I love Salzburg

旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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旅の未完成 (1)

私の旅は、永遠に未完成のままだ。

絶対にカッコよく終わることはない。

「でも、普通じゃ物足りないんでしょ? それが病みつきなんでしょ?^^」
帰りの飛行機で隣りになったご婦人にそう言われた。

そうだ、それが病みつきだ。(笑)

だから、これからも無駄と失敗ばかりの旅を続けるだろうし、

ここで一旦 中欧の旅日記は終了するが、私の旅行記は永遠に終わらない気がする。


*:*:*:*:* *:*:*:*:* *:*:*:*:*

・2012.09.05

       14:35   JR高松駅発   関空リムジンバス
       18:10   関西国際空港着

           夜の関空 
 
       23:40   関西国際空港発   エミレーツ航空317便


・2012.09.06
アラブ首長国連邦 → ドイツ → オーストリア

       04:50   ドバイ国際空港着

           picchuko @Dubai

       08:35   ドバイ国際空港発   エミレーツ航空49便
       13:00   ミュンヘン国際空港着

           始まりは、この笑顔。

       15:27   ミュンヘン中央駅発
       16:56   ザルツブルク中央駅着

       (宿泊)   Hotel Meininger


・2012.09.07
オーストリア → ドイツ → オーストリア

             ミラベル庭園

           ザルツブルクに着いて一番にしたことは、

             Eagle's Nest ツアー
              ・ケールシュタインハウス <ヒトラー山荘>

           世界一のパワースポット!
           本日のナイスガイ(笑)
           picchuko イチオシ☆

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              ・ベルヒテスガーデン

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             ミラベル宮殿、庭園

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             レジデンツ広場

           picchukoは幸運の女神なのか?!

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             ザルツブルク大聖堂
             メンヒスベルクの丘

           ちょっとだけティータイム、のはずが、、

       (宿泊)   Hotel Meininger


・2012.09.08
オーストリア

           本日のナイスガイ 2

             カフェ・ザッハー
             サウンド・オブ・ミュージック ツアー

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              ・レオポルツクローン城
              ・ヘルブルン宮殿

           マリア? ハイジ?

              ・ザンクト・ギルゲン

           ザルツカンマーグート

              ・モントゼー

           旅先では、いつも食欲の落ちる私だが、

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             ミラベル庭園

           本日のベストカップル☆

             レジデンツ   ・・・モーツァルトコンサート

           ザルツブルクといえばモーツァルト、

             ホーエンザルツブルク城塞
             メンヒスベルクの丘

           ザルツブルクより最後の更新。

       (宿泊)   Hotel Meininger


・2012.09.09
オーストリア → スロベニア

       10:12   ザルツブルク中央駅発

           世界の車窓から。
   
       12:43   フィラッハ駅着

       12:52   フィラッハ駅発

           列車は旧ユーゴへと。
           本日のベストカップル(笑) 2

       16:50   リュブリャーナ駅着

             リュブリャーナ市庁舎前カフェ

           君が為に鐘は鳴る。

             リュブリャニツァ川ボートツアー

           あの人は架空の人。

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       (宿泊)   Hostel A.V.A


・2012.09.10
スロべニア

             トロモストウイエ <三本橋>

           トロモストウイエで朝食を。
             
             Alpine Fairytale ツアー
              ・ブレッド湖
              ・ブレッド城

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              ・ヴィントガル渓谷
              ・ボーヒン湖
              ・バプティスト教会

           本日のベストカップル 3

              ・シュコーフィア・ロカ <古都>

           本日のナイスガイ 3
           あなたもウルスのファンですね?(笑)
           それは、宝石箱だった。

             フランシスコ教会
             竜の橋

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       (宿泊)   Hostel A.V.A


・2012.09.11
スロベニア

             リュブリャーナ大聖堂
             中央青果市場
             リュブリャーナ駅前カフェ

           「ヤポニャ?」

       09:40   リュブリャーナ駅発   
       10:45   ポストイナ駅着

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             ポストイナ鍾乳洞

           まだ酔っている。
           picchukoサンタ、未だ健在!(笑)
           来た道すら戻れない女。

       16:07   ポストイナ駅発   
       17:15   リュブリャーナ駅着

             リュブリャーナ城
             レストラン・ゴスティルナ・シェースティツァ

           スロベニア最後の夜。

       (宿泊)   Hostel A.V.A

           鉄子失格☆

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沢山の出会いに、ありがとう。

「君は僕の特別な友達だ!」

ザルツブルク滞在中、私は暇があれば(暇ばかりだったが・笑)イゴールに会いにレジデンツ広場へ行っていた。

イゴールは昨年10月に知りあった、モンテネグロ出身の絵描きである。
ドゥブロヴニクで絵を学び、ユーゴ紛争前にザルツブルクへと移り住んだ。

たぶん、彼はずっとここでザルツブルクの街並みを、そこで生きる人々を、行きずりの旅人達を見てきたのだろう。

常にビールをラッパ飲みしながらも、彼は愛情を持って人に街に声を掛けてきたのが分かる。

そんな彼だから、彼を慕う友人も多い。
彼と共に広場でいると、ひっきりなしに声を掛けてもらえるのもなんだか楽しい。

そして その度に、「彼女は僕の特別な友達だ」と一人一人に紹介してくれる。

「特別」と言われて嬉しくないはずがない。
私はいつも、そんな彼の隣りでニコニコしていた。(笑)

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「君は特別だから、お別れにこの絵をプレゼントするよ。 知っての通り、モーツァルトの生家を描いたものだ。」
帰国の前日、彼はそう言って 両手で私の頬を挟み、鼻の頭にキスをした。

「ありがとう。ザルツブルクにはまた来るよ。」 
絵を受け取った私は、大きく手を振りながらレジデンツ広場を立ち去った。


これで、手元にある彼の絵は二枚になった。

一枚目は、昨年10ユーロで買ったもの。
ミラベル庭園から見上げたホーエンザルツブルク城塞で、私の好きな構図である。

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*


振り返ると、いつもどこでも笑顔があった。

その出会いの殆どが一期一会のものではあるが、ぬくもりは今も心に残っている。

全ての人に伝えたい「ありがとう」、どこかを巡って一人一人に届きますように。



では、とても優しい笑顔から始まった今回の旅、旅行記も心温まるこんな笑顔で〆たいと思う。


2012-11-29 16:49:16 

2012-11-29 16:50:17


旅の総括は、改めて。

picchuko イチオシ☆

そして、picchukoイチオシの場所はここ。

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ザルツブルクから車で40分ほど、ドイツはバイエルン州ベルヒテスガーデン郊外にあるケールシュタインハウス、かつてヒトラーの山荘があった場所だ。

私はそれを、手塚治虫さんの漫画『アドルフに告ぐ』で知っていた。
漫画で読んだだけなら気にもしなかったろうが、予言者としての顔も持つヒトラーが最もインスピレーションを受けた場所ということで興味を持った。

ただ、友人などに話すと「え、ヒトラー? あのヒトラーなんでしょ?」と眉間に皺を寄せて嫌がられる。


だが、ヒトラーは別にしても、ここは素晴らしい景勝地なのである。 
そして、最高のパワースポットだと私は思っている。

事実、アジア人の観光客は少ないが、欧米人からの人気は高い。

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右手に見えるのが崖の上に建てられた山荘の名残り。

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そこへは、真夏でもひやっとする長いトンネルを抜け、山をくりぬいて造った黄金のエレベーターで一気に登る。

中には、イタリアの首相ムッソリーニから贈られた大きな大理石の暖炉があり、当時は昭和天皇から届いた絨毯も敷かれていたそうだ。
そこでナチスは公式行事や政治的会談を行ったそうだが、今はレストランになっていて、そんな重苦しい雰囲気はない。

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私はここに来ると、その山荘からはすぐに飛び出す。

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なぜなら、この景色こそ堪能したいから!

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この場所は、これで二度目だ。

本当はザルツブルクへ来る度に訪れたい場所なのであるが、なにせアルプスに囲まれた、1834メートルの絶壁の上にある。
雪で覆われる11月から5月中旬までは閉鎖されている。


だから、今回は一番にここへやって来た。

その理由は景色だけじゃない。


以前も書いたが、ここに来ると「今、世界中で私が一番 天に近い!」と感じる一点がある。

空から目には見えない一筋の糸で釣りあげられるような、神経を集中させると天からのメッセージが直接下りてくるような、

そんな神がかりな体験ができる場所がある。

鈍い私でさえそうなのだから、予言者ヒトラーがビシバシ何かを感じていたとしてもおかしくはない。
その霊感の使い方を過ったことで、彼の運は尽きたのだろう。


その一点に立つと、選ばれた者の気分も味わえる。

だが、それは一点だけだ。

もちろん、その一点がどこなのかは記されていないし、そう感じるのは私だけかもしれない。(笑)



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そして、もう一つ。

スロベニアの彼ほどではないが、ここも何気にナイスガイと巡り会える、そんなスポットであったりもする。(笑)


それも、二度目。(爆)
2007-12-07 05:33:36




より大きな地図で 2012.09.07 Kehlsteinhaus を表示

それは、宝石箱だった。

旅に出るからには、事前に見どころや地理的なものをあらかじめ下調べすべきである。

だが、私はそれができない。

なのに、人一倍小心者であるから出発直前になって不安に負け、適当に旅程を立て、これまた適当すぎるほど適当に宿を取った。


で、スロベニアでは首都リュブリャーナでホステルを3泊予約した。
そのついでに現地ツアーを申し込んだわけだが、その行き先も実は事前に知らなかった。
知らせがなかったのではなく、英語のメールなど はなから読む気もない。(笑)

もともと、私にとって印象の薄いスロベニアは、ザルツブルクからベオグラードへの通り道に過ぎなかった。
だから、まぁそんなもんだろう。


私が初めて そのツアーの行程を見たのは、ザルツブルクからリュブリャーナへ向かう列車の中だった。
ブレッド湖がスロべニアを代表する観光地だということも、その時知った気がする。

そんな私に、同じコンパートメントに乗った若いカップルがブレッド駅で降りると言う。

ブレッドは、オーストリアからスロベニア入りする場合、国境を越えてすぐの場所にある。
リュブリャーナは、そこからさらに1時間も先だ。

最初からきちんと計画を立てていれば、わざわざリュブリャーナから引き返さなくても良かったのに。
私は無駄な時間とお金を悔いた。


だが、やっぱり私は私だ。

その後悔は、スロベニアン・ナイスガイとの出会いによって、あっけなく吹き飛んだことは ご想像通り。(笑)

そして、その眩しい彼に案内されたメルヘンチックで美しい風景の数々に、スロベニアを素通りしなかった自分を心底褒めた。(笑)

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ツアーで巡った場所は、
定番のブレッド湖とそれに面して断崖に建つブレッド城、そこから4kmほど北西にあるヴィントガル渓谷、さらに西のボーヒン湖などだった。
ブレッドからリュブリャーナまでの帰り路では、また別の古城の町にも立ち寄った。

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ブレッド湖もボーヒン湖も、ユリアンアルプスの氷河によってできた湖だ。
それは、訪れる人の心までも写し出す、透明な鏡のような美しさだった。


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そして、川底まで透き通ったヴィントガル渓谷でも言葉を失う。
私はその時、初めて地上に流れる天の川を見た。

1.6kmの遊歩道を、まるでリスのように軽く弾む彼に続くのはキツかったけれど、それでも心地よい疲れに気分は良かった。

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スロベニアはこれだけじゃない。

そこには欧州最大のポストイナ鍾乳洞もあれば、そこはかとなく色気漂うリュブリャーナの街並みも魅力的だ。


印象が薄いと思っていたその国だが、
オーストリアとイタリアとクロアチア、その3つの国のそれぞれの美点を巧く融合したとても美味しい国なのかも。

僅か四国ほどの小さな国・スロベニア。 

それは、まるで宝石箱のようだった。




より大きな地図で 2012.09.10 Ljubljana - Bled を表示

あなたもウルスのファンですね?(笑)

