I love Salzburg

旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
MENU

去勢手術。

愛犬クリスを飼いはじめて半年ほど経った頃に、動物病院の先生から「この子は停留睾丸だから、去勢手術しとかなくちゃ後々癌化するよ、」と言われていた。

それまで全く気付かなかったが、言われてみると確かに一つの玉が鼠蹊部当たりから降りてない。

「冷たくしないといけない睾丸が体内にあることで、常に温められている状態が続くことで腫瘍化する」という説明だった。

すぐさま手術を予約したが、いざ当日になると麻酔やメスを入れることが可哀想になりキャンセルし、それから八年の年月が経過した。


すると、今度は新しく飼ったウルスも停留睾丸だという。 しかも両玉とも。

「去勢しましょう。二つとも見えるところにあるので、手術は簡単ですよ」と言う先生の言葉を、だが今回も無視しようと思っていた。


ところが、先週の金曜日のこと。

何気なくクリスを抱っこすると、右側の鼠蹊部周辺が異常に膨れている。
間違いなく睾丸が大きくなっているのが分かった。

私は一瞬で青ざめた。 

腫瘍化している。

すぐさま病院へ駆けつけ、この際二匹とも去勢手術に踏み切ることにした。


手術は、6月16日の火曜日。
前日の午後9時から食べ物も飲み物もやらないようにとの指示だった。



私にとって、いや二匹にとっても水も飲めない前日はとても長い時間だったと思う。
のどが渇くのか、「はぁ、はぁ」辛そうに息をするのが明け方まで続いた。
それを聞くだけで、私も眠れない夜だった。

当日は小雨が降り、その湿り気でのどの渇きが少しましになったように見えた。


手術は、朝9時から。
まずは怖くてじっとしていられないウルスから行うことになっている。
私が傍にいる間に麻酔を打つためだ。


4本目の注射が麻酔薬だった。
痛みがあったのか、少し暴れて小さい体で必死に私にしがみついたウルスに、この時手術を後悔した。

しばらくしがみついていたウルスに麻酔が効き始めると、力が抜けたのかふっと軽くなった。
目をあけたまま眠る姿は、まるで死んでしまったようにも見えた。
その姿と軽くなった感覚が、以前飼っていた愛犬ヨンサマが死んだ瞬間を思い出させ、またも私は後悔した。



その後、眠ったウルスと、何も知らずに籠の中で待っているクリスを病院に置いて帰宅。

けれど、その日は一日中二匹のことが気になって気になって、何も手につかない状態だった。

やっぱり、あんな小さな体に麻酔なんてやめればよかった。
腫瘍のあるクリスは仕方ないにしても、癌化するかどうかもわからないウルスまでメスを入れる必要なんてなかったのに。

ずっと、ずーっと後悔した。

二匹の元気な姿を見るまで、ずーっとずーーーっと後悔していた。



午後4時、迎え。
奥からエリザベスカラーをさせられた二匹が変わらぬ足取りで駆け寄ってきた。

良かった、無事に終わった。

大袈裟ではなく、この時やっと生きた心地がした。



2015-06-16クリス去勢手術.jpg

2015-06-16ウルス去勢手術.jpg


2日経った今、ほとんど変わらず元気いっぱいだ。
唯一、ウルスはエリザベスカラーが邪魔で邪魔でわがままがひどくなったくらい。

けれど、元気ならそれでいい。



まるで宇宙服を着ているみたい。(笑)

2015-06-17ウルス、2015年宇宙の旅.jpg

ウルス、2015年宇宙の旅!
取り越し苦労が終わって、私もやっと冗談が言えるまでになった。









スポンサーサイト

直近の紛争、民族超え学ぶー旧ユーゴなど13ヶ国、共通歴史副読本。(朝日新聞)

多くの国と民族がひしめく欧州バルカン半島で、高校生向けの新しい共通歴史読本が来春、完成する予定だ。

扱うのは、冷戦時代と旧ユーゴスラビア各国が紛争にのみ込まれた1990年代。
同じ歴史に対する他国の異なる見方を知り、対立を乗り越えるための試みだ。


<各国で食い違う認識、紹介>

ギリシャ・アテネの大学の会議室で4月半ば、5人の歴史学者が副読本の編集作業に追われていた。
国籍は旧ユーゴのセルビア、クロアチア、スロベニアとギリシャ、ブルガリア。
ギリシャの実業家らが設立した国際NGO「南東欧州の民主主義と和解センター」が進める共同歴史プロジェクトの編集者たちだ。

