I love Salzburg

旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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しだいにお寂しく。

父が他界して20日足らず。
院主さんの話にあった「しだいにお寂しゅうございます」の意味を噛みしめる毎日である。

母方のおばあちゃんっ子であった私は、父と祖母の確執に次第と父への反発を抱きながら成長した。
三姉妹の末っ子という甘えも人一倍あったのだと今ならわかる。


だが、そんな我儘いっぱいの私に、父は最期を看取ることを許してくれた。

そして入棺の際、足元でいた私に父は信じられないほど柔和で幸せそうな表情を見せてくれた。
生前、私には見せたことのない顔だった。
妻、子、孫、ひ孫、妹達に抱えられて、もしかしたら父の人生で一番の喜びの瞬間だったのかもしれない。
父に対する感謝の気持ちが湧き上がると同時に、だがそれは父を傷つけてきた自分を永遠に許せなくなる瞬間でもあった。

「しだいにお寂しく」
無性に寂しさと後悔の念だけが続いている。


*


そんなある日、母が「高山へ行かないか」と言い出した。
半年前、「高山にもう一度行ってみたいが、足腰が不自由になった今じゃ無理かな」と父が言っていたというのだ。

飛騨高山の冬は四国とはくらべものにならないほど早いだろう。

私は雪を懸念して、早々の高山行きを手配した。
手配といっても、道中は私の運転する軽自動車なので宿を押さえるだけだったのだが。

家族総出ということで2匹の愛犬も同行させた。
母が助手席、後部座席に犬が自由に寝転がれる空間を作った。

通常なら8時間ほどで着く距離も、疲れも溜まってか仮眠を取ることも多くなり、片道10時間近くかけての遠出によく辛抱してくれたものと思う。

車の中のウルス.jpg


その週末は気温がぐっと下がり、雪を避けたはずが積雪の中車を走らすはめとなった。

高速では飛騨清見手前はチェーン装着と掲示が続く。
チェーンもなくスタットレスタイヤでもなく雪に不慣れな私だが、とにかく行けるところまで行ってみようと前に進んだ。

運よく気温が上がると同時に雨が降り、道路上の雪は溶けていった。
父に感謝しながら高山市内へと降りた。

市内はまだ紅葉が残っており、次第に天気も良くなって初冬というより晩秋の表情で出迎えてくれた。

本山の紅葉.jpg

もう大丈夫だろう。
安堵しながら宿へと向かう。

飛騨牛.jpg

今晩の夕飯は飛騨牛だ。
母と「楽しみだね」と話しながら、呑気にハンドルを持つ。

その夜は温泉付きの犬も泊まれる宿ということで、奥飛騨温泉郷に宿をとっていた。

奥飛騨温泉にてクリス.jpg


奥飛騨といっても高山市、それほど遠くはなかろうと深く思いもしないし調べてもいなかった。

だが、そこは飛騨高山。瀬戸内に面したわが町のようにいくはずもない。


再び雪を被った山々が現れた。

行きながら分かったことだが、どうやら宿のある中尾という場所は奥飛騨の中でも穂高に近い奥のまた奥らしかった。
奥飛騨温泉と一括りで呼ぶくらいだから、その中にいくつもの地名があるなどと思いもしなかったのだ。

まずい、今度は雪を避けられない。
平湯というその辺りで最も標高の高い場所では雪は道路の真ん中まで覆っていた。

ハンドルを改めて握り直し、息を呑みながら前を見つめる。
この先、雪が増すのか減るのかさえ分からない私は、引き換えす場所の見極めすら難しかった。


だが、ここでも父が守ってくれたのか、平湯を過ぎる頃より雪は道路上から姿を消していってくれた。

無事、宿に到着。


宿のご主人の勧めで、次の日は新穂高ロープウェイにて西穂高口まで登ることもできた。

新穂高ロープウェイ.jpg


晴天に恵まれ、冬山では珍しく展望台からはこんな絶景が見渡せた。


西穂高岳と鳳凰の雲.jpg

槍ヶ岳.jpg

笠ヶ岳.jpg

白山連峰.jpg

白銀の世界.jpg

焼岳と乗鞍岳.jpg

父も共に眺めていたに違いない。


「しだいにお寂しく」
もしかしたらそれが私が父にできる最後の親孝行かも、そう思えてもきた。

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人数だけの問題ではない。ーサラエボ100年(朝日新聞)

