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旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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五輪、つかの間共存の夢。ーサラエボ100年(朝日新聞)

第二次世界大戦後、社会主義の理想を掲げたユーゴスラビアでは、異なる民族が一致協力して連邦国家を支えていく、という考え方が支配的なイデオロギーだった。

20世紀前半に地域を揺るがした民族主義は、統合を妨げる危険思想とみなされた。
独裁者チトーの下、そうした考えは芽の段階で摘み取る、という統制が徹底された。

チトー自身が、自分の民族的出自をあえて公言しなかった。
国外に向けては、社会主義国でもスターリンのソ連とは路線対立から決別し、東でも西でもない「非同盟」の盟主としての地位を築いた。

そうした時代、オスマン・トルコ時代からサラエボに住んできたボシュニャク(モスレム)人一家の歴史学者ハムディヤ・クルシェブリヤコビッチさんは、民族主義と一線を画す姿勢が幸いした。
一連の取材で最初に話を聞いたニハドさん(41)の祖父だ。

ハムディヤさんは大戦中、サラエボを支配したクロアチアの民族主義組織ウスタシャに協力しなかった。
チトーが率いたパルチザンに加わった知人が拘束されると、釈放を働きかけ、セルビア人らに対する弾圧を批判していた。
そうした姿勢も評価され、社会主義の時代にチトーから顕彰のメダルを受けたという。

それでも、「ボスニア・ヘルツェゴビナのAからZ」と題した百科事典は、ハムディヤさんについての項目の中で「戦後、その著作のうち、クロアチア寄りとみなされたものは発行禁止となった」と記している。
タブーに少しでも触れる可能性がある著作は、封じられたのだ。

多民族共存の理想に純粋に共鳴する気風も、もちろんあった。
どの民族にも属さない「ユーゴスラビア人」として自分を届けることが可能だった。
同じカトリックであっても、クロアチア人とみなされることを拒んだ元地元紙記者、ズドラフコ・ラタルさん(77)もその一人だった。

連邦国家のユーゴは六つの共和国から成立していた。
セルビア、クロアチアをはじめ、ほとんどが民族単位でつくられた共和国だったが、ボスニア・ヘルツェゴビナだけが違った。
ボシュニャク(モスレム)人が一番多くても、セルビア人やクロアチア人も相当な数が住んでいて、絶対多数ではなかった。

チトーは、多民族共存をアピールする場としてボスニアを使った。
典型が、最晩年の1970年代後半、ユーゴに冬季五輪を誘致する際の開催地の選定だった。
連邦内でウインタースポーツの国といえばスロベニアだったが、多民族統合の象徴といえるボスニアの首都サラエボに決まった。チトーの鶴の一声だった。

チトーは80年に死去したが、84年のサラエボ五輪はその思惑通り一致団結の場として運営された。
今でも私が取材した人たちは異口同音に、民族など意識せずに市民が一つとなり、世界から注目された思い出を語る。

だが、それから8年後。
サラエボはまたも戦いの地になってしまった。




(梅原季哉)

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大戦100年、欧州の国境とナショナリズム。(朝日新聞)

湖畔に近い森の間を、すでに秋を思わせる風が吹いていた。

8月19日、ハンガリー西部のショプロン近郊の対オーストリア国境で、「汎(はん)ヨーロッパ・ピクニック」25周年を記念する集いを取材した。
森の中に一本の小道が抜けていくだけの場所に朝から車やバスを連ね、多くの人が集まった。

東西冷戦下にあった1989年のこの日、「鉄のカーテン」と呼ばれた国境のこの場所で「汎ヨーロッパ・ピクニック」という名の市民集会が開かれた。
その終盤、東ドイツからやって来た人々が大挙して国境ゲートに押し寄せ、「東」のハンガリー側から「西」のオーストリア側に脱出した。
3カ月後の同年11月に「ベルリンの壁」を崩壊させる直接の引き金となった事件だ。

今は小道にそって記念公園が整備されている。
そこに野外ステージが備えられ、屋台が並んだ。
当時ゲートがあった森の小道は、現場の25年後を確かめようと、黒山の人だかりができていた。

ハンガリー語とドイツ語が飛び交う。
25年前ここから国境を越えた人は20~30代が中心。
この日広い公園の芝でくつろいでいたのは、もう年配といえそうな人たちだ。
家族や仲間と敷物の上にバスケットの中身を広げ、早い時間からビール片手の人もいた。