「この項目のタイトルはどうする? 登場人物の呼び方が一方の(国の)資料では『反体制派』で、もう一方では『テロリスト』となっているけど」

今、副読本に使う資料選びを進めているのが、「冷戦編」と「ユーゴスラビア解体と戦争編」だ。
素材は各国計16人の歴史研究者らから送られてきた。
完成すれば来春以降、順次13カ国で発行される予定だ。
ただ、戦火を交えた旧ユーゴ7カ国では被害と加害の記憶が生々しく、事実に関する認識が大きく食い違う。

責任編集者のクリスチーナ・クルリ・パンテオン大学教授(ギリシャ)は、「編集作業は本当に難しい。ただ、歴史は時に戦争の道具として利用されてきた。私たち歴史家には、それを繰り返されないようにする責任がある」と語る。

和解センターは昨年暮れから今年3月にかけ、紛争の激戦地や民族間の緊張が解けない3ヶ所で各国の歴史教師らを集め、セミナーを開いた。
2編の副読本の編集が本格化するのを前に、いま実際に授業でどのように紛争を取り上げているかをたずねるためだ。

コソボ、マケドニアとの国境に近いセルビア・ブヤノバツには、7カ国から35人が自国の歴史教科書を携えて集まった。
この町の住民の半数以上は、2008年にセルビアからの独立を宣言した隣国コソボで多数派であるアルバニア系住民だ。
セルビアとコソボ、それぞれの国の歴史教育には今も深い溝がある。

だがコソボ独立から年月が経ち、住民が国境を越えて行き来することもできるようになった。
ブヤノバツの高校教師、ヨビツァ・ベリツコビッチさん(55)は「紛争時からそれぞれの歴史教育が一方的だと感じていた。話し合える時が来たと思う」と期待する。


<融和へ、EUも支援>

共通歴史読本のプロジェクトが始まったのは、旧ユーゴの解体が最終局面に入った99年。
和解センターの創設者らは、それぞれの民族意識に基づく歴史観にしがみついたことが紛争につながったとの問題意識を共有していた。
そこで副読本は、ある歴史上の出来事について異なる視点で書かれた文書や記事、写真や風刺画などを紹介する資料集とした。

これまで、「オスマン帝国編」から「第二次世界大戦編」までの計4巻が完成した。
06年のセルビア語版を手始めに、バルカン半島と周辺の計11言語で発行が始まった。
和解センターは、今では旧ユーゴ7国で7人に1人の教師が授業に導入しているとみる。

各国政府との関係は曲折をたどった。
たとえばセルビア政府は当初、第二次大戦中にクロアチアのファシスト政権が設けた強制収容所の記述が少ないと主張した。
和解センターが改訂版でセルビア側の資料を追加するまで、セルビア国内の学校で使用を認めなかった。

状況が変わり始めたのは、各国が欧州連合(EU)への加盟や関係強化をそれぞれの最重要目標とするようになってからだ。
EUは旧ユーゴ各国に対し、周辺国との融和を加盟の前提として求めている。

EUは当初から、旧ユーゴと周辺地域の緊張緩和を進める手段としてプロジェクトに関心を抱いていた。
欧州議会は09年、地域の相互理解をめぐる決議の中でプロジェクトへの支持を表明した。
そして欧州委員会は昨年6月、副読本の「冷戦編」と「ユーゴスラビア解体と戦争編」の編集活動費として、60万ユーロ(約8300万円)の支援を決めた。

各国は今、副読本の使用を認めるだけでなく、和解センターのセミナーに教育省関係者を派遣するなどしてプロジェクトへの協力姿勢を示す。
一方で、副読本を使うかどうかは高校教師一人ひとりの考えに委ね、自ら積極的に使用を奨励しているわけではない。

和解センターはプロジェクト立ち上げ当初から、各国の歴史教育に対する干渉ととられないよう、細心の注意をはらってきた。
共通の歴史教科書ではなく、あくまでも副読本と位置づけたのもそのためだ。
ズベズダナ・コバチ事務局長は、「どの国の政府も本心から私たちの活動を歓迎しているわけではないだろう。ただ同時に、国際的に孤立した国に未来がないということも、紛争の経験から十分に理解しているはずだ」と語った。




(喜田尚)

