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旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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今年はケアマネ☆

介護現場に復帰して1年弱。

予想以上の理想と現実の違いに、今一度立ち止まっている。

私がやりたいことは何か。 もう一度、考える。


10月に介護支援専門員(ケアマネジャー)を受験するつもりではあるが、それは私が最も望んでいるものではなく、あくまで目標への足掛かりに過ぎない。

遅々として勉強は進んでいないが、これを通過しなくては次へのステップに遅れがでる。


昨年から働いている現職場で、改めて日本の介護現場の持つ大きな課題を目の当たりにした。


私にできること。

私のやりたいこと。


考える。


とりあえず10月26日のケアマネ試験、頑張ろう。

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私はヨーロッパ人だ。ーサラエボ100年(朝日新聞)

サラエボに100年間住む家族の歴史をたどるため、ボスニア・ヘルツェゴビナの主要3民族のうち、ボシュニャク(モスレム)人とセルビア人に話を聞いた。

残りのクロアチア人の取材対象探しが難航した。

サラエボのクロアチア人は100年さかのぼると、別の場所に住んでいた一家が多いためだ。
1878年にオーストリア・ハンガリー帝国がボスニアを保護領にするまではサラエボに住んでいたクロアチア人は少なく、多くはその後の時代になってから帝国の植民地政策を支える技術者や公務員として入ってきたのだという。

「あの家はサラエボに100年以上いるはずだ、」と紹介され、「話せません、」と断られたケースもあった。
どうやらもう一つの背景として、第二次世界大戦中にナチスに協力した極右クロアチア民族主義者たちの団体、ウスタシャが残した負の歴史が影響しているようだった。

そうした中、取材に応じてもいいという人が現れた。
サラエボの日刊紙オスロボジェニエの元経済記者、ズドラフコ・ラタルさん(77)。
この人も新市街の高層アパートに住んでいた。

だが結論から言うと、ズドラフコさんは複雑な出自の持ち主だが、帰属意識としては「私はクロアチア人だと考えたことは一度もない、」と言い切られてしまった。
ただ話をよく聞くと、周囲にそう思われていたのが不自然といえない事情もわかった。

ズドラフコさんの父方の祖父はオーストリア・ハンガリー帝国領だったチェコの出身で、鉄道の運転士だった。
オーストリアが植民地化したボスニアで1880年代に鉄道を延伸させた中、それとともに移住し、最後はサラエボに定住するようになった。

一方、母は民族的にはイタリア人で、実家はボスニア北東部の都市ツズラで養蜂業などを営んでいた。
サラエボで蜂蜜を売っていて、父に見初められたという。
両家ともカトリックで、ボスニアでは、宗教が同じクロアチア人と同化しやすかった。
実際にズドラフコさんの父方の伯父は、クロアチア人として届けていた。

ユーゴスラビア王国の時代、父は事務員をしながらバイオリンを教えて生計を立てていた。
第二次大戦中も一家はサラエボにとどまったが、食糧難で1943年、母が幼いズドラフコさんを連れ、実家を頼りツズラに向かった。
そこで戦乱の中、ズドラフコさんは母と離ればなれになってしまう。
母は一時、セルビア民族主義組織チェトニクに拘束されていたという。

サラエボの父のもとに戻されたズドラフコさんが、いまも覚えている光景がある。
チトーのパルチザンによる解放を目前に控えた、45年3月末のことだ。
「ウスタシャが処刑した人たちの遺体を街路樹につるしたんだ。自宅から見えた。40人以上だった。」

ズドラフコさんが成人後、クロアチア人とされることを拒否した背景には、この記憶も意識の底で作用していたのかもしれない。
「私はヨーロッパ人だ。ほかのだれでもない。」




(梅原季哉)

拘束おそれ避難、一家で改名。ーサラエボ100年(朝日新聞)

1914年のサラエボ事件に端を発した第一次世界大戦から第二次大戦まで、ボスニア・ヘルツェゴビナで最も多いボシュニャク(モスレム)人一家の歴史の一端をたどってきた。
ほかの民族はどんな境遇だったのだろうか。

セルビア人で、元サラエボ大生物学科教授のリュボミル・ベルベロビッチさん(81)に私が会ったのは、市内のアパートの16階だった。

サラエボは、東西に細長く広がる盆地の町だ。
時代を追って西側へ広がっていった。
一番東の旧市街は、オスマン時代のたたずまいを残す木造の建物が多い。
サラエボ事件の現場、ラテン橋あたりを境として、その西側にはオーストリア植民地時代に建てられた近代西洋建築が続く。

