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旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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サラエボ事件・遠い和解、「テロリスト」「英雄」…政治が利用、欧州・消えぬ戦火の影。(朝日新聞)

現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都でオーストリア皇太子が暗殺され、第一次世界大戦勃発の引き金となった「サラエボ事件」から28日で100年を迎えた。
暗殺犯はテロリストなのか英雄なのか、隣国セルビアとの間で1990年代の紛争ともからんで論争が蒸し返されるなど、和解がなお進まない現状が際だつ一日となった。


第一次大戦は、毒ガスという史上初の大量破壊兵器や、飛行機など近代技術を用いた新兵器が次々に投入された。
その結果、欧州中心に死者1千万人に及ぶともされる犠牲を招いた。
その起点から一世紀をへた欧州だが、3月のクリミア併合に象徴されるウクライナとロシアとの対立が続き、今も戦火の影が消えない。

サラエボでは28日、平和構築をテーマにしたパネル展が暗殺現場からも近い遊歩道で始まった。
同夜には、オーストリアからウィーン・フィルを招いた記念コンサートが開かれる。

だが、首都を舞台とした国家主導の行事は開かれなかった。
欧州連合(EU)各国の首脳らのサラエボ訪問もなかった。

一方、内戦をひきずってボスニア国内を二分する「準国家」の一つであるセルビア人共和国の側は、民族主義をアピールする機会としてこの日を設定。
同共和国のビシェグラードで、暗殺実行犯のセルビア人青年をたたえる式典を開き、セルビアのブチッチ首相やセルビア人共和国のドディック大統領らが出席した。

首都サラエボで国家レベルの行事が開けなかった背景には、サラエボ事件の位置づけをめぐり、ボスニア内部や近隣旧ユーゴスラビア諸国間にある歴史認識の溝が作用している。

セルビア人側の指導層は、オーストリアによる支配からの解放をめざした実行犯の青年を英雄視する。
この日の式典でも「彼が放ったのは自由への一撃だ、」(ドディック大統領)と位置づけた。

一方、旧ユーゴ内のほかの民族勢力の間では「テロリスト」との見方が大勢。
そうした説に対してセルビア人側は、大戦の開戦責任を自分たちに押しつけるものだ、と反発してきた。

ボスニアは国家の中に「セルビア人共和国」と、それ以外の主要民族であるボシュニャク人、クロアチア人で構成する別の政治体制が並立し、互いに牽制(けんせい)しあう状態が続いてきた。
このいびつな状態が最大の障害となり、事件についての統一した見解もまとめられずにいる。
現地が和解を描けない以上、EU首脳らの訪問も不可能だった。

歴史の政治利用が続く中、歩み寄りの模索もある。
サラエボではこの日まで、セルビアも含め欧米各国の学者らが出席し、サラエボ事件を学際的にとらえなおす国際会議が開かれた。
ノビサド大(セルビア)から参加したボリス・クルシェフ教授は「事件をめぐり、全く異なる解釈ばかりが強調される現状は、歴史の事実とは関係ない政治の反映だ、」と語った。




(梅原季哉、喜田尚)

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民族主義の矛盾、今も。ーサラエボ100年(朝日新聞)

「20世紀が始まった街角」。
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで100年前、オーストリア皇太子夫妻の命を奪い、第一次世界大戦へとつながった2発の銃声が響いた「ラテン橋」のたもと。
現場跡に建てられた博物館は、その看板を掲げる。

ハプスブルクのオーストリア・ハンガリー、オスマン・トルコ、帝政ロシア……。
第一次大戦をきっかけに、中東からアジアまで含めて当時の世界を牛耳った多くの帝国が崩壊した。
欧州ではその領域に、民族自決を旨とする新たな国民国家がいくつも生まれた。

しかし、その際に残された矛盾は、現代につながる相克の原因となった。

第一次大戦後、民族自決権を与えられず独立を認められなかったウクライナがその一例だ。
1990年代、ソ連が崩壊してやっと独立を果たしたが、今もなおロシアの影響圏にとどまるのか、欧州寄りにかじを切るのか、両者のはざまで苦しみ続けている。

