました。

「まだまだ旧市街で見てないものが沢山あるじゃないか。 それに、山を登るのはしんどいよ。」
「え~、ロープウェイで登るんだよ~。」
「でも、さっき城壁を歩いて疲れたよ。」

う"~ん。。。

じゃ~、この先は別々に行動しましょうよ、、、と言おうと思った時には、すでに話題は変わっていました。

どうしよう。スルジ山からの景色は絶対に見たいし、、、。
明日、登ろうかな~。でも、明日 晴れるという保証はないし、、、。
頭の中ではぐるぐる迷っておりました。

って、いつまで私は彼と一緒にいるの?
ここで、私は根本的な疑問に気付きます。(笑)

意を決して顔を上げた時、
「さぁ、次はセルビア正教会へ行くよ。 そこでは貴重なイコン画が見れるんだ。」


あ"~、私はスルジ山へ行きたいのにぃ~!!!(><)

なのに、以前 ロシアで見たイコン画の独特な迫力と怪しい空間を思い出し、それにつられて彼の背中についていくpicchukoなのでありました。  トホッ。。。

バロック? ゴシック? ロマネスク?

2012-01-14 05:02:45

欧州を旅するのなら、少しはその建築様式を勉強しなくては~と思ったのは、やはりアルゼンチンの彼の影響からかしら。


城壁を降りた後、スポンサ宮殿に大聖堂、旧総督府を共に観光し続けた私達ですが、その間も彼による(私にとって)ハイレベルな説明は続きました。

ちなみに、スポンサ宮殿は、かつて税関として貿易の中枢を担っていた機関であり、
旧総督府はその名の通り、歴代の総督が住んだ邸宅であり、かつ行政の中心的機関。


「ほら、あれがロマネスク様式ならではのアーチ状の柱で・・・。」って指さしながら、
次から次へと繰り返される説明の中で、私は時々 彼の顔をじっと見つめながら、この人は建築家か何かなのかしらん?と素朴な疑問を抱いていました。

「例えば、ヴェルサイユ宮殿はバロック建築の代表作だけどさ~、
君の好きなザルツブルクの大聖堂も、ここドゥブロヴニクの大聖堂も同じバロック様式なんだよね。」

IMG_0820.jpg

「~だよね!」って言われても、オスカルやモーツァルトじゃあるまいし、、、。(><)
まさかここまで来て、ヴェルサイユやザルツブルク大聖堂が登場するなんて☆

各建築様式の特徴を理解していれば簡単な内容なのかもしれませんが、数々の世界遺産などを前に、~様式だなんてこだわって見たことのなかった私にはちんぷんかんぷん。
バロックとゴシックだけでも頭の中でこんがらがってしまいました。(><)

ましてドゥブロヴニクの建築物は、度重なる大地震や火災で何度も修復が加えられているので、ゴシック+ルネサンス様式、ロマネスク+ゴシック+ルネサンス様式なんて各様式が混ざっていて、ますます頭を混乱させます。


そこで、せめてバロック、ゴシック、ロマネスクくらいは理解したいと思うようになりました。

2012-01-13 22:34:53

そこで役立ってくれるものが、これまた何かの縁かしら、、、なんとユーロ紙幣であります。
そっか! アルゼンチンの彼が欧州の建築様式に強いのは、ユーロの本拠地(?)で働いているからなのねって気付いたのは帰国してから後でありますが。(笑)

ご存知、ユーロ紙幣には、古代ギリシャから20世紀までの欧州を代表する建築物が、裏面にはそれぞれの建築様式を表した橋梁が描かれております。

残念ながら、私の手元には、古典古代を表現した5ユーロ紙幣から、ロマネスク(10ユーロ)、ゴシック(20ユーロ)、ルネサンス(50ユーロ)までの4種類しかありませんが、

100ユーロにはバロックとロココ様式、200ユーロにはアール・ヌーボー様式が、そして超高額の500ユーロには近代的な建物が記されているようです。

*

では、今回の旅で出会った建築様式の特徴を少しだけ。


<ロマネスク建築>  11世紀初め~13世紀頃

・戦乱の中世ヨーロッパで生まれた、修道院や教会のための様式で、巡礼路沿いに発展。
・ローマ時代の建築に多く使われた、半円アーチを開口部の構造に使うことが特徴。
・分厚い石壁の強度で木製の天井を支える仕組みだったため、窓は小さい。
・建築内部の壁面の面積が大きく、そこに数多くの絵がフレスコ画によって描かれた。
・独特の柱頭を持つ。


<ゴシック様式>  12世紀後半~15世紀  

・ 農村から都会へ流入した大量の人々の安息の場としての聖堂は、「建築化された“巨大な聖書”」として、文字を読めない市民に対しても図解的に教義を説くことができる建築物。
・尖塔アーチ。
・壁は薄く、ステンドグラスをはめた大きな窓。


