I love Salzburg

旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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サンタは今年もやってくる。

友人の息子のY郎くんが小学4年生の冬休み、私はクロアチアの首都ザグレブの空港から彼宛てにエアメイルを送った

その半年後、今度はスロベニアから葉書を送った


どちらも、私からではなくサンタクロースからとして。


10歳近くもなってサンタを信じる彼にサプライズを届けようと、友人と共に計画したことだった。

彼はそのエアメイルを大切に大切に、先生にも友達にも自慢をし、彼の机の奥深く宝物箱にしまっておいてくれたようだった。

あの時のことは私も時々思い出しては、でも随分と大人に近づいただろうから、さすがにY郎くんももう夢から醒めてるだろうと思っていた。


ところが、先ほど友人からラインがきた。


「Y郎、まだサンタ信じとるで。」


彼は現在、中学2年生。

今日、学校でサンタとサンタから貰ったと信じてる葉書の話を友達にして、どうやらからかわれたらしい。
辛そうにして帰ってきたんだそうだ。

「ごめんね。かえって可哀想なことしたね。 本当の事、言おうか?」
「いやいや、夢があってええわ。」

「今はみんなの話を仕方なく受け入れたけど、自分だけ信じとるみたいな感じやな。」
「下唇かんどったわ。 ふふふ。」と友人。

どうやったらこんな素直で夢のある子に育つんだろう。
私も今すぐY郎くんを抱きしめたくなった。


この先、ちょっと責任重大だが・・・。




写真は、彼に送った葉書の写真と同じ、「きよしこの夜礼拝堂」。
オーストリアはザルツブルク郊外、オーベルンドルフにある礼拝堂で、有名なキャロル・きよしこの夜は1818年、ここで誕生した。

2008-12-31 オーベルンドルフ・きよしこの夜礼拝堂

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お猿さんと私。

「あ!猿!」

香川県から徳島県へ抜ける県境の道で、木の上に登っている猿を見つけた。

そのまま通り過ぎても良かったけれど、両手で大事そうに柿を持って食べる真っ赤な顔をしたお猿さんがなんとも可愛らしくて、慌てて車を引き返した。

スマホを持って、そっと車から降りる。

その瞬間、目の前を一匹の猿がシュッと走り去ってしまった。

「あ!」
せっかくのチャンスを逃してしまったともう一度柿の木を見上げると、まだ一匹いた。

その一匹と目が合った。
一瞬、固まった彼ではあるが、ハッとした後、一目散に逃げ出した。

「あ、待って!」

待つはずがない。

木から飛び降り、電柱に登る。

11-29 1.逃げるお猿さん

てっぺんまで登ったら、今度は綱渡りのごとく慌てて電線を伝っていった。

11-29 2.逃げるお猿さん

11-29 3.逃げるお猿さん

11-29 4.逃げるお猿さん

2本の電線は、徐々に幅を広げて軒下へと繋がっている。
必死で伸ばすも手が届かなくなって焦った彼は、ターザンのごとく屋根の上へと飛び移る。

「あーあ。」
可愛く柿を食べる姿を写真に撮りたかっただけなのに。
来年の干支であるお猿さんの愛くるしい表情を残したかっただけなのに。

振り向くと、田んぼの向こうには優に10匹を超える猿軍団がたむろしていた。

再び近づきスマホを構える私を見つけ、またもや一目散に散らばる猿たち。


そんな私を見た地元の老婦人は、「よっけおるやろ。野菜も引っこ抜かれて困っとるんよ。猿も多いし、ここは猪も出るしねー。」

猿に負けじと夢中で追う私は、きっとおばちゃんには町の子に見えたんだろうな。(笑)



