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旅先の大切な思い出を綴っています  since Sep. 1, 2007
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仏像の中に歯や髪の毛!? ーCTスキャンでわかった運慶仏の内部 (日刊SPA!)

◆東京国立博物館に過去最多の22体が集結

史上最大の運慶展が上野の東京国立博物館でスタートし、初日から入館を待つ人の長蛇の列ができた。
仏像に疎くても、運慶の名前を聞いたことがある人は多いだろう。
2008年には運慶作とされる仏像がニューヨークのオークションに出品、約14億円で落札されニュースとなった。

運慶とは平安時代から鎌倉時代に活躍した仏師で、「慶派」と呼ばれる仏師集団に属していた。
治承4年(1180年)、平家による南都焼き討ちで、奈良の興福寺や東大寺は伽藍と仏像の大半を焼失。
父・康慶をはじめとする慶派の仏師たちは、その復興に携わった。
父亡き後は慶派一門の長となり、活躍を続ける。
武士の時代になり鎌倉に幕府が開かれると、東国武士からも仏像の注文が入るようになる。

現存する運慶作あるいはその可能性が高い仏像は31体と言われているが、今回の展示では過去最多の22体が集結。
普段お寺では見られない角度から、じっくりと鑑賞することができる。


◆仏像のリアルな表情をつくりだす「玉眼」

運慶は玉眼の使い方が非常にうまく、写実性の高さと相まって、存在感の強い生き生きとした仏像を作っている。
玉眼は、仏像の目をくり抜き、瞳を描いた水晶・白目の役割の白い和紙や綿・当て木で構成され、それを使用することで目に光が入りよりリアルな表情となる。

北条時政の注文に応じて造った願成就院(静岡県)の毘沙門天立像(国宝)の見開いた目にも、玉眼が使用されている。
はち切れそうな体躯で躍動的なポージングをとり、一点を見据える目が武将神としての毘沙門天の強さをよく表わしている。
伝統に縛られない東国の創作が、運慶の独創性を磨いていったと考えられる。

興福寺(奈良県)の無著菩薩立像・世親菩薩立像(国宝)にも玉眼が使用されている。
つぶらな瞳から漏れる小さな光が、逆に深い慈悲を感じさせる。
同じ玉眼でも、まったく表情が異なるのだ。

しかし運慶は後年、如来像や菩薩像には玉眼を使わなくなっていく。
悟りをひらく存在の目に人間的な表情は不必要と考えたのだろう。
今回の展示では、その違いを見比べることができる。


◆CTスキャンで得られた情報から、作者や制作年代を特定

仏像内部に仏舎利(釈迦の遺骨)やお経などを納めることは昔から行われていたが、運慶仏は納入品にも特徴がある。
真如苑真澄寺(東京都)の大日如来坐像(重要文化財)や光得寺(栃木県)の大日如来坐像(重要文化財)内部には、五輪塔の他に心月輪(しんがちりん)呼ばれる仏の心に例えられる球体が、心の位置に納入されている。

なぜそれがわかるかというと、仏像調査にX線によるCTスキャン(コンピューターによる断層撮影法)が用いられているのだ。
そこから得られる情報が、作者や制作年代の特定に繋がることもある。
遺髪や歯が納入されていることもあり、発願者の強い思いがうかがいとれる。
構造だけでなく、CTは過去の人々の思いも見つけ出す。

真如苑真澄寺の大日如来坐像が例のオークションに出された仏像なのだが、重要文化財に指定するにあたりボアスコープ(棒状の内視鏡)でも調査が行われた。
耳孔からボアスコープを挿入し、像内に金箔が押されていることや、鮮やかに色づけされた五輪塔が確認された。

当時の仏師や仏像たちは、まさか何百年後にこうして内部を見られるとは思っていなかっただろう。
今回の「運慶展」の展示では収納物についての解説もあるので、外側だけでなく内部も想像しながら見てほしい。


◆展示期間中に「仮説」をCT調査で解明

今回の展示期間中に、興福寺の無著菩薩立像・世親菩薩立像と四天王立像(国宝)のCT調査が行われる。
現在、興福寺では無著菩薩立像・世親菩薩立像は北円堂に、四天王立像は南円堂にと、別々に安置されている。
しかし今回の展示では「四天王立像はもともと北円堂に置かれていたのではないか」という仮説をもとに、同じ空間に配置している。

東京国立博物館企画課長の浅見龍介氏はこう語る。


仏像の中に歯や髪の毛


「内ぐりや収納物の有無、細かな造りなどを今回CTで調査します。無著・世親像と四天王像の調査結果を比較し、同じ堂に置かれていた可能性についても検討します。また、3D計測を行い、仮想空間の北円堂内部にそれらの仏像を配置してみる予定です。いろいろなことがわかると思います」

今回の展示で彫刻としての造形の美しさに感動したら、ぜひお寺へ訪れて信仰の対象として大切にされている運慶仏を拝観してみてほしい。
博物館とは異なる表情を見ることができるだろう。



(鈴木麦)

奈良の大仏さん。

「ついで」というのは神仏事では褒められたものではないが、せっかく奈良まで来たのだからと東大寺に立ち寄ることにした。

いや、東大寺というよりは「奈良の大仏さん」に会いに行こうと思ったのだった。
「奈良といえば大仏さん、大仏さんといえば奈良」だろう。


奈良の大仏さん


奈良の大仏さん


奈良県内には何度も足を運んでいる私だが、ここ10年近く大仏さんを訪ねていない。
そういえば、奈良公園の鹿さんたちにも挨拶しよう。
それになんといってもこの旅の本命、運慶を中心とした慶派一派による「南大門の金剛力士像」を忘れちゃいけない。


奈良の大仏さん


奈良の大仏さん


そして東大寺の中で最も天平時代に思いをはせることのできる「八角燈籠」も楽しみだった。
飛鳥からは100年ほど歴史は浅いが、それでも700年代。

日本はどんな未来を目指していたのだろうか。




なんか久しぶりに「奈良に来たー!!!」という感じだった。



奈良の大仏さん


奈良の大仏さん


今年は10月7日~9日に「鹿の角切り」があったらしい。
そして、秋は鹿さんの恋の季節、発情期のため注意するよう教えてもらった。

今年三度目、飛鳥の旅。

「わしは六甲を見ながら育っとったんか、と思ったわけよ。」

ふらり立ち寄った「ぶどう」と掲げた産直市のおじさんは、二上山と畝傍山、甘樫丘の遥か向こうに連なる山々を指してそう言った。
なんと、明日香村から神戸の六甲山が見えるんだそうだ。
そろそろ西日本では終わりに近い頃だろうか、色も味も濃い巨峰を味見する私に、おじさんは教えてくれた。


今年三度目、飛鳥の旅


石舞台古墳の傍にある食堂で昼食をとった私たちは、桜井市にある二つの寺院を巡るため車を走らせていた。

どこもかしこも日本の古代史に登場する場所、おじさんの話は尽きない。
「ここは小原(おおはら)地区といって、藤原鎌足誕生の地でね。」
懐かしい日本の原風景が広がっている。


奈良県は飛鳥地方。
今年5月、キトラ古墳と高松塚古墳壁画を見学して以来の訪問だった。

車窓からは、黄金色に実った稲穂にすでに色あせた赤い彼岸花の景色が続く。
青空の下、ススキの穂は気持ちよく風になびいている。
ところどころ古代へといざなう史跡案内の道しるべが道行く人の目を引いていた。
ここはいつ来てものどかでいい。

今年三度目、飛鳥の旅


そして今回のお目当てが、ここ飛鳥でしか出会えない仏像を巡ることだった。


一つは聖林寺(しょうりんじ)の国宝・十一面観音菩薩。

あのアーネスト・フェノロサが激賞したという天平時代のミロのヴィーナスだ。
お姿全体から溢れる堂々たる優美さと指先まで行き届いた繊細さに、よくぞ廃仏毀釈の波を乗り越えてくれたと心底思う。
そして、ここは郊外のひっそりとしたお寺であるため、国宝の観音菩薩と一対一で好きなだけ対面できる贅沢さえも味わえた。