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「あなたも Alpine Fairytale tour に参加されるのですか?」
アールヌーヴォー調の格式高いグランド・ユニオンホテルのロビーで、私は一人の女性に声を掛けた。

あまりに酷い安宿から一夜明けたばかりの私には、それは悔しいほど高級感漂うホテルであったが、その日に申し込んだ現地ツアーの集合場所がそこであった。

「ええ、あなたもなのね? 私はカナダから来たの。 主人と一緒よ。」
50歳から60歳代のご夫婦であろうか、気さくな笑顔がとても素敵な二人だった。

「あ、この方も参加されるそうよ。 偶然にも、私達と同じカナダ人なんですって。」
「どうぞ、よろしく!」
白髪ではあるが、まだまだ若さは負けないわよって感じの女性が、その先にいた。


その時、「picchukoさんですよね」と肩を叩かれ振り向くと、爽やかな好青年が微笑んでいた。
「今日、一日お願いします。」

ツアーガイドの彼は、客の中で唯一日本人である私を見つけ、まず声を掛けたようだ。
確かに、欧米人ばかりの中で、名前しか知らない初めての客を見つけることは難しいと思う。


「車にもう二方、今日のお客様が乗っています。 インドから来られたご夫婦です。」

ガイド兼運転手の彼を含め総勢7人、車はスロベニアの首都リュブリャーナを出発した。


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さて、お気づきか。

この日の写真は、何気に彼が登場する。(笑)


あの「picchukoさんですよね」と声を掛けられたその時から、私はぽお~っとのぼせあがっていた。

か、かっこいい。。。
だが、本命になればなるほど「写真を撮らせてください」とはなかなか言えないものだ。
結局、出来上がった写真の数々は、こんなふうに出来損ないか写りの悪いものばかりになってしまった。

しかし、かっこいい。
顔だけじゃない、全てのバランスといい、性格といい、若さといい(笑)。
ちょっとした冗談にもきちんと反応してくれる。


もちろん、そう思ったのは私だけではなかったようだ。

カナダ人の奥さん、そして 一人参加のカナダ人女性、この二人も 何かにつけて彼に話し掛けていた。
特に一人参加の女性は車においても助手席をキープし、彼を離さない。
恋する気持ちに年の差はない。

まあ、私は眺めるだけで幸せだから別にいいけど、、、  でも気に食わないっ☆

*


「あなたはどんな音楽を聴くの?」 彼女が尋ねた。
「う~ん、大抵なんでも聴くよ。」

二人の後ろに座る私は、素振りだけは平然と、耳だけはピンと立てらせていた。


その時、彼女が言った。 「IL DIVOなんかどう?」


はっ!?

そうだっ!

私は思わず膝を叩いた。 彼はウルスに似てるんだ!!!

目といい、頭の形といい、横顔の骨格といい、ウルスにとてもよく似ている。


はは~ん、あなたもウルスのファンなのね。 私は見抜いた。

彼女も彼をウルス似と思ったかどうかは分からないが、だが近いものを感じたのだろう。
だから、彼女も彼に魅かれたのだ。

ふふ~ん、なるほどね。


「ああ、IL DIVOも聴きますよ。彼らは、ここスロベニアでも凄い人気です。
もうすぐリュブリャーナでコンサートがあるんだけど、あっという間にsold outでしたよ。」

彼は普通にそう答え、運転を続けた。


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ここは、ボーヒン湖。
かのアガサ・クリスティが、「ここは私の小説の舞台にはなりません、美し過ぎるから」と言った場所。




より大きな地図で 2012.09.10 Ljubljana - Bled を表示

ナイーブアートと丸亀市。

もう2年前になる。

ブログで知り合って以来 様々な見聞で楽しませてくれる 虹の木313さんの日記の中で、「原田泰治」という画家の存在を知ったのは。

それは、さだまさしさんの話から広がった。

私が高校時代を過ごした香川県丸亀市の市制100周年記念事業として作られた、さださん作『城のある町』、
私はてっきり、丸亀市がさださんにお願いして作詞作曲してもらったものと思っていた。

だが そうではなく、
彼の親友である画家・原田泰治氏が、城下町・丸亀の春夏秋冬をテーマにした絵をまず描き、
それに「まさしくん、この町を歌えないかなあ」と持ちかけたことがきっかけになったということだ。

「それは、2000年に発売された さださんのアルバム『日本架空説』に収録されていますよ。だから、丸亀市から直々にお願いされたわけではないんですね」
と、虹の木さんは丁寧に教えて下さった。


*

そして、その「原田泰治」という名前を、私はクロアチアの首都ザグレブで再び見つけた。


1973年、原田氏は新聞紙上でイワン・ラブジン氏の『私の故郷』を目にしました。

「心の生計を立てるために描く」というラブジン氏のふるさとの光景を心の内面から描く姿勢は、その後の原田氏の画家人生に大きな影響を与え、"日本のふるさと"をテーマとした「原田泰治の世界」に結実。
全国の人々に深い感動をもたらしました。


それは、「クロアチア国立ナイーブアート美術館」の入口に貼られてあった文章だ。

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美術館は、ザグレブの象徴・聖マルコ教会からすぐの場所にある。


私とナイーブアートの出会いは日が浅い。

今年の正月、ドゥブロヴニクのとある店先だった。
まさに「素朴」という表現がぴったりの絵に、ふらふら~っと中に入った。
なんだか癒されたのだ。

その夜、ホテルでガイドブックをめくった。

クロアチアを代表する絵画「ナイーブアート」は、1930年代初頭に独学で絵を描いていた農民画家たちのグループが誕生したことに始まる。
それは、ガラス板の裏に描くのが特徴で、農民の日常生活や農村の風景といったテーマを叙情的に描き、近現代芸術として評価されている。


なるほど。


たまには前衛的な絵もいいが、今の私は素直に描かれた作品の方が好きだ。

素直、そう素直なんだ、そこから感じるものは。
ナイーブアートという呼び名にぴったりだと思った。


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そして、その作品の数々を一度に観賞できるのが、ザグレブにある「ナイーブアート美術館」だった。


一口に素直といっても、色々な表現がある。

写実的なもの、抽象的なもの、明るい色遣いに、どうしようもなく寂しさを感じる絵。

各々の心の内をガラス板にぶつけることで生まれた作品が、様々な顔をして並んでいた。
素直に自由。

中には宗教的意味合いの濃いものもあったが、全体的に素朴な日常生活の中で、当たり前の風景の中で見つけたもの、感じたものを描いているように思えた。

だから、どんな表現をしようとも、作品が素直であるから、見る方の心にも素直に入ってくる。
まあ、感じ方は人それぞれであるから、絶対にそうだとは言わないが、私にはそう感じた。

もちろん、物には好き好きもある。
私もその全てが気に入ったとは言わない。

そんな中で私の心を温かくしてくれたのが、イワン・ラブジン氏の作品だった。

淡い色遣いがなんとも優しく包んでくれるようで、見ていて安心するのだ。

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で、そのラブジン氏の絵に衝撃を受け、影響され、その後 彼と交流が深かったのが原田泰治氏であった。

私が気に入った画家が、偶然にも原田氏と懇意だったというのも嬉しく思った。


そして、


丸亀市をイメージした さださんの作品『城のある町』は、もしも原田氏がクロアチアのナイーブアートと出会わなければ、

"日本のふるさと"の光景の一つ、丸亀の町を心の内面から原田氏が描かなければ、形にならなかった歌かもしれない。

そんな風に思えてきた。


意外にも、遥かクロアチアの街角で、私は自分と縁を感じる絵画と対面することができたみたいだ。


城のある町、、、
あ、そうそう、私は高校時代、授業を抜け出してまで、お城へ登ったこともある。(笑)




より大きな地図で 2012.09.12 Zagreb を表示

今日もドライブで。

今年は本当に紅葉が綺麗だと思う。

それも普段 通っている道だとか、高速道路から見える山々だとか、そんな何気ない風景の中でハッとするほど美しい色づきに出会うことが多い。

燃えるような紅葉もあれば、柔らかい ほっとできる赤色もあるし、山全体が黄金に輝くのを見つけた時は、思わず声をあげてしまう。


そんな天然の美をくぐりながら、先ほど淡路島までドライブして来た。

鳴門の渦潮は今日も洗濯機ほどの大きさであったが、鳴門大橋を渡り終えた辺りから 雲間が切れ、優しい陽射しが注いできた。

もう太陽も冬支度、そんな光だった。


行き先は、あわじ花さじき。

この時期、花など殆どないことは知っていた。

だが、遠く海の見える広大な敷地に立ちたいと思いついたのが、その場所だった。


昨年 来た時は、一面真っ黄色い菜の花畑だった。

その前年の10月は、夢のようなコスモス畑に少女気分で はしゃいだものだ。(笑)


で、本日は、

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(笑)

色褪せたサルビアを見かけはしたが、あまりの寂しさに写真など撮ろうとすら思わなかった。

いくら期待してないといっても、さすがにこれは・・・。(苦笑)

空気までもが冷たさを増したみたいだった。


それでも、私のように訪れる人は何人もいた。

左手には明石大橋が見える。 その向こうは本州だ。

冷たいが澄んだ空気はお腹の大掃除をしてくれるみたいで、みんな各々 ゆったりペースで散歩していた。

「まるで北海道みたいだね」 お母さんと手を繋ぎながら、そう話してる子供もいた。


そんな時、「あれ、なんの花だろう?」 広い敷地の一角に、ピンク色した絨毯を見つけた。

近づいてみると、それはコスモス畑だった。

10月のような果てしなく続く感じではないけれど、まだコスモスがこんなにも咲いていることに嬉しくなった。



だけど、ちょっぴり寂しいね。

可愛いお花に囲まれたクリスだが、そんな表情で私を見上げた。

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花壇には、ストックの花達も、、、。

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優しい雨。

午前4時過ぎ、クリスの「お腹すいた~!」のごそごそで目を覚ました私は、窓の外の優しい雨音に気付きました。

昨日 埋めたヨンの上にも しとしとと優しく降り注いでいました。
まるで ヨンのためのように、優しく優しく。
雨さん、どうもありがとう。

これでヨンの喉も潤ったかな。
そして、この優しい雨のおかげで、ヨンも土に馴染んでくれたものと思います。

こうやって土に還っていくんだね、ヨン。

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ヨンがいなくなって どこか寂しそうなクリスですが、今のところはいつも通り食欲旺盛です。

ただ、ひとつ心配なのが、おしっこをあまりしなくなったこと。

いつもヨンがチッチとした後をついて回っていたせいか、庭へ出しても私の足元に座りこんで用を足そうとしないのです。

困ったな~。
残された子が食欲を失い体調を崩すというのはよく聞く話だけど、おしっこしなくて膀胱炎にでもなったら、「さすがはクリちゃん」と動物病院でも笑われちゃいそう。

「お願いだから、おしっこして~。」

だから私は、ヨンの代わりに木の隅などで片足をあげてチッチする仕草を見せることにしました。(苦笑)

なのに肝心のクリスは、「なにしてんねん!」って表情で眺めてるだけ。

「クリ~ス! たのむから、おしっこしてよ~!(><)」
ご近所さんにも聞こえるかな。


でも、こんなクリスのおかげで救われています。


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たぶん、次回からは普段通り旅行記の続きを書いていけると思います。
皆さま、この度は温かいお言葉をまことにありがとうございました。

ヨンとのお別れ。

少し気持ちが落ち着いている今、書いておこうと思います。

昨日は温かいお言葉の数々、真にありがとうございました。

本来ならおひとりおひとりに返事を書かなければならないところ、それぞれのコメントを読ませて戴くだけで涙があふれ、言葉になりません。
ですが、皆さまの優しさに感謝でいっぱいです。
皆さま、本当にありがとうございました。