今日は私の43歳の誕生日でした。
惜しくも逃げられちゃいましたが、来年の主役くんに会えるなんて縁起いいでしょ。





城の崎にて。

私が高校1年の時であるから、もうかれこれ25年も前になるが、
ある日、先生はさらっと太宰治の志賀直哉批判の話をしてから「城の崎にて」の授業に入った。

一通り読んだ後、私を指名し感想を聞いた。
だが当時、太宰好きだった私は先ほどの先生の話ですっかり志賀直哉を受け入れられなくなっていた。

「私、この人の文章、嫌い。」

内容は全く頭に入っていなかった。
正しくは、「好かん」って答えたと思う。

「わし、いらん話をしてしもたみたいやの。」
先生はあの時、きっと苦笑いしていた。


その後、ずっと志賀直哉を敬遠していた私だったが、何年も前に尾道を訪れたことで「暗夜行路」をきっかけに彼の作品を読むようになった。

意外にも読みやすく、情景も自然と浮かんでくる。
描写がいい。


ただ、それでも「城の崎にて」はあの授業以来手に取っていない。


2015-11-25 10.城崎温泉


11月下旬にしては暖かかった昨夕の城崎は、浴衣姿でぶらりぶらり歩く観光客で賑わっていた。
いい湯だった。


封印された「城の崎にて」、もうそろそろ解ける気がする。

内子を旅する。

子供の頃は同じ四国内と言っても遠い遠いところだと思っていた愛媛県の南予地方も、道が良くなった今では気軽に日帰りできるようになった。

最も南西部にある宇和島市へは3時間半、芝居小屋の内子座で有名な内子町へは高速に乗れば私の町から2時間で行ける。
それでもどこか縁遠くて、南楽園へ花菖蒲を見に行くほかは松山より向こうへ足を延ばすことはなかった。


ところが数ヶ月前、
「この前ね、テレビで内子の木蝋資料館上芳我邸(かみはがてい)が映ってて、なんかすごくいいところみたいだから、一度連れてってもらいたいわ」と、以前の勤め先の元施設長から電話があった。

「か、かみは? そのかみはなんとかって何ですか?」
無知な私は、読み名もわからなければ、上芳我邸という漢字なんて想像すら出来ない。

「昔、木蝋(もくろう)で財を成した豪商の大きなお屋敷よ。」
と言われても、「はあ、木蝋ですか、、、。」といった具合だった。

それから数日後、外出先に再び電話があり、
「さっき、うちにジパング倶楽部のパンフレットが届いたんだけど、そこに今度は下芳我邸っていうのが載ってるわ。」

「はあ、しもはがていですか。」
「前に言った上芳我邸と関係があるのかしらね。」
「はあ、、、。」


こうして、内子といえば内子座しか知らなかった私が内子町へ行くはめとなった。


内子町は、明治末期から大正にかけて、木蝋や生糸の生産で栄えた町。
とりわけ国内最大規模の製蝋業者であった本芳我家と、その分家であった上芳我家、中芳我家、下芳我家らによって一大繁栄を築いてきた。

今でも保存されている昔の町並みには立派な蔵構えがずらりと並ぶ。

そして、その有志らの出資によって地元の人々の娯楽の場として建てられた芝居小屋が内子座である。


2015-11-19 1.内子座


木蝋資料館である上芳我邸も、現在お蕎麦屋さんとして賑わっている下芳我邸も町を代表する名所であるが、内子といえば内子座と頭に刷り込まれている私たちが一番最初に訪れたのは、その内子座だった。


なぜか見物客が少ないといわれる木曜日、ぽつりぽつりとお客がいるだけで、思いのほか寛げる。

芝居小屋といえばわが香川県には日本最古の金丸座があるのだが、この内子座は金丸座よりこじんまりとしているものの、その佇まいは決して負けてはいない。
むしろ、客席と舞台は近く、花道と客席の段差が小さい内子座の方が、きっと贅沢に演者と向き合えるにちがいない。

2015-11-19 2.内子座

金丸座が故中村勘三郎さんの思い入れが特別強かった芝居小屋であったならば、内子座は人間国宝である坂東玉三郎さんが贔屓にされる芝居小屋。
内子座が金丸座に引けを取らないのも納得できる。