* * *


現在、興福寺中金堂再建記念特別展として『運慶』展が東京国立博物館で開催されている。

それに触発されたわけではないが、「ちょっと快慶を観に行こう」と思い立ったのが、この飛鳥旅のはじまりだった。
ちなみに、『快慶』展は、奈良国立博物館にて今年の春に大盛況で幕を閉じている。

国宝級の仏像が並ぶ特別展も悪くはないが、なにせ人の多さが気になる私は年々そういう展示ものから足が遠退き、またどれもこれもがメインの仏像ではすべての印象がぼやけてしまうこともあり、面倒ではあるが一つ一つ足を運べたらという想いが飛鳥まで私の背中を押してくれた。


それは、日本三文殊のひとつである安倍文殊院のご本尊、国宝・渡海文殊菩薩群像。


今年三度目、飛鳥の旅
(安倍文殊院HPより)


今から800年以上も昔に大仏師・快慶によって造立された、説法の旅路の文殊様が4人の脇侍を伴って雲海を渡っている姿を現したものだ。
獅子に乗った文殊菩薩像は高さ7mにもなり、日本最大の文殊様でもある。

もうなんと言えばよいのか、
素晴らしい、美しい、神々しい、圧倒されるなどという月並みな表現では到底表しきれないものがそこにあった。

いつまでもいつまでも見ていられる、見ていたいお姿。

飛鳥の地でまた新たに出会えた尊い仏像に、はるばる車を走らせた疲れも一気に吹き飛ぶ。


今年三度目、飛鳥の旅

境内には可憐なコスモスが風に揺れ、のどかで優しい飛鳥の秋がそこにあった。


富士への思い。

「私にとって、富士山はいつもそこにある景色なの。」

もう25年以上前のことだが、東海地方の某大学の2次試験を受けた際、静岡県は三島出身だという女の子と出会い、受験日の1日を共に過ごした。

「逆に、富士山のない景色の方がフシギなぐらい。」
その時、彼女の台詞で一番印象に残ったのがそれだった。

そして、当然ながらよく目にする富士山の写真は常に堂々と鎮座ましまし、だからといってはなんだが、私は静岡県や山梨県に行けばその景色を当たり前のごとく見れるものだと思い込んでいた。
もちろん天気の悪い日は地元の低い山々でさえ姿を消すが、どこか富士山は特別のような、そう信じたいところがあったのだと思う。

ところが初めて山梨県を訪れた今年4月は深く雲をまとっており、すっきりと姿を現すことは決してなかった。
山頂周辺は風が速く、頭を隠す雲たちはあっという間に遠く流れていきそうなのに、次から次へと新たな雲が生まれては富士の御山から離れない。
裾野の広さに感動したものの、やはり富士山も他の名峰と同じくそう簡単には全貌を見せてくれないのだ。
期待が大きかっただけに、がっかりという気持ちがなかったといえばウソになる。

いつもそこにある富士山、富士山のない景色の方がフシギと言った三島の彼女の言葉が逆に私を寂しくさせた。
確かに、いつも富士の全貌が見れるとは彼女は言ってない、しかし。


この8月25日も、新東名高速の新富士ICを降りた時には重い雲があちこちにただよい、今回も無理だなと諦めのような思いが胸に広がった。
どっと疲れが私を襲う。

そして、悲しかった。


どうしてそこまで富士の全貌にこだわるのかというと、それは綺麗なみ姿を母に見せてあげたいという気持ちの他にもうひとつ。
以前ブログにも書いた昨年9月に亡くなった私の尊敬するある女性が山梨出身であったから。
その方の面影と重なる富士の優美さを見ることで、私はどこか慰められたかったのだろう。

富士への思い


だからその姿が全て現れた時、心の底から嬉しかった。
尊いなと思った。
美しいと感じた。


今度は雪を被った気高い姿を見せてくださいね。
そっと富士の御山に手を合わせる。


川中島白桃を食べてみる。

長野県松本市の中町通りにある「やまへい」という漬物屋さんがお気に入りの母。
お店の奥様とお喋りするのも楽しいからだ。

松本を訪れるとその「やまへい」さんと松本城には必ず立ち寄ることに決めてある。

川中島白桃を食べてみる

川中島白桃を食べてみる


その日、お昼を少し回っていたにも関わらず、松本城では蓮の花が美しく咲いていた。
しばしお城と蓮に見入っていた我々は、お決まりの「やまへい」さんへと向う。

愛犬を連れての旅なので、店に入るのは母だけにして、私は犬と一緒に店先に置かれた長椅子に腰を下ろした。

「遠くから来たの?」
一人のおじいさんに声を掛けられた。

おじいさんは手持ちの袋から一つ桃を取り出し、「この時期なら、信州の土産にこれ以上のものはないよ」と教えてくれた。

「川中島白桃と生で食べられる白いトウモロコシは、ここをまっすぐ行った処にあるマルシェで売ってるから、ぜひ寄ってみな。」


四国に住む私はこれまで川中島白桃という桃に出会うことがなかった。
周りの友人たちに聞いても、まず知らない。
近頃になってようやく地元の産直でも色の悪い小さな桃が、一応「川中島白桃」と名乗って置かれてあるのを目にするようになったが、手に取ることはもちろんなかった。

それに、海を挟んで向かい側の岡山は桃の国。
今年も岡山へ出掛けた際に購入した清水白桃に大満足した私はそれ以上を望んでいない。

けれど、時々耳にする「川中島白桃」が気にならないわけではなかった。


「やまへい」さんから出て来た母に犬を預け、私は小走りでマルシェを目指した。

「これが川中島白桃ですか?」
ピンク色をした綺麗で大きな桃だ。
はあはあと少し息切れしながら、籠の中に4個だけ転がるその桃を指し、店員さんに尋ねた。

「もう残りはそれだけになってしまいました。
今が食べごろです。一個でも十分食べごたえがありますよ。」

私は川中島白桃を2個買った。


今朝、常温に置いてあったその桃の1個を氷水で15分ほど冷やし、食べてみた。

想像していたよりは清水白桃にも近い味を感じたが、その果肉の締り具合には驚いた。
食べごたえがあるというより、母と私の2人では1個食べるのも多いくらいだ。
すごく重い。

「桃」はドイツ語では男性名詞、フランス語では女性名詞なんだそうだが、清水白桃がフランスで川中島白桃がドイツといった感じ。

これはどちらが美味しいというより好みの問題なんだろうが、私には重すぎだ。

しかし正直なところ、そう感じたことにホッとしている。
もしも川中島白桃の方が清水白桃よりも私の好みであったなら、これから毎夏、四国では手に入らない美味しい川中島白桃を求めて彷徨わなければならなくなるから。


それにしても、「桃」を絵に描いたなら、一番おいしく映るのは川中島白桃だろうなあ。
本当にいい色をしたとても綺麗な桃だった。

川中島白桃を食べてみる

(信州の川中島白桃と甲州のブドウがこの旅の戦利品)


富士再訪。

4ヶ月ぶりの再訪。
今、山梨県は鳴沢村に来ている。


定点観察のペンションより本日の富士山。

富士再訪
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富士再訪

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父の仕事と裁判員。

時が経ったので、許される範囲のことを少しだけ書いておこうと思う。

去年の11月、最高裁より裁判員候補に選ばれたという通知が分厚い封筒に入って送られてきた。

裁判員かあ。
まさか自分が候補に選ばれることなどあるものかと、この制度が決まった当初はざわめく周囲とは裏腹に全く関心を持っていなかった。

だが裁判員制度が始まって8年、当時は無関心だった私も、3年前に父を亡くしたことでできることなら参加してみたいという気持ちに変わっていた。

父は長年裁判所に勤めてきた。
父のように黒い法服を着ることはないが、同じように法廷に立ち合う機会があれば、父が生涯をかけて貫いた仕事を何らかの形で感じ取ることができるのではないか、今も本棚にずらっと並ぶ法律関係の書籍を眺めながらそんな風に思ったのだった。