あんぽ柿。

高野山へ行く前日、「そういえば、和歌山の美味しいものって何があるだろう?」とネットで検索してみた。

梅や蜜柑では面白くない。
高野山参詣の記念に仏前に供えれるものがいい、と思った。
でも饅頭はありきたりだし、親しい方達にもちょっぴり印象に残るお土産になるものがいい、とも思った。


そこで目を引いたのが「あんぽ柿」。
渋柿を干したものではあるが、乾燥して黒ずんだ堅い干し柿ではなく、果肉がしっとりやわらかで半生のような柿のこと。

香川ではお目にかかったことがないが、美味しそうだしちょっと珍しいかも、と興味がわいた。


金剛峯寺16.jpg


金剛峯寺を後にした私たちは、その「あんぽ柿」を探していくつか土産物屋を覗いてみた。

けれど、高野山名物の麩饅頭やごま豆腐、高野豆腐に梅といったものばかりが並んでいるだけで、どこにも柿は見当たらない。

時季が違うからかなと思いつつも通販では年中買えることを思い出し、高野山で見つからないなら和歌山港までの道中で探すことにした。

スマホで再び検索し、産直市場をナビに入力。
ちょうど高野山から和歌山市へ向かう途中にあるかつらぎ町が、平核無柿の生産日本一ということで期待が高まる。

そしてナビの案内に従っていくと、途中「串柿の里」という看板が目についた。
ナビが示す産直市とは違う方向だが、看板の数の多さに自然と「串柿の里」へ足が向いた。

少しづつ「串柿の里」を山奥へ入って行くと、一軒の店で干し柿を見つけた。
そこで聞くと、「あんぽ柿は季節のものだから、年内(11~12月)くらいしかないですね」と言われてしまった。


諦めきれずに、もう一つの店で尋ねる。


かつらぎ町・串柿の里.jpg


「ありますよ。あんぽ柿は冷凍だから、年中あります。うちにも保存しているのがありますよ。」

「家はこの近くだから、入り用分取ってきましょうか?」


「お願いします!!!」即、返事した。


串柿の里にて4.jpg

串柿の里にて.jpg


そのお店で食事も戴く。 素朴で懐かしい、田舎のおばあちゃんの味。
きっと、あんぽ柿もそうだろう。


あんぽ柿.jpg


無添加で素直な美味しさがギュッとつまった「あんぽ柿」。

口にすると和歌山の自然が思い出される。



帰宅早々、恩師の家を訪ねた。 「高野山のお土産です!」

「まぁ、懐かしい。 昔は毎年福島の友人が送ってきてくれてたの。」
あんぽ柿はもともと福島が発祥らしいことを、恩師の話で知った。


だが、私にとっては高野山参詣の想い出の味として、これからも時々懐かしむだろう。


亀山苑長からの葉書.jpg


恩師も、そしてきっと亡き父も喜んでくれたと思う。
仏前に供えたあんぽ柿は、一段とおいしそうだった。




高野山。

6月6日の午後11時半、車に母と愛犬2匹を乗せ、まるで夜逃げでもするかのようにこっそり家を出た。
近所の家々はすでに寝静まっている。

けれど土曜の夜だったからか、県道沿いのファミレスでは多くの頭が窓ガラス越しに見えた。

「余裕があるから高松までは下道で行くね。」
午前2時55分に徳島港発の船に乗るには2時頃徳島に着けばいい。


行き先は和歌山。
和歌山港から再び車を2時間ほど走らせると到着する高野山が今回の目的だった。


先月下旬にやっとのことで四国八十八箇所を廻り終え、高野山の奥の院で一つの区切りがつく。

勢いのあるうちに行っておかねば、なかなか高野山へは辿り着かない。
またいつか、そのうちに、と言っている間に、いつのまにか高野山行きがお蔵入りとなる。

亡き父がそうだった。
弘法大師御入定1150年の昭和59年に四国を巡り、高野山のみを残し全て納経は終えていた。
だが、遠いから、不便だから、と言い訳しているうちに歳を取り、足腰に自由がきかなくなった。
そして、そのまま父の納経帳は本棚の奥にしまい込まれたまま今となった。

なので今回の高野山行きは、私が八十八箇所を巡り終えたということ以上に、父の納経帳を仕上げたいという気持ちが強くあった。


高野山・奥の院2.jpg


奥の院は、弘法大師入定の地。


そのもっとも奥に弘法大師が今も瞑想しているとされる御廟がある。
弘法大師が62歳の時、手には大日如来の印を組み、座禅した姿のまま永遠の悟りの世界に入り、今も生き続けていると信じられている場所。