その場所で、地元の中学生たちにアンケートをお願いされた。
「どうして内子に来られたのですか? 内子座の良さはなんですか?」

その後も何人もの中学生に同じ質問をされたから、きっと校外学習の一環なのだろう。

玉三郎さん好きの上司は毎回丁寧に答えていた。
「それに、内子はノーベル賞を受賞された大江健三郎さんの故郷でもあるので、一度来てみたかったんですよ。」


たぶん、他にほとんど客のいなかった今日のアンケートは、みんなほぼ同じ答えになるんじゃないか。
真剣に答える上司と、少し難しい話になると目が泳ぐ中学生たちを交互に見ながら、そんなことを思って一人可笑しくなっていた。


その後は定番のコースを巡った私たちであったが、そう大きくない町でも一日では回り切れない見どころがある。


2015-11-19 6.中芳我邸



次回、そう遠くない先に訪れるのを楽しみに、そのときも下芳我邸ではお蕎麦を、上芳我邸ではお抹茶と愛媛の伝統和菓子「ゆずっ子」を戴きたいと思っている。


2015-11-19 4.下芳我邸

2015-11-19 8.上芳我邸

高いトコロはお好き?

2015-11-12 02.祖谷渓



この季節になると訪ねたくなるのが大歩危峡。
俳句が趣味であった祖父がその景色を好んで詠んでいたこともあり、母を隣りに乗せて昔話をしながら車を走らせる。


今年はそこから少し足を延ばして、祖谷渓を訪れてみることにした。


有名な祖谷のかずら橋までは行っても、そこから奥となるとまだ二、三度しか赴いたことがない。

明治30年から約20年かけて造られた道路は片側が断崖絶壁、細い急カーブの連続で、隔絶された深山幽谷と形容される秘境を走るのは、いつも億劫だったから。

今日も、どこかの家の取り壊しやら道路の維持改修やらで通行制限があったりと、ただでさえ対向車が来れば面倒な道が一段と難度を上げていた。

なにも紅葉の時期に行わなくてもと思ってみたが、そうか、雪の季節はもうすぐそこなんだ。


2015-11-12 10.祖谷渓


2015-11-12 06.祖谷渓




そして、祖谷渓といえば小便小僧。
かつて地元の子供達や旅人が度胸試しをしたという逸話をもとに作られたそうだ。


2015-11-12 04.祖谷渓



まるでそれは一幅の絵を見るようだった。

雨がひとしきり降った朝、紅葉を見に但馬の安国禅寺を訪れた。

年々口コミで広まったその紅葉は、多い日には狭い境内に3千人もの人が押し寄せるそうだ。
もちろん、お寺の方がうまく誘導してくれるのだが、できればゆっくり穏やかに観賞したい。


香川から兵庫県豊岡市にあるお寺までは片道およそ4時間半掛かる。

拝観時間は朝の8時から。

朝一番ならそう人も多くないだろうと、再び得意の真夜中ドライブを決行することにした。(笑)


この安国禅寺は、夢窓疎石の薦めによって足利尊氏が全国各地に国家安泰祈願のため建立した安国寺のひとつ。
歴史は古いが、七堂伽藍を有したというその境内は享保2年(1717年)に火災により焼失し、現在建物はそれより北方に移されている。

その本堂の裏庭に、樹齢100年を越えたドウダンツツジが広がっている。
それが秋になると真っ赤に燃え上がるのだ。

その僅か2週間、お寺は一般客にも開放される。



2015-11-10 03.安国禅寺



安国禅寺に着いたのが7時半。

駐車場は私が気づいた範囲で第4駐車場まであり、第3駐車場から入る細道は一般車両はご遠慮願いますとの看板が立っていた。
だが、まだ時間が早いのと、母が高齢であったため、寺門を掃除していたご住職の奥様が、お寺のすぐ前に停まらせてくれた。