そして、私は裁判に参加する機会を得た。
今回の起訴内容は強盗致傷。
最高無期懲役が科せられる罪ゆえに裁判員裁判が執り行われるという。

裁判所側は、裁判官3名、裁判員6名、補充裁判員2名の計11名。
裁判員が一人でも欠ければその裁判は成立しないことから、補充裁判員も裁判員と同じように最初から最後まで裁判に立ち合うことになる。
ただし、裁判員は法廷で質問することができるが補充裁判員は許されず、また審理後の評議(裁判官と裁判員が話し合って有罪か無罪か、有罪の場合はどのような刑に処するのかを決める)の場において多数決を行う際の投票権は補充裁判員にはない。

テレビで裁判の場面を目にしたことはあるが、当然ながら父は一切の仕事を家に持ち込まなかったため、法廷に入るまでは実際の裁判とはどんなイメージでどういう流れになるのかわからなかった。

裁判員は裁判官と一緒に法壇後ろの扉から入場する。
座る場所も裁判官と同じ法壇上。
私の席は裁判官の真横、中央に近い法廷を見渡すのにちょうどいい場所だった。

初めて法廷に入る時は緊張も高まり、心臓のドキドキ音が耳に届くほどであったが、いざ入場すると冷静に周りを見、話を聞く自然体の自分がフシギだった。

また、法廷前に起訴内容を見せてもらい、裁判長が今回の争点はここだよと具体的に言ってくれていたおかげでスムースに話に入っていけたように思う。

冒頭手続きから判決までの6日間、かなり真面目に頭を使い、私なりに真剣に考え、時に悩んだりもした。
同じ法廷に参加をし、同じ資料を読みながらも11名それぞれ考えは異なる。
その異なった考えを十分な話合いから一つの答えへと導いていく。
自分の考えに迷いが生じても、裁判官の皆さんがその悩みを受け入れ、認めてくれる。
裁判員にならなければ関わることのなかった人たちだが、裁判長が仰っていた通り、私たちは11名で一つのチームになっていた。

疑わしきは裁かない姿勢はなにも裁判所側だけでなく、丁寧に話を引き出し物事を見極めようとする検察側の態度にも好感が持てた。
いい経験になったし、司法に対する信頼も深まったように思う。

また、裁判長のイメージも変わった。
これまでは閻魔大王という印象だったが、今はまるでお釈迦様みたいだと思う。
閻魔大王は検察側か?笑


そして、ああ、これが父の生前であればなあと、勉強になった分余計にそう思った。
父ならばどんな捉え方をしただろう。
父ならばどんな言葉を被告にかけたことだろう。

私は幼い頃から厳格な父が苦手で、だから法曹界はまったくもって興味がなかった。
自分から一番遠い仕事だと思っていた。
しかし、今は思う。
もしも学生時代に、せめて20代でこういう経験ができていたなら、私も法曹界の門を叩きたかったなと。
素直になれなかった自分を悔いた。
その後悔さえもいい経験になったと感謝している。


裁判員裁判の一切が終わった後、裁判員バッチをもらった。
今も父の仏前に供えてある。

父の仕事と裁判員



picchukoに老眼疑惑。

京都国立近代美術館を後にした私は京都最古の禅寺・建仁寺に赴いた。
洛バス100号に乗れば、近代美術館から建仁寺の最寄りとなる清水道まで乗り換えなしで行くことができる。

そのお目当ては俵屋宗達の「風神雷神図屏風」(原本は京都国立博物館へ寄託)ではなく、天井画の「双龍図」と海北友松の襖絵「雲龍図」。

この寺には龍や風神雷神図以外にも、禅宗の四大思想である地水火風を表すとされる「〇△□乃庭」に禅庭の「潮音庭」など見どころは沢山あるのだが、その日の私は龍に集中と決めてあった。

時間に余裕がなかったこともあるが、とにかく大迫力で龍が見たい!そんな気分だった。

であるから、寺に到着するや一直線で法堂(はっとう)へ向かう。
法堂の天井に双龍が描かれている。

picchukoに老眼疑惑
小泉淳作筆「双龍図」・縦 11.4m、横 15.7m(畳108枚分)

これは建仁寺開創800年を記念して、構想から2年の歳月を経て平成13年10月に完成し、平成14年に開眼法要が執り行われたもの。
建仁寺の歴史の中で、この法堂の天井に龍が描かれた記録はなく、創建以来初めての天井画となるらしい。

通常の雲龍図は大宇宙を表す円相の中に龍が一匹だけ描かれることが多いのだが、この双龍図は阿吽の龍が天井一杯に絡み合う躍動的な構図が用いられ、その二匹の龍が共に協力して仏法を守る姿なのだと説明書きにあった。

picchukoに老眼疑惑

頭上一杯の大迫力でしばし動けず。

picchukoに老眼疑惑

picchukoに老眼疑惑
海北友松筆

龍は仏法を守護する存在として、禅宗寺院の天井にしばしば描かれてきた。
また「水を司る神」ともいわれ、僧に仏法の雨を降らせると共に、建物の火災から護るという意味が込められているのだそうだ。

龍の大胆にうねる構図と大きく見開いた眼(まなこ)は描く者によってその表現は千差万別であるが、それぞれに趣きがあって出会うたびに胸に届くものがある。
海北友松の龍は特にしびれるものがあった。

海北友松(かいほう ゆうしょう)は安土桃山から江戸時代にかけての絵師であり、父は浅井家に仕える武将であったらしい。
若冲より100年以上昔に生きた人なのか。
ちょうど今年の4~5月に京都国立博物館で開館120年を記念して彼の特別展があったらしいが、その情報を知らなかった私は惜しくも見逃してしまった。
いや、海北友松という人物自体、恥ずかしながら知らなかった。
改めて、自分は日本画家の絵師に対して全く知識がないことを痛感する。


ここで、せっかく一人で京都のお寺に来ているのだからと写経に挑戦することにした。
般若心経は頭の「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」くらいしか知らないけれど、どうせ紙に書かれた文字を筆でたどるだけだから私にもできるだろう。
筆の代わりに筆ペンもお寺に用意されていることもあり、気軽に申し込みを行った。

picchukoに老眼疑惑

書き始めて2~3行目だったと思う。
とにかく文字が薄い。
画数が多く少し崩された文字、ましてや常用漢字にないものはなかなかわかりづらかった。

顔を近づけたり遠ざけたり、どうにかしてその線を辿ろうと努力するものの薄くて見えない。
用紙を持ち上げて透かしてみるもはっきりとせず、自然と目を細めながら手を伸ばして見ようとする自分に気づきハッとした。

も、もしや、老眼?????
40代にもなるとそろそろと聞いてはいたが、とうとう私もその仲間入りなのか?