セルビア人勢力に包囲されたサラエボにあえてとどまったセルビア人たち。
元サラエボ大学教授のリュボミル・ベルベロビッチさん(81)はその典型だったが、同じような境遇の人は、数千人はいたとされる。
生活基盤が破壊され、必需品が枯渇した中での暮らしの大変さは、ボシュニャク人やクロアチア人と当然、何も変わらなかった。

そればかりではない。
セルビア人だというだけの理由で、投獄されたり処刑されたりする恐れもあったのだ。

もちろん、大半の市民は隣人のセルビア人をセルビア人勢力と同一視はしなかった。
リュボミルさんを例にとれば、最前線に近い新市街の高層アパートを離れ、クロアチア人だった妻の一族を頼って旧市街に逃れていたが、「皆が助け合うしかない状況の中で、誰も、民族で分け隔てなどしなかった、」と振り返る。

だが、劣勢に立たされがちだったボシュニャク人中心のボスニア・ヘルツェゴビナ政府軍や警察関係者の中には、報復の意思も込め、セルビア人への残虐な行為に手を染めた者も、確かに存在した。

クロアチア人のムラデン・シュテイさん(83)は、ボスニア政府が1992年の開戦後に設置した戦争犯罪調査委員会の長を務めた。
虐殺やレイプなどの訴えを聞き取る作業を内戦中から続けていた。

これまで紹介した通り、ムラデンさんの父は、第二次世界大戦中にサラエボを支配したクロアチア民族主義者たちに従わず、戦後はチトーの共産党にもにらまれた。
そうした一族の出身で、法律家だったことから、公正中立の立場で戦争犯罪を記録するのにふさわしいと選ばれた。

ムラデンさんは「やはり最も多かったケースは、セルビア人による、ボシュニャク人やクロアチア人に対する犯罪だった。それは揺らがない事実だ、」と断言する。
その一方で「サラエボでは約200人のセルビア人が虐殺された」と証言した。

サラエボ市内で犠牲になったとされる約1万2千人と比べれば、200人というのは少ないということもできる。

だが、犠牲になった人たちからみれば、人数の多少の問題ではないのだ。
ボシュニャク人全員を一方的な被害者として描き、その非人道的行為は免罪されるとすれば、かえって和解は遠くなるだろう。

ニハド・クルシェブリヤコビッチさん(41)が振り返ったように、内戦開始時、ボシュニャク人で武器を持っていたのは、警察官を除けば、ほぼ、犯罪組織に属する者だけだった。
その中に、やがてボスニア政府軍や警察を牛耳るようになった人物が複数存在した。

内戦直前の92年3月、ボスニア独立の是非が問われる中で、セルビア国旗を掲げて市内を車で走り回ったセルビア人たちの結婚式の際、新郎の父親を射殺したボシュニャク人の男もやはり犯罪組織に属していた。
彼は内戦時、軍幹部となった。

サラエボで内戦中、そうした集団によって実際に投獄されたセルビア人から、私は話を聞いてみることにした。




(梅原季哉)

劇団四季ミュージカル『ジーザス・クライスト=スーパースター』☆

劇団四季の『ジーザス・クライスト=スーパースター』。
多くの人の「凄くいいよー!」って声にずーっと観たかったから、地方公演を行うと知って興奮気味にチケットを取った。

四季の『ジーザス・クライスト=スーパースター』には、ジャポネスクバージョンとエルサレムバージョンとがあるが、今回はエルサレムバージョン。
私は日本調にアレンジしたものではなく自然な表現を好んでいたので、その夢も叶った。


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そして その期待を胸に観たものは、これまで見たミュージカルとは異なる意味ですごく良かった。


イエス・キリストといえば、プロテスタントの保育園に通っていた私はクリスマス会の劇中で聖母マリアを演じたことがある。
イエス誕生の劇で、イエス役は人形だったから主役はマリア役のこの私。
地味な私が主役の座を射止めたのは、髪が腰まで長かったからだと記憶している。(笑)

あの時、イエス・キリストは生まれながらに神の子であり、すでにスーパースターだった。
そう教えられていた私には、その偉大なる救い主の悲痛な叫びなど考えもしなかった。