「遠方から来てくださったんですね。」 

気さくに声を掛けてくださり、「まだ拝観時間ではないですが、せっかくなのでどうぞ中へお入りください」とまで言ってくださった。

恐縮しながら車を降りると、奥様は私の車のナンバーを見ながら、「私も香川の出なんですよ」と話し出した。
そこから一気に親しみが沸いたように会話も弾んだ。


2015-11-10 11.安国禅寺


私は写真を見て知っていたが、全く想像だにしていなかった母はこの瞬間、思わず「うわぁ」と声をあげた。

知っていたはずの私も息を呑んだ。


「上にあがって、もっと前の方でゆっくりご覧になってください。」

私たちは祀ってある達磨大師にお参りもせず、そのドウダンツツジから目が離せなくなった。


「昔は一本の株だった木が、子や孫でここまで増えましてね。
それにここは雪深いところでして、本来なら上へ上へ伸びる枝が雪の重みでこんな風に横へ広がったんですよ。」

「これは雪が造った芸術ですね。」

奥様はこまごま用事をされながら、そんな話を聞かせてくれた。


「それで、いつからこんなに有名になったんですか?」

その時、上述したお寺の縁起を教えてくださり、
「20年前、昔のお寺の跡地に千本ものナツツバキの群生が見つかりましてね。
たぶん、当時お庭に植わっていた木の種からなんでしょうけど、それが先に話題になったはずなのに、今ではこのドウダンツツジの方が見事だと有名になりまして。」

「春には白い可愛い花が一面に咲くんですよ。紅葉の方が見事だから、春は開放していませんけど。」 
そう言って、2枚のポストカードをお土産にくださった。


「へぇ、夜中に香川から来なさったんですか。 それは遠いところから、、」
そう言いながら、お寺のおとこしさんがお盆に急須と茶碗を乗せて現れた。

「せっかくやから、ドウダンツツジをバックにこれを真ん中に置いて写真を撮ってあげますよ。」

まさかお茶までと一瞬思った私は、「そうお気遣いなさらずに」と喉まで出かかっていた言葉を飲み込んで正解だった。(笑)



2015-11-10 09.安国禅寺



それは、まさに一幅の絵を見るようだった。





奥様から戴いたポストカードは、そうだ、ドウダンツツジが大好きな恩師へのお土産としよう。

2015-11-10 12.安国禅寺のポストカード

まわたロール。

私が大学4年の時、あるボランティア活動で高校1年生の男の子と知り合った。

当時、私が可愛がっていた女の子の幼馴染みで、ちょっとやんちゃな部分を持った、友人は多いだろうが、どちらかというと一匹オオカミ風の彼だった。

そんな彼と仲良くなった経緯は詳しく覚えていないが、彼の家に遊びに行ったこともあるし、私が大学を卒業して地元に戻る時には送別会に手作りのケーキをご馳走してくれた。


彼は小さい頃からお菓子を作るのが好きだった。

「売ってるケーキや本の通りに作ったケーキは甘すぎるだろ。だから、甘さ控えめのケーキを自分なりに作ってるんだ。」
確か、高校生の彼がそう話していたのを覚えている。


それからしばらくして、彼が東京の製菓学校へ入学したことを知る。

彼が東京にいる間、たった一度だけ電話で話したことがあるけれど、その後は疎遠になっていた。

それでも、東京や神戸で修行を積んだのち、広島でロールケーキの専門店を開いたと風の便りで伝わってきた。



Facebookとは、こういう時に役立つものだ。

仲間を通じて、彼と10年ぶりに連絡を取るようになった。


そして、昨年もちょうどこの時期、私は彼にロールケーキを送ってくれるようお願いした。
すでに飲み込みが悪くなっていた父も、彼のロールケーキは美味しく食べられると喜んでいたからだ。

あれは、1年前の11月3日。

朝、デイサービスへ行く準備をしていた父が転倒し、頭を強く打ってしまった。
念のため救急車を呼んだのだが、意識があったために病院から少し後に搬送してほしいとお願いされた。