ボスニア自体も、まさに第一次大戦開戦時からの矛盾を引きずる。

暗殺犯の青年プリンツィプが銃弾に託した「南スラブ」の民族自決という理想を引き継いだユーゴスラビアという国家は、まず王国としてボスニアも含む形で発足したが、第二次大戦によって分裂。
この地は、複数の民族主義勢力による残虐行為を経験した。

戦後は共産党の独裁者チトーが率いる連邦国家として再びユーゴの旗を掲げたが、結局は冷戦終了とともに崩壊。
連邦を構成した共和国の中で、多民族共生の好例だったはずのボスニアは、泥沼の内戦に陥った。

ユーゴ王国の統治下や共産主義の時代には、プリンツィプは「英雄」として描かれてきた。
ユーゴを担う最大の民族だったセルビア人の間では、今も彼の行為をたたえる気風が強い。
一方、オーストリア・ハンガリー帝国の植民地統治がボスニアの近代化に一定の役割を果たしたと評価する派からみれば、彼は「テロリスト」とされる。

相反する二つの像が存在したまま、事件100年を迎えた。
20世紀をめぐる歴史認識の溝に足を取られ、前に進めない姿は、東アジアの現状とも通じる。

民族主義によって立つ国家は、国家創造の歴史をめぐる「神話」に依存しがちだ。
だが、その民族主義は、和解を妨げる「怪物」ともなりかねない。
歴史認識の違いを克服し、共存の未来につなげられるのか。
戦争の世紀を終えた人類の英知が問われている。




(梅原季哉)

サラエボ事件から100年。

ブラジルではサッカーW杯が開催され、日本ではなくボスニアやクロアチアといった旧ユーゴの国を応援している自分に気がついた。

そして、ネット上では「第一次大戦100年」なんて見出しを見つけると、何よりもまず開いてしまう私がいる。(笑)

ユーゴスラビアだなんて、昔は全く関心がなかった。 
数年前の私なら、そんなややこしそうな国、知る前から拒絶していた。

なのに2012年に一、二度訪れただけでこんなにも興味って変わるものなのかと、自分でもおかしいくらいだ。


そんな旧ユーゴの、

そんなサラエボ事件からの100年。

過去にその地を訪れ、歴史を振り返ったこともある印象深いその事件を扱っている記事を、自分の為にここにコピペしておこうと思う。


まずは「ボスニア首都で式典 民族間の溝深く 毎日新聞・坂口裕彦」

セルビア人民族主義者がオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻を暗殺、第一次世界大戦のきっかけとなった「サラエボ事件」は28日、発生から100年を迎えた。
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボでは同日夜、イスラム教徒のボスニア人主体のサラエボ市当局が、オーストリアからウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を招き記念式典を開くが、セルビア人側は「暗殺者」を賛美する独自式典を開くなど、民族間の溝がなお深いことを印象付けた。

1914年6月28日、オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント皇太子夫妻は、多民族国家だった帝国からの解放を求める19歳のセルビア人青年ガブリオ・プリンツィプに暗殺された。
翌月には世界を巻き込む大戦が始まり、4年超にわたる戦争で約1500万人が犠牲となった。

サラエボ市の式典会場は、ボスニア内戦(92~95年)の初めにセルビア人武装勢力の砲撃で焼け落ち、今年5月に再建された国立図書館。皇太子夫妻が暗殺直前に立ち寄った場所で、オーストリアのフィッシャー大統領も出席し和解をアピールする。
だが、セルビア側は「セルビア人犯罪者の手で焼け落ちた」と銘板に書かれたことなどに反発し、記念式典に応じない構えだ。

100年後のプリンツィプへの評価は、民族間のしこりを象徴する。
セルビア人の多くはプリンツィプを「民族自決に若き身をささげた聖人」(カフェ経営のミロスラブさん)などと「英雄」視するが、ボスニア人やクロアチア人は「暗殺者」と冷ややかだ。

現地の報道によると、サラエボのセルビア人居住区では27日、プリンツィプをたたえる銅像の除幕式が開かれた。
ボスニア・ヘルツェゴビナでは8カ月ごとの輪番制で、ボスニア人とクロアチア人、セルビア人の代表が国家元首を務めるが、出席したセルビア人代表のラドマノビッチ氏は「自由のための100年前の行動は、今後我々が進むべき100年の方向を示している」と事件を正当化した。