老眼とは老いる眼と書く。 そう、老いると書くのだ。

そうなると、もう心鎮まるはずがない、心穏やかなはずもない。

最初こそ一文字一文字丁寧に文字を追っていたが、見えにくい文字がどんどん現れてくるたびに心は乱れていく。
そして、いくつの文字を誤魔化しただろう。

こうして、自分としては生まれて初めての写経は45分かけて未完成のまま完成した。

あんなに満足した龍もそっちのけで、頭の中は老眼の二文字がぐるぐる巡る。
すぐさまスマホで「老眼」を検索する。
すると、どうも老いた眼の症状に私はまだ当てはまらないようだ。

単なる疲れ目か、眼鏡の度数が合わなくなったか。


しかし建仁寺以来、老眼疑惑が私に付きまとって離れないことをこの場で白状しておこう。

picchukoに老眼疑惑

京都国立近代美術館へ。

大阪へ行くのなら京都にも足を延ばそう。

毎年世界で一ヶ所しか開催されないフランスのハイジュエラー・ヴァンクリーフ&アーペルと、日本工芸とがコラボした展覧会が京都であると知り、そう決めた。

もともとジュエリーには全く興味のなかった私だが、7年前にモスクワのクレムリンで迷い込んだダイヤモンド庫との出会いが私を変えた。
「本物」と呼ばれるものの圧倒的存在感は、人をも狂わすに値するだけのことはある。


京都国立近代美術館へ

1200年以上昔から都として栄えた京都には、衣食住に関連する最高級なものが生み出されてきました。
十二単や小袖、辻が花、能衣装など金襴を惜しげなく使った装束は、現在の西陣のような織ものから染ものまで技術の粋が詰まった地域で、熟練した職人の技と心意気により作られました。

フランスを代表するハイジュエリーメゾンのヴァンクリーフ&アーペルも同様に、熟練した職人が一子相伝のように技を伝えています。

本店では「技を極める」をテーマに、ヴァンクリーフ&アーペルの秀逸な作品が伝える「技」と、長い歴史の中で生まれた七宝や陶芸、漆芸、金工などの日本工芸の「技」の対比や結びつきを紹介します。
フランスと日本の技の競演をお楽しみください。
(リーフレットより)



私が最も見たかったのが、「ミステリーセッティング」という宝飾技法だった。

それは偶然テレビで見て知ったのだが、宝石を支える爪を表から見せない特別な技法で、格子状に作られた石座へ一つずつ石を置いていき、隣接する石がぴったりと合うようにカットして、パビリオン上にレーザーで溝を彫り格子状の枠へはめていくというヴァンクリーフ&アーペル独自のものである。
特にルビーとの相性がよく、思わずため息が出てしまう。
釘付けになった目の中でもキラキラと煌めきを放っていたに違いない。

もちろん、カッティングの素晴らしさだけでなく宝石の大きさや光具合にも心を奪われた。
とりわけバードクリップにつけられた大きな一粒のイエローダイヤモンドからはしばらく目が離せないほどだった。
小さなペンダントに輝くそのダイヤの大きさは、なんと96.62カラット。
はああああ、といった感じである。

そして数多く見ているうちに、本物と呼ばれるものほど光の放ち方が上品で、色合いも控えめだという印象を持つようになった。
控えめというより奥行きのある煌めきといった方がより近い表現かもしれない。
だから余計に石の世界に引き込まれてしまうのだろう。

多くの宝石に吸い込まれ心惑わされそうになりながら、だが、ふと心癒されていく自分に気付く。
手が届かない宝石の中にあって、段々と心が開放されていく感覚はフシギだった。

「本物」なんだと思った。

その「本物」を作り上げていく過程を、展覧会では工程ごとに映像で見ることができる。
驚くべきことは、そのすべてが今も手作業であること。
これだけコンピュータが浸透している現在において、デザインもすべて人の手で描かれているのだ。
細かい作業を一つ一つ見つめていると、そのすべてが愛おしくなってくる。
心が開放される、心が癒される、その理由がその時ほんの少し理解できたような気がした。


と、ヴァンクリーフ&アーペルのことばかり書いてしまったが、日本工芸も負けてはいない。
私が好きな並河靖之氏の七宝焼に、信じられないほど細かく見事な孔雀図屏風など、技を極めるということにかけて決してヴァンクリーフ&アーペルに引けを取らない作品たちがずらっと並んでいる。
ただ、今回の私はヴァンクリーフ&アーペルの煌めきに夢中になってしまっただけ。
それは自分でも愉快なほどヒカリモノに魅かれていったのだった。




私は現実に戻るため、美術館のカフェで少し早めのランチをとる。
ぼおおっと冷めやらぬ余韻にテラス席で浸っていると、一匹のスズメが私のパンを盗んでいった。
ダイヤやエメラルドはやれないが、パンならどうぞといった感じ。笑

京都国立近代美術館へ


この展覧会は京都国立近代美術館にて8月6日まで。
一見の価値ありと自信をもって伝えられる。

ボリショイ・バレエ。

ボリショイ・バレエ


先月18日、大阪のフェスティバルホールへ「ボリショイ・バレエ」を観に行ってきた。

世界にある名高いバレエ団の中で、私がどうしても憧れてやまない響きがこの「ボリショイ」。
たぶん、ロシアの持つミステリアスなイメージが私を惹きつけてやまないのだろう。

といっても、四国の片田舎で暮らす私がバレエと触れる機会はこれまでもほんの僅かで、趣味はバレエ鑑賞というにはおこがましい。
おこがましいのだけれども、有名なバレエ団は押さえているのよと密かに自慢できる自分になりたいと、このお上りさんは思うのである。


今回のボリショイ・バレエの大阪公演は2日間で、一日目が「ジゼル」、二日目が「白鳥の湖」という演目だった。
休みの都合で「白鳥の湖」を選んだのだが、どうやら「ジゼル」はボリショイの十八番とのことらしい。
ただ、「ジゼル」は過去にプラハ国立歌劇場で観劇したことがあり、「白鳥の湖」は二幕通して観たことがなかった私にはいい選択だったのではと思っている。

私がこの公演を知った時にはすでにチケットは完売にちかく、望む席はすべて空いていなかった。
迷った末に3階席最前列のほぼ中央を予約する。
だがそこは全体を見下ろすのにちょうどよく、とりわけ群舞の美しさは言葉にならないほどだった。

衣装の豪華さと舞いの優雅さと、それはまるで夢の中にいるようで、思わず「ブラボー」と叫んでしまって赤面する場面もあった。

出演者についていえば、昨年プリンシパルに昇格したばかりのオルガ・スミルノワがオデット(白鳥)とオディール(黒鳥)役を演じ、それがとても素晴らしかったので記憶に留めておこうと思う。
悪魔ロットバルト役のイーゴリ・ツヴィルコ、道化師役のアレクサンドル・スモリャニノフも頭の片隅に入れておこう。

そして、演出。
「白鳥の湖」といえば結末が悲喜様々あるのだが、このボリショイでは切ないフィナーレが選ばれていた。
てっきりオデットとジークフリート王子はどういう形であれ結ばれると思っていた私は、胸に穴があいたような寂しさが広がっていったのだった。
けれど、それがより儚い幻想的な世界を引き立てているようで、耳に残るチャイコフスキーの美しいメロディとともにじわり心の奥底に染み渡っていき、まさに「ブラボー!」と叫ぶしかなかったのである。

いつか、いつか、、、

いつか、本場モスクワのボリショイ劇場でロシアバレエの真髄に触れられる日が来ますように。

そんな淡い願いを抱きながら、フェスティバルホールを後にした。


青酸連続殺害で裁判員8割辞退ー京都地裁、6人を選任。(京都新聞)

京都府向日市の男性らに青酸化合物を服用させたなどとされる連続殺人事件で、殺人罪3件と強盗殺人未遂罪の計4件で起訴された筧千佐子被告(70)の裁判員裁判の選任手続きが2日、京都地裁(中川綾子裁判長)であった。
過去最多となる920人の候補者から、裁判員6人と補充裁判員6人が選任された。
長期審理の影響などから、昨年の全国の辞退率64.7%を大きく上回る約8割が辞退した。

最高裁によると、これまで選定候補者数の最多は、広島県江田島市のカキ養殖加工会社で2013年に社長ら9人が殺傷された事件の裁判(広島地裁)が865人だった。

在任期間は、今月26日の初公判から11月7日の判決まで135日間。
裁判員裁判制度開始から3月末までで、2番目の長さで、開廷回数は計48回。
呼び出し状を送った人数は、過去最多の586人に上ったが、仕事や介護、病気などを理由に413人が事前に辞退していた。

