I love Salzburg

旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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まだまだ続く、栗林の美。

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つい色鮮やかな梅の写真ばかりアップしてきたが、栗林公園といえば松。


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なによりも松。

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松の美しさ抜きに栗林公園は語れない。


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心の琴線に触れる美しさ。


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松の合間に折々の花鳥風月。


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まさに、『一歩一景』の美しさ。



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これほど栗林公園を褒めちぎる私でも、数年前は栗林公園に物申す?!(笑)

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寛容さは悲劇を超えて。ーサラエボ100年(朝日新聞)

ボスニア・ヘルツェゴビナは欧州の一角を占めるが、先祖代々のイスラム教徒であるボシュニャク人、200万人近くが住む国でもある。

1990年代のボスニア内戦中、民族憎悪をあおった勢力の中には、自分たちを正当化するために宗教戦争の構図を持ち込む者がいた。

例えば、セルビア人勢力の元最高指導者、ラドバン・カラジッチ被告(69)。
ジェノサイド(集団殺害)などの罪で国際法廷に起訴され、判決を待つ身だ。
「イスラム教原理主義から人々を守っていただけ」と主張している。

確かに、内戦中のボスニアには、イスラム過激思想に染まった外国人戦闘員が混乱に乗じ、「聖戦遂行」の名の下に入り込んでいた。
今のシリアにやや似てもいる。

「本国」からの軍事支援をあてにできたセルビア人、クロアチア人両勢力と違い、ボシュニャク人勢力は孤立無援に等しく、外国人戦闘員が入る一定の下地があった。
数は不明だが、数千人との報道もあれば、数百人程度にすぎなかったという推計もある。

内戦終了後も、過激思想に転じた人たちの一派がボスニア北東部の小さな村を拠点にしており、治安当局が何度か摘発している。
この村で今月、過激派組織「イスラム国」の旗が掲げられたとの報道もあった。
ボスニアからシリアへ、最大300人が戦闘員として渡ったともいう。

そうした情報に接すると、脅威が広がっているような印象を受けるかもしれない。
しかし、200万人近くのイスラム教徒の中では、あくまでほんの一握りに過ぎない。

一方、ボシュニャク人らの間では内戦後、イスラム教への回帰現象がみられる。
前回紹介したアイダ・ベギッチさん(38)のように、髪の毛を覆うスカーフを着用する女性が増えた。
アルコールを供さない飲食店も多くなった。

ボスニア国内のイスラム教最高権威、大法官を長年務めたムスタファ・チェリッチ博士(63)は、そうした圧倒的大多数のボシュニャク人は、テロと何の関係もないと断言する。
「あれは我々が信じるイスラム教ではない。我々は欧州の一部であり、イスラム教は欧州の一部。切り離すことなどできない。」

ベギッチさんも語る。
「本来は多様なイスラム教を一律に危険と見なせば、それはブーメランのように跳ね返ってきかねません。」

文明の十字路であるボスニアの首都は、異なる民族や宗教が共存してきた長い歴史も持つ。

この流れから逸脱し、顔のない無名の集団として「他者」を追いやる不寛容と憎悪がはびこった時こそ、戦争が起きてきたのだ。

日本から見ると遠いかもしれない。
でも、幾度も悲劇に見舞われたサラエボで、なお残る寛容の伝統から学ぶべき点は多い。
この間、何度も聞いた言葉で終えたい。


 「私たちは皆、同じ人間なんです。」




(梅原季哉)

まだ続く、梅三昧。

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讃岐には栗林公園ともう一つ、丸亀に中津万象園という大名庭園がある。

琵琶湖を形どった池に近江八景になぞらえた島々は、その昔この地を治めた京極藩の殿様の先祖が近江出身であったためだそう。
瀬戸内海に面した立地から、時間をかけて滞在すれば たぶん池の潮の満ち引きを楽しむこともできるんじゃないかな。


「日本庭園を眺めながらお茶しない?」

立春の日に栗林公園で梅見をして以来すっかり殿様気分になっている私は、突如友人のK西さんを誘ってみた。

「どこで?」
「中津万象園!」
「そんな処だと思った(笑)」

そんな処、、、そう、歩いて行ける距離にある中津万象園も、あまりに身近過ぎてすっかり有難みがなくなっている。(笑)