今日、母とクリスと一緒に、大好きなヨンサマとお別れをしました。



先々週にも行った徳島県の大歩危峡へ、午前中みんなでドライブに出掛けました。

ヨンは大のドライブ好きで、あの時も「紅葉がもっと綺麗になる頃、もう一度来ようね」と約束していたのです。

後部座席にヨン専用のベッドを置き、その上にヨンをいつも通りの格好で寝かせました。
そこは、ドライブ時のヨンの定位置でもありました。

山々を彩る美しい紅葉も、全てがヨンの優しさに思えて涙に霞んでよく見えません。
「ヨン、ありがとね」 そう繰り返すのが精いっぱい。



そして午後、ヨンを表庭に埋葬しました。

それは、紫陽花や木々が生い茂るわが家の霊園。
これまでも、私の愛犬達が眠りについている大事な場所です。

ヨンが大好きだったお兄ちゃん(ジロ)の上に、今度はヨンが横たわる番になってしまいました。
生前、その場所でお昼寝するのが大好きだったから、きっと今も同じように眠ってくれているはずです。

土を被せていると、「僕もお別れするんだ」とでも言うように、ヨンの上に乗りあがるクリス。
ものすごく仲の良かった二匹だから、彼らしか伝わらない気持ちを交流させたんだと思います。

最後に、ヨンに捧げる為に咲いてくれたかのようなピンクのバラを一輪、そっと添えてやりました。

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今もウッドデッキに残るヨンの足跡を見るだけで愛おしさが溢れてきて、涙は枯れることを知りません。
でも、いつかはけじめをつけなくちゃと、自分とクリスに言い聞かせています。

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夕方、お世話になった動物病院からお花が届きました。
「天国で元気に遊んでください」 その言葉にまた涙。

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本当にみんなから愛されたヨンサマでした。


実は、「必ずまた会おうね」の意味を込めて、私とヨンだけの秘密の印もしてあります。
「うちのヨン、可愛いヨン」も合言葉。

だから、絶対にまた会える。
そう信じて、今はお星さまになってしまったヨンサマと、ひとときだけのお別れです。


しばらくは慣れなくて寂しいだろうけど、「一緒に乗り越えていこうね」と、クリスと励まし合っていくつもりです。

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だから ヨン、天国で少しの間待っててね。

ヨン、ありがとう。

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先ほど 13:58 に、私の愛犬ヨンサマが天国へと旅立ちました。

急なことで、私もまだ信じられません。

後に残されたクリスも理解できず、これから しばらくヨンを探すんだろうな~と思うと、余計に涙を誘います。



とても賢い子でした。

犬とは思えないほど繊細な心の持ち主で、やんちゃだったけど とても思いやりのある子でした。

今朝、少し元気がないかな~と病院へ連れていったのが、9時過ぎのこと。

点滴と注射2本を打ってもらって、少し元気になりかけたように見えました。

でも、11時過ぎから 目に力がなくなり、それから私はずっとこの子を抱いていました。

時々 思い出したかのように悪戯な目に戻ることもありましたが、それも一瞬だけ。

私は、どことなく軽くなるヨンの体を抱きしめるのが精いっぱいでした。

13時半頃、もうダメかもと思いました。

「ヨン、ありがとね。」
「ヨン、大好きだよ。」
「ヨンは私の宝物だよ。」

耳元で言葉をかけるしかできない自分が悔しくて、でも伝えなきゃと、私も一生懸命 ヨンに呼びかけました。

本当にダメだと感じた時、「ヨン、お疲れさま。おやすみ」そう言う私の胸に力なくペタッと寄りかかるヨン。


そんな時、外出していた母が帰宅。

「母さん、急いで!」

母が傍に来るのを待ちわびていたかのように、大きな息を数回して、私の腕の中で息を引き取りました。


涙が止まりません。

もっと甘えて欲しかったし、もっともっと傍にいたかった。

2004年4月26日生まれの、まだ8才でした。 8才6ヶ月と27日。


ヨン、今まで本当にありがとう。



一枚目の写真は、また元気になると信じてた、息を引き取る1時間前のものです。


2007-12-20 21:51:41 2007-09-02 16:52:57
ヨンサマ(左)3歳、クリス1歳。
このブログを立ちあげたばかりの頃の二匹です。

スプリットでも。

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だから、旅先でついCDを買っちゃうのはよくある話。

10回中、たぶん9.5回は買っている。(笑)

こんな つい買ってしまったCDは、いつもドライブ中に流される。

ブダペストはこれで2枚目。

ま、収録曲が同じじゃないので構いはしないが、問題は曲のスピードだ。


チャールダーシュに代表されるようなハンガリー音楽は、出だしこそゆっく~り哀愁漂う奏で方をしてくれるが、中盤からスピードが急速に変化する。

ただ聴くだけなら手拍子でも打って、ハンガリーの場末の酒場をイメージする楽しみ方もあるだろうが、

それを車で流すもんなら、まるで意味なくサツかマフィアに追われるような、

ひたすら前のめりに、強くハンドルを握りしめるほどヒートアップする。
当然、右足にだって力が入る。

その音楽は、名の知れた演奏者よりも ジプシーたちの方が一層速く、目まぐるしい。
おかげで何度 信号無視しそうになったことか。

そんな一枚がまた増えた。(苦笑)

『チャールダーシュ・モンティ』 古澤巌

*


それでも 旅先で耳にした曲は、自分が今どこに居ようとも、一瞬でその場に連れ戻してくれる どこでもドアだ。

それは匂いも同じであるが、それらの感覚が視覚以上に研ぎ澄まされているせいだろう。

で、その感覚を手っ取り早く呼び醒ますために、またもCDを買ってしまうのだ。
一種の中毒である。


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それがクロアチアでも発病した。

そこは、アドリア海に面したクロアチア第2の都市、古代ローマの面影残すスプリットだ。


私は大聖堂前の中庭に腰かけていた。

歴史を感じさせる遺跡の中で、ぽつんと一人座っていた。

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すると、どこからかアカペラが聴こえてくる。

美しいハーモニー。

真っ青なアドリア海に身を委ねている感じだ。

この感じ、きっと海を挟んだ南イタリアでもそうだろう。
ローマ以南を訪れたことのない私だが、そんな想像も膨らませた。

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自然と歌声のする方へ足が向いた。

そこには、天井にぽっかりと穴が開いた筒状の空間があった。 

綺麗なまん丸い その穴からは、アドリア海に負けない青い空が見えた。

そこで、6~7人ほどの男性が合唱していた。

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彼らを沢山の観光客が囲んでいた。

筒状の空間が音響効果を高めるのだろうか。

石壁に反響した美しい歌声は、いっとき私たちを包んだ後、そのまま吹き抜けの穴から天へ昇っていくようだった。


港町の香りがする。 「それ、買った!」

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帰国後 ガイドブックを開いてみると、

彼らの音楽は、クラパ(Klapa)というクロアチアはダルマチア地方の、男性によるアカペラ合唱なんだそうだ。

それは、無形文化財として、ユネスコの世界遺産になってるんだとか。


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へえ~、と続きを読んでみた。


丸天井に開いた穴から大聖堂の鐘楼が見える、とある。

私はすぐさま自分が撮った写真を出した。



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あら、真っ青。


カメラを構える時、構図など全然考えてないもんな~私。

でも CDジャケットがその写真だから、まあ、良しとしようか。(苦笑)

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『クロアチア・ダルマチア地方民謡』
ちょうど、私が実際に出会ったメンバーの動画を見つけた。




より大きな地図で 2012.09.19~21 Split を表示

ブダペストと「Gloomy Sunday」。

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「一曲、リクエストある?」

私の隣りに座るご夫婦は、ちょうどその日が奥さまの誕生日ということで "Happy birthday to you" をお願いしていた。

「君は?」

気が付けば、私の番だった。
ぼおっとドナウ河の対岸に浮かび上がる国会議事堂に見惚れていた私は、とっさに言葉がでなかった。

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「グル、グルゥ、、、ええ~っとぉ、グルなんだったっけ? あのサンデーが好き。(笑)」
「ああ、グルーミーサンデーだね。(笑)」
笑顔で頷くと、離れた場所にいるピアニストに合図をし、彼はバイオリンを弾き始めた。

しっとりとした出だしだ。


このメロディは、本当にブダペストとよく似合う。


3年前、ブダペストを旅した後で見つけた映画『暗い日曜日(Glommy Sunday)』で知った曲である。

映画そのものがブダペストの持つ雰囲気をうまく活かしていたこともあるが、そのもとになった同名の曲が要所要所に流れてきて、映画を一層盛り上げる。


哀しみと甘さの絶妙なバランス、、、 映画の中でこの曲はそう表現された。

頬杖をつき、その切ない調べに耳を傾けながらブダの丘からペスト地区を見下ろしていると、それはブダペストの街を表す台詞でもあることに気付く。

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夕暮れ時の物哀しいその街を表現すると、もうそれ以外ないんじゃないか。
それを音楽で表すと、もうこの曲しか生まれないだろう。

そう思った。

そして、以前この場所に立った時よりも、私とブダペストの距離が縮まったように感じた。


気が付けば、薄紫色に霞む街に、一つ一つ光が灯りはじめていた。

一つ一つ、まさにそんな感じだった。
丁寧に優しく増えていく その灯は、ますますその街に甘さと切なさを添えてくれる。

眼下にはドナウがゆったりと流れてゆく。

*


オーストリアでは、空から降ってくるような陽気で弾んだ音符たちだった。

それが、雄大なドナウの流れに呑みこまれるうちに滑らかなメロディへと姿を変えてハンガリーまで辿り着いたみたいだ。

ドナウとともに哀しみの味を知った美しい街、ブダペスト。


『Gloomy Sunday』 Sinead O'Connor

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「あ、チップはいらないから。」
フォリントは持ってないんだよな~と、ユーロの小銭を手渡そうとする私に、彼は言った。

「で、これ僕たちのCDなんだけど。」

雰囲気に流されて、つい買ってしまった。 15ユーロだった。

あぁ~あ、チップの方が安くついたよな。(悔)




より大きな地図で 2012.09.27 Budapest を表示

ドナウのように生きてゆく?

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これは、ブダペスト行きの船が出るウィーンのライヒスブリュッケ船着場に貼ってあった地図だ。
(写真はクリックで大きくなる)

ドナウの全容をじっくり眺めたのは、この時が初めてかもしれない。


『ドナウの旅人』を読んでたら、ドナウの旅人になりたくなった私は、

ウィーン滞在2日目に、ウィーンからスロバキアの首都ブラチスラヴァへ、
そして その次の日は、再び同じルートを通って、その先にあるハンガリーのブダペストまで船に乗った。


オーストリアでドナウ河を遊覧する場合、最も有名なコースは世界遺産にも登録されているヴァッハウ渓谷なんだそうだ。
渓谷の美しさは言うまでもなく、川沿いに見える修道院や古城を巡るのも良い。
そこはウィーンから西、列車で1時間ほどの街メルクか、もしくはクレムスから遊覧船が出ているらしい。


だが この時の私は、ウィーンからドナウを上るのではなく、流れに沿って下りたいと思った。

輝さんの本を読んでたら、、ドナウ河の流れが人生と同じように思えてきたからだ。


旅の前半、ここに来るまでに すでに私は、さらに下流のセルビアの二つの街でドナウを見ていた。
セルビア北部の街ノヴィ・サドと、首都ベオグラードでだ。


この先に、あのドナウが待っているのか。

感慨深かった。 


例えば、今の私をベオグラードのドナウとしよう。
だとすれば、人生の岐路に立つこの時に自分の人生を振り返り、再び追っているような錯覚をした。

事実、3000km近くあるドナウ河は、ベオグラードでやっとほぼ半分なのだ。
私にも人生が80年与えられるならば、ちょうどベオグラード辺りが今の私の立ち位置になる。


ウィーン、ブラチスラヴァ、ブダペスト、ノヴィ・サド、そしてベオグラード。
それは、10代最後から20代前半、20代後半、30代はじめ、30代半ば、そして そろそろ40才、まさにそんな表情のドナウだった気がする。

ウィーンでは気付かなかった大河の母性を、ブラチスラヴァからブダペストへ行く途中で感じたことも、そう考えると納得できる。



ドナウの流れは、ドイツの黒い森で生まれた後、僅かに南下しながら東へ東へと向かい、

ハンガリーのヴィシェグラードでほぼ直角に折れて、南へ向きを変える。

そして、ベオグラードまで降りてきたところで、再び東へと進路を変えていく。

それから後もくねくねしながら、最後は3つに分かれて黒海へと注ぎこむ。


いや、それから後の方がくねくね度合いが大きいのも、人生後半戦、そう甘くないよと語っているようで興味深い。

何倍もの広さになった川幅は、それまで呑みこんできた濁りをどっと押し流す為だろうか?