当時の写真には、幼い子供を抱きかかえたり、先を急がせたりしながら、わずかに開いた木製ゲートを必死の形相ですり抜ける若いカップルたちの姿が映っている。
この日も同じ年の頃の子供たちが大勢いたが、それは彼らの孫たちなのだろう。

今、「鉄のカーテン」の名残は何もない。
それどころか、ハンガリーは事件から15年後の2004年に欧州連合(EU)に加盟し、07年末には欧州域内の自由な移動を保障する「シェンゲン協定」の実施国になった。
国境検問所はもちろん、柵など境界の存在を示すものはみな撤去された。
兵士が立ったやぐらは残されているが、それは記念公園のモニュメントとしてだ。

私は直前まで、親ロシア派と政府軍の戦闘が続くウクライナ東部にいた。
東西冷戦の遺物のような出来事が続く場所からやって来て、25年のタイムマシンに乗ったような、不思議な気持ちになった。


「汎ヨーロッパ・ピクニック」事件の裏では、「鉄のカーテン」を動かそうという当時のハンガリー政権の意思が働いていた。


東欧に改革の波が押し寄せていた1989年夏、東側陣営の中で比較的自由化が進んでいたハンガリーは、隣国オーストリア国民に国境を開くなど先進的な動きに乗り出していた。
当時、東独の市民も、同じ東側陣営のハンガリーならビザなしで行けた。
「何か」が起きることに期待した大勢の人々が、夏休みの旅行を名目にハンガリーに集まっていた。

8月19日、集会が終盤にさしかかったころ、紛れ込んでいた東独市民約600人が国境ゲートに殺到し、オーストリア側に越境した。
みな必死の形相だったのは、当時、東西の国境を無理やり越えようとする者はその場で銃殺されるのが当たり前だったからだ。
だが、国境警備隊の兵士は発砲しなかった。

ハンガリー政府が主催者らの計画の情報を事前に入手し、国境警備隊に発砲しないよう命令していたことが、後に明らかにされた。
ソ連が反発し軍を出動させる可能性さえあったわけで、その決断は大きな賭けだった。

ハンガリーは9月には正式に東独の国民に対オーストリア国境を開放した。
かたくなに一党独裁体制の維持にこだわる東独政府は、自国民の脱出の波をとどめようと、ハンガリーとの間にあった当時のチェコスロバキアとの国境を閉鎖して対抗したが、逆に国民の不満が高まり、ホーネッカー国家評議会議長は10月辞任に追い込まれた。
東独政府自らが「西側への旅行自由化」を明言した11月9日、東西ベルリンの壁はあっけなく崩壊した。


欧州は今年、いろいろな「周年」を迎えている。
第一次世界大戦が始まった1914年から100年。
来年が終戦70年の第二次世界大戦がらみでは、今年6月、連合軍によるノルマンディー上陸作戦70周年、8月にはナチス・ドイツからのパリ解放70周年があった。
そして、東西冷戦終結25周年だ。

これらの「周年」は、バラバラなようでつながっている。

「汎ヨーロッパ・ピクニック」25周年の前日から当日にかけて、ドイツ、ハンガリーの政治家、歴史研究者らがショプロン市内に集まってシンポジウムを開いた。
パネリストの一人は、「欧州の大戦は1914年に始まり、1989年に終わった」と話した。

第一次世界大戦は、ドイツ、オーストリア、トルコなど同盟側の敗戦で終わり、オーストリア・ハンガリー二重帝国、オスマン帝国という二つの帝国が崩壊。
「民族自決」の考え方を背景に、東欧でさまざまな国が独立した。
だが、敗戦国ドイツではナチスが台頭し、第二次世界大戦へ。
ハンガリーもナチス・ドイツの枢軸側で戦い、失った領土の回復を目指したが、再び敗れ、戦後はソ連を中心とする社会主義ブロックに組み込まれた。
そのハンガリーを欧州に回帰させ、東西に分裂したドイツを統一に導いたのが1989年の冷戦終結だ。


もちろん、歴史は1989年では終わらない。

「汎ヨーロッパ・ピクニック」25周年の集いには、20周年の際に姿を見せ、喝采を浴びた東独育ちのメルケル・ドイツ首相が出席を見合わせた。
ドイツは連邦議会副議長を送るにとどめた。
明らかに、今のハンガリーとドイツやEUとの微妙な関係が影を落としている。