しかし、彼女は気持ちよく応えてくれた。
栗林公園と比べればもう一つであるけれど、並の日本庭園と比べると抜きん出ていると思う。

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ぶらり、ぶらり、池に浮かぶ鴨と戯れながら1時間ほど散策。

今年は四季折々の美しさを満喫する年にしよう、そう思った。


* * * 


そう思い立ったら居ても立っても居られない。


早速、栗林公園の年間パスポートを購入し、高松まで再び車を走らせた。

栗林公園を知ってしまっては、やはりそれ以外では物足りなかったようだ。(笑)


実は、これまで香川県民といえども中讃(香川県中部)に住む私はあまり高松と縁がなかった。
買い物なら橋を渡って岡山や神戸に出掛けた方がお洒落なものが多いし、展覧会やコンサートも本土へ出向いた方が良いものと出会える。

だが、今年に入ってケアマネの実務研修で度々高松へ足を運ぶようになり高松行きが億劫じゃなくなったのと、
先日テレビで高畑淳子さんの故郷を巡る旅が放送され、屋島や栗林公園といった定番ではあるが高松の見どころの紹介に新鮮さと馴染みとが相まって、何とも言えぬ心地よさを感じることができたのだった。

とりわけ、「ねえ、どうしてこんな美しい処から離れようと思ったのかしらねえ」という高畑さんの言葉に、訳もなくじんときた。
彼女独特の話し方が耳と心にじんと残った。


ねえ、どうしてこんな美しい処が近くにあるのに足を運ぼうと思わなかったのかしらねえ。

栗林公園を散策しながら、独り言ちた。

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栗林公園といえば松の美しさが格別であるが、今日もほのかに香る梅の花が目を引いた。

一つひとつは小さな花であるけれど、それぞれの表情がとてもとても愛らしい。

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そんな一瞬の表情を写真に留められたら、、、。


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本日もまた、梅日和。

まだ続く、梅三昧。

イスラム信仰、自ら選んだ。ーサラエボ100年(朝日新聞)

ボスニア・ヘルツェゴビナの映画監督アイダ・ベギッチさん(38)は10年前、自らの意思で、ある決断をした。

彼女は民族的にはボスニアの主要3民族のうち、一番人口が多く5割弱を占めるとされるボシュニャク人だ。
かつてモスレム人と呼ばれたこの民族は、ボスニアがオスマン・トルコに支配された時代にイスラム教に改宗したスラブ系の人々の子孫にあたる。

だが、社会主義国ユーゴスラビアの一部だった時代は特に、無宗教と届けるボシュニャク人も少なくなかった。
民族の呼び名が宗教に由来していたため誤解されやすいが、ボシュニャク人が100%、イスラム教徒だとはいえない状態だった。

ベギッチさん自身も、サラエボでまったく世俗的な家に生まれ、宗教とはほぼ無縁に育った。

彼女の内面を変えたのは、1990年代の内戦だった。
包囲下のサラエボで、多感な10代後半を過ごした。
「自分もいつ死んでもおかしくない。生きることの意味を考えるようになった、」という。

自分探しの日々だった。
仏教やキリスト教にも興味を持った末、行き着いたのがイスラム教だった。
民族的な出自から「あまりに身近で、最初は敬遠していたけれど、少しずつわかっていった。」

内戦後、信仰を深めていく中で決断した。
イスラム教徒の女性として伝統に従い、人前では髪の毛を覆うスカーフを着けることにしたのだ。
両親や一緒に映画を作ってきたカメラマンでもある夫は大反対した。
「過激派になるのか、と言われた。」
だが彼女は揺るがなかった。

「スカーフを着けるかどうかは、神と私の間で決めるべきこと。他人に着用を強制されるべきでは決してないけれど、誰かに外せと強要されることもいけない。私は、自分の選択に確信が持てるまで成熟したから決めたんです。」
リベラルな選択だった。

スカーフ着用を始めた影響で、映画仲間だった音響技師としばらく疎遠になったという。
だがその後、また映画づくりで一緒になると、「『何だ、中身は全然変わらないな』と言ってました。私は、私なのに、」と笑う。