最後、進むべき道が3つに分かれているのも、人生の果てに待ち受ける天国か地獄かそのまた中間か、、、

まぁ、そこまで考えると怖くなったりもするのだが。(笑)


とにかく、今、私はベオグラードに立っているはず。

ベオグラードは、ドナウがもう一つの大河サヴァと合流する街だ。

それじゃぁ、私にとってサヴァ河は一体何なのか誰なのか、それはまだ分からない。
もしそれが見つかれば、まさに人生ドナウ河というような気がして、、、

この時にドナウと出会えた奇妙な縁に、これから先の大きなくねくねを恐れながらも期待している。(笑)



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ウィーン(オーストリア)

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ブラチスラヴァ(スロバキア)

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ブダペスト(ハンガリー)

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ノヴィ・サド(セルビア)

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ベオグラード(セルビア)

天井桟敷。

「あいつの声は、ただの音だよ。
オペラってものを知らないで、上手にさえ歌えばいいって思ってんだ。

ああいうオペラ歌手に拍手を送る客が、最近増えたよ。
昔は、贋物はすぐにばれたんだ。 観客の中には凄い耳の人がたくさんいた。」

                                   ~宮本輝著 『ドナウの旅人』より~


私はそんな、誰にでも拍手を送る客だ。(笑)


ウィーンの国立歌劇場の横を通る度、ここでオペラを観たいものだといつも思う。

9年前はまだ自分には早いと思って諦めた。
そして今年の9月、風邪気味で鼻水ダラダラであったため、なんとなくオペラ座気分にはなれず、やはり諦めた。
だが、未練たらしく行ったり来たり。(笑)


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「でもね、国立歌劇場の天井桟敷はたった3ユーロなのよ!」 目を見開いてM子は言う。

「私はウィーンで5泊したんだけど、3晩 そこに通ったわ。
でね、その日の歌手の善し悪しが分かるようになったの。 全然違うのよね。」

ほおぉ、私と違ってインテリの彼女は、さすが聴き分ける耳まで持ったのか。
私は興味津々で、話の続きに身を乗り出した。

「だってね、素晴らしい歌手の時は 全然オペラが進まないの。
一曲歌い終わる度に、みんな立ち上がって「ブラボ~~~~!!!!!」って叫び続けるもんだから。」

な~んだ、聴き分けではなくて観客の反応なのか。 
彼女の耳も私と大差ないと知って、ちょっぴり安堵した。(笑)


だが、そんな彼女をさすがだと思った。 彼女の親友として誇りに思ったのである。

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「天井桟敷は何階だい」長瀬が訊いた。
「さあ、四階か五階じゃないのか」シギィは、切符を係員に見せ、何階かと訊いた。
係員はただ階上を指差しただけだった。


麻沙子も絹子も額に汗をうっすらにじませて息を弾ませ、階段の手すりに凭れかかっていた。
「コイズミも他の学生たちも、どうしてこんなに俺たちを急がせたんだよ。」とシギィは腹立ちまぎれに言った。

「彼等はただの観客じゃないのよ。
幕あき前のオーケストラの演奏とか、幕があがった瞬間の、間合いなんかを目に焼きつけておきたいんでしょう。そのために急いだんだと思うわ」


幕あき前のざわめきが、各階の回廊をいっそう暗く静謐なものにしていた。
最上階の係員に切符を提示し、中に入った。
天井桟敷はすでに満員であった。   
                                       ~同~



そして、M子は知ってたんじゃないかと思う。

貧しい音楽学生達のような、純粋にオペラを愛でて楽しむ人達は天井桟敷を選ぶことを。

天井桟敷からは、ボックス席の着飾った人々の姿がよく見えた。
天井桟敷は、立ち昇ってくる香水や化粧の匂いが溜まる場所でもあった。
                                       ~同~


それだけ最上階は観客や舞台上の様々な反応が直接に、そして本物や贋物のそれらが素直に立ち昇ってくる場所だということを。

私は以前、このウィーンの国立歌劇場よりも美しいと言われる、ハンガリーはブダペストのオペラ座の、それもボックス席という なんとも贅沢な場所に、清水の舞台から飛び降りる覚悟で座ったことがある。

私は酔っていた、その雰囲気に。

でも、違うんだよな~、あの頃の私は分かってなかったんだよな~。 今はそう思う。

いや、誰にでも拍手を送る私にはちょうどいい席だったのかもしれないが、やっぱり不釣り合いだった。

ボックス席などというものは、それ相応の年月を重ねてきた者にお似合いの席だと今なら分かる。


そして、そこで登場するのはやっぱり天井桟敷なのだ。

次回、ウィーンを訪れることがあるならば、その時こそ天井桟敷に通いまくろう。(笑)
そんな私になりたい、M子のキラキラした瞳を見ながらそう思った。

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より大きな地図で 2012.09.25~28 Wien を表示

やっぱりウィーンは素敵だと思う瞬間。

今回の旅行記は、旅先で一瞬一瞬思ったことを記していくことが目標だった。

だから、わざわざパソコンを開くのではなく、常に手の中にある携帯から更新していた。
おかげで、9月分の電話料金は4万円近くも掛かってしまったが。(苦笑)


だが、その時の言葉を逃したくなかった。
せっかく長旅に出るチャンス、記録も自分の望む形で残したいと思った。

では、帰国後の日記に意味がないのかというと、そうではない。
瞬間の気持ちと、時間をかけて熟成させることで深みが増す感情と、私はどちらも大切だと思う。


特別な旅ほど、何年先までも書き続けられる、それを知った。
実際は終わった旅でも、心はどこまでもその旅を広げていけるから。

振り返ると、この旅行だって これまでの記録の続きみたいなもの。
そうやって旅を重ねる度、旅を綴る度、一つ一つの旅は繋がり、そして自分探しに繋がっているようで面白い。


これも、私の旅のスタイルだ。


* * *


帰国後、一気に書きたかったのがセルビアとボスニアのこと。

この二つはとりあえず、その時の感情と、そこを離れ、だがさほど時間の経過のないうちに記しておきたい場所だった。
あ、今の時点で省略すべきと思ったものは記していない。


そして、その流れでオーストリアまで戻ってきた。


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私が初めてウィーンのシェーンブルン宮殿を訪れたのは2004年の元日だった。

その朝一の観光客は私を含め2人しかおらず、あの大広間を独り占めする幸運に恵まれた。
そこで毎夜繰り広げられていた舞踏会を思い描き、私は陶酔した。
両手を広げ、くるくる回る私を笑う者は誰もいない。(笑)


先日、人間フランツ・ヨーゼフを感じられるには、絢爛豪華な宮殿よりもこじんまりとしたカイザーヴィラの方がいいと書いたが、

シェーンブルンはシェーンブルンで、ここでしか感じられない特別なものもある。

それは偉厳を持つ皇帝の姿と、まさに頭上に鳴り響くワルツの調べだ。


自然と体が踊り出す。 

今回は大勢の観光客が居たために、さすがに目に見えて踊ることはできなかったが、それでも気が付けば足先はステップを踏んでいた。

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もともと私はウィンナーワルツが好きだ。

普通はアイドル達に心ときめく中学時代に、私はいつもヨハン・シュトラウス父子のワルツばかりを聴いていた。

とりわけお気に入りだったのが、息子作曲の「春の声」だ。
楽譜を買い、一人ピアノの練習に励むほど好きだった。

たぶん、あの頃から私はシェーンブルンの舞踏会に参加していたのだと思う。(笑)


実際のドロドロした人間模様までは子供の私には関係ない。 
その夢見心地だけが私のシェーンブルンだった。


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さて、庭園内の小高い丘にあるグロリエッテ。

それは、プロイセンとの戦いに勝利した記念に建てられたという、ギリシャ建築の記念碑。
現在はカフェとなっていて、ここから見渡すウィーンの景色は最高だ。

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だが、見晴らしの良い席には限りがある。

というか、普通の席を選べば、こんなふうに背筋をぴんと伸ばしきっても、残念ながら外の景色は見えない。(笑)


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ウィーンだからか、シェーンブルンだからか、たぶん そのどちらともだろうが、

可愛いマリアテレジアイエローに彩られ、庭園には色鮮やかな花達が咲き誇り、例え真っ白な冬になっても、この場所に居るだけで春を感じる。


やっぱりウィーンは素敵だと思う瞬間だ。


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ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート 2006 - ワルツ「春の声」




より大きな地図で 2012.09.25~28 Wien を表示

そして誰もいなくなった。

ご存知、サラエボの銃声に倒れたオーストリア・ハンガリー帝国皇位継承者のフランツ・フェルデナント夫妻は貴賎結婚だった。

妻ゾフィーは伯爵妃付き女官であったため、本来なら結婚は許されなかったのだが、
すでに数少ない皇位継承者であった彼は、「王冠も欲しいが、恋も欲しい!」と意思を貫いた。


しかし、ハプスブルク家の一員とは認められず、冷遇され続ける妻。
あの時もそんな彼女を気づかって、皇太子は二人揃ってサラエボへと旅立った。


だから、皇太子だけが暗殺されてゾフィーだけ生き残るよりは、二人一緒で良かったのかもしれない。


二人は並べられて埋葬されたが、妃の方は女官なみの粗末な扱いだったという。

生前、皇太子はそれを予想して、せめて同じ場所に葬られることを希望し、ドナウ河畔のアルトシュテッテン城に墓地を用意していた。


だから、ハプスブルク家の皇帝納骨所・カプツィーナー教会に二人の柩はない。


ある意味、国のせいで命を落とした二人なのに なんだか可哀想な気もするが、
同じく貴賎結婚したフランツ・ヨーゼフ皇帝の孫娘エリザベートも、そこに埋葬されることはなかった。
ちなみに、エリザベートはマイヤーリングで情死したルドルフ皇太子の一人娘。


で、こちらが そのカプツィーナー教会だ。 ウィーンの王宮近くにある。

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それにしても、150人近くものハプスブルクさんが地下で眠っているなどと思えないような、どちらかといえば一見地味な教会である。

それでも、一旦地下に足を踏み入れると、ずら~っと並んだ柩はある種の迫力があった。

怖くはないが、霊界の入口に相応しい空気が流れる。

まぁ、私がそこを訪れたのが閉館ぎりぎり、まさに扉を閉めようとするところだったので、余計に不気味だったのかもしれないが。

それにしても、闇の向こうまで延々と続く柩の列は、ぞくっと背筋に冷気を感じて不思議ない景色だった。

もしかして、この場で生きてる人間は私だけ?