ハンガリーのオルバン政権は2010年の議会選挙で議席の3分の2を押さえて圧勝。
EUとの協調よりハンガリー独自の政策を進める路線をとってきた。
新憲法を制定して徐々に権力を政府に集める手法に、メルケル氏やバローゾ欧州委員会委員らが何度も懸念を表明してきた。

「汎ヨーロッパ・ピクニック」25周年の集会でも、オルバン氏は「冷戦終結後、我々はドイツや他の西欧国の後を追いかけた。
だが、今は、ハンガリーなりの欧州の道を歩むときだ」と強調した。

ハンガリーでは、EU加盟を果たした00年代半ばからナショナリズムが台頭してきた。

今、ハンガリーの地方を歩くと、あちこちで「大ハンガリー主義」を思わせる石碑を見かける。
ハンガリーは19世紀後半、オーストリア・ハンガリー二重帝国下で経済発展したが、第一次世界大戦に敗れ、広大だった領土の3分の2を失った。
石碑は、この第一次大戦前の「大ハンガリー」の国土を図案化し、領土分割を決めた1920年のトリアノン条約を「悲劇の日」として銘記するよう呼びかけるものだ。

「大ハンガリー」の図案の上に現在の小さな国土を重ねるなど、デザインはさまざま。
多くはこの10年のうちに地方議会などによって設置された。
私が首都ブダペストの郊外で見た碑の中には、両世界大戦に出征した町出身の兵士の名を刻んだ古い石碑の上に、あとから「大ハンガリー」のプレートを取り付けたものもあった。

こうした石碑が各地に次々と設置されたのは、極右政党「ヨッビク」など右翼組織の運動があったためだ。
ヨッビクは今では議会第三党。
4月の議会選で、比例区の得票率が20%に達した。

第一次大戦後、ハンガリーが領土を割譲すると、周辺のスロバキアやルーマニア、セルビア、現在のウクライナ西部に当たるポーランドの一部に多数のハンガリー系住民が取り残された。
進学や就職などで社会的に不利な立場に置かれたが、社会主義政権下では少数民族問題は封印された。

しかし、冷戦終結で国境が開放されると、ハンガリー系住民らは本国に支援を求めるようになった。
オルバン政権が発足直後にこうした周辺国の住民らにハンガリー国籍取得の道を開くと、「大ハンガリー復活」を警戒する各国と摩擦が起きた。

「欧州は一つ」と考えた「汎ヨーロッパ・ピクニック」の主催者たちには想像もできなかった四半世紀後の現実だろう。


今年6月28日は、現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボでオーストリア皇太子夫妻が暗殺され、第一次世界大戦開戦の引き金を引いた「サラエボ事件」から100年の日だった。
私は同国のセルビア国境に近い町ビシェグラードにいた。
この町は冷戦終結後の92~95年の内戦後に同国を事実上二つに分けた「準国家」のうちセルビア人共和国に属し、町を舞台とした小説「ドリナの橋」を書いたノーベル賞作家イボ・アンドリッチの文学世界を再現したテーマパークの開所式があった。

同じ日、サラエボでは事件100年を平和構築の日とし、記念コンサートなどが開かれていた。
しかし、セルビア人共和国側はこれらの催しには参加せず、テーマパークの開所式をぶつけてきた。
セルビア人共和国の指導部は、暗殺犯のセルビア人青年ガブリロ・プリンツィプを、ボスニア・ヘルツェゴビナを領有したオーストリアからの民族解放の英雄とたたえ、国内の他の民族勢力がプリンツィプを「テロリスト」と見ていると強く反発してきたからだ。

セルビア人共和国のドディック大統領は、プリンツィプの放った銃弾を「自由への一撃だ」と位置づける。
この日、大勢の家族連れの前で演説し、「われわれにはまだ民族自決の権利が認められていない。独立まで戦う」と自説を繰り返した。

和平協定によって内戦後、主要3民族間で権力を分割することが定められたボスニア・ヘルツェゴビナでは、セルビア人共和国が常に独立や隣国セルビアへの併合に向けた布石を打とうとするため、他のボシュニャク人、クロアチア人勢力との合意形成ができず、国としての機能がマヒしている。
ドイツが統一の感動に浸った翌91年に始まったユーゴスラビア解体がもたらした現実だ。
危機が続くウクライナで、東部の親ロシア派支配地域が、このセルビア人共和国と同じような「準国家」になるのを恐れる声がある。