民族紛争「何も生まない」…サラエボ 毎日新聞・坂口裕彦」

世界を大きく変えた現場には100年前のあの日と同じように初夏の日差しが照りつけていた。
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ。
1914年6月28日、中心部を流れるミリャツカ川に架かるラテン橋のたもとで、ハプスブルク帝国のフランツ・フェルディナント皇太子夫妻が19歳のセルビア人青年、ガブリオ・プリンツィプに暗殺された。
帝国からの解放を叫ぶ民族主義者の凶弾は瞬く間に大国を巻き込み、第一次世界大戦に発展した。


・・・42歳、古里再生を
「彼はあまりに若く、未熟だった。世界大戦のきっかけになるとは想像もしなかっただろう」。
サラエボで4世紀以上も続く名家出身の出版社経営、ボヤン・ペステビッチさん(42)は、20年余り前に再びこの地を襲った民族主義の嵐の中、ふるさとを去らざるを得なかった日々に思いをはせる。
当時19歳。
くしくも事件当時のプリンツィプと同い年のことだった。

宗教や民族が異なる六つの共和国でできていた旧ユーゴスラビアは、91年6月のスロベニア独立を皮切りに解体へと突き進んだ。
サラエボでも民族間の対立が深まる中、セルビア系正教徒の父ミロスラブさん(68)と、イスラム教徒の母ヤスミナさん(63)を両親に持つペステビッチさんは、自らの生い立ちに翻弄される。
同年10月、ユーゴ兵としての従軍に直面した時、「どちらかに加担する戦争には参加できない」と離郷を決心した。
「両親のためにも銃を手にするわけにはいかなかった」と振り返る。

おばを頼った避難先は、かつてのハプスブルク帝国の都ウィーン。
プリンツィプとの不思議な縁を思わずにいられないという。

92年に本格化したボスニア内戦は、北大西洋条約機構(NATO)軍のセルビア軍に対する空爆を経て95年に終結した。
この間の死者は約20万人。
200万人が家を追われた。
サラエボはセルビア人武装勢力に包囲され、ペステビッチさんが生まれ育った家にも迫撃砲が何発も撃ち込まれた。

オーストリアから英国へ移り、出版業を営んでいたペステビッチさんは2009年、妻や2人の娘と共に18年ぶりにサラエボに戻った。
今は、サラエボ事件に関する観光資料をまとめようと取材を重ねている。
「この街の100年の歴史から学ぶべきは何か」との問いにペステビッチさんは、「民族紛争は新たな紛争を生むだけで、何の解決にもならない」と即答した。

主にボスニア人とクロアチア人が暮らす「ボスニア連邦」と「セルビア人共和国」から構成されるボスニア・ヘルツェゴビナは、今も三つの民族代表が8カ月ごとに国家元首を務める「人工国家」だ。
サラエボでもなお、民族別の住み分けが続く。
「多様な文化を尊重する街を復活させたい。僕はコスモポリタンだ」と話すペステビッチさんの表情には、民族主義の壁を乗り越えふるさとの再生に向かう決意がにじんでいた。


「与えた影響は甚大だ。大戦後、ドイツやオーストリア、ロシア、オスマン・トルコの4帝国が解体し、新しい国々が誕生した」。
かつての帝国の都ウィーンの軍事史博物館のオルトナー部長はこう解説して、付け加えた。
「ただし、民族自決を果たした国々も、実は新しい国の中に少数民族を抱え込むことになった」。
実際、プリンツィプへの評価も「暗殺者」として淡々と扱うボスニア人やクロアチア人に対し、セルビア人は「英雄視」する向きが強い。

二度の大戦を経験した欧州は、EU(欧州連合)への統合を進め、旧ユーゴ諸国もスロベニアとクロアチアがすでに加盟。
しかし、ボスニアは展望がまったく開けず、4月のEU外相会議では「周辺から取り残された状況」と指摘された。

オルトナー氏の分析はこうだ。「二つの大きな大戦も、ユーゴスラビア連邦も、結局、この地の民族問題を解決に導かなかった。第一次世界大戦は結局、紛争終了まで続いたのではないか」



民族問題。 
旧ユーゴを旅して以来、私が最も気にかけている大きなテーマである。

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