それなら朝食もまだだから何か食べとこう、ということになった。

「ロールケーキが食べたい。」
いつも食べてるパンでも、ご飯と味噌汁でもなく、彼のロールケーキを食べると言うのだった。

そして、それがあっけなく逝ってしまった父のわが家で食べた最後の食事となった。


葬儀などの一切が終了し、少し落ち着いた頃、私はそのことを彼に伝えた。
正直、最後の食事が彼のケーキということが嬉しくもあった。


「最後に食べてもらえるのは、食べ物を作る仕事をしている人間からすると、名誉なことだねぇ。
なんだか違う喜びを感じました。
子供として立派に責任をはたしたね、picchuやん。」


じーんとした。



先日もまた、父の想い出の品として一周忌法要のお供えも兼ね、お世話になっている方々への贈り物として取り寄せた。


「あんな上品な生地は初めてです!」
贈ったものが、そうやって喜んでもらえることは贈り主である私も誇らしい。

早速彼に報告。

「おおー! ありがとう〜!
プレゼントする人と、作ってる人が上品だからかな。(笑)」


確かに、上品な生地。

素朴で素直な味は、彼そのものがよく表れている。

喜ぶ彼にまだ伝えていないことだが、彼のロールケーキは一年前よりも一段と美味しくなったと私は思う。



毎年、父を偲びながら彼のロールケーキの進歩を楽しむ秋にしたい。


11-06 2.父さん、一周忌・まわたロール

つながり。

11月6日の朝、美しいお花を抱えた男性がわが家の前に立っていた。

見事なカサブランカにベージュのガーベラ、薄いピンク色したカーネーション、その優しい花達の向こうにある男性の顔は隠れていた。
玄関を開けた母は、「こんなお花頼んでない!」と慌てたらしい。(笑)


「今日がちょうど一周忌だと聞きまして。」
それは、昨年父の葬儀でお世話になった町内の葬儀屋さんだった。


早いもので、父がこの世を去って一年が過ぎた。
その間も、折に触れ父を偲んでわが家を訪ねてくれる方々はいた。

以前、ブログにも書いたデイサービスの青年もその一人。
つい先日、「そろそろ一年になると思って、胸がざわざわしたんです」、とお参りにきてくれたばかりだった。


だが、葬儀屋さんが一周忌になぜ?

「昨日、お宅の院主さんとお会いしまして。」

聞けば、前日にわが家の檀那寺の院主さんが、その葬儀屋さんの会館で一年ぶりにおつとめがあったとのこと。
どこか心に残る院主さんだったので声を掛けたというのだった。

そこで次の日にわが家で一周忌の法要があることを聞き、沢山のお花を抱えてお参りに来てくれたのだった。


「ちょうど院主さんとお会いして、今日が一年のまわりめやぁ言うやないですか。
ちょっと変な言い方やけど、こんな偶然があるのかと嬉しくなってな、私も手を合わさせてもらおうと思ったんや。」


去年の葬儀の時もそうだった。
彼はまだ35歳の若さなのだが、そのくだけた言葉にも心遣いにも優しいぬくもりがある。
ミスのないマニュアルに沿った形式だけの段取りとは違う、あったかーい気持ちを故人にも遺族にも与えてくれる。

親不孝者の私が父にできた最後で最高のプレゼントが、彼との出会いだったと思っている。

正直、お葬式で感動するなんて、それこそ変な表現だが、あの時の感動は今も心に残ったままだ。


「Hさんのお葬式は、僕も印象に残ってるから。」


私が彼との出会いを父にプレゼントした気になっていたが、一年経った今もこうした人とのつながりをもらっているのは私の方だったのだ。


父も母も私も、本当に幸せ者だなと、あったかい気持ちが心の中いっぱいに満ちている。


11-06 父さん、一周忌・大野さんより


ヨーロッパの「静かな崩壊」が始まった!(現代ビジネス)