しかし、今日目の前にいたイエスは違った。


苦悩に打ちひしがれる姿に、私が彼を救いたい、そう思った。

そこにスーパースターはどこにも居なかった。
いや、スーパースターであったかもしれないが、一人の傷ついた男だった。
十字架に架かることが逆に彼の救いになるんじゃないかとも思った。

演出はもちろん、それはイエス演じる神永東吾さんが醸し出す独特の雰囲気とオーラゆえでもあるだろう。
ユダもマグダラのマリアも素晴らしかったが、私はイエスにくぎ付けになった。


だが、ユダ役の芝清道さんもさすがだった。
ユダに対する印象も解釈も、このミュージカルと芝さんの勢いと迫力ある演技によって180°変わった気がする。

ユダだって、イエスを愛するがゆえの、愛しすぎたゆえの裏切りだったんじゃないか。


聖書の世界を詳しく知りたい、そう思うようになった。

神の子ではなく普通の人間としてのイエス、
裏切者ではなく愛情深いが弱くもある一人の人間としてのユダにまた会いたいと思った。


マグダラのマリアの歌声にも胸が震えた。

近頃 涙腺が緩んでいるのか、感情移入しすぎて泣けてしまった。

セルビア人は「悪」だったのか?ーサラエボ100年(朝日新聞)

ボスニア・ヘルツェゴビナの内戦が続いている間、多くの報道はセルビア人だけを一方的に悪役として描きがちだった。
特に、欧米メディアにはその傾向が強かった。

セルビア人勢力によるサラエボ包囲の一方的な構図が実際にあったため、いわば判官びいきの感情が作用した。
ボスニア政府が軍事面での不利をカバーしようと宣伝戦を仕掛け、包囲下の苦境をアピールしたことも手伝った。

私が最初にボスニアで取材したのは、内戦終結2年後の1997年。
セルビア人の多くは当時、自分たちだけが対立する民族に虐殺やレイプなどの非人道行為、「民族浄化」政策を実施したかのように描かれる、と不満を抱いていた。
自分たちも被害者なのだ、と口々に訴えてきた。

だが、包囲下で約1万2千人とされるサラエボ市民が犠牲になったことは消せない事実だ。
そうした中、過去をめぐる見解の違いは今も和解の障害となっている。

サラエボの約10キロ東にある町パレは、包囲の間は「向こう側」だった。
ここを中心とする「東サラエボ」が、セルビア人共和国の首都ということになっている。

「自分は今でもパレのあたりは夜、決して車で走らない。もし立ち往生したらどうしよう、と思ってしまうからだ。」
サラエボ包囲を生き延びたボシュニャク人のニハド・クルシェブリヤコビッチさん(41)は語る。
「あたりのセルビア人はきっと助けてくれることだろう。たぶん、いい人たちなんだろう。頭ではそう分かっている。でも、サラエボを包囲した連中と二重写しになってしまうんだ。」

私は、97年に会ったある人物のことを思い出した。

そのセルビア人は、ボスニア北部の町プリエドルで内戦中、警察署長を務めていた男性で、強制収容所や大量虐殺を指導した張本人だと言われていた。
その直後、旧ユーゴ戦争犯罪国際法廷が出した起訴状をもとに、身柄を拘束しようとした北大西洋条約機構(NATO)部隊に抵抗し射殺されたが、私が会った時はまだ捜査は公になっていなかった。
日本人の記者なら、と取材を承諾したのだった。

こわもての人物を予想したが、愛想良く対応された。
時には悲しげに「息子の彼女もボシュニャク人だった、」などと語り、「自分はボシュニャク人たちを助けようとした、」と身にかかる疑惑を否定してみせた。
言い訳がましいように思ったが、怪物じみた印象は受けなかった。

「悪の凡庸さ」、ごく普通の人物が、思考を停止した薄っぺらな行動様式で、恐ろしい非人道行為の手を下す。
ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺の中心人物だったアイヒマンの裁判を傍聴した政治哲学者、ハンナ・アーレントが指摘した本質が、そのセルビア人元警察署長にもあてはまると感じた。

セルビア人全体が「悪」というわけではなかった。
だが、内戦下で「我々」と「やつら」を区別する思考法だけが先走りし始めた時、流れに逆らうこともまた、容易ではなくなっていた。




(梅原季哉)

