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旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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北口本宮冨士浅間神社

浅間(せんげん)と名の付く神社がいくつもあることを知ったのは、先月末、「さあ、明日が富士山への出発だ」という夜だった。

元来私はどこへ行くにも下調べをしない。
行き当たりばったりでこれまでも旅を続けてきたものだから、それが海外ではなく国内でも、一人ではなく母を連れていても変わらない。

ただ今回は、富士山がご神体であり、御祭神がコノハナサクヤヒメ命である浅間神社をお参りしようと何故か心に強く思った。
当初、静岡県富士宮市にある富士山本宮浅間大社参拝を決めていた。

本宮とあるのだから容易に気付いても良さそうだが、全国に浅間神社は1300もあるようだ。
それらは主に関東甲信、東海地方に祀られており、四国に住む私にとって聞きなれていなかっだけだ。


しかし、行く直前に行先が変わるのも私のクセ。
偶然、富士山の北口にあたる山梨県富士吉田市にも1900年の歴史をもつ神社があることを目にする。

参道には古木が繁り、高さ18mの日本最大木造鳥居が聳えるという。

人の多い場所を好まない私は、そのひっそりとした独特な雰囲気に気持ちが固まった。


北口本宮冨士浅間神社


実際に訪れてみると、空気が冷たく澄んだ深い木々の向こうに、厳かで霊験あらたかな古社が控えていた。


北口本宮冨士浅間神社


ここも世界文化遺産「富士山」構成資産として登録されている。
そして、富士吉田口登山道の起点でもある。


北口本宮冨士浅間神社

北口本宮冨士浅間神社



北口本宮冨士浅間神社

ー御祭神ー

       木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)
       天孫彦火瓊々杵尊尊(テンソンヒコホノニニギノミコト・木花開耶姫の夫) 
       大山祇神(オオヤマヅミノカミ・木花開耶姫の父)


ー由緒ー

人皇12代景行天皇40年(110年)日本武尊(ヤマトタケルノミコト)御東征の砌、箱根足柄より甲斐國酒折宮に向かう途次、当地御通過、大塚丘にお立ちになられ、親しく富士山の神霊を御遥拝され、大鳥居を建てしめ、「富士の神山は北方より登拝せよと」勅され、祠を建てて祀ったのが始まりとされている。




北口本宮冨士浅間神社

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西明寺の4つの紋。

「でね、一度住職さんに釈迦如来さまと薬師如来さま、阿弥陀如来さまのどれが一番偉いのですか?と尋ねてみたことがあるんです。さて、どれが一番偉いと思う?」

私はなんとなくピンときて、「お姿を変えてるだけで、どれも同じ」と答えてみた。
「お、正解!」

湖東三山・西明寺

はじめは時間を気にしていた私も、西明寺の従業員であるというおじさんの話に段々のめり込んできて、時を忘れ聞き入っていた。

ペンライトを再び秘仏である薬師如来像が入っている箱に戻す。
そこには4つの紋が描かれていた。

「左端は徳川の葵の紋、右端もご存知、菊のご紋。」

「左から二番目は、江戸時代にこの寺を復興させた望月家の紋でして、望月家といえば甲賀忍者、、、」
「え?忍者?」
こんなところで忍者の話が出ようとは、恥ずかしながら忍者といえばハットリくんしか知らない私はびっくりしてしまった。
いや、ここは近江の国なのだから忍者が出ても不思議じゃないかもしれないが、心構えができていなかった。

「あの松尾芭蕉が伊賀の忍者だったのも有名な話だよね。」
「へ?松尾芭蕉が忍者???」
頭の中、どんぐり眼(まなこ)にへの字口の松尾芭蕉が回っている。

「そうだよ、松尾芭蕉は幕府のお庭番で、当時貧しくてお米もあまりとれなかった東北の人々が年貢を誤魔化していないか調べるために、表向きは俳人として奥州と北陸を巡った記録が「おくのほそ道」なんだよ。」
頭の中、くるくるほっぺにふくめん姿の松尾芭蕉がスパイをしながら歌を詠んでいる。
「え?これ有名な話だよ。」


驚く私におじさんは続ける。
「で、甲賀の望月家もそう。幕府より指示を受け、島原の乱で知られる隠れキリシタンを見つける諜報活動をしてたわけだ。」

「任務は果たせたけれど、それによって多くの百姓たちが命を落とした。その罪滅ぼしもあってこの寺に入り復興させたといわけ。」
「なので、ここに望月の紋がある。」

「もうひとつはさっきお話ししたように、生まれる前と現世、そして死後の世界がくるくる回るのを表現したもの。」


湖東三山・西明寺


「色んなお話を伺いましたけど、私的には松尾芭蕉が忍者っていうのがすごく面白かったです。」
頭の中、まだ黒装束で手裏剣を持った松尾芭蕉が古池の前で腰かけている。

「芭蕉もいいけど、自分の干支の十二神将像にお願いするのを忘れずにね。いい、干支を間違えたら聞いてもらえないからね。」

湖東三山・西明寺


それにしても、さすがは近江の国。
花見に彦根を訪れて、まさか忍者にまで話が及ぶとは、まして隠れキリシタンまで登場するとは思いもしなかっただけに非常に興味深かった。
国宝の古い建物ばかりじゃない歴史を感じながら、帰路車を走らせる。