受け入れ側の疲労は限界に達している。

現在、ドイツに続々と到着している難民は、オーストリアからドイツのバイエルン州に入る。
オーストリアが、スロベニアから自国に到着した難民を、せっせとバスで運んでくるのだ。

国境には公式の通過地点が5ヵ所定められており、9月と10月だけで、到着した難民は31万8000人。
つまり人口1260万人のバイエルン州には、2ヵ月間、毎日平均5000人がやって来た勘定になる。

受け入れ側の警察、役人、ボランティアは、文字通り休みなしだ。
難民の身分証明書をスキャンし、指紋を登録し、健康チェックをし、食事を与え、仮眠所で休息させているうちに、次のバスが到着する。

ベッドが足りなくなると、数時間仮眠した人たちを起こして、チャーターしたバスに乗せ、他州に振り分ける。世
話をする人たちは、難民が到着すれば、どんなにくたびれていても放っておくわけにはいかない。

オーストリアからのバスは、しばしば深夜に、それも予告なしに、何百人もの難民を国境に置いていった。
そして、このやり方がドイツとオーストリアの間に緊張をもたらし、10月末、デ・メジエール内相が「了解できない」と強く非難した。

それに対してオーストリアのミクルライトナー内相は「ドイツは、難民を他のEU国に戻さないと宣言した唯一のEU国だ。それによって、難民の数が爆発的に増えた」と反論。
問題がここまで混乱したのは、ドイツのせいだと言わんばかりだった。

ただ、口には出さなくても、そう感じている国は、実は他にも多い。

しかし、国境で難民の怒涛の中に身を置いている警官や役人やボランティアにしてみれば、このような責任の擦りつけあいは机上の空論でしかない。

深夜の寒さの中、戸外で何時間も待たせれば、赤ん坊や年寄りは弱る。
下手をすると死んでしまうかもしれない。
だから、クタクタになってようやく帰宅した職員のところに、「また500人到着した。すぐに出動して欲しい」というようなSOSが入ることも珍しくないらしい。
彼らの疲労は限界に達している。


ダブリン協定を壊したメルケル首相の「人道主義」。

EUの難民政策を定めているダブリン協定によれば、本来、難民はEU圏に入ったら、その最初の国で難民申請をしなければならない。
そして、その最初の国が登録やら衣食住の世話など、初期対応を引き受けることになっている。

もちろん、不公平な協定だ。
しかし、この協定ができた頃は、まさかアフリカ人が地中海をボロ船で渡って来るとか、アラブ人がギリシャからバルカン半島を北上して来るなどとは、誰も想像もしていなかったのだ。

しかし事情は変わり、現実として、イタリア、ギリシャ、ハンガリーといったEUの外壁になっている国に、想像を絶するほどたくさんの難民が溜まってしまった。
そこで、その惨状を見かねたドイツのメルケル首相が、「ハンガリーから出られなくなっている難民を引き受ける」といったのが9月の初めだ。

また、今までの規則では、難民が他のEU国を通過して来た場合、その国に差し戻してよいという決まりだったが、ドイツはこのとき、難民を追い返すこともしないと宣言した。

これにより、メルケル首相は「人道的」であると賞賛され、ドイツ人自身も束の間ではあったが、自分たちの寛大さに酔った。
そして、これは同時に、ダブリン協定の終焉をも意味した。

ダブリン協定はどのみち無理がある。
だから、それを壊したドイツが、より良い難民対応策を生み出せれば問題はなかった。
しかし現実には、そうはならなかった。

難民で窒息しそうになっていた国々は、「ドイツが受け入れてくれるなら、これ幸い」とばかりに自分たちの国に入ってくる難民をどんどんドイツに移送し始めた。
もとより難民もドイツに行きたいのだから願ったり叶ったりで、難民の数は爆発的に増えた。

ドイツが自分の蒔いた種でパニックに陥るまでに、長い時間はかからなかった。
慌ててオーストリア国境で入国審査を始めたが、しかし、難民の流入はもう止められなかった。

難民の輸送を斡旋する犯罪組織が勢いづき、ゴムボートはひっきりなしにトルコからギリシャへ難民を運び、そこからドイツへと続く道が難民街道となった。
これまで難民で混乱していた国は限定的だったが、以来、多くの国が当事国になってしまった。