ベギッチさんのものの考え方は、偏狭さとは無縁だ。
「一種の流行でイスラム教に走るのは、政治的な偽善、」と一線を画す。
民族分断が固定化されたボスニアの教育についてもドキュメンタリーを撮ったことがあり、「子供たちが民族主義者に育つシステムになっている」と批判する。

制作と脚本を自ら手がけた長編映画「サラエボの子供たち」(2012年)は、内戦で両親を亡くした姉弟の苦境を通じ、格差や腐敗などボスニア社会の矛盾を描いた。

主人公はレストランのキッチンで働くボシュニャク人の23歳の女性。
ベギッチさん同様、成人してから信仰に目覚め、スカーフを着けているという設定。
それを演じている女優は実際はセルビア人だ。

ベギッチさんはさらりと言った。
「彼女が役者としてベストだったから。現実で何民族かは、関係ありません。」




 (梅原季哉)

軍は数少ない統合の象徴。ーサラエボ100年(朝日新聞)

ボスニア・ヘルツェゴビナは、1995年末の内戦終了後もなお、国内社会の溝が残る。
ただし、一つの国として統合が進んだ分野が皆無、というわけではない。
その一つは皮肉なことに、国防だ。

紛争終結当初、ボスニアには、一つの国家なのにまだ二つの軍があった。
三つの民族主義勢力のうち、セルビア人勢力の軍は、「構成体」として認められた「セルビア人共和国」軍としてほぼそのまま存続。
残りのボシュニャク、クロアチア人勢力の部隊は統合され、「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」軍になった。

両軍が戦火を交えるような事態を避けるため、北大西洋条約機構(NATO)が主導する国際平和維持部隊がボスニアへ派遣された。
最大時は約6万人に達していた。
だがその後、事態が落ち着くにつれ、国際部隊は縮小。
2004年にNATOが去り、代わって欧州連合(EU)主導の国際部隊が発足した。
現在はわずかに約600人だ。

国内に二つの軍が併存する状態も長続きはしなかった。
国際社会の監督の下、両軍は統合に着手。
05年12月、統一ボスニア軍が発足した。

その9周年記念式典が昨年12月、サラエボであった。
ゼケリヤフ・オスミッチ国防相(58)は、昨年5月の大規模洪水での軍による災害救援活動をたたえた。
死者25人を出し9万人近くが家を失った、国全体に及ぶ災難だった。

レセプションの席で、幹部将校たちは民族など気にもかけずに談笑していた。
国防相は自信ありげだった。
「内戦直後はこの国へ、外国軍に平和維持に来てもらったが、今はこちらから外国へ平和維持部隊を出している。」

実際に海外に派兵された軍人に話を聞いた。
ゴラン・セクリッチ少佐(40)は、昨年3月から8月まで、アフガニスタン北部マザリシャリフへ派遣された。
国際治安支援部隊(ISAF)北部軍管区の司令部に詰める参謀だった。

「内戦後の1997年に任官した私にとっては、軍人として初めて経験する紛争地が、アフガンでした」

少佐は民族的にはセルビア人だが、一緒に派兵された同僚にはボシュニャク人もクロアチア人もいて、何の問題も感じなかった。
軍統一から9年、「お互いを受け入れ、異なる存在だとはみなしていない。民族の違いによるいさかいは何も起きていない。」
そうやって得た協力経験は、アフガンで他国の軍人と一緒に仕事をする際も役立った。
「大事なのは、相手をただ、人間としてみることです。」

セクリッチ少佐がアフガンで共に任務に就いた欧州出身の軍人の多くは、ボスニア駐留経験があった。
やはりボスニア経験者のドイツ人司令官から、こんな風に声をかけられたという。
「こうしてボスニアの軍人と共同任務に就くなど、当時は想像もしなかった。君たちがここにこうやって来たことで、あの派兵が役立ったとわかり、うれしい。」

民族主義にあおられ、戦火を交えたかつての軍人たちは去った。
今のボスニアの職業軍人はむしろ、数少ない国民統合の象徴になっている。




(梅原季哉)

民族均衡優先、いびつな構造。ーサラエボ100年(朝日新聞)

サラエボに住むヤコブ・フィンチさん(71)は、自分の国、ボスニア・ヘルツェゴビナを語る時、時おり皮肉めいた口調が入り交じる。
駐スイス大使など要職に就いたこともある人だが、彼の名はボスニアのいびつな現状を象徴する、ある裁判闘争の原告としての方が知られている。