そりゃあ、閉館直前、一人で滑り込んだ者の特権(?)だろう。(苦笑) 


その長い沈黙の列の先に、フランツ・ヨーゼフ皇帝と妻エリザベート、長男ルドルフの柩がある。

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エリザベートは向かって左。

次回はもっと早い時間帯に、そして国母マリア・テレジアの豪華な柩なども拝みたいと思う。


あ、ここはあくまで納骨堂。

ここに眠る彼らの心臓は王宮内のアウグスティーナー教会に、内臓はシュテファン寺院に納められているのだとか。。。


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「私はお墓なんて見に行かない!」 そうはっきり言うのは、私の大学時代からの親友M子。


彼女とは年に数回会うのだが、お互いひとり旅好きとあって、旅の後には必ず二人で語り合う。
先日も、岡山まで写真持参で会いに行った。

その写真を見る為に、彼女も地図を持ってきた。
「だって、知らない国が多いんだもん。」 

だが、そんな彼女もヨーロッパ好きだ。
この春だって、ベルリン、ミュンヘン、プラハにウィーンと旅して回った。


その彼女が、バルカン半島だけはさっぱり分からないと言う。

彼女が新しく命名した「ユーゴスロバキア」には大ウケした。
「それってどこよ!(笑)」

「だって~、ホント全然分かんない。」 写真の場面が変わる度、地図でその場所を確認していた。


何度も欧州を一人旅している彼女でさえそうなんだ。

ならば、このブログを読んでくださっている方達は、よほど辛抱されてるんだとつくづく思った。


あまり役には立たないが、それぞれの日記の一番下にはその記事に関するGoogleマップを表示してある。
宜しければ、参考にして戴きたい。




より大きな地図で 2012.09.25~28 Wien を表示

リベンジ☆ グーグルフプフ。

ここで、話はオーストリアへ飛ぶ。


ザルツブルクからバスで1時間30分、そこはアルプスの山々と湖が眩しいザルツカンマーグートにある街のひとつ、バート・イシュルにやって来た。


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そこはスパリゾートでも有名だが、

私にとって二度目となるこの訪問の目的は、前回と同じくカイザーヴィラという皇帝の別荘にあった。


そこは今でもハプスブルクさん所有の建物なのだが、

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その宮殿の一室で合図が鳴った。

サラエボ事件の続きである。


ここで、当時の皇帝フランツ・ヨーゼフはセルビアに対する宣戦布告に署名したのだ。
1914年7月28日。 サラエボ事件からちょうど一ヶ月後のことだ。

暗殺者がセルビア青年というだけでなく、暗殺に使われた武器が実はセルビア政府からの支給品だったということで、

オーストリア政府はセルビアを非難し、宣戦布告することとなる。

敵はセルビアだけではすまなかった。

そして、偉大に見えていたオーストリア帝国は、多民族バラバラの形だけの巨大国家だった為、崩れ出すと勢いは止まらない。


すでに84歳という高齢だったフランツ・ヨーゼフ皇帝。

彼の心うちを思えば、きゅんとする場所だった。

そういえば、ここを3年半前に訪れた時も、肩を落とした皇帝の寂しそうな姿が目に浮かぶようで、彼が息を引き取ったシェーンブルン宮殿よりも深く胸が痛んだことを思い出した。

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その生涯の殆どの夏をここで過ごしたフランツ・ヨーゼフ。

妻エリザベートと出会ったのもこの街、この宮殿は二人の結婚を祝して彼の母親から贈られたものだ。

好きな狩りにも没頭し、彼もスパを利用したのだろうか?

質実剛健な皇帝らしく、愛する家族の写真以外は最低限の身の周りの物しか置かなかったという寝室は、皇帝をより身近に感じさせる場所だった。

絢爛豪華な宮殿もいいが、緑多くひっそりとしたこんな場所の方が、人間フランツ・ヨーゼフの姿が見えるようで、結構私は気に入っている。

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それに、ここには私のお目当てがあった。

それは、前回の私が食べ損ねていた、フランツ・ヨーゼフ皇帝の大好物グーグルフプフ、
つまり、クグロフだ。


毎朝4時に執務を開始した皇帝が、熱い珈琲とともに、いつも6時半きっかりに食べていたそのお菓子、

実は、マリー・アントワネットの大好物でもあったというそのケーキ、

それが このカイザーヴィラ内の小さなカフェで食べられるという。


クグロフなど どこででも食べられるじゃないかと言われそうだが、ハプスブルク家の味を楽しみたいのだ。(笑)

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前回は真冬の為に閉まっていたそのカフェだが、今日こそはリベンジだ!

だが、そんな意気揚々と向かったその先は、またも「closed」だった。


私が訪ねたのが10月2日。 カフェは9月中旬以降はお休みだと貼り紙が寂しく伝えていた。

そんな殺生な~とも思ったが、ここはオーストリア、夏の離宮はそろそろ役目を終える季節なのかも。

次回、三度目の正直か。。。



この写真は、皇帝がセルビアに対する宣戦布告に署名をした書斎。
当時から、机の上には出会ったばかりの15歳の妻エリザベートの石像が置かれていた。
(写真はクリックで大きくなる)

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より大きな地図で 2012.10.02 Salzburg - Bad Ischl を表示

まさに引き金だった。

そして、

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「ここだよ、サラエボ事件があった場所」と、私はムラトさんに教えた。

サラエボのどこもかしこも興味深いといった表情の彼は、一段と目を見開いて頷いた。

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それは、この橋のたもとで起こった。
セルビア青年が引いたその拳銃の引き金は、まさに世界中を戦争に巻き込む引き金となってしまった。

第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボの銃声だ。


「picchuko、ほら。 犯人はここで拳銃を打ったんだ。」 ムラトさんは顎に手を当て、もう一度深く頷く。
真剣な目だ。

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1914年6月28日、オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルデナントとゾフィー妃はここで暗殺されたのだ。

当時、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリアに統治されていた。

すでにかつての勢いをなくした老大国オーストリアと、南スラブ人統一を望み オーストリアによる併合に反発するセルビア人。

不穏な情勢に、何かが起こっても不思議ではなかったはず。


だが、そんな中でパレードは行われた。

暗殺に関わったのは7名。
最初に投げられた手榴弾は皇太子夫妻の乗った車ではなく、後続車のそばで爆発、失敗に終わる。

この後、後続に居て怪我をした将校達をすぐに見舞いに行こうと予定を変更したのが、皇太子にとって運の尽きだった。

いや、病院へ向かう車が道を誤り、ラテン橋のところで方向転換したことこそ、運命の分かれ道だったに違いない。

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最初の爆発音で持ち場を離れていた暗殺犯の一人、19歳のガブリロ・プリンツィブはそこで皇太子に気付き、二発の引き金を引く。


皇太子とその妃ゾフィー、絶命。

皮肉にも、その日は皇太子夫妻の結婚記念日だったとか。

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すぐさま捕らえられたプリンツィブではあるが、セルビア愛国者として称賛され、一時 この橋はラテン橋からプリンツィブ橋へと名を変えた。

ユーゴスラビアが崩壊するまでは、そう呼ばれていたらしい。


彼は自分の一撃が、こうも世界も時代も変えてしまったことを知ってこの世を去ったのだろうか?
1918年、獄中にて結核で亡くなっている。


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銃撃は橋目前の、現在は博物館になっているこの建物前から発射された。
上のプレートはそれに埋め込まれたもの。

流れるミリャツカ川の水量は少なく、さほど広くもない道の、一つの小さな橋のたもと。
ここがその現場などときっと誰しも思いはしない、そんな場所だった。


「ここなのか~・・・。」 ムラトさんも意外そうに、しばし詳細な説明に釘付けだった。



ところで、私は小学校でその歴史を習った時から、何故かいつかはここに立つような気がしていた。

理由などないが、そこに立って改めて当時の予感を思い出していた。
ま、その時 自分の隣りにトルコ人が居ようなどとは、さすがに予知できなかったけど。(笑)





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picchuko&ムラト氏 おススメ、サラエボの教会。

「さぁ、案内してくれ。」

朝食を終えて 荷持を車に詰めた後、ムラトさんは私に言った。

「え? 私が案内すんの?」
「さっき、一人で見て回ったんだろ? ガイドブックを持ってるのも君だし。」


ということで、たった今見たばかりのサラエボ旧市街を、私は再び巡ることとなる。

まぁ簡単な道なので もう地図は要らないが、私に任すという彼の度胸は感心だ。(笑)



スタートはここ、カトリック大聖堂。

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この国は、旧ユーゴの中でも特に民族が入り乱れた地域であり、

ボシュニャク人(イスラム教)が48%、セルビア人(セルビア正教会)が37%、クロアチア人(カトリック)が14%、と主要民族を持たないことが、民族間のもめごとを一層 複雑にしたようだ。

だが、おかげで各々の個性を知れる宗教施設が、限られた場所に目白押しというのは面白い。


カトリックの大聖堂から東に100メートルもないところにシナゴーグがあり、その隣りにイスラム関連施設がある。
そのイスラム施設の斜め前が、セルビア正教会という具合。

目を引くのは塔の高いイスラム教のモスクばかりだが、僅か500メートル四方にシナゴーグも正教会も一つだけじゃない。



その中で、私とムラト氏おススメの教会をご紹介しよう。

あ、仮面仏教徒と、豚肉も食べちゃう なんちゃってイスラム教徒の二人だから、そこに宗教的意味はない。
見た目の好みということで予め願いたい。(笑)


それは、知らなければ素通りしてしまいそうな、古い小さなセルビア正教会だった。

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なんとなく 雰囲気が気に入った。

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ご存知 セルビア正教会は、セルビアを中心にセルビア人の間で信仰されているキリスト教で、ロシア正教と同じく東方正教会の一つ。

この壁中に描かれた、イコンと呼ばれる聖画が印象的だ。

モスクワで見たロシア正教のそれよりは圧迫感もなく、異次元に連れていかれる錯覚もないが、日本では滅多に見れない空間だけに、私にとっては興味深い。


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私は、そのイコンの、頭に輪っかのついた平面的な聖人たちを眺めながら、つい今しがた訪れたカトリック大聖堂のイエス・キリスト像を思い出した。


十字架に手足を大きな釘で打ち付けられ、しな垂れたイエス・キリストのその姿。
赤い血を流す体が、いやに白く浮かびあがって見えたのだった。

イコン画に比べると 彫像はリアルである。
特に、サラエボのカトリック大聖堂の彫像はリアルすぎた。


よく考えれば、あんな痛々しい姿はむごいじゃないかと思い始めた。


イエス・キリストを処刑に掛けた十字架をシンボルにするのも、信者じゃない私には残酷この上ない。

そうそう、同じ十字でも正教会の形は、なんだか足置きがあるみたいで(笑)、意味を知らない私には優しく見える。


ああ~、さっきのカトリックのイエス様、あれは可哀想だったな~、何度もそう思った。

ま、地元の人は宗派の違う教会を梯子するはずないだろうが、正教会の穏やかな聖人たちとちょっと見比べてしまった。


それ以来、十字架のイエス像を見る度に、一刻も早く降ろしてあげたくなるpicchukoである。
で、ちなみにムラト氏は、、、そんなこと気にもしてない。





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増えるコレクション。

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おっと、両替しとかなきゃ。


サラエボも街中に両替所があるので困ることはない。

とりあえず、私は50ユーロをマルカに替えた。 

9月19日現在、1ユーロ = 1.9558マルカ。


旧ユーゴスラビア圏において、通貨がユーロの国は、スロベニアとモンテネグロの2ヶ国のみ。
コソボを一つの国とみなすのであれば、3ヶ国。
あ、EUに加盟してないモンテネグロとコソボが何故ユーロなのかは、私は知らない。

セルビアはディナール、クロアチアはクーナ、
そして、ボスニア・ヘルツェゴビナがマルカ(コンベルティビルナ・マルカ)である。
今回 訪れなかったマケドニアはデナルで、複数形になるとデナリという。

このように、旧ユーゴを旅すると両替がいちいち面倒なのだが、新しい紙幣と硬貨コレクションが増えていくのは何気に嬉しい。



ちなみに、写真はマルカ。 
ユーロでいうセントに当たる単位は、フェニング(複数形でフェニンガ)といい、10円硬貨の色をしているのがそれだ。

で、この20マルカ紙幣であるが、これはボスニア・ヘルツェゴビナ国の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」のもの。
(写真はクリックで大きくなる)