EUは静かに崩壊に向かっている。

11月2日、国連のUNHCR(難民高等弁務官事務所)が発表したところによると、地中海経由でEUに入った難民の数は10月だけで21万8000人で、去年一年分よりも多かった。
そしてUNHCRも、この極端な増加を「ドイツの寛大な難民政策のせい」と理由付けた。
ちなみにドイツでの難民申請数は、10月までにすでに80万人を超えた。

難民の波に音を上げたハンガリーは、セルビアとクロアチアとの国境に柵を作り、先月、ついに全国境を閉じた。
オルバン首相曰く、「ハンガリーは傍観者となった」。
ハンガリーを経由できなくなった難民はルートを変更し、セルビアからクロアチア、スロベニア経由でオーストリアへと向かった。

すると、今度はスロベニア、クロアチアがお手上げ状態となった。
流入を防ごうにも、あまりの人数にその手だてがない。入ってきた難民のケアをしつつ、無事通り抜けさせるだけでも大変なことだ。

夜の気温は零下すれすれで、すでに死者も出ている。
まさに惨状である。
クロアチアは今週、難民が仮眠するための暖房付きテント群を突貫工事で作った。

その難民がたどり着くのがオーストリアだ。
オーストリアはすでに多くの難民を受け入れているが、ここに現在、スロベニアから、毎日6500~7000人の難民が到着する。
しかし、これ以上、難民が増え続けると国内の治安が保てなくなるとして、ここへ来て、スロベニアとの国境に柵を作ることを検討し始めた。

もし、オーストリアが入国者を制限すれば、スロベニアもこれ以上難民が自国に入らないよう、軍隊を動員してでもクロアチアとの国境を防衛することになるだろう。

一つ国境が閉じれば、連鎖反応で難民街道はさらに悲惨なことになる。
オーストリアのファイマン首相はすでに、「EUの静かな崩壊」に言及している。


このままではドイツ全体が共倒れになってしまう。

難民問題で意見統一ができないのはEUの国々だけではない。
ドイツ政府は現在3党連立だが、ここでも三つ巴の対立だ。

メルケル首相(CDU)は依然として、政治難民の受け入れ数に上限は作らないと言い張っているが、このままではドイツ全体が共倒れになってしまうと、姉妹党CSUが警鐘を鳴らしている。

CSUはバイエルン州が根城で、難民で一番大きな困難を背負いこんでいるので、その発言には現実味がある。
そのうえ、CSUの意見に賛同する政治家が、メルケル氏のCDUの中にもたくさんいる。

11月1日、両党は8時間の協議の上、
①オーストリアとドイツの国境のところにトランジットゾーンを作り、そこで難民資格のない人間を選り分ける、
②選り分けた人たちを早急に強制送還する、
③ドイツが難民として受け入れる人たちの家族の呼び寄せを2年間凍結する、
という3点で合意を見た。

ところが、このトランジットゾーンのアイデアに、もう一つの連立党であるSPDが猛反対をしているからややこしい。

SPDの主張は、トランジットゾーンは擬似刑務所であり、そんなものを作れば、不法入国に拍車がかかるだけだ、というもの。
ただ、SPDのこの攻撃は、"CDUとCSUの言うことには何が何でも反対"といういつもの悪い癖が出ているだけのようにも見える。

不法入国者は、SPDが心配するまでもなく、確かに多い。
連邦警察の発表では、オーストリアとドイツの国境で、10月26日の1日だけで、1万1154人の密入国者が摘発されたという。


これが21世紀のEUの現実なのか。

ドイツの内憂は他にもある。
国内で台頭する難民排斥の気運だ。

今年になって、難民の宿舎が放火される事件が340件以上あり、最近は、難民が襲撃されて病院に担ぎ込まれるという事件も複数起こっている。
多くの国民は、増え続ける難民に不安を覚えており、メルケル首相の無制限受け入れの方針から、徐々に距離を取り始めている。