湖東三山・西明寺

湖東三山・西明寺(さいみょうじ)

「まあ、ここに座りなさい。」

国宝の本堂の中に足を踏み入れた私に、お寺の男性が声を掛けてくださった。

「どちらから見えられたのですか?」
「四国の香川です。」
「じゃあ、ライバルというわけだ。」
???
「ここはね、天台宗のお寺なんですよ。」
「ああ、お大師さま、、、」


湖東三山・西明寺


彦根城の帰り、いたるところにある桜並木に目を奪われながら、湖東三山のひとつ、西明寺を訪ねた。
一番美しいのは紅葉の季節らしいが、8年ほど前、同じく湖東三山の百済寺(ひゃくさいじ)を訪れた際、京都とはまた違う趣きの深さに感動し、他の二つの寺院もお参りしたいと思っていた。
湖東三山とは、琵琶湖の東側にある三つの天台宗寺院をまとめてそう呼ぶ。


「ここの本尊の薬師如来さまは秘仏でね、実は私も見たことがない。」
この後、40分ほど説明が続くことになろうとは知らない私は、「へえ」と本堂中央に座した。

写真の薬師如来像は左手に薬壺を持ち、右手の薬指は少し前に曲げられていた。
薄暗くてよく見えなかったが、薬壺を持つ左手も僅かに薬指のみ曲げられているようだった。
「薬指は薬師如来さまからいただいた指でしてね、薬などはこの指で塗ると治りが早いですよ。」

「生きている間は誰しも病気をしますから薬師如来さま、生まれる前は釈迦如来さま、亡くなった後は阿弥陀如来さまが守ってくださります。
釈迦如来さまは手のひらを見せる形、薬師如来さまは先ほども言ったように薬指を曲げてらっしゃる。そして、指で輪を作ってらっしゃるのが阿弥陀如来様。」

こういう話をじっくり聞く機会がなかった私は、少し前のめりになって真剣に頷いていた。

秘仏の薬師如来像を祀った箱の両側に並ぶ十二の像にライトを移して説明を続ける。

「あんたの干支はなにかな?」
「ネズミです。」
「じゃあ、子年の像を拝むんだよ。それ以外に拝んでも聞いてもらえないから。」

薬師如来を守護する十二神将は、生まれ年の干支の守り本尊とされている。
「ここの十二神将立像は、文字の読めない人にもわかるように頭上に干支を乗せてるのでよく見てごらん。」
「この像が造られた当時、日本にはトラと羊が入ってきていなかったから、この二つは本物と全然似てないのが面白いだろ。」
西明寺の十二神将像は、運慶の弟子の作と伝わっている。

「ここはね、宝くじとギャンブル以外はなんでも言うことを聞いてくださるからね。それも一つだけじゃない、いくつお願いしても聞いて下さる。」
別に頼み事をしようと思ってお参りにきたわけじゃない私は、何をお願いすればよいか思いつかずきょとんとした。

「もしも他の方のお願いを代わりにする場合は、その人の干支に向かってするように。」
「実は、私も息子もここでお願いして癌が治ってね。・・・・・・・・・・・」


おじさんは非常に話が好きらしい。
住職さんではないとのことだった。

湖東三山・西明寺


「あ、国宝なのはこの建物の本堂と三重塔。どちらも鎌倉時代の作で、まず本堂が滋賀県第一号の国宝に指定されて、その数年後に三重塔。二天門は室町時代作で重要文化財。」


湖東三山・西明寺


「実はこのお寺も戦国時代に織田信長に焼き打ちされたんだけど、本堂と三重塔、そして二天門のみ焼かれずに済みましてねえ。」
昔習った教科書では、信長といえば延暦寺の焼き打ちとしかなかっただけに驚いた。

話は延々とその後も続いた。


外は青空が広がり、さきほど歩いた庭園では陽の光が眩しく踊っているに違いない。
この寺のお庭は蓬莱庭と呼ばれ、薬師如来や十二神将などをあらわした石組と鶴亀の形をした島が浮かぶ池が美しい。
苔の緑に心鎮まる。


湖東三山・西明寺



ー 龍應山西明寺略縁起 ー

西明寺は平安時代の承和元年(834)に三修上人が、仁明天皇の勅願により開創された寺院である。
平安、鎌倉、室町の各時代を通じては祈願道場、修行道場として栄えていて山内には十七の諸堂、三百の僧房があったといわれている。
源頼朝が来寺して戦勝祈願されたと伝えられている。
戦国時代に織田信長は比叡山を焼き打ちしてその直後に当寺も焼き打ちをしたが、幸いに国宝第一号指定の本堂、三重塔、二天門が火難を免れ現存しているのである。
江戸時代天海大僧正、公海大僧正の尽力により、望月越中守友閑が復興され現在に至っている。