<ルネサンス様式>  15世紀~16世紀

・この頃の建築の主流は、教会や修道院のような「神様のためのもの」から「世俗の民のためのもの」へと変化。
・外壁の石積みは1階が荒々しくごつごつとした石で、上の階に行くにしたがって表面が滑らかな仕上げとなる。
・2階と3階の窓が、半円アーチの複合形。
・最上部の分厚いコーニス(建物の頂部に来る水平な装飾的な縁)。
・均整のとれた静的・理知的な構成の美しさが特徴。


<バロック様式>  16世紀末~17世紀初頭

・法王や皇帝が権力を回復したこの時代、「国や皇帝、教会といった絶対的権力に相応しい様式」が模索される。
・ルネサンス建築の香りを残しつつも、際立った対照をなす。
・華麗で過剰なほどの装飾。
・彫像などを豊富に設置。
・捻(ねじ)り柱。
・躍動的で凹凸が深い。


こうやって建築様式を調べていくと、当たり前ですが、時代の流れや世相がよく現れているのが分かります。
どうしてその様式が生まれたのかを考えると、自ずと歴史が見えてくるのですね!
時代が求めるものが形になっている! 面白い☆

こういう学び方もあるのかと、これまでと違った歴史との接触ができるような気がします。

実際には、ドゥブロヴニクに限らず、色々な様式が混在している建築物が殆どなので、特徴を熟知している彼のようには簡単に見分けはつきませんが、これからは少しづつでも時代背景を感じながら建築様式を見ていこう。


延々と続いたお喋りに、時々くら~っとなりつつも、熱く語ってくれた彼に深く感謝です。(笑)

城壁にて。

       IMG_0814.jpg

城壁を一周し終える頃には、私もアルゼンチンの彼も、結構好き勝手なことを言い合うようになっていました。

私が真顔で冗談を言うと、彼は私の首を絞める仕草をしたり。
お店でポストカードを手にする私に、「君はあれだけ写真を撮ったんだから、これは必要ないよね」って、没収したり。

ちょっと~、あなたのせいで、私が写真を撮るのを遠慮してるのが分からないの!
って、文句でも言おうかと思いましたが、

あまりに嬉しそうに笑う彼が、アドリア海に反射する太陽の光に照らされて、その眩しさに、ま、いっかと思ったり。

これも一人旅では味わえない楽しさなんだろうな~と、大人な(?)私で対応することに致しました。(爆)

2012-01-14 05:08:30

そんな大人な私でも(笑)、どうしてもレディーファーストには慣れなくて、

建物に入る時、階段を登る時、何かにつけて彼とお見合いしてしまいます。

「お先にどうぞ。」
どうしても殿方に先を譲ってしまう。。。

後ろから守られてるって感覚より、前に立って守って欲しいタイプなのかしら、私って?

彼は彼で女性より先に行くことに抵抗があったようですが、次第に私への対応も慣れて来て、
「じゃぁ、僕が先に行くね。」って、何も言わなくても前を行くようになりました。

やっぱり大きな背中の後ろから付いていく方がいいな、私。
もちろん、この背中がアルゼンチンの彼ではなくウルスだったら~、このアドリア海の輝きはいっそう眩しく映るのでしょうにね~。(*^m^*)
って、これ以上 眩しければ、目を開けられないほどの煌めきを前にそう思いました。(笑)

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「君、ヒロシマへいったことある?」
何を思ったのか、急に彼は振り返り、そんな質問を私に投げかけてきました。

「ヒロシマ?」
「うん、ちょうど昨日かな~、テレビで原爆投下について、アメリカ側からの視点で番組をやってたんだ。」

あ~、それで、、、。
「あのね、私、大学時代にヒロシマにいたのよ。」

「え?ホント? で、大学では何を専攻していたの?」

この時はまだ、私は彼が欧州中央銀行で働いていることを知りませんでした。
「経済を。。。」

「へぇ~、君ってヒロシマで経済を勉強したんだ!」
彼の目が一瞬輝いたことを見逃さなかった私は、咄嗟にヤバイ!と思いました。

「ねぇ、ねぇ、ヒロシマではどんなことを学んだの?」

すでに話題は原爆投下のことではなく、彼の関心は、そのヒロシマでどんな経済学を私が学んだのか、、、それに集中してしまいました。(T_T)

「いやぁ~、あのぉ~。^^;」
私は冷や汗を掻きつつ、しどろもどろに…。

「いやぁ~、もう随分と昔の話だし~~~。(汗)」

「ねぇ、ちょっとくらい思い出して話してよ。^^」

あ~、こんなことなら彼の後ろを歩くのではなく、さっさと前を歩いて逃げれば良かった~。
(><)


2012-01-14 05:14:56

何でもない会話なのですが、強く印象に残っている時間です。(苦笑)

きっかけはスタジアムから?