選任手続きは午後1時20分に始まり、約3時間半で終了した。
出席した86人は事件の概要などについての説明を受けたほか、死刑求刑が予想される事件であることから、死刑制度に対する賛否や精神的負担を問う質問にも答えたという。

選ばれなかった京都市の会社員男性(20)は量刑判断などについて「もし選ばれていたら心理的負担はあったと思うが、裁判員を務めてみたかったので残念」と話した。

当日に辞退が認められた綾部市の事務員女性(41)は「地裁までの距離が遠く、通うのが負担だった」と話し、「職場の人員が少ないうえに夏休みにも重なるで参加は難しかった。選ばれず安心した」と胸をなで下ろしていた。

阿蘇神社、参詣。

昨年の熊本地震でショックを受けたのが熊本城と阿蘇大橋、そして阿蘇神社倒壊の映像だった。
神社の楼門と拝殿の無残な姿には居たたまれない気持ちになった。
神様がいらっしゃる場所なのにどうして、とも思った。


阿蘇神社、参詣

阿蘇神社、参詣



別府港から高速で湯布院へ、そこから下道で2時間ばかり。
至るところで地震の爪痕を目にしながら走った。

阿蘇神社も復旧工事中で大きな囲いがされており、私はどうお詣りすればいいのか戸惑い、無料のボランティア案内を頼むことにした。

案内役の女性は気さくな人柄で、手水の手順から丁寧に説明してくださった。

阿蘇神社、参詣

「ここは神武天皇の孫にあたる『健磐龍命(たけいわたつのみこと)』を中心に、その子孫を含め12の神様を祀ってあります。
なので、それぞれお得意の分野がございますので、どんな願い事でも叶えてくれますよ。」

そんな話から始まったと思う。

私は去年の地震で倒壊するまで、実はこの神社の存在すら知らなかった。

「もともと有名な神社だったんですねー。」
「結婚式で謡われる高砂の歌をご存知ですよね。」
「ああ、『たかさごや~この浦舟に帆を上げて~』ってやつですね。」母も熱心に聞いている。

「そうです。その高砂の歌に阿蘇神社の神主さんが出てくるんですよー。」

どうやらあの歌詞は、播磨の国・高砂の浦を訪れた阿蘇宮の神官が松の下を掃き清める老夫婦にその松の謂れを問うところから始まるらしい。
詳しいことは世阿弥作・能の演目『高砂』にゆだねるが、

「千歳飴の袋にお爺さんとお婆さんの絵が描かれてるんですが覚えてます?」
私と母はお互い顔を見合わせて首を傾げた。

「お爺さんとお婆さんが箒と熊手を持っているのですが、それぞれどちらを持ってると思います?」
「お婆さんの手に箒、お爺さんの手には熊手が描かれています。どの絵もそうなってるはずです。」

「ほらあ、『おまえ百までわしゃ九十九まで、共に白髪の生えるまで』って言うじゃないですか。
『おまえ百(掃く)までわしゃくじゅうくまで(熊手)』、ね、分かります?
高砂の松の下を掃き清めていたお婆さんが箒を、お爺さんが熊手を持っていたそうです。機会があれば、また見ておいてくださいね。」

阿蘇神社、参詣

「で、これが参道になるのですが、珍しい横参道なんですよ。」
「横参道?」
「普通、参道は拝殿に向かうように伸びているのですが、ここは神社に並行して参道があるんです。」
「昔から阿蘇山の中岳火口は神霊池と呼ばれ、その新宮と国造(こくぞう)神社を結んでいるのがこの参道です。」

阿蘇神社、参詣

阿蘇神社、参詣


参道から一つ中に入ると修復中の楼門と拝殿の前に出た。

「楼門は国の重要文化財なので元々の材木を使って復元することになります。
なので実はこれ、まだ解体の途中なんです。」
「番号をふって、取り壊す方が大変ですものねー。」

「でも、ここの修復には伊勢神宮を受け持った宮大工さんが携わってくれてるんですよ。変な言い方ですけど、ここで技が引き継がれることは嬉しいです。」

母も私も一つ一つに「へえ~」と興味深く聞いていた。

「拝殿があった時は見ることが出来なかった神殿を今なら見ることができますので、ぜひお詣りなさってくださいね。」

「神殿は無事だったんですか?」
「損傷はありますが、楼門や拝殿のように倒壊はしなかったんです。」

阿蘇神社、参詣


「大きな揺れだったのにこの辺りは被害が少なく済んで、みんな阿蘇神社が身代わりになってくれたと言ってます。
それまでも参拝される方に身代わりのお守りを勧めてたんですが、あれからここで身代わり御守りを買っていかれる方が多くなりました。」

阿蘇神社、参詣

聞けば楼門は重要文化財なので国から費用が出るらしいが、拝殿などの修復費用の一切は神社負担となるらしい。
復旧には7年ほどを要するとのこと。
私たちは身代わり御守りを買った後、少しばかりの御奉賛をさせてもらうことにした。

偶然それに対応してくださって神官さんが地震当日当直だった方で、当時の話も聞かせてもらえた。


「全然想像もしてなかったけど、阿蘇神社にお詣りできて本当に良かった。」
母は今でもそう言ってくれる。



改めて、この地震でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りし、被災された皆様にお見舞い申し上げます。
そして、一日も早い復興を願っています。



帰ろうとする私たちを先ほどのボランティア女性が見つけて駆け寄ってきた。
「お母さんがくまモンをお好きだと聞いて。ちょうど今貰ったものなんですけど、お母さん、どうぞ。」

阿蘇神社、参詣



そのあと、阿蘇神社の北宮とも称される国造神社も参詣した。

大分で『とり天』を食す。

5月24日から一泊二日で大分と熊本を訪れた。

九州へはこの1年半で三度目の訪問となる。
それまで滅多に行くことはなかったし行く機会もなかったのだが、設備の整った清潔で環境のいいドッグラン付ホテルと出会ってからはお犬様孝行をするために度々足を運んでいる。笑

それは由布岳を真正面に仰ぐ場所にあり、いつもならその美しい姿を存分に眺めることができるのだが、その日は残念なことに深く雲に覆われていた。

けれどおかげで適度に芝生も湿っており、すでに真夏のようにギラギラした太陽を浴びることもなく、二日間好きなだけドッグランで遊べた彼らにとってはいい時間だったのではないかと思っている。

大分で『とり天』を食す

大分で『とり天』を食す


その他の観光はというと、福岡や佐賀などに足を延ばすことも考えたのだが、何故かいつも阿蘇方面へと走ってしまう。

今回は阿蘇と、大分県は杵築市にお邪魔した。


杵築は国東半島の南端にあり、その昔は3万2千石の小さな城下町。
今は和服の似合う町として大きくPRしているらしい。

大分で『とり天』を食す


それは一言で云えば趣きある坂の町。
それもただ坂が続くのではなく、なかなか面白い創りをした町なのである。

市の観光協会の表現をそのまま借りると、日本でただ一つといわれる『サンドイッチ型城下町』。

杵築城を中心に据え、『塩屋の坂』と『酢屋の坂』というそれぞれの坂の上にある南北の高台に屋敷を構えた武士たちは、その谷あいで商いをする商人たちの町を挟むように暮らしていた。
二つの坂は、商人の住む谷町通りを挟み向かいあうように一直線に結ばれている。

大分で『とり天』を食す

大分で『とり天』を食す

大分で『とり天』を食す

高台に続く武家屋敷通りも当時の面影を色濃く残しており、確かに着物を着てそぞろ歩いてみたいと思わせてくれる。

大分で『とり天』を食す


ここで昼食をとることにした。

前日、ホテルで見たテレビで「大分県民のソウルフードは『からあげ』か『とり天』か」みたいなのをやっていて、どちらを食べようかという話になった。
谷町通りで立ち寄った和菓子屋さんのおかみさんは「私は『とり天』の方が好きですかねぇ」と言う。
では、ランチは『とり天』にし、『からあげ』はテイクアウトにしようと決まった。
大分を車で走っていると、いたるところでからあげ屋さんを見かけるのだ。