ボスニア・ヘルツェゴビナの紙幣なのだから、そんなこと改める必要ないじゃないかと思われるだろうが、

同じ国でも「セルビア人共和国」側とでは肖像が異なるらしい。



この国は、「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」と「セルビア人共和国」という、未だ二つの独自性の高い地方政体で構成されているのだ。
紙幣くらい同じ絵柄で良いだろうに、と思う私はこの国の複雑さをまだ理解できていない。



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セビリの傍にある両替所を出た私は、その後 一本の橋を目指した。


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そのラテン橋。


たぶん、日本人の誰しもがここで起きた事件によって、サラエボという名を最初に知るだろう。

ずばり、「サラエボ事件」だ。


ここがそうか。
息を呑み、そこへ立とうとした瞬間、携帯が鳴った。

ムラトさんからの着信だ。

私は慌てて写真を撮り、急いでホテルへと引き返した。





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ユーゴに惚れた!?(笑)

「昨日は12時間も運転したんだ~、もう少し寝かせてくれ。」

朝食の時間が気にはなったが、まだしばらく寝かせておいてあげようと、私は音を立てずに身支度を済ませた。

「ちょっと散歩してくるから。」 耳元に小声で告げる。
「うん、気を付けて。 あ、ユーロからマルカに両替しといて。」 
寝ぼけてるわりには しっかりしている。


*

ふふふ、これで写真が撮れる。(笑)


翌19日の朝8時過ぎ、私はひとりサラエボの街へと飛び出した。

サラエボの主な見どころは、旧市街にあるバシチャルシァという職人街に集まっている。

映画などによく登場する水飲み場・セビリもここにある。
そこに無数の鳩がたむろする景色は、まさにお馴染みのサラエボだ。

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私もこの場所に立って、改めて自分の居場所を確認できた気がした。

そして、感じた。 世界の中心は、いつも私の足元にあるんだってこと。
ニューヨークでも東京でもない、その時 世界はサラエボを中心に回っているような気がした。(笑)

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あまり遠くまで行くと迷子になりかねないので、ホテルの周囲をぐるっと一巡。

ひょいっと奥まった通りを覗いたり、するりと電車の合間をすり抜けたり。
中東の香り漂う古い煉瓦と石畳の街並みは、決して綺麗でも斬新でもないのに不思議とモダンな感じがした。

一見 それとは対角線上にありそうなのだが、何故かモダンだ。
そのモダンさにオリエンタルなミステリアスさが加わって、絶対に他の街では醸し出せない魅力を放っていた。 
それも、さりげなさがいい。



しかし、これも現実だった。

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街のあちこちに20年近く前の傷痕がそのまま残されている。

私は立ち止った。

前日の夜も、ホテルを探しながらこの前を通った。
ムラトさんは、「ほら、picchukoも知ってるだろ? 内戦のこと。 ごらん、セルビア人はとんでもない奴らだ。」と言って、銃弾の痕を指さした。


でも、私は違うことを考えていた。


それは、ユーゴスラビアという国が生まれた時のこと。


あまりに遠い昔のことは知らないが、
この辺りは、かつてオスマン帝国やハプスブルク家に統治され、また第二次世界大戦下ではドイツを中心とする枢軸国に占領分割されて、

その辛い厳しい歴史を乗り越えて、南スラヴ人という共通意識の下、ユーゴスラビアとして統一を果たしたのではなかったか。

「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」というユーゴスラビアの誕生を、全員とは言わないが喜んだはずではなかったか。

みんなが「ユーゴスラビア人」だったはずだ。

そこに、どんな歯車の狂いが生じたのだろう。

一度は統一を果たしたものの、セルビア人もクロアチア人もボスニア人もお互い隣人以上にはなれなかったか。
そして、一番身近で理解し合えるのが隣人ならば、一番もめごとが起こるのも隣人。


仕方ないと言えば仕方ないけど、戦争しかなかったものか。
こんな傷痕は辛いなあ、めちゃくちゃ辛い。

私はつかの間、その銃弾痕に手を当てた。



だが、その泥沼化した民族間の争いに、人間というどうしようもない生き物の 必死でもがく姿が見えてきた。

その人間臭さに、なんだか惚れたような気がした。


ユーゴスラビア、いいんじゃない。


たぶん、本気でユーゴに惚れた。(笑)


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いざ、サラエボへ。

不思議なことに、それから後はベオグラードに戻ってからも携帯の電波は届いていた。

ムラトさんとのやり取りが続く。

「とりあえず、少しでも早くセルビアを出ること!」
「常にどこにいるかメールしてくるように!」
彼はよほどセルビアを警戒しているらしい。

その日の夜行でオーストリアへ向かうことを彼に伝え、残り僅かなセルビアでの時を過ごすことにした。


* * *


翌9月16日。 
午後2時前にザルツブルクに到着した私は、ドイツのケルンからこちらへ向かうムラトさんを待つ。

午後5時前、中央駅にて無事に彼と合流。
それから18日にサラエボへ向けて出発するまでの話は、ここでは省略させてもらう。


18日の午前8時30分、私達はモーツァルトのパパが眠る聖セバスチャン教会前にあるホテルを出て、いざサラエボへと車を走らせた。



あ、ここから先、ムラトさんと一緒にいる間の写真はほとんどない。 

カメラを構えると、必ず写真に入ろうとする彼に、段々と写真を撮らなくなったからだ。(笑)


いや、別に彼が写ってもいいのだが、何百枚と彼ばかりの写真というのも なんとなく照れくさいし、
たぶん、それより私は彼の腕にあるタトゥーが気に入らないのだ。

肩には彼の愛犬、そして左胸にも" HIROSHIM "と彫ってある。


「何?ヒロシムって?」 「ヒロシマだよ。」
「なんで、ヒロシマ?」 「だって、ヒロシマが好きで、いつか行きたいと思ってるんだ。」
「ヒロシマって日本の?」 「そうだよ、あのヒロシマだよ。」

広島で住んだことのある私でも、いくら広島が好きだからといって胸に刻もうとは思わないが、
彼は私と付き合う前から このタトゥーを入れていた。

「でも、ヒロシムだよね、これ。」
「あはは、あぁ これね、彫ってる時のあまりの痛さに、最後の A が耐えられなかったんだ。」
「なんじゃそりゃ。」

「今度は右胸に" picchu "って入れるよ。」 「えっ! やめてよ!」
「なんで、僕の勝手じゃん。」 「そうだけど、もうこれ以上 タトゥーはしないで。」

以前、こんなやり取りがあった。
今思うと、私の名前のタトゥーをしなくて本当に良かったと心の底から思う。
そんなもの体に彫られたら、なんか呪縛されてるみたいだ。


とまぁ、話はあらぬ方向に逸れてしまったが、そういう訳で写真はない。


*


ザルツブルクからアルプスを越えてスロベニアへの道中は、真っ青な空とわたがしのような雲、頂上に雪化粧した山々が美しかった。

スロベニアからクロアチアに入ると、若干 道路の舗装が悪くなったものの、広がるトウモロコシ畑はセルビアで見たそれと打って変わって気持ちがいい。

晴れた日の、どこまでもどこまでも広い大地とは、なんと気分を大きくさせるものか。

ところどころに家並みを見かけても、ビルのない爽快さ。


だが、その晴れ晴れとした気分はボスニア入国とともに少し変わってくる。


夕方になり、少し薄暗くなってきたせいもあるが、土地は荒れ、侘しい景色が目の前に続く。

バルカン半島には禿げ山が多く、アドリア海側からボスニア・ヘルツェゴビナ入りする時は、灰色に茶色い点々模様のような、少し乾いた感じの景色と出会うのだが、

同じクロアチアでもザグレブ側(北側)から下りて来たこの時の印象は、錆びた赤茶色だった。

どんな田舎の村にも20年前の紛争痕は残っており、寂しい感じは否めない。

二人とも、明らかに口数が減ってきた。


それでもサラエボに近づいてくると、山の斜面にも灯りがともり、少しづつ開けてくるのが分かる。

大都会のようなキラキラした眩しい夜景ではないものの、品の良い白い光の玉がいくつもいくつも真っ黒な背景に散らばってきた。

「なんか、お洒落だよね。」 二人とも同じ感想だった。



サラエボに着いたのは、夜の8時くらいだったろうか。

街にはこれからが今日の本番!とでもいうような、なかなか粋な若者たちが行き来していた。

モダンな服装に、吸い込まれそうな綺麗な顔、スタイルだってバッチリだ。

「picchuko、何してるんだ!」 
そう何度もムラトさんに叫ばれるほど、私は道行く若者たちをじっと見つめてしまってた。

美しすぎる。。。 
ここは昔から洋の東西が出会ってきた場所に違いないが、東と西が絶妙なバランスで混ざり合うと、かくも美しくなるものか。
私は感動を抑えきれなかった。

「picchuko! 行くぞ! 早くホテルを探さなきゃ!」
まったくその通りである。 我に返り、小走りで彼を追った。


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3つ目のホテルで手をうった。

サラエボの見どころ、旧市街の真ん中という立地で手頃な宿を見つけた。

サラエボは意外とホテル料金が高い。 だが、レベルも高いと思われる。


そんな中で私たちが決めた『Evropa Hotel Garni』は、朝食、駐車料金込みで一部屋一泊8000円くらい。

トルコ風の絨毯と家具も洒落ていた。
トルコ人のムラトさんが喜んだことは言うまでもない。


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貴重な写真は、一枚目がそのホテルにて、二枚目は次の日の朝に撮ったホテル界隈の風景。




より大きな地図で 2012.09.18 Salzburg - Sarajevo を表示

ノヴィ・サドで、晴れた気分。

ノヴィ・サド(セルビア)もドナウ河沿いに発展した街だ。

市の中心部を挟んで突き出た対岸の陸地部分は、ベオグラードの旧市街と地形的によく似ている。


そして、ここまた堅固な要塞に守られた街だ。

ベオグラードと同じく、あらゆる民族が奪い合ってきたこの土地は、10~12世紀にはハンガリー王国の支配下となり、たぶん その時代 ハンガリーにとっての重要な戦略拠点であったと思われる。

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この時計、一体何時を示していると思う?