高野山・奥の院.jpg


深い森に続く参道には無数の石塔が並び、独特の空気が流れている。

早朝のお詣りであったため人は殆どおらず、ひんやりとした澄んだ空気が肌を包み込んでくれるのが気持ち良かった。

鶯のさえずりも一段と美しく森じゅうに響いていた。

すべてが神聖だった。


高野山・奥の院3.jpg


チリーン、チリリーン。

そして、御廟橋から奥の聖域とされる場所に近づくと、どこからともなくお遍路さんの鈴の音が聞こえてきた。

今でこそ大型バスが行き交う四国八十八箇所の道中も、私が子供の頃はまだこの鈴の音を鳴らしながら田んぼのあぜ道を白装束で歩くお遍路さんを見かけたものだ。
その姿が四国の原風景であったし、その鈴の音が四国の音風景であったように思う。

だから、すごく懐かしい気持ちになった。


高野山・奥の院14.jpg



実は、この高野山参詣の前日、うつらうつらする母の夢に昨秋亡くなった父が現れた。
おぼろな記憶だが、「奥の院の納経が済んだら、わしの納経帳をあいつにやらんとな、」と言ったという。

あいつとは父がお世話になったデイサービス職員の男の子で、四国八十八箇所を彼が歩いて廻った納経帳を、以前父の仏前に供えてくれたのだった。


父は奥の院にお詣りできなかったことが長年気がかりであったが、今回それが叶った。
その納経帳を彼にと、母の夢に出てきたんだそうだ。

「思い込みからの夢じゃないの?」
その話に最初は半信半疑であったが、「そういうこともあるかもね、」と話し合った。

「じゃぁ、デイサービスまで持って行こうか。」
母と私はそのつもりであったが、なんとなく彼に連絡できず四日が過ぎた。


高野山・奥の院.jpg


「夜分、すみません。」
先程、連絡していないはずの彼が家の前に立っていた。

「先日からデイサービスを利用し始めた方がHさん(父)によく似てらして、あ、Hさんが帰って来たって思ったんです。」


「またHさんのところへ行かにゃって思ったんです。」
手には、恥ずかしそうに吉本新喜劇のお土産を持っていた。

「実は、、」
私が夢の話をすると、父の納経帳を気持ちよく貰ってくれた。

こんなことってあるんだ。
不思議な出来事だった。

「きっと、またお邪魔することになりますね。」
そう彼は笑顔で帰っていったが、彼の素直さがこの不思議な出来事を引き寄せたのかもしれないと思った。

父が亡くなって7ヶ月、今も忘れず訪ねてくれる彼に感謝するとともに、そういう出会いを人生の最後に得た父は本当に幸せ者だと思った。


高野山を参詣できただけでも有難いことなのに、この出来事は心の奥底に深く刻まれたことだろう。

母も私もすがすがしい気持ちで手を合わせた。



今年も南楽園。

昨年の6月1日。
父の日でも母の日でもない、なんでもない日曜日であったが、両親を連れて愛媛県は宇和島市にある南楽園へ花菖蒲を見に行った。

片道230kmの運転も、もうその頃には苦にならないくらいドライブ好きな私だった。


すでに足腰が弱っていた父のため受付で車いすを借り、のんびり押しながら庭園を歩く。

大きく2つの池に分けられた広大な庭園には、西菖蒲園と東菖蒲園におよそ3万株、25万本の花菖蒲が植えられており、とりわけこの季節は賑やかになる。


南楽園.jpg

南楽園3.jpg


車いすを借りたものの、うっかり座布団を持ってくるのを忘れ、「尻が痛い、痛い」と父に文句を言われながらの散策であったが、柔らかく大きな花菖蒲の花弁の波は私たちをひと時楽しませてくれた。

そして、それが父との遠出の最後の想い出となった。


南楽園5.jpg


あれから一年、また花菖蒲の季節がやってきた。

「南楽園に行こうか。」
どちらからともなく声を掛けた。

一年、母も歳をとった。


南楽園10.jpg


南楽園6.jpg


南楽園7.jpg


南楽園12.jpg


来年もまた来られますように。


南楽園8.jpg



ふくよかな花弁をかすかに揺らす風が、ほのかな雨の匂いを運んでいた。




該当の記事は見つかりませんでした。