「汎ヨーロッパ・ピクニック」をめぐるシンポジウムの現代欧州と冷戦終結を討論するセッションで、話題の中心になったのが、そのウクライナ危機だ。

政府軍と親ロシア派の戦闘で一般市民も含め3千人以上が犠牲になっている現状に、「欧州は手をこまぬいているだけだ」という嘆きの声が相次いだ。

ハンガリーのグヤーシュ・ゲルゲイ国会副議長(32)は「汎ヨーロッパ・ピクニック」事件当時、わずか7歳だった。それでも、事件は「自分の政治家としての原点を方向付けた」と話す。

グヤーシュ氏は、2009年の経済危機以降、各国国民がEUにさまざまな不満をぶつけている現状をあげ、「今の欧州は問題を解決できていない」と指摘した。
「『ピクニック』と冷戦終結は、政治によって問題が解決できることを示した点で、私たちの世代にも大きな意味を残した。」




(喜田尚)

父は「好ましからざる人物。」ーサラエボ100年(朝日新聞)

100年前からサラエボに住むクロアチア人一家を探し出せなかったが、やっと条件にかなう取材相手がみつかった。

ムラデン・シュテイさん(83)。 弁護士だという。
話を聞くと、この街がたどった運命に翻弄(ほんろう)された一族の出身といってよい人だった。

ムラデンさんの家は、サラエボでも中心部の旧市街に近いアパートにあった。
住所は「ハムディヤ・クルシェブリヤコビッチ通り」。前シリーズで話を聞いたボシュニャク(モスレム)人の「3代続きの歴史家」、ニハド・クルシェブリヤコビッチさん(41)の祖父で、敬愛された学者にちなんで命名された通りだ。
縁のようなものを感じながら、階段を上った。

迎え入れてくれたムラデンさんは開口一番、「日本人の記者が、なぜ私の話を聞きたいのか。」
サラエボ100年の歴史を各民族の家族史としてたどっている、と説明すると、「なるほど。」
納得した彼は、自分の祖父のことから話し始めた。

ムラデンさんの祖父、マルテ・シュテイさんも、19世紀後半にボスニアに版図を広げたオーストリア・ハンガリー帝国が延伸させた鉄道に関わっていた。
クロアチア中北部出身のマルテさんは、建設業者だった。
鉄道のトンネル工事などを請け負い、そのままサラエボに定住した。

マルテさんの息子たちのうち、長男で、ムラデンさんの伯父にあたるユライさんが、立志伝中の人だった。
法律を学び、弁護士になった。
1914年、オーストリア皇太子が暗殺された「サラエボ事件」の際は、法律家として修業中だった。
実行犯のセルビア人青年ガブリロ・プリンツィプの公判で、ユライさんは書記官を務めたそうだ。

ユライさんはやがて、政治家になった。
第一次世界大戦の結果、セルビア主導で、クロアチアやボスニアも含んだ地域を包括した王国(29年から正式名はユーゴスラビア王国)が誕生。
ユライさんは、自治拡大を求めるクロアチア人らの中道政党、クロアチア農民党に所属していた。
第二大戦直前の39年にこの党が連立政権に加わった際は、財務相を務めるまで出世した。

一方、私が話を聞いたムラデンさんの父スラフコさんは三男で、ユライさんの弟だった。
長兄に続き、やはり弁護士になったという。

だが41年、ナチス・ドイツに侵攻され、ユーゴ王国が崩壊すると、シュテイ家の境遇は暗転する。

兄のユライさんは、王国の首都ベオグラードから、英ロンドンに逃れた亡命政権と行動を共にした。
一方、弟のスラフコさんはサラエボにとどまっていた。

ナチスに呼応したクロアチアの民族主義組織ウスタシャが、ボスニアも支配するようになった。
亡命政権の幹部を兄に持つスラフコさんは、身柄の拘束こそなかったが、ウスタシャに要注意人物としてにらまれた。

ムラデンさんは振り返った。
「父は、ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)だったんだ。」




(梅原季哉)

『アイルランド幻想』を読み終える。

一週間程前のスコットランド独立投票の影響だと思う。

ふとケルトの話が読みたくなって、スコットランドではないが、手元にある唯一のケルト小説『アイルランド幻想』を開いてみた。
それは、全11話からなる短編集で、神話や伝承をベースにしたアイリッシュ・ホラーである。