内戦終結から今年末で20年。
ボスニアの政治は停滞する一方だ。
内戦を引きずる政治体制が背景にある。
憲法や、選挙などの仕組みは、内戦直後に決められた制度が、そのまま存続してきた。

フィンチさんが裁判に訴えることで問うたのは、その国家構造そのものだった。

発端は、米国主導で1995年12月に締結されたデイトン和平合意だった。
国家の分裂を防ぎつつ、とにかく戦争を終わらせるのが目的だった。
ボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人、三つの民族勢力全てが妥協できる均衡が何より優先された。

各勢力が内戦中に押さえていた支配地域や権力構造の多くが事実上、現状追認されてしまい、「セルビア人共和国」「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」という別々の政府を持つ「構成体」ができた。
「連邦」の下にはさらに、独自の政府議会を持ち強い権限を有する10県が併存する。
「住み分け」といえば聞こえが良いが、他民族を排除した内戦中の「民族浄化」策を反映した、ばらばらの状態だ。

こうした民族間の微妙なバランスを反映して、憲法は三つの民族が等しい地位を持って国を形作る「構成民族」だと定義した。
国全体に関わるポストも3民族均衡が大原則。
国家元首は3民族から1人ずつ選出される幹部会員が8ヶ月ずつ輪番で務める。
定数15の議会上院も、5議席ずつ割り当てられる。

だがそれは、3民族いずれにも属さない人にとっては、被選挙権が与えられない不平等な体制そのものだ。

フィンチさんは民族的には、サラエボに古くから住むユダヤ人一族の出身。
幹部会員選挙や上院選に立候補できないのは、民族差別にあたり、法の下の平等という人権原則に反すると、フランス・ストラスブールにある欧州人権裁判所に訴え出た。

「デイトン合意がなければ、国自体が存在しなかった。それは感謝している。ただ、民主主義国家を造ることは考えられていなかった」

2009年12月に出た判決は、フィンチさんの全面勝訴だった。
欧州を見渡す人権のお目付け役から、ボスニアの国家制度の根幹に、疑義が突きつけられた形だった。
将来、欧州連合(EU)への加盟をめざす際にも障害となる。

議会や各政党は改憲すべきだとの総論では賛成した。
ところが各論では自分たちの利害を盾に譲らず、堂々巡りの論議が続いた。
何も変わらないまま5年が経過した。

民族分断で手にした既得権を確保することに腐心し、何も決めようとしない政治家たちの姿に、フィンチさんは首を振る。
「ボスニアを形作るのは『一つの国家、二つの構成体、三つの構成民族』、そして……100の問題、だ。」




 (梅原季哉)

身元確認こそ平和への出発点。ーサラエボ100年(朝日新聞)

ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦末期の1995年7月、ボスニア東部スレブレニツァで、セルビア人勢力がボシュニャク人の住民を連行、7千人以上を殺害した。
この「スレブレニツァの虐殺」は、第二次世界大戦後の欧州で最悪の大量殺戮(さつりく)行為とされる。

オランダ・ハーグにある国連の旧ユーゴスラビア国際刑事法廷(ICTY)上訴部は今年1月30日、この事件でジェノサイド(集団殺害)などの罪に問われたセルビア人勢力の元軍幹部ら被告5人に対し、有罪とした一審判決を支持し、上訴を棄却した。

この5被告は、これで判決が確定した。
ICTYに起訴された161人のうち、確定判決が出たのは146人となり、審理を残しているのは15人だけとなった。

だが、セルビア人勢力の政治指導者トップだったカラジッチ被告と、軍トップだったムラジッチ被告には、まだ一審判決も出ていない。
遺族たちにとって終章への道はなお遠い、といえる。

それでも、内戦終了から現在までの歩みを「前例がなく、特筆すべきもの」と評価する人に、サラエボで会った。
ボスニア内戦で相次いだ虐殺被害者の身元を確定させようと96年に設置された「国際行方不明者機関」(ICMP)の事務局長、キャスリン・ボムバーガーさんだ。