市街地は包囲された。ーサラエボ100年(朝日新聞)

ボスニア・ヘルツェゴビナが本格的な内戦に突入したのは1992年4月初め。
ニハド・クルシェブリヤコビッチさん(41)はその月の半ば、サラエボ中心部で狙撃兵によって通行人が射殺されるのを初めて目の当たりにした。

だがニハドさんは、前の月から吹き始めた暴力の嵐の中にあって、「人が死ぬ光景をみても、もう何も感じなくなっていた、」という。

ボスニアはその年2月に実施した住民投票の結果を受け、連邦国家ユーゴスラビアから独立を宣言した。
それに対し、セルビア人の多くは投票をボイコット。
その指導層は、独自の「セルビア人共和国」を建国したと主張し、武力で対抗する動きを始めた。

ユーゴ連邦軍(人民軍)も彼らに肩入れした。
連邦軍といっても、ほとんどセルビア人ばかりの軍になっていた。

連邦を構成した共和国のうち四つが次々に独立を宣言し、残ったのはセルビアとモンテネグロだけ。
モンテネグロは人口約60万の小国だし、宗教や文化など民族的にみてもセルビアに極めて近い。

92年4月、社会主義の看板だけを外して改めてできた連邦国家「新ユーゴ」は、実際はセルビアが完全に牛耳っていた。
ボスニアの「セルビア人共和国」は、その本国への統合を志向していた。

これに対し、大半がボシュニャク人で構成されたボスニアの政府は非常事態を宣言、動員令を出して防衛態勢を整えようとした。

だが、ニハドさんによれば「戦闘に使える武器を持っていたのは、警察の特殊部隊と犯罪者たちだけだった。」
ゼロ同然からの出発となったボスニア政府軍は、軍人も武器も人民軍から居抜きでもらい受けた「セルビア人共和国」軍に対抗できなかった。

セルビア人共和国の政治を指導していたのは、ラドバン・カラジッチ「大統領」。
現在は、オランダ・ハーグにある国連の旧ユーゴスラビア国際法廷で「人道に対する罪」などに問われ、判決を待つ収監中の人物だ。もともと精神科医で、詩人でもあった。

ニハドさんは、彼の詩集を読んだことがある。
「都市への憎悪に満ちあふれた内容だった。『荒野の戦士』が、邪悪な都市の民を成敗するといった言葉が連ねられていた。」

都市住民に対するその憎悪の念が、現実の軍事行動に移された。
カラジッチたちは、サラエボに住むセルビア人たちに農村部への移住を促した。
従わないセルビア人は「裏切り者」扱いされた。

92年3月から4月にかけて、10万人とも言われるセルビア人がサラエボを去った。
ニハドさんは語る。
「彼らがサラエボに残っていたら、戦争にはならなかっただろう。」

ほぼ時を同じくして、連邦軍やセルビア人勢力は東西に流れるミリャツカ川に沿った細長い盆地状のサラエボ市街地を取り囲み、丘の上に布陣した。
貯水池や発電所、空港など戦略拠点もおさえた。

92年5月、サラエボは完全に包囲された。
内戦が終わるまで3年以上にわたり、この街は解けない包囲の下であえぎ続けることになる。




(梅原季哉)

私のカフェ、私の珈琲。

いつだったか、親友のM子に「珈琲飲みにウィーンへ行って来る」と言って驚かれたことがあるが、ここ数年 私の海外旅行の一番の楽しみはカフェ巡りだった。

カフェしか入らなかった街もある。


遺跡や美術館なども魅力的だが、19世紀の宮殿を利用したカフェや原住民のアートが印象的なインテリアのカフェなど、その土地その土地の趣きある空間がたまらなく好きだ。

最近は専らヨーロッパだが、中南米やオーストラリアの町外れなんかでも身震いするほど好みのカフェと出会えたりする。

日本ではというと、それなりにお洒落なカフェも増えてはきたが、惚れるほど素敵な店にはまだ出会っていない。


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そんなカフェには結構こだわりのある私も、
正直、ウィーンへ珈琲を飲みに行くと偉そうに言っても、じゃあ珈琲の味がわかるのかと言えば誤魔化すしかない。

美味しいと感じれば、それが美味しい珈琲なのである。

浅煎、深煎すら意識したこともなかった。
苦ければ砂糖とミルクを入れる、それだけ。(笑)