大分で『とり天』を食す

入ったお店は笑食(わらべ)さん。
なかなかのボリュームだが、とても柔らかくて美味だった。

そして、これだけ食べたのだから満足する。
満足しすぎて、もうしばらく鶏はいいやということになり、からあげは次回までお預けとなった。



デザートは、和菓子屋さんで買ったイチゴの葛アイス。

大分で『とり天』を食す




富士は裾野。

もうひと月になる。
愛犬2匹を連れて母と2泊3日の旅に出掛けた。

私の運転ではこれまでで最も遠出となる『飛騨・信州・甲州の旅』。
終わってみると、3日間で1585kmも走っていた。


飛騨の目的は『奥飛騨温泉』。
2年半前に利用した宿がとても気に入って、今回で四度目の訪問となる。
これまで松茸の美味しい秋口に行くことが多かったのだが、宿の奥さんが「次はぜひ4月においでください。この辺りで採れた野草の天ぷらがとても美味しいから、せめてGWまでに来ていただけるとご馳走できますよ」と教えてくれていたこともあって旅程に入れた。

そして、本命の行き先というのが『富士山』だった。
それは決して登るのではなく見上げるだけの為だ。
これまで高速道路のSAだったり新幹線や飛行機からだったりと、一応富士の御山を見たことはあるが、そうじゃなく一つの場所で心ゆくまでのんびり眺めていたいと思ったのだった。
その思いが去年の暮れ頃から段々と大きくなって、もう行くしかない!と立ち上がった。

それは山梨側からの富士山。
そうなると、奥飛騨から山梨までの道筋には信州の松本があり、母の好きな松本城も外せない。
お城の近くの中町通りにあるお気に入りの佃煮屋『やまへい』さんにも立ち寄ろう。
そうやってどんどん行程ができあがった。


ところが、天気予報では三日間のうち二日があいにくの雨。
しかも、富士山の麓に滞在する日に限って天気が悪いという予報だった。

私はその口惜しさを奥飛騨温泉で泊まった宿の奥さんに零してみた。
宿を経営するご夫婦は横浜にも家があり、富士山周辺についても非常に詳しい。

奥さんは、「じゃあ、裾野を見てきたらいいわ。遠くの方は富士山の裾野を知らないでしょ」と言った。

裾野?
その時はなんで裾野?と正直思ったのだが、それは訪れて一番納得したことだった。
奥さんに教えてもらわなければ、悪天候で富士山の全貌を見れないくやしさだけが残ったと思う。
とてもいいアドバイスをもらったことに感謝。

本家本元の富士の裾野を見てしまうと、日本各地の富士山にはもう『富士』の名を使えないなと、地元・讃岐富士を思い浮かべながらそう思った。

それくらい富士の裾野の広さに心打たれたこの旅は、実は開花の遅れた満開の桜も彩を添えてくれた。
ちなみに、富士山麓ではオウムでなく鶯がよく鳴いていた。


そして、今後富士山を見に行くという方には、「それなら裾野を見て来るといいわ」とアドバイスすることに決めている。


富士は裾野
ペンションより

富士は裾野
本栖湖

富士は裾野
精進湖

富士は裾野
西湖

富士は裾野
中央道より

富士は裾野
松本城

富士は裾野

富士は裾野

富士は裾野


富士は裾野
樹齢1100年の臥龍桜(岐阜県高山市)

富士は裾野
せせらぎ街道(岐阜県郡上市)



一人いにしえの旅。(4)

璉珹寺を出たのが16時少し前。
その日午前3時起床の私は、そのまま帰路に就くつもりだった。
それでも帰宅は午後8時を回るだろう。

阪奈道路を目指して奈良市内を走っていると、IC手前で看板に唐招提寺と薬師寺の文字が現れた。


ふとキトラ古墳で出会った女性との会話を思い出す。
「今日はこの後どちらへ?私一人暮らしだから、良かったら泊まっていってもいいのよ。」
「いえ、今日は日帰りの予定なんです。でも、キトラ以外の予定は全く立ててないです。」
「なら、石舞台からすぐのところにある談山神社はどう?中大兄皇子と鎌足が大化の改新の談合をしたところ。」
「そうですねぇ。」
これまでに二度そこを訪れている私はあまり乗り気じゃなかった。

「じゃあ、唐招提寺と薬師寺がいいんじゃない。」
どちらもすでに行ったことがある。
けれど、それは20年以上も前のことだ。
薬師寺は現在、『凍れる音楽』と謳われる東塔が修理中で観れないのが残念だけど、唐招提寺の落ち着いた雰囲気はいいかもしれない、そうちらっとその時思ったのだった。


時計は午後4時を過ぎたところ。
えいっと車を左折した。
そこから唐招提寺まではすぐだった。
大きな駐車場に車を停めて南大門をくぐると、大勢の観光客が引き上げた後のひっそりとした金堂が目に入って来た。

一人いにしえの旅(4)

一人いにしえの旅(4)


懐かしかった。
大学時代、一週間ほど滞在した奈良はレンタサイクルであちこち巡った。ここもそうだ。
この南大門の先に見える金堂の外観は有名すぎて、それでも昔から好きなお寺だったなと、しばらく立ち止まってその景色と向き合った。

一人いにしえの旅(4)

そこに立つ盧舎那仏と薬師如来像、そして千手観音像の迫力は言葉にならないほどだった。
作は奈良時代。
改めてすごいなと感心した。

たぶん、22歳の私はそれらに圧倒されすぎて、それ以外は見ずに帰ってしまったか、それともそれ以外の記憶は全く飛んでしまったか。


私は受付でもらったリーフレットを見て、ぐるり境内を一巡することにした。
拝観時間は残り40分しかない。

一人いにしえの旅(4)

講堂と鼓楼を見て、礼堂・東宝の横を通って開山堂へ。

開山堂には鑑真和上の御身代わり像が祀られている。
有名な国宝の像は毎年6月5、6、7日の3日間のみ開扉され、それ以外は御身代わり像を参拝してもらおうとつくられたらしい。
それは本物を模造して、当初のお姿を再現しようとしたものだ。
しかし私は、その像に心を打たれることはなかった。

御身代わり像に手を合わす人たちをするりと抜け、私は鑑真和上御廟に向かうことにした。

一人いにしえの旅(4)

一人いにしえの旅(4)

5人の団体にガイドさんが一人、先客がいた。
何食わぬ顔でガイドさんの話に耳を傾ける。

「当時、お坊さんの墓を建てることはなかったんです。像を作ることもなかった。なので、絶対とは言い切れませんが、これは日本で初めてのお坊さんのお墓ということになります。」

「そして、この細い木をご覧ください。これは瓊花(けいか)という木なんです。瓊花は鑑真和上の故郷、唐の揚州にあった花なんですが、ながらく門外不出の花でした。」

一人いにしえの旅(4)

「昔の皇帝がその花をたいそう気に入って門外不出としたのです。ですが鑑真和上遷化1200年の昭和38年、特別に揚州からいただいたものがこちらに植えられています。」
「花が咲く時期は4月下旬から5月上旬、残念ながらもう終わってしまいました。」

その時、「あそこに見えるのは花ではないですか?」と誰かが言った。
「あれ?ホントですね!普通ならもう終わっているのですが、日当たりが悪くてまだ残っていたのですね。」

一人いにしえの旅(4)

それは紫陽花によく似た花だった。
わずかしか咲いてはいなかったが、それでもその珍しい瓊花を見れたことはツイテるなと思った。


一人いにしえの旅(4)

そして鑑真和上に手を合わせた後、正倉院よりも古い日本最古の校倉造である経蔵と宝蔵を見て、再び金堂でお参りをし、南大門を目指す。


ここで今回のいにしえの旅は終わった。

やはり、やはり奈良はいい。
時空を超えて再び奈良を訪れよう。


一人いにしえの旅。(3)