そのペトロヴァラディン要塞に立つ、街のシンボルとされる時計なのだが。


「何言ってんの、時計の見方も分かんないの!」と、少々馬鹿にされた気分になった人もおられるかもしれないが、

これは、3時52分ではなく、10時20分を表している。


この時計、ドナウ河を行き来する船から見ても分かりやすいようにと、長針が時針に、短針が分針になっているとガイドブックに書いてあった。


いかにも良心的に思えるその配慮、

しかし それを知らずに見た者は、きっと素直に短針を時針と思うに違いない。

そう勘違いさせるのも、何かひとつの戦略か? 気になる。

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そんなどうでもいいことを考えながら、

要塞にある この街一番の高級ホテルのレストランの、その一番安いホットサンドをつまみながらドナウ河を見下ろしていると、

だんだん気分が晴れてきた。

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たぶん、それほど裕福な街ではないのだろう。

駅から要塞までに利用したタクシードライバーのおじさんだって、そう言っていた。

「私はベオグラードよりノヴィ・サドの方が好きかも。」 そういう私に、

「確かに、一見 ノヴィ・サドは美しい街に見えるだろうが、よく見てみるがいい、結構寂れた建物も多く、ベオグラードに比べると貧しい街さ。」


「ここも民族間で色々あるし。」
クロアチア人をあまりよく言わないおじさんは、やはりセルビア人だった。


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それにしても、セルビアにしては珍しく(?)中欧チックな街並みだ。

実際のところは別として、セルビアを知って日の浅い私には、表面だけを見れば実に嬉しくなる街だった。

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この後に訪れたサラエボでもそうであったが、

ここには、カトリックの大聖堂、セルビア正教会、シナゴーグなど、あらゆる宗教施設が目と鼻の先にある。

街並みは中欧、でも一歩踏み込めば、あらゆる宗教や文化がカラフルに混ざり合い、私の興味をぐいぐいとひいた。

調和さえすれば、こんな素敵な景色に変身する。

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どうしようもない民族間のいざこざはあるが、

ピタゴラスの定理のような、意外とシンプルな命題はないものか。

だって、セルビア人もクロアチア人もボスニア人も、韓国人も中国人もその他の人も、一対一で接するといい人ばかりじゃないか。

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長い歴史に絡み合った糸を解くのは人間では不可能にも見えるけど、いっそ私が解いてみる?(笑)

日本人しか知らない守られた環境で育った私に言えることではないが、そんな冗談を考えていたら、本当に気分が晴れてきた。

だが、それは万民の心からの願いだったりする。



写真は、どれもノヴィ・サドにて。
下から二枚目はセルビア正教会内部、最後の写真はユダヤ教のシナゴーグ。





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2つの安堵。

携帯電話が繋がらない、というのもベオグラードでの私を一層落ち込ませた。


知らずと自分の先入観が作り上げた緊張の中に、隔離されてしまったような気がした。

助けを呼ぶ声は届かない。
大袈裟ではなく、そこまで私を追い詰めたのだった。


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ノヴィ・サドへ行こう!
張り詰めた空気にこらえきれなくなった私の心が、ベオグラードからの脱出を試みた。

ベオグラードから鉄道を使うと、ノヴィ・サドへはブダペスト(ハンガリー)行きに乗るのだが、地理的にはベオグラードより僅かながらクロアチア寄りにある。

もしかしたら、そこなら電波が届くかも、期待もあった。

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列車は、ハンガリーから南下するドナウ河とその支流を跨ぐ橋をいくつも越える。
汚れた窓ガラスの向こうには、黄色いトウモロコシ畑がどこまでも続き、その広大さがより侘しさを感じさせた。

ゴトン、ゴトン。
列車の揺れに身をまかせながら、ただ漠然と流れる黄色い景色を見つめていた。


30分くらい経ったろうか、携帯が電波をキャッチした。

これを逃してはいけない、私はすぐさま日本の母と、トルコからドイツへ向かっているはずのムラトさんにメールをした。

「しばらく電波の届かない場所にいますが、心配しないでください。」 これは母へ。

そして、「どこまで帰って来ているの? 私はベオグラードに居ます」、そうムラトさんに送った時、列車はトンネルへと突っ込んだ。

かろうじて送信完了、でも彼からの返事は届かないかもな。
だが、そこから先は電波に支障がなかった。 ひとつ安堵した瞬間。



「次がノヴィ・サド?」 
車内のアナウンスがない為に、列車が名も知らぬ駅に停車する度、私は同じ車両の誰かに尋ねまくった。

その誰もが地元の人であることは分かった。
あまりよそ者は この路線を利用しないのだろうか? 

「僕たちもノヴィ・サドで降りるよ。^^」
2人の子供連れの若いお父さんが声を掛けてくれた。 


もう一つ安堵した瞬間だった。




写真は、どちらもセルビア第2の都市、ノヴィ・サド。
ノヴィ・サドを流れるドナウ河と、市の中心部にあるカトリック大聖堂。



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それを見ずには、

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米原氏のソビエト学校時代、彼女の親友・ユーゴスラビア人(あえてそう呼ぶ)のヤスミンカは地理の授業で、ベオグラードは『白い都』という意味だと説明した。



ベオグラードには二つの大河、ドナウ河とサヴァ河が流れ込んでおり、それらに挟まれた地区が旧市街であり、かつての城跡残るカレメグダン公園がある。

そこには城壁の一部が残っており、今は市民が集う憩いの場所だ。

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そこに、14世紀、オスマン・トルコの軍勢が攻撃をかけた。


この街は古代からバルカン半島の交通、戦略上の要衝として、また温暖な気候と肥沃な大地をめぐって、いくつもの民族が果てしない抗争、破壊、略奪を繰り返してきた。


トルコ軍が計画したその襲撃は、夜闇にまぎれて城塞の対岸に集結し、城壁を包囲し、
そして夜が明ける直前、人々の眠りが最も深い時間帯を狙うというものだった。

だが、秋も半ばにさしかかったその朝の冷え込みは厳しく、白んだ空に 河面から立ち上がった乳白色の靄がベオグラードを包み、それは折から射し込んできた陽光を受けてキラキラ輝いていたという。

そのあまりの美しさにしばし見惚れ、戦意を失い、その日の襲撃を中止したトルコ軍。



「こうして、この都市は、『白い都』と呼ばれるようになったのです。
もっとも、まもなく『白い都』は、結局トルコ軍の手に落ちてしまうのですが……」




当時13歳だったヤスミンカの発表は、後に米原氏の日本語に取って替わっても、目の前に白く浮かび上がった美しい街を容易に想像させてくれた。


あ、列車で出会ったセルビア人女性のイワナも言っていた。
二つの大河に挟まれた場所が旧市街ならば、それらが合流して幅が広くなったところにある大きな中州、それが近年開発された新ベオグラード。
そこから対岸の旧市街を臨む眺めが最高だと。


そして、そこに立った米原氏は言う。

絶景とは、こういう風景を指し示す言葉だったのだ。

サヴァ河とドナウ河が交わってできる鋭角的な陸地部分が、崩れかかった城壁に囲まれていた。
城壁の向こうに旧市街の建物群が並び、その背後に起伏に富む街並みが息づいていた。
さらに、その向こうには、のどかな農村地帯が広がっている。



*


私はそれを見ずにその街を去った。

カレメグダン公園からの眺めだけでも十分すぎるほど美しかったが、何人もがここまで讃える風景を見なかったことは実に勿体なかったと思う。



だが、あの時の私には余裕がなかったのだ。

あの時というのも、ベオグラードに到着してすぐの印象で私の心は閉じてしまった。泣きそうだった。

空は低く暗く、季節外れの寒さが身にしみた。

「それでもこの夏は40℃を超える日々が続いてね、公園の緑が全て枯れちゃった処もあるくらい。」
今にも降り出しそうな重い空を見上げ、「ほら、あれが空爆痕、、、」と一部が黒焦げとなり崩壊している建物をイワナは指さした。


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あの時、もしも青空が私を迎えてくれたなら、

せめて一面沈んだ雲に 少しだけでも切れ間が見えたなら、私はもう数日 ベオグラードに滞在したかもしれない。


そして、かつてトルコ将兵が息を呑んだように、

ヤスミンカやイワナが誇らしく見つめたように、私もその風景を前に佇んでいたかもしれない。


破壊と創造を繰り返す都市、『白い都』ベオグラードの象徴とも呼べる気高い景色。



やはりそれを見ずには死ねないな、私。             





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旅のスタイル、読書スタイル。

最近、やっと自分の読書スタイルが分かってきた気がする。


一冊でも多く良書に接しようとする人、一冊を何度も何度も読み返して熟読する人、
まぁ、読書家と呼ばれる人は、そのどちらもというのが多いだろうが、

私は恐ろしいほど本を読まない。

1行読んで止めた本は山ほどあるし、今でも その殆どが3行読んだら寝てしまっている。

だから私の文章がこんな陳腐で幼稚なわけであるが、だが本は好きだ。


この旅にも3冊の本を同行させた。

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その一つが、途中 旅の行き先にも影響を与えた、宮本輝著『ドナウの旅人(上)(下)』、

もう一冊が、私のユーゴ贔屓を確立させた、米原万里著『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』である。


どちらも以前、このブログで引用させてもらったが、今日はセルビアはベオグラードについての彼らの描写を抜きだしてみたい。


荒っぽい運転で、タクシーはネマーニン通りからミロシュ通りへと曲がり、チトー将軍通りへと入った。
道行く人の顔立ちは、ラテン系もあれば、あきらかにスラヴ系と判るものもあった。

石造りの建物は殆ど目につかず、大きなガラス窓が目立つ近代建築には、日本の電機メーカーの看板がかけられていた。
チトー将軍通りが、ベオグラード市内における目抜き通りらしく、車で混雑していた。

少し大通りから外れたら、閑静な場所もあるには違いなかったが、麻沙子には、ベオグラードという街が汚れた猥雑な街に思えた。



これは、『ドナウの旅人』の中で、主人公・麻沙子が見たベオグラードの姿である。
それはたぶん、宮本氏が持つこの街の第一印象であろう。

最初に読んだ時は、彼が描くブダペストとの違いに驚いたほどだ。



そんなベオグラードも米原氏の目から見ればこうなる。


そうこうする内に、列車はベオグラード市街を走っていた。
その街並みも予想以上に美しく、そこに暮らす人々の豊かな生活を物語っていた。

ついに列車が終点に到着した。
車掌に別れを告げて列車を降りると、外は11月とは思えない暖かさだった。早速着ていたオーバーを脱いだ。
「ようこそ、バルカンへ。ここはもうヨーロッパではありません。バルカンです。」達者な日本語が聞こえてきた。

  (略)

なんだか、とても嬉しくなった。
空は高く青く、プラハやブカレストでたまった鬱屈が晴れていくような爽快な気分になる。
「気に入ったわ、その言い方。ここはもうヨーロッパではなくバルカンです、ていうの」



こうも書かれている。

行き交う人々は、それぞれ個性的な、それでいて趣味の良い身なりをしている。
ショーウィンドウに並ぶ商品も多彩で豊かだ。
ブカレストとは較べものにならないのは言うまでもないが、プラハやブダペストにいささかも見劣りしない。




宮本氏は1983年頃、米原氏は1990年代前半のボスニア紛争真っ只中のベオグラードを描いたもの。

だから時代が異なるのだが、たぶん二人の持つベオグラードに対する感情からして違ったのだろうと私は思う。

私は当初、どちらかといえば宮本氏が見たベオグラードと出会った。
猥雑、その通りだと思った。


だが、そこで会った温かい人達との交わりと、旅を終えて 旅を熟成させるにあたって、あの街の印象は米原氏のそれに近づいていった。

もちろん、二人が訪れた後にコソボ紛争は起こり、NATOによる激しい空爆を受けているベオグラードであるから、そう無条件に爽快なことはない。

けれど、今は思う。
その街並みも、そこに暮らす人々も予想以上に豊かで美しいはずだと。


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私と本の繋がりも、また旅である。

本が旅に深みを与えてくれ、本の描写が旅によって私の実在になる。



ギリシャ人のリッツァは同級生のマリ(米原氏)にこう言っていた。

「マリ、ヨーロッパ一の美男の産地はどこか知っている? 覚えておきなさい、それは、アラン・ドロンの生まれ故郷、ユーゴスラビア。
悔しいことに、ギリシャは隣国なのに、あれほどの美男には恵まれていないのよねえ」



(笑)




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今日は、秘境の秋。

小さい秋を集めている私は、今日は徳島県三好市の大歩危峡まで走ってみた。

まさに山の麓の裾模様はこれからといったところ。

だから欲張って、もう少し山奥の秘境と呼ばれる祖谷のかずら橋まで足を伸ばした。

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たぶん、今はかずら橋よりもその道中の紅葉が人を喜ばせる。


深緑をバックに赤や黄色や黄緑色が錦を織り、時折 紅を差したような はっとする鮮やかな色に目が覚める。

昨日までの小さい秋は、知らぬ間にここまで深まっていた。

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誰のしっぽ?