彼女は、「ボスニア内戦中の行方不明者3万人余りのうち、約2万3千人の遺体や遺骨を確認し、遺族のもとに返すことができた。人類史上、過去の大規模虐殺では、殺された人々のほとんどが遺体すら見つからないままだったことに比べれば、少なくとも最低限の説明責任が果たされつつある、」と指摘する。

7割以上の身元確認を可能にしたのは、DNA鑑定技術の進歩もさることながら、ICMPによる遺体捜索、鑑定の努力が大きい。

このこだわりは「単なる人道上の問題ではなく、法による支配を回復するための重要な一歩だから、」とボムバーガーさんは語る。「民族や宗教で差別せず、あらゆる被害者を探し出し、身元を洗い出す」方針を貫いてきた。

行方不明者の家族団体も民族の壁を越えて相互連携を強め、「確認作業に協力するよう政府側に圧力をかける大切な役割を果たしてきた、」とボムバーガーさんは評価する。

内戦時に殺され、打ち捨てられた人々の遺体は、ただの「ボシュニャク人」「セルビア人」「クロアチア人」ではなかった。
身元確認は、犠牲者一人ひとりの名前を取り戻し、顔のある個人として復活させる作業でもある。
これが、加害者に個人としての責任を問い処罰することと並んで、和解と真の平和に向けた出発点になるというのだ。

ICMPはボスニアで活動を始め、昨年までは本部もサラエボに置くユニークな国際機関だった。
2004年から活動が世界中に広がり、昨年末に国際法に基づく正式な国際機関になったのを機に、本部をハーグに移した。
だが、ボムバーガーさんは強調する。
「ボスニアは私たちの原点。完全に去ることはありません。」




 (梅原季哉)

教科書、今も内戦に触れず。ーサラエボ100年(朝日新聞)

ボスニア・ヘルツェゴビナの政治指導者たちは、内戦中に行われた非人道行為という「過去」となかなか向き合おうとしない。


旧ユーゴスラビア国際刑事法廷(ICTY)への理解を広める活動に携わるサラエボ現地事務所のアルミル・アリッチさん(44)は「若い世代の方が、ずっと理解してくれる」と話す。

アリッチさんたちが力を入れているのが、高校への出張授業だ。
実際に戦争犯罪の舞台となった地域の学校へ足を運び、話し合う。
ボスニアやセルビアなど旧ユーゴ4カ国で、これまで約3千人を対象に実施してきた。

大半の生徒たちにとっては、内戦中の非人道行為について教わる機会自体が初めてだという。
「最初は親から聞いたか、メディアから得た紋切り型の主張をする」。
だが、被害者の証言ビデオを見るなど、具体的な事実を知ると態度が変わる。

授業の後でアンケートすると、「戦犯は地位や民族に関わらず罰せられるべきか」という設問に、95%が賛成している。
また、66%が「自民族の中に戦争犯罪をおかした者がいると思う」。
民族の過去を美化せず、向き合う姿勢をみせている。

それでも、迎える学校現場の教師たちが、冷淡な対応をみせることは珍しくない。
昨年訪れたある高校で、セルビア人の校長はアリッチさんとの握手を拒んだという。

「若い世代に過去の汚点を教えるべきではないという声もある。だが実際は、若者たちが過去にとらわれたままの現在に縛られている。だから、知る権利がある」。
アリッチさんはそう語る。



サラエボ大学史学科のジジャド・セヒッチ教授(55)によると、ボスニアでは、歴史教育はいまだにばらばらの状態なのだという。

特に内戦の直後は、セルビア人とクロアチア人の支配地域ではそれぞれ「本国」の教科書が使われていた。歴史の教科書では、自民族を美化する記述も多かった。

2000年代に入って、統一の教育指針ができ「どの生徒もボスニア国民として教育する」と定められた。
ところが、「指針通りに授業するかどうかは現場まかせで、国民意識を育てる教育は進んでいない」とセヒッチ教授は指摘する。
90年代の内戦については、教科書に含めることすらできていない状態という。



サラエボの小中学校で歴史を教えるズベズダナ・マルチッチ・マトシェビッチさん(44)は、セヒッチ教授らと教科書を共著した際に、こんな経験がある。

彼女自身は、クロアチア人だ。
問題は第二次世界大戦の記述だった。
ナチスに協力したクロアチアの極右民族主義集団ウスタシャが、ユダヤ人やセルビア人を迫害、虐殺した「ヤセノバツ収容所」について、クロアチア人の政治家たちから「書くな」と圧力をかけられたという。