さらにその西側は、日本の団地のような高層アパート群の街だ。
第二次大戦後の社会主義時代に建築され、90年代の内戦中にどれもひどく損傷したが、ほとんどは建て替えずに修復された。
住んでいる人の多くがお年寄りだ。

一人暮らしのリュボミルさんは、サラエボ事件に巻き込まれた一族の歴史を教えてくれた。
「母方の祖父は当時、サラエボ西郊のイリジャで高校教師をしていた。」
同僚の一人が、暗殺計画実行に加わった結社「青年ボスニア」の一員で、事件後に処刑されたダニロ・イリイッチだった。

リュボミルさんの祖父は、同僚で同じセルビア人という以上の関係はなかったが、事件に連座したと疑われ、教職を追われた。
「警察の尋問で拷問を受け、釈放された後も尾行された、」という。

18年にボスニアがセルビア主導の王国(のちのユーゴスラビア)に統一されると、容疑者扱いは終わったが、拷問の後遺症が長引き、21年、46歳で亡くなった。
サラエボ事件直後のセルビア人たたきの犠牲になった形だった。

それでも、体制が変わったおかげで、リュボミルさんの母は、大戦犠牲者の子として奨学金を得ることができたという。
当時の首都ベオグラードの師範大学に進み、そこで夫と出会って結婚した。
20年代の後半、配属されてサラエボに戻る。
33年、長男のリュボミルさんが誕生。
平和な暮らしを営んでいた。

だが41年、ナチス・ドイツによるユーゴ侵攻で戦乱に巻き込まれる。
ボスニアにはナチスに協力して傀儡(かいらい)国家をつくったクロアチアの民族主義組織ウスタシャが乗り込み、セルビア人やユダヤ人への弾圧が始まる。

リュボミルさんは語る。
「41年の夏、父がウスタシャに拘束されるかもしれないということでクロアチア人の知人宅にかくまってもらい、数日過ごしたのを覚えている。」
結局、サラエボにとどまることはできず、一家で父の出身地、現在のモンテネグロのコトルに避難した。
この地域はまもなくイタリア軍の支配地域となったため、一家でイタリア風に改名させられたそうだ。

セルビア人であるがゆえの苦難を逃れた先で、「イタリア人」にされてしまう――。
民族というレッテルに、どこまで意味があるのだろうか。




(梅原季哉)

民族自決から報復の連鎖へ。ーサラエボ100年(朝日新聞)

1914年6月、皇太子をサラエボで暗殺されたオーストリアは、セルビア王国が糸を引いたと判断した。
1ヶ月後、セルビアに宣戦布告。
それぞれについたドイツやロシア・英・仏といった大国同士の戦いは、予想を裏切る泥沼となった。
4年後、オーストリアは敗戦国、セルビアは戦勝国となっていた。

第一次大戦後、国境線を引き直す際に唱えられた「民族自決」の原則は、この地域では、まさに暗殺犯ガブリロ・プリンツィプが理想とした「南スラブ人」の自決権を認めるという形で適用された。
南スラブ人が一体となった国が、セルビア主導でつくられることになったのだ。

オーストリア領だったボスニアは、クロアチアやスロベニアとともに加わった。
新しい王国は通称で「南スラブ人の土地」を意味する「ユーゴスラビア」と呼ばれた。
29年に、正式名称となる。

「歴史家3代」を自任するボシュニャク人、ニハド・クルシェブリヤコビッチさん(41)によると、政治体制が変わっても、歴史学者としての祖父ハムディヤさんの歩みに変わりはなかった。
39年には、ボシュニャク人として初めて、クロアチア・ザグレブに本拠を置く「ユーゴスラビア科学芸術アカデミー」の会員に選ばれた。

その年には息子も生まれ、ムハメドと名付けた。
「祖父は晩婚だったので、父は50歳過ぎての子でした。」

この間、ユーゴスラビア王国の治世は安定しなかった。
国を牛耳るセルビア人に対し、特にクロアチア人の不満が根強かったからだ。

第二次大戦が始まり、41年にナチス・ドイツが侵攻すると、呼応したクロアチアの極右民族主義者らの団体「ウスタシャ」が、傀儡(かいらい)国家「クロアチア独立国」を設立。
ボスニアもその領土におさめる。