        IMG_0811.jpg


それは、1990年5月13日のことでした。

クロアチアの首都ザグレブにおいて、ディナモ・ザグレブ(ザグレブを本拠地とするサッカーチーム)とセルビアのレッドスター・ベオグラードが対戦しました。
どちらも、当時のユーゴスラビアリーグ上位を争う、代表的なチームです。

この試合で、互いのサポーター間に小競り合いが起こり、
それがザグレブのサポーターとセルビア人権力の象徴であるユーゴスラビア警察との衝突へと発展したのです。

これが、クロアチアとセルビアの最初の衝突となり、後に、クロアチアの独立は「スタジアムからの建国」と呼ばれるようになったそうです。

*

クロアチア人もセルビア人も、
もともとのルーツは、6世紀後半に東ローマ帝国がモンゴル系民族の襲来に備えて招き入れた、黒海周辺を発祥の地とする南スラヴ人です。

ちなみに、ユーゴスラビアとは「南スラヴ人の国」という意味。

ただ、バルカン半島の東寄りに定住したセルビア人は正教会を信仰したのに対し、西寄りに住みついたクロアチア人は主にローマ・カトリックを信仰したことにより、血統や言語は同じでも、後に別の民族として区別されるようになったとのこと。


それぞれに個別の文化を築き、いくつかの王国を興した南スラヴの人達。
やがて、セルビア人とモンテネグロ人はオスマン帝国に支配され、片やクロアチア人はハプスブルク帝国の統治下に入りました。

異なる宗主国の下、個別の民族意識を培った南スラヴ人ではありますが、同時にそれぞれの宗主国への反発心から「南スラヴ人の独立」という共通意識を持つようになります。

それが、第一次世界大戦後のハプスブルク帝国の敗北崩壊による「第一のユーゴ」の誕生へと繋がります。

しかし、それはセルビア人中心の政治体制であったため、クロアチア人が反発。
また第二次世界大戦による枢軸国の分割占領で、第一のユーゴは消滅してしまいます。


けれど1945年、ナチス・ドイツの降伏とともに、
戦時中に枢軸国に対する抵抗運動を行ってきた共産主義者のパルチザンが、ユーゴスラビア全域の支配権を確立し、その首脳であったチトーが再び南スラヴ人の統一を目指します。
それが、「第二のユーゴ」となるユーゴスラビア連邦人民共和国でした。

ユーゴスラビア人(南スラヴ人)は民族的に同質であり、外国による支配の下で単に宗教によって分けられていたに過ぎないものである、とする「兄弟愛と統一」という政治概念を掲げたチトー。

時に、世界は冷戦に突入したばかりでした。
ソ連のスターリンと不仲だったチトーは、社会主義陣営にも資本主義陣営にも属さず、独自の道を進むことになります。

けれど、強大な軍隊を持つソ連と対立していたがために、ユーゴスラビアでは「いつソ連軍が攻めてくるやもしれぬ」恐怖に常に脅かされていました。
それこそが、民族や宗教の違いを越えて団結する力となり、また、チトーのカリスマ性と統治の巧みさもあり、微妙なバランスでユーゴスラビアは纏まっていたのでした。

しかし、1980年にチトーが死去。
そして、時代は冷戦も終結を迎え、ソ連軍の攻撃を心配する必要がなくなりました。

対ソ連で団結していた国民意識もバラバラになり、再び複雑な民族感情、宗教意識が顔を出していきます。


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1991年6月、ユーゴスラビア連邦からの独立を宣言したクロアチアに対し、セルビアを中心とした連邦軍が攻撃。

「世界遺産の街は攻撃しないだろう」という期待に反し、同年10月にはドゥブロヴニクに最初の砲弾が落とされました。

12月6日には2000発もの砲弾、爆弾を浴び、建物の7割近くが全半壊。 
街は壊滅状態に陥り、直後 この街は「危機にさらされている世界遺産」に登録されました。


市民たちは紛争終結後、すぐさま再建に着手します。
破壊前と同じ石材を使い、壁の彫刻も寸分違わず修復されました。
そして、1998年には危機遺産リストから削除されるに至りました。 

2012-01-13 22:29:48

美しい景観に隠れた今も残る傷痕と、着弾地点を示した地図が、訪れる者にその過去を示しています。

果たして、この街を襲った連邦軍が悪いのか? 

この複雑な場所に立つ時、私には何が正しくて何が間違っていたのかが分かりません。


この先、南スラヴの人達はこのまま別々の道を辿るのか、それとも再び統一する日がやって来るのか、、、?


どちらにしろ、もう二度とむやみに血を流すことのないように、

お喋りな彼の一瞬の沈黙を見て、私は祈りながらシャッターを切りました。

2012-01-14 05:08:59

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