「どの虐殺行為も等しく非難されるべきです。それが次の戦争を防ぐ道、歴史教師の責任なのです」。
マトシェビッチさんはそう語って、ため息をついた。




(梅原季哉)

和解への障害は政治家たち。ーサラエボ100年(朝日新聞)

旧ユーゴスラビア国際刑事法廷(ICTY)は「セルビア人に責任を転嫁する」場にすぎず、不当な裁きだ――。

ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦当時のセルビア人勢力の政治指導者、ラドバン・カラジッチ被告(69)は、自らを裁く法廷をそう非難する。

セルビア本国で権勢をふるい、ボスニア内戦でもセルビア人勢力に影響力を及ぼしたミロシェビッチ・元ユーゴ大統領も公判で、ICTYは「不法な偽物の法廷だ」、自分の裁判の目的は「NATO(北大西洋条約機構)による空爆の正当化だ」と、2006年に病死するまで批判した。

彼らに同調するセルビア人は今も決して少なくない。
私自身、長年ボスニアやセルビアで取材してきて、同じような主張を何度も聞いた。

ミロシェビッチ元大統領が批判した、1999年のNATOによるセルビア(当時はまだユーゴスラビアを名乗っていた)への空爆は、確かにこの偏見を助長した。

セルビアの支配下にあったコソボでのアルバニア系住民に対する弾圧を止める「人道介入」という名目だったが、爆撃対象はセルビア全土に及び、誤爆で市民の犠牲も出た。
そのさなかに、ミロシェビッチ大統領(当時)をICTYが起訴したのだった。
法廷をセルビア人たたきの道具と見る風潮は強まった。

しかし、カラジッチ被告らの言い分には論理のすり替えがある。
「我々も被害を受けた」というのが、いつのまにか「だから我々は何も悪いことはしていない、」という責任の全否定へと飛躍するのだ。

内戦末期の95年7月、ボシュニャク人7千人以上が殺害され、第二次世界大戦後の欧州で最悪の非人道行為とされる「スレブレニツァの虐殺」について、例えば、今の「セルビア人共和国」トップ、ドディック大統領は「ジェノサイド(集団殺害)などなかった」「セルビア民族に責めを負わせるのは受け入れられない、」と繰り返している。

「政治家たちのそうした言動が、和解に向けた障害だ、」ICTYサラエボ現地事務所連絡調整官のアルミル・アリッチさん(44)はそう語る。
法廷の意図について「現地」旧ユーゴ諸国で根強い偏見を解消しようと、99年に作られた「アウトリーチ」(広報普及活動)部門に属する。

「この法廷は、非人道行為に手を染めたり、指導監督する立場にあったりした個人の責任を問うためのものだ。特定の民族だけを悪者扱いしたり、集団責任を負わせたりするためのものではない。それなのに、自民族が勝ったか負けたかの観点からしか受け止めない。まるで、武器こそ置いたものの、頭の中はまだ90年代のまま、戦争を続けているかのようだ。」

アリッチさん自身は、ボスニア北東部ズボルニク出身のボシュニャク人で、内戦当時は大学生だった世代だ。
敵対意識を今も引きずる政治家たちに失望の念を隠しきれない。「ジェノサイドを否定するなんて、家族を失った遺族たちが聞いたらどう思うか。政治家たちは、和解を望んでいないとしか思えない。」




(梅原季哉)

立春に。

木の芽春立つ日の今日、栗林公園で梅の花を愛でてきた。


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栗林公園は、明治43年に文部省から発行された『高等小学読本』巻一にあるように、
「我ガ国ニテ風致ノ美ヲ以テ世ニ聞エタルハ、水戸ノ偕楽園、金沢ノ兼六園、岡山ノ後楽園ニシテ、之ヲ日本ノ三公園ト称ス。然レドモ高松ノ栗林公園ハ木石ノ雅趣却ツテ批ノ三公園ニ優レリ」

日本三名園よりも優れているとの声もある。


とはいっても、私が紫雲山を借景にしたその大名庭園の良さに気付いたのは、実は今年に入ってから。(笑)