ケルト音楽が大好きで、これまでコンサートやらリバーダンスに足を運び、その時も感じた霧の中を歩くようなどこか不気味で暗く妖しげな雰囲気と、しかし底辺にある何者にも屈するものかという強い思いが様々な描き方によって、それはリアルに表現されている。


視覚的な怖さじゃなく、そのひんやりとした独特の空気感が気に入って、夏の名残りを感じながらも秋の気配が深まるこの季節に数話づつ読み進めていたのだが、ここらで一気に読みたくなった。

だが、それでも一日に読める量は2~3話程度まで。 しかも通しでは読めなかった。

長編ではないのであるから、頁数でいうならばすぐに読めてしまうはずだ。
しかし、一話一話それぞれにインパクトが強く、頭の中のイメージを鮮明に描こうとすればするほど背後に異様な空気の流れを感じ寒くなる。


和訳も自然で見事であるから、

私は枕から体を起こし、首をそちらに傾けて、耳をすませた。 
描写しがたい音だった。
遠くから聞こえてくる歌声を思わせる。 
苦悶する魂がすすり泣いているかのような、声を忍ばせた哀悼歌の合唱のような、不思議な音だった。

(『石柱』P16)」

とあれば、本当に何処からか哀愁に満ちたすすり泣きが聞こえてきそうで身震いする。


私がまだ戸口に立っていたとき、夕暮れの薄明かりをつらぬくように、この世のものとは思えない泣き声が、聞こえてきた。
次第に音量を強めてゆく甲高い軋るような悲鳴であった。
一度、二度、さらに三度と、血も凍るような叫びは響き渡った。

(『髪白きもの』P151)」


一瞬、彼はそのまま、根が生えたかのようにその場に立ち尽くしていた。
全身の血管の中で、血が氷と化した。
だが次の瞬間、恐ろしさと息の詰まる暗黒に突き動かされて、大声で恐怖の絶叫を上げながら、錆びついている鉄の扉に全身で突進した。
古びた鉄の扉を、素手で乱打し続けた。 助けをもとめて、叫び続けた。

(『妖術師』P313)」


そして、幾度となく登場する<大飢饉(じゃがいも飢饉)>と、イングランドによる非人道的な植民地支配。

それら現実にあった歴史が、アイルランドという風土特有の物悲しさを一層濃くし、そこかしこから滲み出る悲哀をより強くした。

教科書めいた歴史書よりも、ずっと真実を伝えている気がする。


何度も何度も背筋をぞくぞくさせながら、そしてやはりこの独特のひんやりした空気感が好きだなと思う。

「なに人か」昔は聞かなかった。ーサラエボ100年(朝日新聞)

ボスニアの主要3民族の一つであるクロアチア人と、同じカトリック信者だというだけで一緒の民族にされたくない。
そう考えて「ヨーロッパ人」を名乗るズドラフコ・ラタルさん(77)には「ユダヤ人のいとこがいる、」という。

紹介してもらい、サラエボ新市街の北寄り、小高い丘の中腹にある住宅街のアパートを訪ねた。
ここで息子一家と暮らす小柄なおばあさんが、その人、リエカ・ラタル・ダノンさん(85)だった。

リエカさんはにこにこと笑みを絶やさず、紅茶やお菓子を勧めながら、話し始めた。

ズドラフコさんとは父方の祖父が一緒だ。
オーストリア・ハンガリー帝国の鉄道技術を伝えるエリートとしてチェコからサラエボに来た、とズドラフコさんが語っていた人物だ。
リエカさんの父、アンドリヤ・ラタルさんは一家の長兄で、父親の後を継ぎ、鉄道技術者になったという。

一方、リエカさんの母方をたどると、こちらの祖父はユダヤ人だった。
宗教は異なるが、やはりチェコから鉄道運転士としてサラエボに来た、似た経歴の持ち主だった。

リエカさんはチェコ系の父と、ユダヤ人の母の間に生まれたことになる。
だが、父のアンドリヤさんは、カトリック信徒であることを理由に、自分は「クロアチア人」だと届けた。
同じ一族の中でも、帰属意識はさまざまなのだ。

リエカさん本人が自分をユダヤ人とみるようになったのは、ユダヤ人と結婚したためだ。
1996年に亡くなった夫のエリさんは、中世にスペインから追放され、「寛容の地」サラエボに逃れてきたユダヤ人一族の出身だった。