先月のこと、行きつけの珈琲屋さんで、特別企画として「仏をたずね、京都・奈良へ」と題した雑誌を目にした。
ちょうど石舞台古墳で花見をした数日後のことで、帰りに拝した飛鳥大仏と中宮寺の菩薩半跏像の余韻からまだ冷めきれていない私は自然とその雑誌に手が伸びた。

そこでふと目に留まったページに、白い女性の美しい阿弥陀如来像が袴を履いて立ってらした。

その像は鎌倉時代作、モデルは光明皇后とある。
女人の裸形という珍しさもあってか、頭の片隅にそれは深く刻み込まれた。


一人いにしえの旅(3)



キトラ古墳、高松塚古墳、天武・持統天皇陵と巡った帰り道、せっかく奈良まできているのだから一つくらいお寺参りでもしようかなという気になった。

その時思い出したのが、その女人像だった。

場所は奈良市内、奈良公園の近くにある璉珹寺(れんじょうじ)という小さな寺で、もともとは紀氏の氏寺である紀寺だったところだ。

一人いにしえの旅(3)


雑誌で見かけなければ、きっと足を踏み入れることのなかった場所。
フシギな縁を感じながら門をくぐった。

2人の女性が立ち去ろうとしているところに私が入り、薄暗い本堂の中はお寺の方と私だけという静かな時間になった。
御住職の語られるテープを流していただき、御本尊を見上げる。

写真のお顔よりもうんと柔らかい表情をされていた。
説明にそって仏様の頭を見ると、それはよく見られる丸まった螺髪ではなく綱を巻き上げたようになっており、指と指との間は水かきのような曼網と呼ばれる膜があり、それは一切の衆生を救い上げるという意味なんだとか。

「どうぞ間近に。」
テープが終わるとそのお言葉に従って、手を伸ばせば届く場所でゆっくりとじっくりと拝させていただけた。

本当に華奢で女性らしい美しさ。
金色の袴には細かく様々な図柄が織り込まれている。

その袴は50年に一度お取替えされるのだという。
平素は秘仏とされるこの像は、昔は袴のお取替えを行う時だけ御開扉されていた。
しかし、現在は毎年5月の一箇月間のみ御開扉され拝観することが許されている。

本堂を出たのち奥の部屋へと案内される。

そこには平成10年に取り替えられるまで仏様が召されていた、一つ前の袴がガラスケースの中に納められていた。
その真ん前に座り、説明を受ける。

写真には写っていないが、鶴の模様が沢山入ったその袴をじっくり覗くと、そこには先ほど飛鳥で出会ったばかりの「玄武・朱雀・白虎・青龍」も描かれていた。
白虎はひときわ浮き出る白っぽい糸で織られており、それが袴の印象を明るく見せている。
この絵柄はこの仏様だけのもので、それは昔から変わっていないのだそうだ。


ここでも出会えた四神の絵。
飛鳥の帰りにここに立ち寄ったのも、やはり何かの縁だったのだろうか。

一人いにしえの旅(3)

お庭を眺めながら琵琶茶で一服していると、「これもご覧くださいな」と一冊の雑誌を持ってきてくれた。
それは創刊40周年記念特大号と書かれた『クロワッサン』という雑誌だった。

「あ、これを見てここに来たんです、私。」



私が席を立った時、また別の見物客が現れた。
一気に押し寄せるのではなく、入れ代わり立ち代わり、ちょうどいいペースで参拝者が続くその場所は、境内にニオイバンマツリやオオヤマレンゲが咲き競う小さな小さな寺だった。

一人いにしえの旅。(2)

「もうこの頃になると防衛やら他のことにお金が必要だったのか、古墳も小さくなっちゃったわね。」
声の主はまた彼女だった。

「ホント、私の町にある地方豪族の古墳の方がまだ大きいくらいです。でも、さすが高貴な方のお墓だけあって中はすごいですよね。」
「この向こうに天武・持統天皇陵があって、この一帯はその血筋の者たちの古墳が集まってるのよね。」
天皇に近い存在ならば、この壁画のように当時時代の最先端だったものが描かれているのも頷ける。
たぶん、優秀な渡来人たちの存在が大きいのだろう。

「鎌倉時代に一度盗掘されてるらしいけど、その後古墳に入ろうとする者はいなかったのかな?」
私が一人呟くと、「たぶん、たぶんだけどね、祟りを恐れて入らなかったんじゃないかしら。」
ということは、鎌倉時代の泥棒はその後不幸な最期を迎えていて、それを祟りととらえて後世まで言い伝えられた、、、彼女の真剣な表情に、なぜかそうなのだと納得させられてしまった。
展示物の中には、その泥棒さんが盗掘時に使った瓦器片も発掘品に並んでいる。

以上、キトラ古墳での話。




「きっと高松塚でも会えるわね。」
そして、キトラ古墳横に建てられら壁画体験館・四神の館の駐車場で別れてから5分後、私たちは高松塚壁画仮設修理施設の前で再会した。

一人いにしえの旅(2)

一人いにしえの旅(2)



予約なしでも見学の許可を戴いた私は、彼女と同じグループで修理室に入ることができた。

そこはキトラのそれと違って、実際に壁画を修理している場所、その場所にずらっと並べられた石室の断片を窓越しに見学するというものだった。

それは博物館のように見せる展示をしておらず、非常に見えにくいという印象を誰しもが持ったと思う。
そして、思うより小さい絵というのが一番の感想だった。

なので手前にあった玄武や青龍、飛鳥美人を描いた女性群像などは比較的よく見えたのだが、少し離れた場所に置かれた男性群像や天文図は全く見ることができなかった。


一人いにしえの旅(2)

一人いにしえの旅(2)

けれどみんな夢中だ。
みんな夢中でガラスに張り付いていた。
だって、あの壁画が、あの飛鳥美人が目の前にあるのだから。

気が遠くなる時を越え、こうして壁画と向き合っているなんて、それぞれにみんな胸に浪漫を抱いているみたいだった。

僅か10分の見学だが、こんなすごいものを無料で観させてもらえることもありがたい。
日本人みんなの宝物なんだなって、じーんとなった。



「たぶんここの埋葬者は忍部ね。」
彼女の解説はまたここから始まる。

「近くに古代米のランチが食べられるお店があるんだけど、一緒にお昼食べない?」

それからもう1時間、私は彼女の古代飛鳥物語を延々聞くことになる。


一人いにしえの旅(2)

一人いにしえの旅。(1)

ちょうど一週間前、何気なくテレビを付けるとNHKの歴史秘話ヒストリアで高松塚古墳の壁画について取り上げられていた。

高松塚古墳といえば今から45年前、飛鳥美人で有名な鮮やかな色彩の壁画が見つかり、考古学史上まれにみる大発見と騒がれた史跡。
それは遠い記憶の歴史教科書に数多く並ぶ写真の中でもひときわ印象に残っていた。

その高松塚古墳の壁画修理作業室が公開されることを、番組最後に知らされる。
これで17回目、これまでだって公開されることを知らないわけではなかったが公開時期に間に合ったのは初めてのこと。
私は早速文化庁のホームページを開いてみた。
しかし期間中の応募定員はすべて満員、この番組で応募した人も多いだろうが、その競争に負けてしまった。

けれど未練がましく探していると、「キトラ古墳」の文字が目に入る。
キトラ古墳も一時期話題になった考古学ファン憧れの場所。
その石室内からも壁画が発見されており、今のところ壁画の残る古墳は国内ではキトラと高松塚しか見つかっていない。
そして、そこでも壁画公開が行われているという情報を目にすることができたのだった。



5月16日、私は先月も訪れた奈良は明日香村へと車を飛ばす。
応募したキトラ古墳の壁画見学の参加証が届いたのだ。
急きょ決まったことで、前もっての知識は全くないが気にしない。