秋はかくれんぼの季節でもあったりして。(笑)

『Romeo & Juliette』 観て来ました♪

開かずのエレベーターで少しばかり皆さんをヒヤッとさせてしまったので、今日は話題を変え、一昨日 大阪で観て来たミュージカルについて書こうと思う。

それはフランス版『ロミオとジュリエット』。


たぶん、このチケットを取った時は、私とムラトさんがルンルンの頃だったから こんな演目を選んでしまったのだろう。(笑)
確か、桜が咲き始めた季節だったと思う。

それが木枯らしが舞う今となっては、チケットの存在すら忘れてしまいそうだった。


大阪まで出て行くのも面倒だな~、しかも祝日、人ごみは嫌いだ。
人とぶつからないように、そんなことに意識を向けることからして気分が悪い。

迷ったのだが、行くと決めたその理由は「S席、13,000円」。
それに日本語じゃない、フランス版オリジナルということも重い腰を上げさせた。



私が観た数少ないミュージカルの最高峰が、ウィーン版『エリザベート』だった。
もちろん、その分厚いパンフレットも持っているし、ミヒャエル・クンツェの原作だって、ミュージカルのDVDだって持っている。
エリザベートが黄泉の帝王トートに魅入られるという、美し過ぎる后妃ゆえに最高のシナリオだ。


また、オリジナル版だからこそ放たれる貫禄は、それ以外は足元にも寄せ付けない凄みがあった。


この『ロミオとジュリエット』に期待したのもそれだ。
フランス人の感性でもって私を虜にしてもらいたい、フランスは愛の国、フランス語は愛の囁きだ。(笑)

だが、期待はし過ぎない方がいい。
正直、ミュージカルとしての完成度は『エリザベート』の方がはるかに勝っていた。

中盤、少々退屈になる。
舞台もダンスも個性的で現代的で、おぉ!と目を引くものもある。
表現力もさすがはフランス人だ。

ということは、脚本か?
柔らかいフランス語の響きと音楽がマッチしていないのか? いや違う。
とにかく、見終わるまでは舞台の良し悪しを判断するのは失礼だろう。
甘い愛の語らいも、私は実に冷静な表情で見続けた。


ところが、ところがだ。

終わってみると、観客総立ちでのりのりだった。 もちろん、私も!

ロミオとジュリエットは予定通り死へと旅立っていった。

なのに、私のお腹には「生きてるって素晴らしい!!!」というワクワク感が沸々と湧いていた。

不思議だ、でもホントだ。

どこか荒削り感があるのだが、それが最後 この舞台の大きな魅力となる。


昼過ぎてから 一層冷え込むと言われていたその帰り道、私は滲んだ汗をぬぐっていた。


* * *

『エリザベート』では、死神トートを演じたマテ・カマラス氏の甘美な死へのいざないにゾクゾクしたものだが、

今回の『ロミオとジュリエット』でも、死神の存在が舞台を巧みに導いた。
そのゾクゾク感に違いはあるものの、存在感も気配の消し方もトートに匹敵するものがあった。

トートとの違いは、トートがエリザベートとともに主役であったことに対し、こちらは台詞一つない。
ふいに現れ、主人公達にまとわりつき、突然消える。

トートは男として描かれ、ここでは女として表現された。


私ですら、こんな風に『エリザベート』を思い起こしただけあって、ある日の日経新聞にもこう書かれてあった。


もともとフランスのオリジナル版ではダンサーは「死」しか登場しない。
白い衣装をつけ、ロミオを愛するがゆえに、ジュリエットへの憎しみをぶつける、という設定のようだ。

なるほど、フランス語で「死」は「ラ・モール」で女性名詞。
確かに「死」のダンサーはマーキューシオ、ティボルト、ロミオに触れて死を招くが、ジュリエットに触れたところはなかったように思える。


一方でオーストリアのミュージカル「エリザベート」では、「死」(ドイツ語でトート、男性名詞)の帝王が、エリザベートに惹かれる。
この二つのミュージカルに出てくる「死」の象徴は性が逆転しているというわけだ。



「死」を男と見るも女と読むも、どちらにしろ凄い感性だ。
男性名詞、女性名詞という、外国語を学ぶ上ではイラッとする煩わしさも、感性で言えば繊細で美しく、そして鋭い。



で、私はイケメン「トート」でお願いしたい。(笑)

割れたマルコの携帯 (2)

ドンドンドンドンッ! 

だめだ、どうしよう。しばし茫然となった。


だが、焦りながらも もう一人の冷静な私が判断した。
試しにもう一度、1階まで降りてみようか。

再び1階のボタンを押す。
ぐい~~~ん。やはりのろいエレベーターだ。

今度はうまくいった。 あれほど頑固だった扉がすっと開いたのだ。
ちょっぴり拍子抜けをし、安堵で胸を撫で下ろした。


あ、携帯! 我に返る。

もうエレベーターはご免だ。
私は階段で5階まで駆け上がることにした。
重いスーツケースはここに置かせてもらおう。
このビルは各部屋だけでなく、その入口も頑丈なオートロックだ。


ドンドン。 今度はホステルの扉を叩いた。
「picchuko?」
「ごめん、携帯を忘れたみたいだから、もう一度 中へ入らせて。」

「君のスーツケースは?」
私の言うことに返事をせず、マルコは聞く。

「少しの時間だから、1階のエレベーター前に置かせてもらってる。ちょっとベッドを見させてね。」

「picchuko! 荷持が危ない!」
彼は慌てて部屋を飛び出した。

「picchuko! 君は携帯を見つけたら、後からゆっくり降りて来い!」
ビルの空間に、マルコの声が響く。

エレベーターを待ち切れず、階段を2段飛ばしで降りて行くマルコに、私も慌てた。
すぐさまベッドを確認するも、携帯はない。
あ! もしかしたらスーツケースに紛れ込んだのかも。。。
先にそっちを確認すれば良かったと思いながら、私はマルコを追った。


ガッチャーン! 派手に、何かが割れたような音がした。

「マルコ?」 私は何とかマルコに追いついた。
あ! マルコの携帯がまっぷたつに割れている。
あまりの勢いに、ズボンのポケットから飛び出たのだった。

「マルコ、、、、。」
「そんなのことより君の荷持だろ!」
マルコは割れた自分の携帯を拾うとすぐ、さっきよりも更に速く階段を駆け下りた。


「もしかしたら、私の携帯、スーツケースの中かもしれない。」
1階に着いたばかりのマルコに、私の叫び声が届く。

「良かった、無事だ。」
マルコは安堵した表情で胸を撫で下ろす、エレベーターの扉が開いた時の私のように。

私はスーツケースを広げてみた。 携帯はあった、真ん中に。

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「picchuko! いいかい、ここは日本じゃない、セルビアだ。
今は偶然にも荷持は無事だったけど、この先 絶対に手から離すんじゃない。」

貴重品の鞄は持っているのに?、という表情の私に彼は続けた。

「picchuko! いいかい、セルビア、ボスニア、ブルガリア、ルーマニア、クロアチアだってそうだ。
この辺りはまだまだ安心できない国なんだよ。絶対に荷持は離しちゃいけない。」

「だって、このビルは入口の鍵が掛かってると思って、、、。」
「いいかい、picchuko! ここはセルビアだ。 そんなことで安心しちゃぁいけない。」
マルコの表情は真剣そのものだった。

「それより、あなたの携帯、、、」
「いいかい、picchuko! 僕の携帯はいいから、この先 絶対に気を緩めるんじゃないよ。」
そう言って、彼はビルの外まで重いスーツケースを運んでくれた。

胸が熱くなった。
「今から行けば、まだ列車に間に合う。くれぐれも気を付けて、picchuko。」
「ありがとう。」

お見送りをしてくれると言うが、私が彼を見送りたいと思った。
「マルコ、ありがとう。 もう中へ入っていいよ。」

最後にもう一度握手を交わし、彼は1段飛ばしで階段を駆け上がっていった。


279.JPG


この話を一番にムラトさんにした。 イワナの話もした。


「私、セルビア人って ちょっと怖いイメージがあったけど、私が出会った人達は本当に優しかったよ。」

「へぇ、それは親切な人達だ。」 ムラトさんも意外さを隠せないといった感じで驚いていた。


というのも、ボスニア紛争時の西側諸国の情報から、ムラトさんの頭には極悪非道なセルビア人のイメージが出来上がっていたのだ。
絶対に許せない奴等だというほどに。

「でも、実際に会った人達はみんな優しかったよ。」 私は繰り返した。


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なのに この話を忘れ、この後訪れたサラエボで、ボスニア人と一緒になってセルビア人の悪口をくり返したムラトさん。

私はブチッとキレた。

バルカン半島がヨーロッパの火薬庫じゃない! 火薬は人の心にあるんだ!

青島刑事の台詞ではないが。。。



写真は、どれもセルビアはベオグラードのカレメグダン公園。見えるのはサヴァ川。



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割れたマルコの携帯 (1)

予定では3泊することになっていた、セルビアはベオグラードの『12 Monkeys Hostel』。

チェックアウト時間は10時だが、夜行に乗ると決めたのが2日目の夕方だったので、バタバタと慌ただしく帰り支度をすることとなった。


「マルコ、今夜の列車は21:30発だから、余裕を持って ここを20:45に出るよ。」

「分かった。何時にチェックアウトするかは君の自由だ。でも、その時 宿泊証明書に出発日を記入するから、それだけは覚えてて。」

昨今、セルビアでも宿泊証明書の提示を求められることは稀になっているそうだが、もし滞在先の証明が必要な時に持っていなければ面倒なことになる。

それは、宿泊先が発行元の警察に代行して取得してくれる。
個人宅に滞在する場合、その家主に義務が生じるのだとか。


大きな図体の割に結構几帳面なマルコは、こんな面倒な国でのホステル管理に向いているかも、そう思った。

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携帯を充電し、シャワーを浴び、ベオグラードからザルツブルクへの行程をムラトさんにメールする。
次の日に、ムラトさんとザルツブルクで落ち合う約束を先ほどしていた。

「良かったら、向こうでお喋りしない?」 振り返ると、英国人の若いお兄ちゃんだった。
すでに宴会が始まっているのに、その輪に入らず 無言で荷持を整理する私に気を遣ってくれたのだろう。

「ありがとう。でも私、もうすぐチェックアウトするから。」


20:30。 マルコを呼んだ。

マルコは宿泊証明書に日付とサインを記入し、スタンプを押す。
「この先も気を付けて。」 そう言って、握手を交わした。

玄関の扉まできちんとお見送りしてくれた彼は、別れ際にも早口で喋り続ける。
「僕の友達は日本人と結婚したんだ。日本人は本当にいい人ばかりだと言ってたよ。僕もそう思う。君にも会えて良かったし。」

私が時計を気にしなければ、たぶん もっと喋り続けただろう。

「ありがとう、、、じゃぁ。」 もう一度握手をし、エレベーターに乗った。


ビルの5階(欧州式に言えば、4階)に『12 Monkeys』はある。

古いエレベーターは2重扉になっていて、外側のドアを引くと内側が自動で開くようになっていた。
降りる時は、その逆。


のろいエレベーターが2階まで降りた時、あれ? 携帯をどこに入れたんだろう。
はたと気が付いた。

いつも入れている鞄のポケットに携帯がない。

充電した後、どこに置いたか記憶を辿るも、どうしても思い出せない。

もしかしたら、ホステルのベッドの枕元に忘れて来たのかも。
私は1階ではエレベーターを降りず、ボタンを5階に押し直した。

ぐい~ん。どこまでものろいエレベーターだ。
余裕の時間を見ていて良かった。
ぶちぶち言いながら、5階で扉を開けようとした。

しかし、これが開かない。
内側のドアは開いたのに、外側の扉が頑固として動かない。

うそ。。。 顔面蒼白だ。

ドンドンと叩いてみる。
どうかホステルにいる誰かに聞こえて欲しい。

「マルコ、助けて!」 叫んでもみた。

ドンドン! ドンドン!  ドンドンドンドン!!!

ホステルの扉もまた、頑丈で分厚いものだ。 少々の外の音など聞こえるはずもない。
しかも、今日の宴会開始はいつになく早く、すでに大音響で盛り上がっていたのだった。




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