富士山を東から西に向けて

犬を連れて遠出をすると、色々な方によく声を掛けていただける。

彦根城では、お隣の岐阜県より来られた女性に話しかけられた。
ご主人が写真を撮るのが好きで、桜の時期はよく彦根を訪れるらしい。

彦根城の桜

「うちも犬を飼ってたんだけどねえ、孫のアレルギーのせいで犬を飼えなくなって淋しくて。
息子は私の実家のある富士宮市にいるんですけどね、ほら、帰ってくるときはいつも孫を連れてくるから。」
一面、溢れんばかりに咲き誇る桜の木の下でしばらく会話を続けた。

富士山は東から


聞けば、静岡の息子さんから「今日の富士山」の写真が毎日送られてくるという。

「あ、私たちも富士山へ行ったばかりです。」と、今度はうちの母。

「え?どうやって?」
「犬がいるものですから、娘が車を運転して。」
「え?一人で富士山まで運転ですか?」
はい、ここでもちゃんと驚いてもらえた。笑


実は先月下旬、私たちは再び富士山を目指していた。
とはいっても、これで四度目となる富士山行きは、山梨にある馴染みのペンションを基点として伊豆と鎌倉へ足を延ばすためだ。

伊豆は両親の新婚旅行の地であり、鎌倉も母にとって父と旅した想い出の場所。
時間が足りなく駆け足の旅となったが、その間もずっと富士山はわれわれを見守っていてくれた。
11月下旬と比べると、春霞のせいか少し淡く優しい富士山ではあったが、山梨側からは一度も雲に隠れることはなかった。


富士山という共通の話題に話が弾む。

「そうそう、息子が教えてくれたんですけどね、富士山の写真を東から西に向けて飾っておくと災難から守ってくれるんですって。」
「へ~、富士山が」 母は熱心に聞いていた。

私はというと、じゃあ災難は東から来るのか?と心の中でツッコミながらも桜を写真に収めることに懸命だった。
しかし、何事も素直さが大切。


数ある富士山の写真のどれを引き延ばして飾ろうか。
ただ今、検討中である。


富士山を東から
2018-03-28 9:22精進湖(山梨県富士河口湖町)

彦根城の桜

4月3日、ちょうど満開を迎えた桜を観に彦根を訪ねた。

彦根城の桜

彦根へは、どんなに車を飛ばしてもわが家から5時間は優に掛かる。
だが、彦根城の桜が一番好きだと母は言う。

彦根城の桜


濠を囲む咲き誇った無数の桜の競演もさることながら、一本一本の枝ぶりも花弁のまとまりも別格の美しさだと私も思う。


彦根城の桜

彦根城の桜



彦根行きを決めたのは、先月末のことだった。
その日の朝、行きつけの喫茶店で古い雑誌を開いた私は、こんな記事を偶然目にした。


「城にはなぜ桜が咲くのか」


彦根城の桜


その中で、日本城郭史学会代表(当時)の西ケ谷恭弘さんはこう語っていた。(以下、抜粋)


日本の城址を訪ねると、近くに護国神社が建てられていることが多い。
明治4年の廃藩置県により、日本のほとんどの城郭は破却され、その跡地の広々とした城址は、招魂社や学校、軍用地などに利用される。
招魂社は東京では靖国神社、地方では護国神社と呼ばれ、戦死者の霊を祀る社であり、その霊を慰めるため桜が植えられたのがそもそものきっかけである。

明治政府は桜が一斉に散るさまを「潔し」とし、武士道精神に関連付けて桜の植栽を進めた。
護国神社の桜は、やがて城址も埋め尽くしてゆく。
折しも明治34年、土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲の「荒城の月」が発表され、城と桜の結ぶつきを強めた。


彦根城の桜


城と桜は、明治維新以降に結びついたもの。
戦国から江戸期まで、何の関係もなかったと、西ケ谷さんは言っている。

本来、城に植えられた木は松だった。
松並木は防風林となり、夜警の松明や柵を作る用材にも使え、樹皮の下の白く柔らかい部分は水でふやかせば救荒食にもなる。
また、松脂は油や止血剤にもなり、松茸も採れる。
松山城や高松城など、名前に松を冠する城が多いのはその名残である。



読みながら、そうだったのかと納得した。

以前も彦根で花見をした際、昭和9年に桜を植えるまで彦根城に桜は殆どなかったと耳にしていた。
また、彦根城前には滋賀懸護国神社が鎮座している。
私が20代半ば頃、職場のデイサービスで「同期の桜」を泣きながら歌っていた明治生まれのおじいさんの顔も思い出された。


彦根城の桜


今では桜のない城など想像すらできないが、名城には桜が本当によく似合う。
そう改めて感じた花見となった。


彦根城の桜

彦根城の桜

彦根城の桜


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