それは訪れて知ったこと、キトラも高松塚に勝るとも劣らない壁画が存在したということだ。
高松塚と同じ、四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)が描かれており、その姿もほとんど同時期のものゆえかよく似ている。
残念なことは、どちらの古墳も鎌倉時代に盗掘を受け南壁に盗掘孔があけられており、そのせいで高松塚の朱雀は残っていないのだが奇跡的にキトラのものは助かった。

そして高松塚においては石棺を囲むようにある女性群像などの代わりにキトラには十二支が描かれ、頭上には現存する世界最古の科学的な天文図が広がっている。
ちなみに高松塚の天文図は略式のものだ。


今回はその中の青龍と十二支の寅のみの公開であったが、内心鳥肌が立つほどの興奮であった。
有名な高松塚が見れないのは惜しいけれど、実はキトラの方が凄いんじゃないか、、、そう思いながら目の前の壁画に見入っていた。

壁画は現在、そのままにしておけばやがて崩れてしまう極端なもろさであるために石室内より取り外されている。


一人いにしえの旅(1)

一人いにしえの旅(1)



「私は高市だと思う。」
急に声がして振り向くと、隣りに立つ年配の女性が私に向かってそう呟いた。

この古墳の埋葬者が誰なのか断定はできないが、様々な説の中から天武天皇の第一皇子で太政大臣にまでなった高市皇子だろうと彼女は言う。
私も高市だといいなと思っていたので、素直に彼女の話に耳を傾けていた。

「高松塚とキトラは兄弟。」
古墳自体も類似点が多いが、高松塚の埋葬者も天武天皇の皇子である忍部皇子が最有力候補とされている。

「あなた、高松塚壁画も見に行くんでしょ?」
「いえ、応募するにも満員で無理だったんです。」
「大丈夫よ。当日必ずキャンセルが出るから行ってみなさい。」

彼女に出会わなければキトラの壁画だけで満足していたかもしれない。
私は壁画見学後、キトラ古墳を見てから高松塚壁画にも足を延ばしてみることに決めた。

「キトラは本当に可愛い古墳よ。」

こんもりと小さく盛られたその古墳は、まさか内部にこれほどまでの宝物が埋もれていたのか信じられないほどひっそりと存在していた。

長い長い時間、ここで埋葬者と共にそれらは眠りから覚めるのを静かに待っていたのだろうか。
私はしばし古墳の前に立ちすくんでいた。


一人いにしえの旅(1)

一人いにしえの旅(1)

仕事のこと。

現在、私は認知症型デイサービスセンターに勤務している。
一日の定員10名、手厚い介護が売りの現場。

リハビリもなく今流行りの特色はこれといってないのだが、みんなが和気あいあいと笑顔で穏やかにその日を過ごせたらと、認知症型には認知症型なりの難しさと向き合いながらの毎日である。


そこで5ヶ月に一度、レクリェーションの順番が回ってくる。
前回は去年の12月だった。

月末は次月のカレンダー作り。
私は干支の酉をモチーフに、色紙やフェルトを使った作品にした。

あれは12月29日の夕方、塩田さんという男性をお家まで送った時のこと。
帰りの時間に合わせて奥さんが暖かくして待ってらしたお部屋に入ると、灯されたストーブの火とベッド脇に飾られた来月のカレンダーが目に留まった。
それは私が作った作品だった。

もう飾ってくれてるんだと、嬉しくなった。
塩田さんは12月から利用されたばかりの方で、デイサービスでの初めてのカレンダーがそれになる。
段々と表情も明るくなり、いい感じでデイサービスに溶け込んでいる。

「来年もどうぞ宜しくお願いします!」
次回の利用は1月2日。
塩田さんも奥さんも私も笑顔で挨拶をして別れた。

そして、明けて正月2日目。
朝の申し送りで、塩田さんが大晦日の朝に急逝されたことを知る。

言葉が出なかった。




今月も私のレク当番が回ってきた。
定番の誕生日カードとカレンダー作りを考える。

本を見て簡単そうな作品を選ぶこともできるのだが、私は創意工夫と手間隙かけて少しでも多く喜んでくれる作品に仕上げようと思っている。


もしかしたら最後の誕生日カードになるかもしれない。

最後の6月のカレンダーになるかもしれない。


そんなことを考えるのは寂しいし失礼になるかもしれないが、でも本当に最後になってしまうかもしれないのだから。

だからより一層心を込めて、丁寧に。
どうか明日も沢山の笑顔を引き出せますように。




第33回四国こんぴら歌舞伎大芝居!

今日は朝から気温が上昇し、庭先を箒で掃いているだけで汗ばんできた。

本日、4月16日は私が初めてこんぴら歌舞伎大芝居を観に行く日である。
気持ちいいくらい青空が冴えて、初夏を思わせる陽気に一層心が弾む。

偶然チケットが手に入ったから行くのよと、昨日までは少し冷めたように周囲に話していた私はどこへやら。
とても楽しみにしていた様子が外からもバレバレな今朝の私だった。


第33回四国こんぴら歌舞伎大芝居

第33回四国こんぴら歌舞伎大芝居


ご存知、四国こんぴら歌舞伎大芝居は金毘羅さんの麓、金丸座と呼ばれる日本最古の芝居小屋で毎年4月に開催される。
今年は8日から23日までの16日間、片岡仁左衛門さんを筆頭に、襲名されたばかりの五代目中村雀右衛門さん、片岡孝太郎さん、尾上松緑さんという贅沢な顔ぶれが揃っている。

私の席は桝席「へ-1」。
花道脇の最前列だ。
本当に見事なまでの前列で、黒子はもちろん舞台の隠し棚までよく見えた。
役者さんのおしろいの匂い、火薬の匂いやらも直に届き、囃子や太鼓の音は真横から。
そして花道に立つ役者さん達はほぼ真上、首が痛いのを除けば臨場感溢れるいい席だった。
仁左衛門さんの軽やかな立ち回りとは裏腹な噴き出した汗もよく見えた。

第33回四国こんぴら歌舞伎大芝居


演目は3つ。
第一幕は孝太郎さんが娘お舟を演じる「神霊矢口渡」、
第二幕が雀右衛門さん登場の「忍夜恋曲者」、
第三幕は江戸っ子演じる仁左衛門さんの舞踊が見られる「お祭り」だった。

それぞれに魂が吸い込まれそうなほど見入っていた私だったが、なにせ歌舞伎観劇そのものが初めてということで、初っ端の孝太郎さんから参ってしまった。
一挙手一投足、微妙な目の表現、拗ねた顔にやけた顔。
思わず吹き出す場面も胸に迫る場面も、どれもこれも鮮明に覚えている。

第33回四国こんぴら歌舞伎大芝居

「神霊矢口渡」という話は、鎌倉幕府滅亡から南北朝時代を描いた軍記物語「太平記」にある新田義興の最期を素材にした浄瑠璃の一場面で、讃岐ゆかりの平賀源内が書いたものらしい。
といっても歌舞伎の話、軸となるのは恋話。
孝太郎さん扮する渡し守の娘お舟が義興の弟の義峯に一目ぼれするところから話は動き出し、義峯の身代わりに切られて虫の息になりながらも必死で彼を守ろうとする姿は目を逸らすことができないほど素晴らしかった。
衣装の美しさにさえ目がいかないほど孝太郎さんに釘付けだったんだなと、幕が引かれて初めて気がついた。

こんなふうに十分堪能したこんぴら歌舞伎。
狭い桝席で隣り合った者同士、芝居小屋らしく観劇の合間に和気あいあい仲良くなったのも楽しかった。

第33回四国こんぴら歌舞伎大芝居

なかなか手に入らないこんぴら歌舞伎のチケットではあるが、当日券が余っていることもあるという。
こんぴらさんまで車で15分、きっと来年も足を運ぶ自分がいそうな、そんな気がする。


第33回四国こんぴら歌舞伎大芝居