しかし今思えば、その苦味もいいかげんだった。

苦いのが苦手と思い込み、たぶん浅煎か中煎を飲むことが多かったように思う。
では珈琲の持つ酸味を満喫していたのかというと、それもあんまり。

とにかく、居心地のいい雰囲気ならばそれでOK、味ではなく場所に酔うのが私だった。


だが最近出逢った隣町の珈琲専門店の、
「いろんな珈琲を愉しんでくださいな」というオーナーさんの一言に、私の珈琲生活が変わりそうである。

近々苦〜い珈琲にも挑戦するつもりだが、私好みは中深煎〜深煎だということが大体分かった。


ウィーンのザッハはどうだったかな?
ヘルシンキのカフェ・アアルトは?

私がこれまでで一番美味しいと感じた、オーストラリアはアリススプリングスの街角の珈琲色したカフェで飲んだ珈琲の味はどうだったろう?

思い出そうとしても鮮明じゃないのが悔しいが、私が「ふむ」と思うのは、やはり酸味より苦味のある珈琲だった気がする。


ほんの少し意識するだけで、珈琲の奥深さにちょっぴり感動してしまった。


昨日淹れてもらったエチオピアンモカは飲んだ後、かすかに苺味が口の中に広がった。

イチゴ味?

「面白いでしょ?」と言うオーナーさんこそが、私の反応を面白がっているようだった。


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岸惠子の『わりなき恋』。

心をぞわりなきものとおもひぬる 見るものからや恋しかるべき

古今和歌集にある、清原深養父(きよはらのふかやぶ)という歌人の歌らしい。

『わりなき恋』とは、理屈や分別を超えて、どうしようもない恋。


「どうにもならない恋、苦しくて耐えがたい焔のような恋のことだと思う。笙子、覚悟ある?」

パリ行きのファーストクラスで、69歳の女と58歳の男が偶然、隣り合わせとなったことがはじまり。
女の名前は伊奈笙子、男の名前は九鬼兼太。


国際色ある小説を探していて出会った本が、この岸惠子さんの著書『わりなき恋』であった。

この本が出版された頃、世間の話題に疎い私の耳にも入ってきてたくらいであるから、当時は相当注目されたのであろう。
テレビ画面に映っていた80歳の岸さんの頬は紅潮して、その姿に「おばあさん」はどこにも見られなかった。


だが、私は老人ホームで働く職業柄、どうしても70代にさしかかる女性の恋愛話に最初は戸惑いを感じた。
だって現実のホームでは、おむつをしている70代の利用者は普通にいる。
そこに「女」という「性」を感じろという方が難しい。

その歳で恋愛? その歳で男と溶け合う?


著者本人も何かの番組で、
「70歳を超えると、認知症だとか、介護だとか、ネガティブで後ろ向きな話題ばかりになるけど、そういうのはやめにして、ポジティブに前向きな話をしませんか」
という想いがそこに込められていると話したそうだが、

それにしても女っぷりでも体力的にも70歳とは思えぬ主人公・笙子であった。


いくつになっても男は男、女は女。

そうわかっていても、どこか嫌悪感やら羞恥心やらが働くであろうに、こうも開けっぴろげに生きれるものであろうか。
国際ドキュメンタリー作家と大企業のトップマネジメントという立場の2人であるから、舞台がパリに上海にブダペストにとそれが極当たり前に地球上にまたがることに、どこか非凡人的な背景を感じ、自然と笙子は私の頭の中で岸惠子そのものとして演じられていた。

普通の男女なら、「プラハの春」から恋は始まらない。


それでも、読み進めるうちにのめりこみ、この若くない2人の恋愛の結末が気になることもあり、ページをめくる指は止まらなかった。

70歳ならではの恋の甘み、苦み、しがらみ、痛み。


描写も美しく、選ばれた言葉も美しい。
美しすぎて、逆に「こういうのもありかな」と思ってしまった。


そして最後の最後、笙子が導いた先は、「さすがだな」と思うとともに、「理想だな」とも思う。
岸惠子の自伝ではないだろうが、80歳を超えた岸惠子の美意識なんだろうなと感じた。

いや、まったくの作り話でないことは、文中から溢れるつややかな表現からも汲み取れる。

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