難民問題の解決策は、EUレベルでも、各国レベルでも、何も決まっていない。
その目処さえない。
しかし、現実として、今、難民が凍えている。
だから、まずは、彼らが寒さをしのげる場所を作るのが最優先事項だろう。
本格的な冬はこれからだ。

難民救済は、冬将軍の到来との競争となりつつある。
これが21世紀のEUの現実なのである。




(川口マーン惠美)

阿蘇。

2015-10-20 36.御宿小笠原より

2015-10-20 35.御宿小笠原より


阿蘇の壮大な風景は、気持ちが大きくなって好き。

大きなカルデラに抱かれて、両手いっぱい広げたくなる。


2015-10-21 40.阿蘇


中学生の頃に登った中岳の噴火口は、9月に起きた噴火のせいで近づけず。
草千里より先は通行止めだった。

それでも、私が望んだ景色で阿蘇山は出迎えてくれた。
可愛い米塚もすっかり秋模様。
大分と宮崎の県境で見た一面ススキ野原は阿蘇でも見られた。


2015-10-21 41.阿蘇


2015-10-21 43.阿蘇


杵島岳だろうか、ベルベットのような裾野はまるで高貴な方のドレスみたいで、嘗ての乙女心をくすぐってくれる。(笑)



緒方高千穂線。

九州の旅はこれで六度目。
ちょっと中途半端な数字だけど。(笑)

中学時代、修学旅行で訪れたのが初めてのことで、その時は新幹線が博多駅に着いた時、友達と「はじめの第一歩!」なんて言って飛び降りたのを覚えている。

当時、国語の教科書に草千里の写真が載っていて、のびのびとした阿蘇の風景に胸膨らませたものだ。
実際は阿蘇山の中岳をウォークラリーで登山させられ、ゴールの草千里ではみんな疲れ切った顔で写っている。


だが、その阿蘇の雄大な景色は私の大のお気に入りとなった。

なぜか三十年近くも経って、母にも見せてあげたいと急に思い立った。


それは、十月半ばのこと。
愛媛は八幡浜港から大分県臼杵市へと渡った。

一日目の行き先は、宮崎県高千穂町。
臼杵石仏をするっと観光して、大分県の豊後大野市と高千穂町を結ぶ緒方高千穂線へと入る。


これが結構な山道で、くねくねしたカーブがいくつもいくつも続いており、一向に先が開けない。

まあ、四国遍路で険しい山道の運転には慣れていたので、あれに比べたらまずまずの道幅だし、勾配も急じゃないので運転そのものは苦ではなかったが、ほとんど対向車の来ない知らない山道が延々と続くと、いくら昼間でも不安になる。

それでも、紅葉が始まったばかりの祖母山の頂に癒されつつカーブを縫った。

2015-10-20 07.緒方高千穂線


このまま峠を越えると思いきや、いきなり電灯もない真っ暗で不気味なトンネルが待ち構えていた。

でこぼこしたトンネルの壁面が意外と怖い。
もしも独りぼっちだったら、小心者の私はきっと泣き出していたと思う。

いつまでこの道続くんだろ。



そんな時、一気に前方が明るくなり、一面見渡す限りのススキ野原が現れた。

2015-10-20 08.緒方高千穂線


「うわーーーー!!!」
思わず叫んでしまった。

私は車を脇に停め、転がるように山の斜面を走って降りた。

「後ろに乗ってるクリスもウルスもびっくりしてたよ」、と母。
どうやら、愛犬たちもあきれるほどの勢いで、ススキ目指して駆け下りたらしい。


2015-10-20 09.緒方高千穂線


2015-10-20 10.緒方高千穂線


棚田に輝く稲穂も美しかった。

いい季節に九州へ来た。


2015-10-20 11.緒方高千穂線



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