ウスタシャは、セルビア人やユダヤ人らを標的に、強制収容所で虐殺するなど、非人道的行為を重ねた。
対抗するセルビア人の側は、「チェトニク」と呼ばれる王党派の民族主義組織が、多くのクロアチア人を報復で惨殺した。

この連鎖は後々まで尾を引く。
「ウスタシャ」「チェトニク」という呼び名は、私が取材した90年代の旧ユーゴでもよく、「やつらは~だ」というほかの民族への恐怖や憎悪の文脈で聞かれたものだ。

第二次大戦中は、後の大統領チトーが率いる共産主義者らのパルチザンも蜂起した。
こちらは民族を超えた存在だった。
ボスニアは、三つどもえの戦闘の舞台となった。

ハムディヤさんはサラエボにとどまっていた。
独自の民族主義組織がなかったボシュニャク人の中には、ウスタシャに迎合する者もいた。
ハムディヤさんも要職につくよう誘われたが、受けなかった。

逆に、ウスタシャによるセルビア人への非人道的行為を批判する、ボシュニャクの知識人らが出した文書には「祖父も名を連ねた」と、ニハドさんは語る。
拘束された知人のパルチザンらが釈放されるよう、働きかけたという。

周囲に流されなかったのは、歴史家の知恵だったのだろうか。




(梅原季哉)

三つの民族、二つの準国家。ーサラエボ100年(朝日新聞)

第一次世界大戦の引き金、サラエボ事件の暗殺犯ガブリロ・プリンツィプは、英雄か、テロリストか。
ボスニア・ヘルツェゴビナの主要3民族のうち、プリンツィプと同じセルビア人は前者、残りのボシュニャク人、クロアチア人は後者とみる傾向が強い。

事件から100年となる節目の6月28日、その差が現在のボスニア国内の政治状況とからんだ形で、ボイコット騒ぎにまで発展してしまった。

ちなみに、ボスニアの政情をさらにややこしくしているのが、内戦を引きずる形で同じ国家の中に「準国家」といえる二つの政治体制と、それぞれの支配地域が並立していることだ。
セルビア人は「セルビア人共和国」を持ち、残りの2民族は「ボスニア連邦」を形づくっている。

サラエボ事件100年を、このいびつな政治体制の指導者たちがそろって迎えることはなかった。
セルビア人共和国の大統領以下、指導的な立場にある者たちは、ウィーン・フィルを招いたコンサートなどサラエボでの記念行事をボイコットし、暗殺実行犯をたたえる式典を、自分たちの領域内にある別の都市、ビシェグラードで開いたのだ。

こんなありさまでは、1990年代の内戦を乗り越えた和解も難しい。
足かけ十数年間、折に触れてこの国をはじめバルカンで紛争を取材した記者として、私は改めてやりきれない思いに駆られた。

私が最初にサラエボで取材したのは97年夏のことだ。
92年から95年まで続いた内戦が終わってから、まだ2年足らず。
サラエボの中心部でも、ひどく破壊された建物ばかりが目に入ったものだ。

「セルビア人共和国」と「ボスニア連邦」の間を人々は行き来せず、まるで別の国だった。
壁や検問所こそ存在しなかったが、欧米が派遣した平和維持部隊以外は越えようとしない、見えない境が存在した。
サラエボから十数キロしか離れていないセルビア人共和国の町で取材するにも、隣国セルビアの首都ベオグラードから300キロ近く行かねばならなかった。

それでも、もう旧ユーゴスラビアの民族紛争は終わったのだろう、と私は思っていた。
だがバルカン全体をみれば、その2年後の99年、コソボ紛争が激化し、北大西洋条約機構(NATO)が軍事介入してセルビアを空爆した。
私は、その一部始終をほとんど現地で取材した。「業」を感じることの連続だった。

今のサラエボは、その時代からみれば平和になった。
壁に銃砲痕があるビルはまだ残るが、多くは修復が進んだ。
「準国家」の間の境も相対的には低くなり、自由に行き来できるようになった。

だがその分、サラエボの歴史は「遠い日のできごと」になった。
東京の国際報道部デスクすら、ボスニアの民族問題を説明しても、なかなか分かってくれない。

節目の今年、ボスニアの歴史といまを分かりやすく説明する手はないだろうか――。

私が思いついたのが、主要3民族、それぞれ100年前からサラエボに住む家族の歴史をたどることだった。




(梅原季哉)

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