一家にはサラエボ事件との接点がある。
リエカさんの父はカフェを経営していた。
オーストリア皇太子を射殺したサラエボ事件の実行犯、セルビア人青年ガブリロ・プリンツィプが犯行前に最後にコーヒーを飲んだ現場近くのカフェだという。

一方、リエカさん本人は第二次世界大戦で苦難を味わった。
41年、ナチスがボスニアに侵攻し、これに協力したクロアチアの極右民族主義集団ウスタシャがサラエボの支配者の座に就いたからだ。

ラタル家は届けを出さずに引っ越し、「ユダヤ人の女たち」を捜しにきたウスタシャの手からかろうじて逃れた。

43年、イタリアが降伏すると、ユダヤ人に寛容だったイタリア軍支配地域に逃れていた母方の親類の女性3人が、サラエボのラタル家を頼ってきた。
アンドリヤさんは3人をかくまい、さらにリスクを負うことになった。
当時ティーンエージャーだったリエカさんも「私の家で何が起きているか、うっかり口にしたら、どんなことが待っているかは自覚していた、」という。

戦後亡くなったアンドリヤさんは2006年、イスラエルの国立記念館ヤド・バシェムにより「諸国民の中の正義の人」として顕彰された。

「昔はこの街では、誰も『お前はなに人か』なんて聞かなかったものですよ。大事なのは、その人がどんな人かなんだから。」
リエカさんは、柔らかな笑みを浮かべた。




(梅原季哉)

「民族自決」でくくれぬ現実。ーサラエボ100年(朝日新聞)

第一次世界大戦が始まって100年の今年、発端となった「サラエボ事件」の舞台、現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都に暮らす人々の1世紀をたどってみたい。
この国を構成する主要3民族、ボシュニャク(モスレム)人、セルビア人、クロアチア人それぞれの家族史を通じて。

二つの大戦と1990年代の内戦で、サラエボは20世紀に3度も戦火をかいくぐった。
この街の人々を見つめることで、複雑な民族問題の背景が見えてくるのではないか。
そう思って取材を始めたのは、まだ春先だった。

だが、ロシアが3月、ウクライナからクリミアを分離併合した。
ウクライナ東部では親ロシア派と政府軍の武力衝突が続き、欧州ではもう起きないかと思われていた、国家同士の本格的な戦争すら懸念される事態になってしまった。
サラエボの来し方をたどる取材は遅れがちになった。

もっとも、今のウクライナとかつてのボスニアは、全く無縁ではない。
大きな歴史の流れの中で、一つの系譜に位置づけることもできるのだ。

オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子を射殺した実行犯、セルビア人青年ガブリロ・プリンツィプは、この地域の複数の民族が「南スラブ人」として、大同団結して帝国支配に抗するべきだと信じていた。

第一次大戦でオーストリア帝国は崩壊し、セルビアは戦勝国となった。
その結果として、プリンツィプが大義として掲げた南(ユーゴ)スラブ人の「民族自決」をうたったユーゴスラビア、という国がセルビア主導で誕生した。

しかし、やはり前回たどったように、その中にはさまざまな矛盾が残った。
やがて、第二次大戦で噴出した。

一方、現在のウクライナは第一次大戦まで、西側をオーストリア帝国に支配され、東側はロシア帝国の版図に置かれていた。
大戦を通じ両帝国は崩壊したが、ウクライナでは民族自決を掲げた完全独立の動きは続かなかった。

旧ソ連の核となったロシアという強大な存在が東隣に控える。
その影響下で、ウクライナ人は自分たちの国を動かすことはできなかった。
矛盾はソ連崩壊後も残り、それが現在の混迷の根にある。

民族自決という美名だけではくくれない複雑な現実が、どちらの国にも存在する。
人々の帰属意識はそんなに単純ではないのだ。


サラエボでそのことを端的に感じた例が、前シリーズで取り上げたズドラフコ・ラタルさん(77)だった。

彼の祖父は、当時のオーストリア帝国で最先端の鉄道技術エリートとして、同じ帝国内のチェコからやってきた。
祖父はカトリック教徒。
ボスニアでは、カトリックはクロアチア人が圧倒的多数だったため、周囲は一家をクロアチア人と同一視した。
だが、ズドラフコさんはそれを拒絶し、「私はヨーロッパ人」と言い切ったのだった。

そのズドラフコさんから、さらに驚くような話を聞いた。「私には、ユダヤ人のいとこがいる。会いたいかい。」




(梅原季哉)

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