『一歩一景』と評されるに相応しいその美しさ。
恥ずかしながら、友人である韓国人のチェさんによって教えられた。

隣町の国際交流員である彼は、外国からの来客時にはもちろんのこと個人的にもよく栗林公園を訪れ、四季折々の姿をFacebookに投稿してくれるのだ。

彼の写真の腕前もあるだろう。
いや、それにしても美しい。

こんなに美しかったかな? 
地元のものはつい軽んじるのが悪い癖。

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しかし、その良さに気付いてからは、これほどの名勝がすぐ傍にあることに「へへへんっ!」と一人こっそり自慢に思う。

松平の殿様、ありがとう。(笑)

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その栗林公園で、つい先日梅の花が開花したというニュースを覚えていた。
「今日ははや立春か、、、」と思ったと同時に「梅を観に行こう」と思い立った。

思いのほか見事に蕾をほころばせ、白梅からはほんのり甘い香りがした。

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梅といえば芭蕉の弟子、嵐雪の『梅一輪 一輪ほどの暖かさ』の句が有名であるが、この句で詠まれたのは寒梅であり、季語は冬。

思わずこの句と梅の写真をFacebookにアップしようと思いきや、残念、、、一日違いで春であった。(笑)
確かに、「一輪ほど」ってことはないわな。。。(苦笑)

栗林公園・北梅園.jpg

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それにしても美しい。

しんとした冬の冷たさも好きだけど、やはり春の訪れは嬉しい。

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『梅が香に 追ひもどさるる 寒さかな (芭蕉)』

それでもどこかで春を感じて、やっぱり嬉しい。
栗林公園で感じる春は、もっと嬉しい。

内戦後の「失われた20年。」ーサラエボ100年(朝日新聞)

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ。
いま訪れると、一見、さほど特徴のないくすんだ欧州辺境の都市だ。
だが、その日常を一皮めくると、歴史は単なる過去でなく、今も息づいていることがわかってくる。

昨年は、この街を舞台に、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻が暗殺され、第一次世界大戦の発端となった「サラエボ事件」から100年の節目だった。


多民族国家ボスニアを主に構成する3民族、ボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人のそれぞれから取材。
第一次、第二次大戦中の苦難や、社会主義のユーゴスラビア連邦の一部だった時代、そして1990年代の内戦時。

そこから見えてきたのは、幾度となく戦乱に翻弄(ほんろう)されてきた人々の姿だ。

この間、民族の違いを理由にした戦闘や弾圧は、確かに何度も起きている。

だが、異なる民族が共に暮らしてきた伝統のあるサラエボには、簡単に黒白がつけられない帰属意識を持つ人々もいた。
政治家たちが「我々=味方」と「やつら=敵」の間に線を引き、ほかの民族への憎悪をあおった時、寛容の伝統を絶やすまい、と流れに抗した人たちもいた。
安易に「民族紛争の地」、とレッテルをはることはできない。

そんなボスニアの内戦が終わってから、今年末で20年になる。

ただ、取材したどの人も、内戦後の20年については、ほとんど話すエピソードがなかった。
内戦による苦難があまりに大きかったせいで、その終結から今に至るまでが、「失われた20年」になってしまったようだった。

内戦が今も終わっていないことを示すのは、政治体制がいい例だ。

95年、米オハイオ州デイトンにある空軍基地を舞台に、米国が関係国の首脳らを集め、圧力をかけて内戦を終わらせた「デイトン和平合意」は、内戦中の勢力図を引きずる形の解決策だった。
その結果、ボスニアは一つの国家の下に、「構成体」と呼ばれ、国家に準じる体制が二つ併存することになった。

セルビア本国を後ろ盾として戦ったセルビア人勢力の支配地域は「セルビア人共和国」、残りのボシュニャク人とクロアチア人の両勢力が押さえていた領域は「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」と称することになった。
それぞれ別の政府と議会、警察を持ち、両者が再び武力衝突しないよう、欧米主体の国際部隊が駐留した。

その体制は基本的に変わらず、今に至る。
内戦当時のまま破壊の跡を残す家々は少なくなった。
だが、見た目が平常に戻っても、人々の心の中では、過去はまだ清算されていないのではないだろうか。




(梅原季哉)

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